NEST OF BLUESMANIA

ミュージシャンMACが書く音楽ブログ「NEST OF BLUESMANIA」です。

音曲日誌「一日一曲」#388 チャーリー・パットン「A Spoonful Blues」(Paramount)

2024-04-28 08:38:00 | Weblog
2024年4月28日(日)

#388 チャーリー・パットン「A Spoonful Blues」(Paramount)





チャーリー・パットン、1929年リリースのシングル曲。パットン自身の作品。

米国のブルースマン、チャーリー・パットンは、諸説あるが1891年生まれと見られる。ミシシッピ州ハインズ郡のエドワーズ近隣に農民の子として生まれ、後に同州ルールヴィル近くのドッカリー・プランテーションに移住。その地で先輩ミュージシャン、ヘンリー・スローン(1870-1948)の影響を受けてギターを覚え、歌うようになる。

ドッカリー近辺で演奏活動を続け、ウィリー・ブラウン、トミー・ジョンスン、そして若い頃のハウリン・ウルフとも交流があった。

パットンはその顔立ちから察せられるように、白人と黒人、さらには先住民の血も引いているようであった。そのせいか、彼の生み出す音楽にはブルース、ヒルビリー等、多人種混合の傾向が見られる。

その大きくがなるような、いわゆる塩辛い歌声は、パットンの一番の特徴で、その唱法はハウリン・ウルフにも大きな影響を与えたという。確かに、両者を聴き比べると、それは感じられるね。

20年代の末、パットンはパラマウントレーベルと契約、29〜30年の間にインディアナ州リッチモンドやウィスコンシン州グラフトンでレコーディングを重ねて、多くのシングルをリリースしている。

本日取り上げた「A Spoonful Blues」は29年6月リッチモンドでの録音。パットン自身の作品とクレジットされているものの、多くのブルース曲の例に漏れず、完全なオリジナルではない。

1925年には、すでに似通ったタイトルと歌詞を持つ「All I Want is a spponful」がパパ・チャーリー・ジャクスン(1887-1938)がシングルリリースしており、また、ルーク・ジョーダン(1892-1952)の「Cocaine Blues」の歌詞にもパットンと共通した表現が見られるという。

そういった過去曲からインスパイアされて生まれた曲が、この「A Spoonful Blues」であると言えそうだ。

パットンのリリース後、この曲がクローズアップされることは久しくなかったが、30年以上の歳月を経て、ふたつのバージョンがきっかけで、この曲は後世に残るスタンダードとなった。

いうまでもなく、そのひとつ目は後輩ブルースマン、ハウリン・ウルフのシングル「Spoonful」(1960年リリース)であり、もうひとつは、英国のバンド、クリームによるウルフ版のカバー(1966年のアルバム「Fresh Cream」に収録)である。

ともにウィリー・ディクスンが作者としてクレジットされているが、歌詞はパットンの曲におおよそ基づいたものだ。曲の下敷きとなったのは、間違いない。

だが、そのメロディ・ラインは大きく改変され、まったく別物になっている。

パットン版、あるいはそのプロトタイプのジャクスン版が、いかにもデルタ・ブルースっぽい、素朴でのどかな曲調であるのに対して、ウルフ版やクリーム版は攻撃的で荒々しい。

ディクスンは、ウルフのダミ声に最もフィットしたワイルドなメロディ、サウンドを特別にあつらえたのである。

その後、この「Spoonful」という楽曲は、ロックの殿堂によって「ロックンロールを型作った500曲」のひとつに認定され、またローリング・ストーン誌も「史上最も偉大な曲500」の154位にランク付けしている。

パットンのオリジナルのままでは、ここまで人口に膾炙する曲にはなりえなかったには違いないが、それでもパットン版の存在無くしては、ディクスンの優れた曲作りも成立はしなかったはず。言ってみれば、「持ちつ持たれつ」の関係なのである。

「A Spoonful Blues」、あるいは「Spoonful」の歌詞は、とても意味深である。いちいちそれらの歌詞を引用して分析するいとまはないので、省略させていただくが、要するに「愛と欲望」がテーマの歌である。特に「Spoonful=スプーン一杯」のものとは何かといえば、快楽、それも性的快楽やドラッグの暗喩のようだ。

暗喩のオブラートに包んではいるが、結局は人間の根源的な欲望をストレートに衝く内容の歌。

パットンの荒々しい歌声は、まさに我々の内なる野性を呼び覚ますかのようである。

ぜひ、このシンプルでアグレッシブなブルース体験をしてみてくれ。








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音曲日誌「一日一曲」#387 フレディ・キング「Yonder Wall」(Cotillion)

2024-04-27 08:55:00 | Weblog
2024年4月27日(土)

#387 フレディ・キング「Yonder Wall」(Cotillion)





