ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

時空の消滅とソーシャルサービスの誕生-情報革命の果て-

2008年02月14日 | 思考法・発想法
見田宗介さんの「社会学入門」の「人間と社会の未来-名づけられない革命-」の章を読んでいるときに、あぁ、そういうことか、と腑に落ちたことがあってそれについて。この章では現代社会が成長の「S字曲線」の「平衡系」に入りつつあること。また人類の農耕革命(文明社会)→工業革命(近代社会)→消費革命(現代社会;ただし「消費革命」かといわれるとちょっと違うのでは、と思うのだが…)の発展段階は同時に文字→マスメディア→情報化という「情報革命・コミュニケーション革命」とも対応しているということが解説されている。

しかし僕の中で落ちたのは、このIT化・インターネット化というのはやはり成長神話の終焉を告げるものであり、時間が滞留しているような「時間感覚」というのは、現代社会が「S字曲線」における平衡系への移行したことを告げるものなのだろうということだ。

そして今流行りの「ソーシャル・×××」というのはまさに第3次情報革命の1つの帰結なのだろう。

これまでに社会は(人にならしめた0次情報革命を含めると)4度の情報革命を経験してきているという。第0次情報革命が「言語」の登場であり、これによって人は自らを表現し「その場にいる相手」に伝えることを可能にした。

第1次情報革命とは「文字」の誕生である。言語を記録し、残し、持ち運び、その場にいなくともそれを見た人に伝えることを可能にした。物理的な「媒体」を通じて、物理的な制約の下で時空間を超える「伝達手段」を獲得した。

第2次情報革命とは「マスメディア」の登場である。「放送」という一斉同報的な方法を通じて、より多くの人に対し同時(リアルタイム)に伝えることを可能にした。つまり空間的な制約を超えて1:N的に表現を伝えることを可能にしたのだ。

では第3次情報革命あるいはインターネットの登場は何をもたらした/もたらすのか。WEB2.0あるいはソーシャル化ということは何によってもたらされ、何を意味するのか。

それらを整理するにあたって、これまでの情報革命を踏まえつつ、いくつかの視点を設定してみよう。

・時間を超える
・空間を超える
・不特定と特定
・1:1(P2P)と1:N

仮に空間的な拡がりを「平面」として捉えた場合、モビリティを持ったという意味において「文字」の登場はまさしく「平面」を拡大させたし、「マスメディア」の登場というのは爆発的に広範囲な「平面」的拡大を成し遂げたと言える。

しかし「文字」の誕生は空間的な拡がりだけをもたらしたわけではない。「書き記す」という行為を通じて、「時間」を超えることも可能にした。この「時間」というものを、現在を起点に上方向に未来を、下方向に過去として捉えるとするならば、文字の発明というのは、書き手から読み手への水平的かつ垂直的な伝達、つまり3次元的な拡がりを可能にした。これに対し「マスメディア」が実現したのは、拡大の速度こそ驚異的ではあるけれどあくまで水平的な拡大だ。

第3次情報革命ともいえるインターネットは「文字」がなしえた「伝達」と「記録」、水平的な拡大と垂直的な拡大の両方を「文字」よりも遥かに驚異的な速度でなしえたといえる。それは先日、「インターネット時代の2つの時間感覚」で記したように、「顕在態」として時空を超えて様々な情報へのアクセスを可能にしたのだ。

このことをインフラという観点から整理しなおすと、「文字」は手紙や書物とすることで特定/不特定多数の人間に伝えることはできるものの、配達や輸送・流通のための物理的な制約がありそのことが拡大を妨げた。マスメディアは電波という資源の有限性と情報を発信(放送)するために多額のコストがかかるために特定のものだけしか情報の発信主体になれず、また不特定多数への情報発信とならざろうえなかった。

インターネットは誰もが情報発信者となれるメディアだ。それは情報の発信者/受信者としての「個」を直接結び付けるメッシュ型のネットワークインフラを持ち、N2N(あるいは1:1×N、1:N×N)とでもいうような通信を同時多発的に提供することを可能にしたのだ。しかもその通信には、原理的には「時間差」は存在しない。

その結果、水平的にも垂直的にも縦横無尽に<個>と<個>とが結び付くネットワークが形成されることとなる。第3次情報革命とは「時空」という概念の消滅であり、「時間の墓場」であり、無秩序に〈個〉と〈個〉が結び付く不安定な世界であると言える。

しかしそうした可能性を秘めつつも実際にある「点」と「点」とが結び付くためには、何らかの「契機」が必要だ。それは何か――。

これまでであれば、知人であり友人といった〈現実的な関係性〉であったのだろう。それがインターネットの登場によって、1つの「場」を中心にそこで人と人とが結び付く型、「2ちゃんねる」に代表される掲示板やコミュニティであり、あるいは誰かのBLOGやHPを読み、それに基づいてコメントを寄せるといった行為だったのだろう。

しかしこれらは匿名性という在り方ではあるものの、個人が「自発的に」他者と直接結び付くという点で〈現実の関係性〉の延長だと言える。これに対し、WEB社会の進化はそうした契機の中でもう1つの可能性を具現化した。それが「ソーシャル」という考え方だ。

「ソーシャル」というのは、特定の誰かと誰かを結び付けるわけではない。ある人「A」を「媒介」・「第3項」としてその人と関係・関心・関連がある無関係の「B」と「C」とを結びつけるための装置だ。直接的には関係のない両者が第3項を媒介に結び付くことが可能となったのだ。

しかも第3項を通じて他者である「B」と「C」が繋がっているとは言っても、それまでのように直接的にテーマや関心によって(つまり目的性によって)繋がっているわけではない。むしろ「繋がっている」事実性が先にあり、関心や興味によって、あるいは退屈しのぎとして再び意識レベルで「繋がる」ことになる。

つまりそれまでの目的性をもとに接続される「繋がり」から、システム的に接続性を確保された上で「偶発的に」、驚きや発見やそうした「感性」をもとに、水知らずの他者と「繋がる」という形へと変化したのだ。

こうした「偶発性」や「快」を恒常的に提供するためには、特定の発信者のみが情報(コンテンツ)を提供するというモデルでは限界がある。だからこそ「CGM」のようなモデル、ソーシャルという「繋がるための装置」が求められるのだ。事実、第3項としての「A」は同時に繋がりの起点としての「A」でもあり、第3項としての「B」や「C」を通じて全く接点のない「D」とさえ繋がるのだ。そうしてそうしたネットワークの規模の拡大はべき乗的に「偶発性」を呼び起こすことになるのだ。

インターネットの特性を考えたとき、ソーシャルなサービスと言うのは1つの必然的な姿だったのだろう。

さてこうした「個」が起点であり媒介者である時代に我々の「好奇心」とはどのように変容するのだろうか。

これについてはまた別な機会に書きたいと思うけど、今、感じていることを挙げておくなら、「動物化」した僕らは「快」的な浅い好奇心や関心ばかりを求め、探求心や深い関心、思考といったものを置き去りにしてしまったのではないか、そして「ソーシャル」とはこうした特性をさらに加速させているのではないか――このあたりについても考えてみたいと思う。


社会学入門-人間と社会の未来 / 見田宗介

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