Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

BERLIN PHILHARMONIC ORCHESTRA (Tues, Nov 13, 2007)

2007-11-13 | 演奏会・リサイタル
オペラに比べると、いわゆるクラシックのコンサートに行く回数が少なかったのですが、
(というか、全く行かない年もあった。)
せっかくNYに居て、優秀なオケも来てくれるのだから、これはいかん!と、
心を入れ替えた今年、その第一弾、ベルリン・フィルのコンサート。
今年の3月に二本、(出てきた画面を下までスクロールしてください。)ウィーン・フィルに行ったじゃないの、あなた!とつっこんだ方、
記憶力がいいですね。
しかし、オペラヘッドの暦では、オペラ・シーズンの開幕が年の明け。
というわけで、NYでは9月の後半に”今年”が始まったゆえ、
第一弾というのは間違いでないのです。

ベルリン・フィルを生で聴くのは、
2000年のザルツブルク・イースター・フェスティバルの日本公演、
アバド指揮の『トリスタンとイゾルデ』以来。。
というと、いかに私がオケのコンサートを聴きにいっていないかわかろうというもの。
その公演だって、オペラだから行ったのであって、
そうでなければまず間違いなく、行ってなかったに違いない。
この時のベルリン・フィルは本当に素晴らしくて、
生のオペラで、こんなに素晴らしいオケの演奏を聴いたのは初めてだったので 
-というか、今まで聴いてきたのは何?と思うほどの衝撃だった-
私はすっかり興奮して家路についたものでした。

さて、今年のベルリン・フィルは3日間、カーネギー・ホールでの演奏が予定されているわけですが、
どの日も、ごく最近の作品+マーラーの交響曲もの、というプログラムになっています。

今日、13日は、まず、マグナス・リンドバーグというフィンランド生まれの作曲家による 
Seht die Sonne (英語に訳すと、See the Sun)という曲でスタート。
オペラヘッド暦ではなく通常の暦上の2007年に作曲され、8月にベルリンで世界初演され、
今日のこの演奏が、アメリカ初演となる作品。ほとんど出来たての作品です。

まず、オケの音の印象。
2000年の時とは、ホールも作品も指揮者も違うので、違って聴こえて当たり前なのですが、
なんだか、音が一層優しく、たおやかになった気がします。
暇人な私は、2000年当時のオケのメンバーと今回のオケのメンバーを
プログラムに載っているリストで比べてみたのですが、
意外と変わってないのです。これが。
これだけ音が違うので、がらりと変わっているかと思ったのに。
そういえば、1993年に、23歳というベルリン・フィル史上最年少でフルートの首席奏者になったパユは、
2000年の来日公演は、丁度、2年弱の一時的な退団時期に入っていて来日メンバーに入っていなかったはずですが、
今回は、、、いたいた。
しかし。。。すごい貫禄とおじさん度に、びっくり。
いや、そのあまりの貫禄に、探さなくても”誰?あれ?”と思わせるほど。
私と思いっきり同世代なので、私も自分のおばさん度を棚にあげて失礼な!という感じですが、
しかし、この人は、昔見た写真のイメージで、若々しい好青年のままをイメージしていたので、
時間というのはなんて残酷な、、との思いを強くしたのでした。
しかし、この人、やはりスター的な存在なんでしょう、
もう彼の演奏に同じパートの人たちが一生懸命ついていってます!という感じが泣けました。

さて、オケ全体に話を戻すと、ベルリン・フィルの美質は、これみよがしなところがないところでしょうか。
なんだか、木になんともいえない味わいが出たアンティーク家具とか、
趣味のいい古伊万里を思わせるたたずまいがあります。
ウィーン・フィルの、各パートの、俺はどこまでも突っ走るぜ!(しかも、それはノッてくれた時だけで、
それ以外の時は全くやる気なし。)というのりとはどこか違って、
一生懸命まわりの音との調和も大事にしている感じ。
それから、まじめ。すっごくまじめ。
ウィーン・フィルの時は、どこか、”私たち観客、小ばかにされてる?”という気がしたものでしたが、
ベルリン・フィルはそれにひきかえ、すべてが一生懸命。
こんな、適当に演奏しておいても(失礼!)
誰もミスに気付きようもないアメリカ初演の作品を(だって、誰もこの作品知らないし。)
ものすごく一生懸命演奏してる。
というか、演奏が良すぎて、作品が負けてる。

この作品、クラシック・コンサート版『ファースト・エンペラー』と呼びたいほどに、
作曲した方は、凝って作ったつもりかもしれないが、映画音楽のよう。
映画音楽には映画音楽の目的と役割というものがあって、馬鹿にする気はありませんが、
コンサート会場で黙って座って聴いて、感動できる類の音楽であるか?と聴かれれば、答えはノーです。

それなのに、トリッキーなリズムと楽器間のかけ合いの嵐で、
ベルリン・フィルはそれを見事にこなしていましたが、ベルリン・フィルが演奏してこれなんだから、
へぼいオケが演奏したなら、”耳”もあてられない惨憺な出来となることでしょう。
また、そのトリッキーな演奏をどんなにこなしたとて、何の感動もない、という、
オケの方たちにとって、これ以上報われない作品も珍しいのでは?