フレディ・キング、1970年リリースのアルバム「My Feeling for the Blues」からの一曲。エルモア・ジェイムズの作品。キング・カーティスによるプロデュース。

米国の黒人ブルースマン、フレディ・キング(1934-1976)については過去に何度も取り上げているが、まだまだ語り切れていない気がするので、またもピックアップしてみる。

フレディ・キングは1950年代半ばにレコードデビューしているが、当初は主にフェデラルレーベルからシングルを、そして60年代からはキングレーベルからアルバムをリリースしていた。

60年代末にアトランティック傘下のコティリオンレーベルに移籍、2枚のアルバムをリリースしている。これが共に完成度が高く、50年以上経った現在も名盤として聴き継がれている。

その2作目に当たるアルバム「My Feeling for the Blues」に収められているのが、本日取り上げた「Yonder Wall」である。

この曲はクレジットにもあるように、直接はエルモア・ジェイムズのカバーである。エルモア版のタイトルは「Look On Yonder Wall」。

61年12月にファイアレーベルより「Shake Your Moneymaker」のB面としてリリース、ともにエルモアが63年で亡くなる前の、最終期の代表曲となった。

しかし、多くのブルース・スタンダードと同様、この曲にも原型が存在する。それは、メンフィス出身のピアニスト/シンガー、ジェイムズ・ビールストリート・クラークが45年にリリースしたシングル「Get Ready to Meet Your Man」である。

タイトルこそ全然違うが、歌詞内容は、後々のバージョンとほぼ同じ。曲調はクラリネットをフィーチャーした、至ってのどかなもの。エルモア版の持つ、アッパーなテンションはそこにはない。

曲調だけでなく、メロディライン自体も大幅に改変されているので、本曲はエルモアによって新たな曲に生まれ変わったといっていい。

さて、フレディ版の「Yonder Wall」は、先日取り上げたキング・カーティスがプロデュースを担当しており、バック・ミュージシャンも彼のバンド、キングピンズのメンバーが参加している。例えば、ギターのコーネル・デュプリー、ペースのジェリー・ジェモツトがそうだ。

他のメンバーはキーボードのジョージ・スタッブス、ドラムスのケネス・ライス、トランペットのアーニー・ロイヤルをはじめとするボーン・セクション。のちにシンガーとしてもよく知られることになるダニー・ハサウェイがアレンジャー、キーボードとして加わっている。

フレディ・キングはこの曲を、いわゆるブルーム調のエルモア版より、ぐっとテンポを落としたスロー・ブルースとして歌っている。そのせいか、これもまたまるきり違った曲に聴こえる。

リズム、テンポが変われば、曲はその都度、新たな顔を見せるものなのだ。名曲は三たび装いを変える。

ジャケット写真は、ボーカルレコーディング中のキングの姿。スタジオの中で、ギターを持たずにじっくりと歌い込むキングの様子を捉えており、出色の出来ばえだ。

キングはもっぱらギタリストとしてクローズアップされがちだが、このアルバムでは歌い手のキングもしっかり見て(聴いて)欲しい、そういうことなのだろう。

そのために、このアルバムではキング本人のオリジナルは数曲に抑えて、TボーンやBB、レイ・チャールズ、ジミー・リード、ギター・スリムらが生み出したブルース・スタンダードのカバーを、メインディッシュとしてリスナーに提供している。

お馴染みの曲群も、フレディ・キングの歌とギター・プレイで料理すると、キングのコテコテな個性が滲み出てきて、彼ならではの味わいが感じられる。

フレディ・キング版「Yonder Wall」の、独自のアレンジ、解釈は、エルモア・ジェイムズによっていったん固定化してしまったこの曲の持つイメージを、解放してくれた。

かつては愛し合っていた、一組の男女の離別を歌ったうたには、このしみじみとしたスローブルースが、実はふさわしいのかも知れない。





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音曲日誌「一日一曲」#386 メル・トーメ「Comin’ Home Baby」(Atlantic)

2024-04-26 08:11:00 | Weblog
2024年4月26日(金)

#386 メル・トーメ「Comin’ Home Baby」(Atlantic)




メル・トーメ、1962年リリースのシングル・ヒット曲。ボブ・ドロー、ベン・タッカーの作品。ネスヒ・アーティガンによるプロデュース。

米国のジャズシンガー、メル・トーメは、かつて「一日一枚」で一度取り上げたきりだが、筆者としてはかなり重要であり、かつこよなく愛好する歌い手のひとりである。

本名、メルヴィン・ハワード・トーメ。1925年、シカゴに生まれる。99年に73歳で亡くなるまで、ジャズシンガー、そして俳優としても第一線で活躍したスター。

でも、変に大御所のような存在に収まることなく、生涯ひとりのジャズシンガーとして、コンサート活動でリスナーと直の交流を続けた人である。彼こそは「古き良きアメリカ人」の典型であると、筆者は思う。

