ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

社会学入門-人間と社会の未来 / 見田宗介

2008年02月12日 | 読書
社会学入門-人間と社会の未来 / 見田宗介

これは見田さんが東大、共立女子大の授業で使われていたものをまとめられた社会学の入門書ということもあって、各章でそれぞれの問題群についての解説を行っているわけだけれど、何だろう、1冊を通じて読むと社会学の魅力と未来への希望あるいは希求といったものが伝わる一冊。個人的には、いくつかの章で非常に刺激を受け、最後まで読む前にそのまま記事にしてしまったほど。

ということもあり、備忘録代わりに気になったものを残しておきます。




第一章 鏡の中の現代社会

「近代という狂気」について、「時間を『使う』とか『費やす』とか『無駄にする』とか、お金と同じ動詞を使って考えるというのは「近代」の精神」で、必ずしも近代化の進んでいない中東やアジアの国々では「時間は基本的に生きるもの」として認識されている。マックス・ウェーバーが解き明かしたことは、「時間を貨幣と同じように『使う』精神こそが資本主義社会、つまり「近代」の社会を形成してきた」のだ。

近代は多くのものを獲得してきたが喪失してきたものも多い。現代社会の自明性の檻の外部に出てみることで、さまざまな社会、さまざまな生き方の知ることができるのだ。


第二章 <魔のない世界>

近代は「魔術」「呪術」からの解放を果たした。マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の<精神>」は、近代化を肯定しているように見えるが、同時に、「魔術からの解放」という精神の性向が「どのように人々をその友情から、隣人に対する信頼から、そして家族の愛情からさえ切り離し、1人ひとりを生きさせたかということを冷静に」記述している。

第三章 夢の時代と虚構の時代

戦後日本のあり方をその社会状況から3っに分けるとすると、1945年から60年頃までの「理想の時代」、60年代から70年代前半までの「夢の時代」、70年代後半からの「虚構の時代」に分けられるだろう。それは経済との関係でいうと、「理想の時代」が「プレ高度成長」の時代であり、「夢の時代」が「高度成長期」であり、「虚構の時代」は「ポスト高度成長」の時代ともいえる。

「理想の時代」というのは、戦後の焼け野原から一方で「アメリカン・デモクラシー」という理想と、もう一方で「ソビエト・コミュニズム」という理想が立ち上がった時代であり、未だないものを追い求めた時代だといえる。

「夢の時代」というのは、「農業基本法」と「全国総合開発」という農村共同体の解体と産業都市化=「貧農切捨て」による賃金労働者予備軍の創出と工業地域・産業都市の創出による社会構造の再編成をベースとし、日本の近代化を促進した時代であった。「理想主義者たちの信じた現実は来なかったけれども、現実主義者たち望んだ理想は実現した」時代であり、「ゲバ棒」に代表される直接的な政治行動の時代ではなく「ヒッピームーブメント」や「フラワー・チルドレン」のような新しい運動体へと移行した時代でもあった。そうした中で時代の熱気は散開していったのだ。

「虚構の時代」とは、日本が「先進国」として意識された時代であり、「熱さ」ではなく終末感と「やさしさ」が支配していく。リアリティは失われ「1日15分は家族で会話」をするものとされ、やがてハイパーリアルともいうべき世界が現実化していく。「かわいい」「おしゃれ「きれい」という感覚の裏で排除の構造は生まれ、汚くきつい仕事は移民労働者たちが行うことになる。その一方で「24時間戦」うビジネスマンたちが世界中を闊歩する。「虚構の空間」「虚構の時代」はいつまで続くのだろうきか。

第四章 愛の変容/自我の変容

これは既に「「市場」と「愛情の共同体」の再統合は何をもたらすのだろうか」を参照。


第五章 二千年の黙示録

「関係の絶対性」という問題について。

ヨハネの黙示録はかってもっとも不遇な階級・地位・民族にあったキリスト教徒らにとってもっとも親しまれ、共感されていた。その内容はローマ帝国による繁栄の象徴でもある大いなる都バビロンが神の怒りに触れ崩壊し、かわって繁栄から疎外されている者たちが栄光の座につくというもの。

しかし2001.9.11に起こったことは、世界の繁栄の中心にある「キリスト教徒」たちの都市の象徴である世界貿易センターの崩壊であった。

被支配者であったキリスト教徒が支配者となり、そして崩壊する――関係性の反転とPLAYERが入れ替わっただけの変わらない構造。

これは1神教であることが問題なのではない。「「1神教」という投射の形態の根元にあるもの、この社会的な関係の客観性が生み出す絶対性のようなもの」が問題なのだ。アメリカ人はアフガニスタンやイラクでの戦渦に嘆く市民たちを見て「かわいそうだが仕方がないこと」と考えるだろう。しかし「仕方がない」と考える根拠こそ問い直す必要がある。