さて、インターミッションをはさんで、マーラー。
マーラーはユダヤ人ですが、ユダヤ系の多いNYでこの作品を選んできたベルリン・フィルの微妙な心理が泣けます。
ユダヤ系の人々の反ワーグナー感は、それは根深いものがあって、
”ワーグナーの作品は素晴らしいが、ワーグナー自身は許せないし、嫌い。”
と公言するユダヤ系アメリカ人オペラヘッドも多いのです。
そんなこともあって、日本のワーグナー人気に比べると、
ちょっとアメリカ、特にNYはワーグナーに冷めているところがあるように思います。
そんな事情があるので、私なんかは、ベルリン・フィルにカーネギー・ホールで、
ぶいぶいと、あの2000年に聴いたような素晴らしいワーグナー演奏を聴かせて欲しい!
という希望があるのですが、まあ、おそらくNYにいる限り、
叶わぬ夢なのかな、とも思えて来ました。
ベルリン・フィルがNYで演奏する力強いワーグナー。
NYにいるユダヤ系の人々にしては複雑な気分だろうし、
ベルリン・フィルもそこまで鈍感にはなれないでしょうし。

それに比べると(実は結構反ユダヤ人感情が強いと聞く)オーストリアのウィーン・フィルが、
あっけらかんと3月のコンサートでワーグナー・プログラムを組んでいて、
まあ、ドイツという国が昔したことは我々とは無関係、という感覚があるのか、
無邪気だな、と思いました。
でも、ウィーン・フィルが演奏するワーグナーより、絶対ベルリンが演奏するそれが聴きたい。
そういう意味では、日本は、歴史的背景を抜きに
そのオケの得意とするレパートリーが聴ける恵まれた場所なのかな、とも思います。

というわけで、この微妙な作品とオケとのスタンスがどのように出るか、そこも興味深かったのですが、
さすが、そこは手をぬかず、全身全霊をこめて演奏してくれました。

しかし、最近、度々オペラのレポでも指摘している通り、聴衆の音楽を聴く態度が本当に悪い。
NYの聴衆、もちろん、きちんとした人がほとんどなのですが、
全体の傾向として、日本の聴衆に比べると大きく違うのが
(最近日本の聴衆のマナーも悪くなっていると耳にしますが、とりあえず私の知っている頃と比べて)

1)沈黙とか静けさに耐えられない
2)自分が”これをしたい!”と思ったときが行動の時

という2点だと思います。

1については、本当に、音楽が途絶えたり、静かになる数秒間が我慢できない人が多い。
咳払いをしたり、ものすごく大きなくしゃみをとばしたり(ハンカチで口抑えろ!)、
突然静けさに不安になるのか、足をうごかしてみたり、ものを取り出してみたり。。
以前にもいったように、音がないというのも音楽。がっかりします、本当に。

そして、2については、1よりもっと不愉快かも。
のどがいがいがするのはわかるけど、どうして、今、この最も楽器のソロの見せ所で、
最も音楽が美しいところで、最も繊細な音の部分で、飴の包みをあけなきゃいけないんでしょう?
それから、突然、眼鏡が不要になったおばさま、ぱっかーんと眼鏡ケースのふたをあけたり閉めたりするのはいいけど、
別にあと数秒、音が大きくなる箇所まで待ってもいいんじゃないでしょうか?
それから演奏中、音楽を耳で楽しむのに、
一体、自分の体一つ以外の何が必要なんだろう?と思わされるのですが、
どうしても、何かが、”今”、必要らしく、いきなり、バリバリバリバリッと
大きなファスナーの音をさせて、かばんを開く人。