さて、本日取り上げた「Comin’ Home Baby」は、トーメにとって代表曲のひとつ。62年に全米36位、全英13位のスマッシュ・ヒットとなった。

40年代末から50年代初頭にかけて、トーメは「Careless Hands」「Again」「Bewitched」といったジャズ・ナンバーでトップ10ヒットを連発していたが、60年代に入って30代後半となった彼が、久しぶりに健在ぶりを示したのである。

もともとこの曲は61年にインストゥルメンタル・ナンバーとして書かれた。アート・ペッパー、デクスター・ゴードン、グラント・グリーンらとの共演で知られるジャズ・ベーシスト、ベン・タッカーが作曲して、自分が参加したデイヴ・ベイリー(ds)のクインテットに提供した。

レコーディングは61年10月。同年リリースのアルバム「2 Feet In The Gutter」に収められた。

この曲のキャッチーさに注目したジャズ・フルーティスト、ハービー・マンがさっそくレパートリーに取り入れ、11月にはタッカーと共に、ニューヨークのヴィレッジ・ゲートでのパフォーマンスを録音した。

アトランティックからリリースしたこのライブ盤「Herbie Mann at the Village Gate」が大ヒットしたことで、「Comin’ Home Baby」の知名度も大いにアップした。

そして、その成功だけにとどまることなく、作者のタッカーはさらなる戦略を打つ。同曲に歌詞をつけて、ポピュラー・ソングとしてもヒットさせようとしたのである。

タッカーはジャズ・ピアニストにしてソング・ライターのボブ・ドローに作詞を依頼し、一方でこの曲を同じアトランティックレーベルに所属するメル・トーメに歌わせるよう、プロデューサーのネスヒ・アーティガンに持ちかけたのだ。

当初、トーメはこの曲のレコーディングにあまり乗り気でなかった。曲の持つ、いかにもレイ・チャールズあたりが歌っていそうなR&Bの臭いが、自分のものとは違うと感じたからだ。確かに「Unchain My Heart」などとも雰囲気が非常に近い。

トーメへの説得工作の末、9月にようやくレコーディング。翌月リリースされたシングルは、瞬く間にヒットする。やはり、本曲は時代が求めるメロディ、サウンドであったということなのだろう。結果として、トーメも新境地を拓くことに成功し、翌年のグラミー賞で2部門にノミネートされた。

トーメ版の大きな特徴は、ハービー・マンらがテーマとして演奏したメロディそのものではなく、むしろそのオブリガードとして、もう一つのメロディを歌っているところにある。テーマ歌唱は代わりに、女声コーラスが担当している。

同一曲でありながら、インスト版とはかなり印象が異なって聴こえるのはそのためである。

歌と器楽のリズム感覚の違いをよく理解した上でなされた、秀逸なアレンジだと筆者は思うのだが、いかがであろうが。ちなみに編曲はドイツの著名なジャズ・アレンジャー、クラウス・オガーマン(ビリー・ホリデイ、フランク・シナトラなどを担当)である。

トーメの機知に富んだボーカル、自由自在なアドリブにより、このバージョンは平板な仕上がりにならずに済んでいる。職人技とはこういうことを言うのだろうな。

余談だが、筆者はこの曲(マン版、トーメ版を問わず)を聴くたびに、とある日本の大ヒット曲を必ず思い起こしてしまう。

それは、ピンキーとキラーズが68年にリリースした「恋の季節」である。

この曲の、キラーズの「恋の季節なの」というバックコーラスのフレーズは、まんま「Comin’ Home Baby」のテーマからの借用なのだ。

メインのメロディではないから、すぐには気づかないだろうが、繰り返し聴くとそれは明らかだ。

作編曲はいずみたく。センセー、さすがよく洋楽を研究してますね(笑)。

ということで、筆者はいつも「Comin’ Home Baby」に合わせて、「恋の季節なの」と口ずさんでいます(笑)。

正統派ジャズ・シンガーが、60年代を反映したポップ・チューンにチャレンジした興味深い一曲。新時代の息吹きを、そこに感じとってほしい。




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音曲日誌「一日一曲」#385 マッド・モーガンフィールド「Trouble No More」(Severn)

2024-04-25 08:24:00 | Weblog
2024年4月25日(木)

#385 マッド・モーガンフィールド「Trouble No More」(Severn)





マッド・モーガンフィールド、2014年リリースのアルバム「For Pops|A Tribute To Muddy Waters」からの一曲。マッキンリー・モーガンフィールド(マディ・ウォーターズの本名)の作品。デイヴィッド・アール、スティーヴ・ゴメスによるプロデュース。