そもそも「社会」や「国家」の起源は氏族や部族といった共同体の内部を抜け出して、「都市」や交易という間・共同体的な、共同体同士の関係性の中で異質な他者と生きはじめたこと。そしてこうした社会システムの基盤として、貨幣経済が誕生し、また「軸の時代」と評されるように、一挙に現代文明の基本となるような思想の原型が生まれることなった。

この社会や国家、貨幣というシステムは様々なものを解放しつつも、多くの憎悪と絶望を人々に与えてきた。軸の時代に産み出された思想や宗教、哲学を持ってしても残された問題の1つが「関係の絶対性」である。この問題にどう取り組むかは補講に引き継がれる。


第六章 人間と社会の未来

これは別途まとめているものがあるので、そちらで。

補 交響圏とルール圏

果たしてこれからの社会はどのようにあるべきか――それを考察したのがこの章だ。前提としては、それぞれの主体にとっての「魂の自由」を解き放つということ。

そのためにはまず2つのアプローチが考えられる。1つは「歓びと感動にみちた生のあり方を追求し、現実の内に実現することをめざす」方法であり、もう1つは「人間が相互に他者として生きるということの現実から来る不幸や抑圧を、最小のものに止めるルールを明確」にしていく方法だ。しかしこれらはどちらか一方が求められるものではない。社会構想にはこの二重性/両義性の実現が求められる。

社会や国家の成り立ちがそうであったように、生きることの意味と歓びを源泉ととしたユートピア的な関係性がまずある。そしてその外部には無数のユートピアが存在するだろう。そうしたユートピアたちの相互の関係の構想として、「生きることの相互の制約と困難の源泉でもある他者との、関係のルールの構想」という課題が生じる。つまり、

<関係のユートピア・間・関係のルール>

という重層性として考える必要があり、この「関係のルール」とは「関係のユートピア」たちの自由を保証するためのミニマムな「契約」といえる。。

近代とは「ゲマインシャフト」から「ゲゼルシャフト」への移行のように捉えがちであるが、社会の形式としては2つの軸から4つに分類すべきだろう。

その軸とは、1つは「親密圏(=ゲマインシャフト)/社会圏(=ゲゼルシャフト)」という軸であり、もう1つは「意思以前的→自由な社会」へと向かう軸である。この2つの軸をもとに、親密圏・意思以前的であるものを「共同体」、社会圏・意思以前的であるものを「集列体」、親密圏・自由な社会的なものを「交響体」、社会圏・自由な社会的なものを「連合体」と分けて考えるべきである。

とはいえ、これら4っの社会体についても厳密に境界線が存在するわけではない。実際にはそれらそれぞれの軸をもとに重なり合う中間圏域というものがあり、交響圏とルール圏のどちらが相対的に優位かといったことが問題となる。それは逆にいえば、どのような場合においても「愛の絶対境」といえる親密圏と無縁ではなく、下支えしているのだ。我々は「<自由な社会>という理念の核心を構成するアポリアと、このアポリアの構成を不可避のものとしている、<他者の両義性>という原的な事実」をふまえた上で、「交響するコミューン」としての社会を自ら作り上げていかねばならないのだ。



社会学入門―人間と社会の未来/見田 宗介


「市場」と「愛情の共同体」の再統合は何をもたらすのだろうか


2 コメント

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こんにちわ。 (HAPPY)
2008-05-20 00:24:21
社会学に興味があって只今社会学入門を読んでいるのですが、それでいろいろ検索していたらたどりついたのですが、
五章のpp128ー129らへんの
原初のキリスト教のおかれていた位置と今日のイスラム教徒の位置が等価である。巨大な反転はあったが、構造は変わっていない。
というあたりが良くわからないのですが、よかったら説明してもらえませんか?!
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Unknown (beer)
2008-05-21 00:43:27
手元に「社会学入門」がないので前後の文脈で確認がとれないのですが、かってはキリスト教=迫害の対象、バビロン=繁栄の象徴であったものが、現在では、少なくとも資本主義社会/先進諸国においては、イスラム教=迫害の対象、キリスト教(アメリカ)=繁栄の象徴になっている。つまりキリスト教のポジションは迫害の対象から繁栄の象徴へと反転したけれど、繁栄しているものが他者を排除するという構造そのものは変わっていないというくらいの意味じゃないでしょうか。
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