あまりにこういった雑音がひどいので、私の目の前に座っていた男性も、
そのような音が響いてくるたびに、頭をふって、嘆いておられました。

しかし、オペラの場合、割と大きな音で音楽が流れている比率が多いため、
このような蛮行は、”しーっ!”と叱りとばしたり、
一言、stop itと短く制止することが可能で、実際そうしている人もたくさんいるし、
まわりの客もそのような制止に目くじらをたてる人はいないのですが、
今日のような、クラシックのコンサートの場合、そのように人を注意することもはばかられるような雰囲気があるのです。
”お前のほうがうるせえんだよ!”と言われそうな。。
なので、真横に座っていて、囁きながら注意できるか、
実力行使で、かばんを開け閉めする腕をつかんでやめさせることができればよいのですが、
そうでなければ、そんな音が数席離れた場所でするのを、
ただただなすがままにしておかねばならない、という、恐ろしいジレンマに陥るのです。

しかし、音響が良いといわれるカーネギー・ホール。
オケから出る音がよく聴衆につたわるだけでなく、
聴衆がたてる音もよく指揮者とオケに伝わっているのでした。

なんと、第一楽章が終わったところで、いきなり指揮者のサイモン・ラトルが
おもむろに観客側に振り向くと、
”この作品には、完全な沈黙が必要です。どうぞ、皆様、ご協力をお願いします。”
と優しく、しかし、きっぱりとおっしゃったわけです。
観客、ラトルに叱られたー!!!

私が今までかなり聴衆の態度の悪さを頻繁に書き綴ってきたために、
私の頭は少しいかれているんではないか、偏屈なオペラヘッドに違いないから関わらないでおこう、と思った方、
私がおかしいとしたら、ラトル氏も頭がおかしいのであって、そうでないことは明らか。
ある程度の常識と音楽への愛情があれば、このような聴衆の態度は許せないのがあたりまえなのです。

しっかし、本公演中に指揮者から注意を受ける観客。
ちょっとは恥ずかしいと思って、態度を向上させてほしいものです。
まあ、残念ながら、私の周りの席では、英語ネイティブにもかかわらず、
”え?今、なんて?ま、いいや、聞こえなかった。”というのりの人も多く、
相変わらず、雑音は続いたのでした。だめだ、こりゃ。

その第一楽章、例えば、CDの名盤の一つといわれる、
同じベルリン・フィルを60年代にバルビローリが振ったCDと比べると、死のイメージが希薄だったのは意外。
わりと、クリーンというのか、これは最後の楽章を除いたほかの楽章全部にいえたと思うのですが、
少し、消毒されすぎている感がなきにしもあらず。
ただし、オケの個々の演奏者はさすが。
特にホルンの首席奏者。この人は、どんな音にもきちんと芯があるくせに、
ホルンでここまで柔らかい音も出せるんだ!と驚かせるほど、どんな種類の音でもオールマイティにこなす。
すごいです。
それからチェロもいい。
第一ヴァイオリンの音がやっぱり私が以前に(勝手に?)抱いていたイメージより、
地の音が随分優しい音がするのは少し驚きでした。
派手では決してないのだけれど、最後の楽章なんかでは、ものすごいパッションを見せ、
弱音に強烈な緊張感がみなぎっていて、最後の楽章は本当に素晴らしかった。
いや、この最後の楽章は、全パートが燃え上がった素晴らしい演奏となりました。

指揮者が叱り付けなければならないような観客でも、一切手をぬかずに自分の仕事をするオケ。
指揮者の方は観客にいらいらさせられていたようですが、むしろ、オケの方は、
そんな雑音をほとんどシャットアウトして、
作品に没頭していたのが印象的でした。

その最後の楽章の後、演奏に酔いしれて、拍手までしばし沈黙となったカーネギー・ホール。
その沈黙を破って、表の57丁目の通りから漏れ聴こえるウーゥ、バーバーバー
(NYにいらっしゃる方なら、この音のイメージわかっていただけると思いますが)
という、救急車の音。。。
がっくり。
ラトル卿もさすがに、救急車を叱りつけるわけにもいかず。

NYは、観客どころか、街全体も、静寂を楽しむことを許さない場所なのかも知れません。

観客から出た咳をもって、タクトを下ろし、観客側を向いたラトル氏は大変満足そうな表情だったので、
本人としても、割と出来のよい演奏だったに違いありません。

明日の公演もNYのノイズに負けず、頑張っていただきたい。


Magnus Lindberg: Seht die Sonne
Gustav Mahler: Symphony No. 9

Conductor: Simon Rattle
Center Balcony K Even
Carnegie Hall Stern Auditorium
***ベルリン・フィル Berlin Philharmonic Orchestra***

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4 コメント

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ベル・フィル (娑羅)
2007-11-18 00:19:18
ラトルに代わってからは行ってないんですが、アバドの頃、ベル・フィルにハマって、2~3度聴きに行ったことあります。
ただ、日本公演だと、3万ぐらいしたりするので、安い席を取るのが四苦八苦。
アバドと団員が一体になってるっていうか、とても暖かい音楽を聴かせてもらいました。
アバドの人柄によるものなのかなぁ・・・。