黒人ブルース・シンガー、マッド・モーガンフィールドは、その名前からも分かるように、ブルースの頂点に君臨したマディ・ウォーターズの息子。長男である。

本名はラリー・ウィリアムズ。1954年、マディと彼の最初の妻、ミルドレッド・ウィリアムズとの間にシカゴで生まれている。幼少期に父母が離婚したため、父親の顔を知らず、ずっと疎遠で暮らしていたという。

音楽の道に進むこともなく、地味にトラックの運転手で生計を立てていたウィリアムズだったが、1983年4月、28歳の時に人生の一大転機を迎える。父、マディ・ウォーターズの死である。

それを機に、彼の中で父親のように歌ってみたいという気持ちが高まり(夢にまで出てきたという)、ミュージシャンに転身する道を選んだ。そして、マッド・モーガンフィールドという父にちなんだステージ・ネームを名乗ったのである。

歌ってみると、モーガンフィールドの歌声は、なんと亡き父にそっくりであった。顔も親子だけによく似ているのだが、それ以上に声が瓜二つ。こんなことは、滅多にあるものではない。

シカゴ南部のブルースクラブを拠点として活動を始めたモーガンフィールドは、父親の曲をそのままカバーするだけでなく、雰囲気の近いオリジナル曲も自ら作り、歌っていた。

それを自主制作盤というかたちでまとめたのが、2008年リリースのアルバム「Fall Waters Fall」である。1曲、ウィリー・ディクスン作、マディが歌った「The Same Thing」の改題曲「Same Old Thing」以外は、マディ風味のオリジナルである。

このアルバムリリース以降、マッド・モーガンフィールドは、ゆっくりとしたペースでレコーディングしていく。

2012年リリースの「Sons Of The Seventh Son」に続いて2014年に出したのが、本日取り上げた「Trouble No More」が収録された「For Pops|A Tribute To Muddy Waters」である。Popsとはむろん、マディのことを指している。

このアルバムでは、ファビュラス・サンダーバーズのフロントマン、キム・ウィルスンがハープで全面的にバックアップしている。かつてのマディ&リトル・ウォルターを彷彿とさせるコンビネーションである。

曲はアルバムタイトルが示すように、全曲、マディのカバー。ファーストとセカンドアルバムでは、マディのカバーは一曲ずつであったが、ここでは全面解禁したかのようにマディ一色となっている。

このアルバム、モーガンフィールドの30年にわたる音楽人生の総決算であり、そして父への諸々の想いをひとつにまとめて集大成したとも言える。

「Trouble No More」のオリジナルは1955年にレコーディングされ、シングルリリースされた、マディ自作のナンバー。とはいえ、カントリーブルースのベテラン、スリーピー・ジョン・エスティスの「Someday Baby Blues」(1935年)が下敷きになっている。

ロックファンの皆さんには、マディ版よりもそれをカバーしたオールマン・ブラザーズ・バンドのバージョンの方がより有名かもしれない(スタジオ版、フィルモア・ライブ版共にあり)。また、「Someday Baby」というタイトルのボブ・ディラン版(2006年)を思い出す人もいるかも。

要はエスティスのまとめたカントリーブルースをマディが都会風にアレンジして広め、それが白人ロックミュージシャンたちにも強い影響を与えたのである。

このモーガンフィールド・バージョンを聴いていただくと、単に父親の声に似ているだけでなく、その唱法や微妙なニュアンス、つまり芸風までほぼ完璧に再現していることが分かると思う。

まさに二代目マディ・ウォーターズ。モーガンフィールドが「マディ・ウォーターズ・ジュニア」の別名でも呼ばれている所以である。

偉大なる父の存在無くしては、自分というミュージシャンも存在しなかった。そして、父のフォロワーである限り、本当のトップには立てない。それはモーガンフィールド自身が一番強く感じていることだろう。

でも、父親のことを一番尊敬し、愛しているから、それでも構わないのだ。

そんな父親であり、先達であるマディ・ウォーターズへの想いが滲み出た、モーガンフィールドの熱唱。ぜひ聴いてみてほしい。




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音曲日誌「一日一曲」#384 ロリー・ギャラガー「Messin’ With The Kid」(Polydor)

2024-04-24 08:41:00 | Weblog
2024年4月24日(水)

#384 ロリー・ギャラガー「Messin’ With The Kid」(Polydor)





ロリー・ギャラガー、72年リリースのライブ・アルバム「Live! In Europe」からのオープニング・ナンバー。メル・ロンドンの作品。ギャラガー自身によるプロデュース。

アイルランド出身のギタリスト/シンガー、ロリー・ギャラガーについては、テイスト時代を主に取り上げて、71年にソロになってからのライブアルバムを1枚しかピックアップしていなかったので、今回はソロ時代の彼にスポットを当ててみたい。

テイストを70年いっぱいで解散させたギャラガーは、翌年5月、アルバム「Rory Gallagher」をリリースして、ソロ活動のスタートを切る。

新たなバンドメンバーとして、オーディションにより選ばれたベースのジェリー・マカヴォイ、ドラムスのウィルガー・キャンベルを迎えレコーディングされたこのアルバムは、全英32位のセールスとなり、まずまずのスタートとなった。

同年11月、早くもセカンド・アルバム「Deuce」をリリース、トップ20に1週チャートイン。

そして翌72年5月に、同年2〜3月に行ったヨーロッパ・ツアー(英語・イタリア・ドイツ)の模様を収録したこの「Live! In Europe」をリリースしたのである。

これが過去の記録を塗り替えるヒットとなった。全英9位と初めてトップ10に入り、全米でも101位、初のゴールド・ディスクとなったのだ。

テイスト時代から、ロリー・ギャラガーはそのライブの内容には定評があった。スタジオ・アルバムを大きく上回るダイナミックな生演奏は、彼の最大の魅力であり、その評判がファンを増やしていく原動力でもあった。ライブ・アルバムが強く待たれていたゆえんである。

ヨーロッパでの演奏は、ファンの期待をさらに上回る熱い出来であった。オープニングの「Messin’ With The Kid」からパワー全開、フルスロットルなロリーが聴けたのだから。

この「Messin’ With The Kid」のオリジナルは、ジュニア・ウェルズ1960年リリースのシングル。ウェルズが珍しくハープを吹かずにボーカルのみのバージョン。66年にはバディ・ガイと共に再録音しており、こちらではハープも吹いている。作曲者はチーフレーベルのオーナーにしてプロデューサーのメル・ロンドン。

ギャラガーはこのひと昔前のブルース・ナンバーをロックに大胆にアレンジして、1972年に鮮やかに甦らせた。

彼のひたすらアグレッシブなギター・プレイ、そしてラフではあるがエネルギッシュなボーカルを前面に押し出した本バージョンには、ギャラガーの魅力がすべて詰まっていると言っていい。

このアルバムにより、ファンのみならず音楽ジャーナリズムも、改めて彼のギター・プレイに注目するようになった。それは同年、メロディ・メイカー誌によってギャラガーが1972年の「ギタリスト・オブ・ザ・イヤー」に選ばれたことでもよく分かるだろう。

翌73年には「Blueprint」「Tattoo」の2枚のアルバムをリリース、日本でも人気上昇の兆しが見えるようになる。「ミュージック・ライフ」あたりのロック誌でも、毎月のように記事になり始める。

そんな気運の中、「Tattoo」のプロモーションも兼ねて74年1月、ギャラガーはついに初来日公演を果たしたのだった。

実は筆者も、1月25日の中野サンプラザ公演に、観客のひとりとして参加していた。

音楽仲間の友人の伝手があり、入手したチケットはなんと真正面のかぶりつきというプラチナ席!

登場したロリー・ギャラガーはチェックのシャツにジーンズ、スニーカーという、至って飾りっ気のないスタイル。ロックスター的な華やかさとはまるで無縁の、素朴な25歳の青年だった。

だが、いったんギターを手にするや、にこやかな表情は一変し、真剣なアーティストのそれに変わった。

一曲目は…そう、筆者の、そしておおかたの観客の予想通り、「Messin’ With The Kid」だった。

激しいリズム隊のビートをさらに上回る、火を吹きそうなギター・プレイ。特にピッキング・ハーモニクスのカッコよさといったら!

緊張感に満ち、オープニングから観客席も超ヒートアップした、最高のパフォーマンスだった。

ジュニア・ウェルズ、そしてブルース・ブラザーズでよく知られているナンバーではあるが、筆者にとっての「Messin’ With The Kid」は、何よりもまず、ロリー・ギャラガーなのである。その理由は、上記のライブ体験であることは、いうまでもない。

1995年、わずか47歳の若さで亡くなるまで、全力で駆け抜けるようにギターを弾き続けた男、ロリー・ギャラガー。

筆者にも74年の「あの日」の熱演を思い起こさせる、彼の本気のライブを堪能してくれ。

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音曲日誌「一日一曲」#383 エラ・フィッツジェラルド「Sunshine Of Your Love」(MPS)

2024-04-23 08:20:00 | Weblog
2024年4月23日(火)

#383 エラ・フィッツジェラルド「Sunshine Of Your Love」(MPS)





エラ・フィッツジェラルド、1969年リリースのライブ・アルバム「Sunshine Of Your Love」からのタイトル・チューン。エリック・クラプトン、ジャック・ブルース、ピート・ブラウンの作品。ノーマン・グランツによるプロデュース。

米国の女性ジャズシンガー、エラ・フィッツジェラルドは1917年バージニア州ニューポート・ニューズ生まれ。幼少期ニューヨーク州に移住。1934年、17歳でハーレムのアポロシアターでデビュー、翌年チック・ウェブ楽団の専属シンガーとなり、デッカレーベルよりレコードデビュー。38年、シングル「A-Tisket, A-Tasket」が大ヒット。