そうですか、パユさん、そんなになっちゃいましたか(笑)

マナーの悪さに関しては、本当に人によりますよね。
NYだって、物音一つ立てず、真剣に聴いてる人もいれば、日本にだって、鈴の音をチリンチリンさせる人もいる。

咳って、「出ちゃいけない」って思って緊張すると、余計出たりするんですよね。
ある程度、生理現象は仕方ないかな・・って諦めますが、「あんた、何しに来たの?」って言いたくなる人はムカつきます

パリでバレエを観てる時、ず~~っと喋ってる若い女の子がいました。
さすがに、近くの紳士が「シーッ!」と言いました。
その喋ってる声が、普通の大きさなんです。
呆れ果てます。

ピアノリサイタルで、筆談する親子。
親が注意しないでどうするの!?
返信する
アバドのベルリン・フィル (Madokakip)
2007-11-18 08:16:09
娑羅さん、

そうでしたかー。私も結構、アバド、好きなんです。
あの『トリスタン・~』の来日公演の時は、アバドが倒れた直後で、
たしか、ベルリン・フィルのメンバーの中にも、
これが彼との最後の海外での演奏になるかも、という思いもあったようで、
なにやら尋常ならざるパワーが宿っていたように記憶しています。
しかも、ベルリン・フィルの金管にはぶっとびましたね。
まだもっと勇壮な演奏をすることがある、という人もいますが、
私にはもう充分すぎるほどで、やっぱりゲルマン人と日本人では
いや日本人のみならず、アングロサクソンやラテンと比べても、
パワーが違う、、、と頭を垂れそうになったことを昨日のように思い出します。

あのトリスタンが頭にあるので、今年のメトのトリスタン、
大丈夫かなあ(笑)とちょっと不安でもあります。
いい演奏を聴いてしまうと、あと何を聴いても物足りなくなってしまう、
というデメリットがありますね。
返信する
騒音 (F)
2007-11-21 11:21:21
こんにちわ。
ご一行様の怒涛のアテンド、お疲れさまでした。
せっかくウィーンとベルリンの興味深いお話ですのに、そっち系にばかり反応しているような気がします。
すみません。

その場の方々にとっては洒落になりせんが不覚にも笑ってしまいました。
指揮者に注意される観客。それも曲間に・・・
日本人は比較的 1) は大丈夫なように思いますが、私も 2) にはブチ切れそうになることがあります。
延々と、本当に延々と貴方はバッグの中で何を探しているの??? と。
こちとらお尻の位置を数センチずらすのにも、ゆっくりゆっくり、そろりそろりと気を使っているというのに・・・
ま、その前に「おまえはその座高を何とかしろ!!」といわれそうですがね
でも緊急車輌はどうしようもありませんね。
上野が本当に静かになったら電車の音が聞こえるのか、と考えてしまいました。

それにしてもラトルはベルリンのシェフなんですよねぇ。
どうしてもデビュー時の印象から、万年青年という気がしてしまうのです。

返信する
頭の中の万年青年とのギャップ (Madokakip)
2007-11-22 05:03:12
Fさん、

こんにちは。
そうなんですよ、特に、結構騒がれながらデビューした方って、
その頃の印象が強烈で、いつまでもそのままでいるようなこちらの勝手な思い込みがありますよね。
まさに、私の場合、パユ氏がその例で、あの、少し、ざんばらっぽい髪を振り乱しながら
ほっそりとした御身でフルートをお吹きになるイメージが刷り込まれていたため、
オケの真ん中に陣取った、そりこみすら入ってそうなおじさんくさい頭髪に、
どどーんと(態度ではなく、多分、体重もかなり寄与していると思う。)そっくりかえらんばかりに
座っている様子は、とても、私の頭の中のパユ青年と同一人物とは思えませんでした。
今でも別の第一奏者と見間違えたのでは、と思っているくらいです。

それを言えば、ラトル卿も髪が真っ白になってました。
でも動きなんかは全然若々しいですよ。
普段、ボストンで倒れて以来、動きが危なっかしげになっているレヴァイン氏ばかりを
見ているからかも知れませんが。。

アテンドなんて気のきいたものではなく、
ただ一緒になって公演を楽しんでしまっていただけなのですが、
普段1人で見にいくのになれてしまっていたので、
誰かと一緒にいって、インターミッションにいろいろ意見を交換できるのが、
私としてはとっても楽しかったです。
また、みんな来ないかなー!
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