39年、ウェブの死後、エラがバンドリーダーとなり、ライブ、ラジオ、レコードで全国的人気を獲得していく。

42年にはバンドと袂を分かち、ノーマン・グランツ率いるジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック(JATP)に参加、ビ・バップに対応した、アドリブ・スキャットを多用する新しいボーカル・スタイルを編み出す。

その後は、56年にグランツが設立したヴァーヴレーベルより意欲的にアルバムをリリース、中でも58年に出した「At The Opera House」はジャズボーカルのライブ盤の最高峰との評価を得る。

40代のエラはシングル曲をヒットさせる人気歌手から、アルバムでじっくり聴かせるアーティストへと成長したのである。その頃には「歌のファースト・レディ」「ジャズの女王」「レディ・エラ」といった称号が定着し、エラは国民的なシンガーとなった。

さて、本日取り上げた「Sunshine Of Your Love」は、みなさんご存知のように、英国のロック・バンド、クリーム(1966-1968)がオリジナル。

67年11月リリースのセカンド・アルバム「Disraeli Gears」に収録されたが、米国では同年12月シングルとしてリリースされ全米3位の大ヒット、クリームの名を一気に高めた。英国では68年9月にリリース、全英25位となっている。

米国で特に人気を得た曲ということもあってか、エラはこれに注目して、さっそく自らのレパートリーとしたのだろう。68年10月カリフォルニア州サンフランシスコのホテル、ザ・フェアモント・サンフランシスコでのライブで、ビートルズの「Hey Jude」、パート・バカラックの「This Guy’s in Love With You」といった当時の最新流行曲と共に、披露したのである。

バック・ミュージシャンは歌伴の名手と呼ばれるピアノのトミー・フラナガン、ベースのフランク・デラロ、ドラムスのエド・シグペン(オスカー・ピータースン・トリオでお馴染み)、そしてトランペットのアレン・スミスをはじめとするアーニー・ヘクシャー楽団だ。

エリック・クラプトンが弾いたリフをホーンのハイテンションなサウンドに代えて(編曲は名バンドリーダー、マーティ・ペイチ)、オリジナルのブルース・ロックを見事なジャズ・サウンドにお色直ししている。

エラは当時51歳。彼女のシャープでよく通る歌声が、自由自在なアドリブで、この曲の持つ魅力を縦横に引き出していく様子は、驚きのひとことである。

クリーム、ビートルズといった、自分のジャンルとはまったく違う若者向けのポップ・ソングであっても、どこかピンと来るところがあれば積極的に取り入れ、大家ぶることなく貪欲に新曲に挑んでいく姿勢が、文句なしに素晴らしい。

まさに米国の誇る国民的歌手。当時の人気ナンバーワン女性シンガーは20代半ばのアレサ・フランクリンであったが、50代のエラもまだまだ負けちゃいない。

その圧倒的な声量とドライブ感、豊かなブルース・フィーリングにおいて、女王の名にふさわしいことを証明してみせたライブ。ぜひ、聴いてみて。




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音曲日誌「一日一曲」#382 ジョニー・ウィンター「I’ll Drown In My Tears」(Columbia)

2024-04-22 08:36:00 | Weblog
2024年4月22日(月)

#382 ジョニー・ウィンター「I’ll Drown In My Tears」(Columbia)





ジョニー・ウィンターの1969年リリース、コロムビアレーベルでのファースト・アルバム「Johnny Winter」からの一曲。ヘンリー・グローヴァーの作品。ウィンター自身によるプロデュース。

この「I’ll Drown In My Tears」という曲、レイ・チャールズ56年の「Drown in My Own Tears」というタイトルでのヒットで最もよく知られているが、実はそれがオリジナル・バージョンではない。

もともとヘンリー・グローヴァー(1921年生まれ)というソングライター兼トランペット奏者が51年に書き、女性シンガー、ルーラ・リード(1926年生まれ)によりレコーディングされたバラード・ナンバー。

ブルースピアニスト、ソニー・トンプスンのインスト曲「Chag, Chang, Chang」をA面とするスプリット・シングルのB面だったが、R&Bチャート5位のヒットとなっている。

このB面曲に目をつけたレイ・チャールズが56年にアトランティックレーベルでレコーディング、R&Bチャートで1位の大ヒットとなった(チャールズとしては3曲目の首位)。

以来、彼の影響で白人黒人、英米を問わずさまざまなジャンルのアーティストがこの曲をカバーするようになる。

ざっと挙げるだけでも、ジョー・コッカー、ボビー・ダーリン、アレサ・フランクリン、リッチー・ヘブンス、エタ・ジェイムズ、ノラ・ジョーンズ、ジャニス・ジョプリン、ビリー・プレストン、パーシー・スレッジ、スペンサー・デイヴィス・グループ、ジョニー・テイラー、スティーヴィ・ワンダーetc…と、枚挙にいとまがない。

しかし、あまたあるカバーの中で、筆者が一番先に思い浮かぶのは、本日取り上げたジョニー・ウィンターのバージョンなのである。

ジョニー・ウィンター(1944-2014)の70歳の生涯で名盤は数々あれど、やはりメジャー・デビュー・アルバムの「Johnny Winter」は格別の存在だと言える。

ここには、ウィンターの原点と言える音楽が、すべて詰まっているからだ。

「I’ll Drown In My Tears」と、オリジナル・タイトルの方でクレジットされた本曲は、レギュラーバンドのトニー・シャノン(b)、アンクル・ジョー・ターナー(ds)に加えて、ピアノでウィンターの弟エドガー、そしてA・ウィン・バトラー(ts)、カール・ゲイリン(tp)をはじめとする4管のホーンセクション、3人の女声コーラスが加わっている。見事なまでのフルコンボ体制である。

他の曲ではスピーディに暴れまわるギターを聴かせるウィンターもここではあえて弾かずに、完全にボーカルに集中している。

新奇さではなく、あくまでも伝統的な、まっとうなスタイルでR&Bを追求しようという真摯な姿勢がうかがえる。

このウィンターの歌が、実に心に沁みるのだ。失恋の悲しみに負けそうな想いが、ストレートに聴く者に伝わってて来る歌声。それ以上の説明は不要というものだろう。

レイ・チャールズに決して引けを取らない、シンガー、ジョニー・ウィンター畢生の熱唱。

いいものは、いつ聴いてもいい、そう思う。




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音曲日誌「一日一曲」#381 ジョン・ハイアット「Riding With The King」(Geffen)

2024-04-21 07:40:00 | Weblog
2024年4月21日(日)

#381 ジョン・ハイアット「Riding With The King」(Geffen)





ジョン・ハイアット、1983年リリースのアルバム「Riding With The King」のタイトル・チューン。ハイアット自身の作品。スコット・マシューズ、ロン・ネーグル、ニック・ロウによるプロデュース。ロンドン録音。

米国のシンガーソングライター、ジョン・ロバート・ハイアットは1952年インディアナ州インディアナポリス生まれ。幼少期はエルヴィス・プレスリー、ボブ・ディラン、黒人ブルースを愛聴して育つ。11歳からギターを弾き出し、地元でバンド活動を開始する。

18歳でナッシュビルに移住、ソングライターの仕事を始める。楽譜を書けなかった彼は、すべての曲をレコーディングすることでしのぐ。20歳でバンド、ホワイト・ダックに加入。その活動と並行して、ソロでも活動を行う。

73年にエピックレーベルと契約、ファースト・シングル「We Make Spirit」をリリース。一方、彼の作品「Shure As Sitting Here」が人気バンド、スリー・ドッグ・ナイトに採用され、全米16位のヒット。ハイアットは一躍、注目のソングライターとなる。

74年、デビュー・アルバム「Hangin’ Around the Observatory」をリリースするも、セールスは振るわず、75年のセカンドも同様だったため、契約は終了。4年間、レコードを出せない状態が続く。

当初は典型的カントリー・ロックだった彼のサウンドも、70年代後半には当時台頭してきたニューウェーブのアーティスト、エルヴィス・コステロ、ニック・ロウ、グレアム・パーカーらの影響を受けて変化していく。

79年、MCAレーベルと契約、2枚のアルバムをリリース。82年にはライ・クーダー、ジム・ディキンソンとの共作「Across the Borderline」をフレディ・フェンダーが歌い映画「The Border」の主題曲となる。

同年、ゲフィンレーベルと契約。同レーベルでの2枚目、83年リリースのアルバムに、本日取り上げた「Riding With The King」がタイトル・チューンとして収められた。

このアルバムについてハイアット本人が「ようやく自分が何なのかを理解して、すべてを一枚にまとめた初めてのアルバムだ」という主旨の発言をしている。

それまでのさまざまな試行錯誤がついにひとつにまとまった、ミュージシャン、ハイアットとしての到達点ということだろう。

ロック、フォーク、カントリー、ブルース、R&Bといった彼に影響を与えてきた各種の音楽が、ハイアット・ワールドとして結実したのが、「Riding With The King」という曲なのだ。

シングルリリースこそされなかったが、この曲は他のミュージシャンの心にも強く響いたようで、17年後に有名なカバー・バージョンが登場する。

ご存知、2000年にリリースされたエリック・クラプトンとB・B・キングの共演アルバム「Riding With The King」におけるタイトル・チューンである。ハイアットは、そのレコーディングのために歌詞を書き直している。

そしてさらにもうひとつ、印象的なカバーが16年後に登場する。ギタリスト/シンガーのジョー・ボナマッサが2016年にリリースしたライブ盤「Live At The Greek Theatre」にスタジオ録音で収録されたバージョンである。こちらは女性シンガー、マへリア・バーンズが共演している。

いずれのカバーも、ハイアットのソウルフルな曲調を生かした、ドライブ感のあるサウンドに仕上がっている。4人の歌い手の、張りのあるボーカルも実にいい。

これらのおかげで、「Riding With The King」という曲は再度リスナーに注目され、80年代アメリカン・ロックのスタンダードとなった。

オリジナル・バージョンは、ガッツのあるギターとオルガンのサウンド、そしてハイアットの塩っ辛い個性的な歌声が一度聴いたら耳を離れない。

50年の長きにわたって、20枚以上のアルバムの曲を自ら作り、歌い続ける。これは並大抵の才能で出来ることではない。

ハイアットの作品にはこの曲以外にも、バディ・ガイがカバーした「Feels Like Rain」など、メロディアスで心に残るナンバーがいくつもある。ぜひ聴いてみてほしい。

ジョン・ハイアット、71歳。これからもまだまだ、良曲を数多く作ってくれそうだ。








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音曲日誌「一日一曲」#380 ザ・タイガース「Heartbreaker」(Polydor)

2024-04-20 09:54:00 | Weblog
2024年4月20日(土)

#380 ザ・タイガース「Heartbreaker」(Polydor)



ザ・タイガース、1970年8月のコンサート「リサイタル・サウンドinコロシアム」からの一曲。マーク・ファーナーの作品。東京大田区の田園コロシアムにおけるライブ。

ここのところ64日連続で洋楽ばかり取り上げて来たので、たまには邦楽アーティストもピックアップしてみたいと思う。

ザ・タイガースについては、くだくだしい説明は不要だろう。日本の60年代後半に起こったグループサウンズ・ブームで、最高最大の人気を誇ったバンドである。

結成は65年6月、京都市。「サリーとプレイボーイズ」を4人でスタート。同年末、他バンドにいた沢田研二を誘い、翌年より5人で「ファニーズ」と改名して再スタート。

大阪のジャズ喫茶「ナンバ一番」に出演して大人気となり、これに注目した内田裕也の仲介により、東京の渡辺プロダクションと契約。67年2月にザ・タイガースと再度改名してレコードデビュー。

以後、71年2月の解散コンサートに至るまでの正味4年間、グループサウンズブームを牽引し続け、解散後もメンバーの大半は、日本のミュージック・シーンで大活躍した、そんなビッグ・グループである。

彼らはいわゆる「アイドル」の括りで語られがちの存在であった。確かにそれは間違いではなかったが、実は多くのリスナーが思うよりはずっと「プロ」のミュージシャンであった。

そのことが、本日取り上げたライブレコーディングを聴くと、よく分かると思う。

ザ・タイガースは、先に人気の出ていた年長世代のブルーコメッツ、スパイダーズの後を追うようにしてデビュー、平均年齢19.4歳という圧倒的な若さで女性リスナーの人気をあっという間にさらい、GSの王座に躍り出た。

その時点では確かに、若さ、ルックスといった切り札に頼ったという感は否めなかった。

しかし、4年という年月は、彼らの音楽性や人間性に大きな成長をもたらした。レコーディングでロンドンを訪れたり、テレビ出演ばかりでなく武道館のような大規模ホールや野外でライブ演奏をするなど、現場でもみっちりと鍛えられた。

また、マネジメントサイド、プロデュースサイドとの衝突により、メンバー脱退、交代といった危機的状況もいろいろと経験している。

その結果、アイドルバンドとバカに出来ないレベルのバンド、海外のアーティストとも肩を並べうる存在へと次第に変化、成長していったのである。

田園コロシアムでのライブは、その場にいたオーディエンスだけでなく、近隣に住む人々、東急東横線の列車に乗った客にも十分聴こえる。

筆者も、このライブではないが、翌71年にPYGに再編成された時期の彼らのコロシアムライブを、多摩川園駅(現・多摩川駅)で偶然聴いたことがある。もう、完全に野外ライブと同じだった。

不特定多数の人に、生音を聴かれるパブリック・ライブ。しかも、当時人気絶頂のバンドである。絶対、下手くそな演奏をするわけにはいかない。

そんなプレッシャーに負けじと、彼らは海外ロック・バンドのカバー、そして自分たちのオリジナル曲や大ヒットナンバーを、ホーンやオーケストラといった外部ミュージシャンの力を借りずに、やり抜いたのだ。恐るべき、プロ根性である。

グループサウンズは、決して海外ロック・バンドのパチモンではなかったのである。明らかに、世界でも通用出来るバンドを目指していたことが分かる。

コンサートの中盤に演奏されたこの「Heartbreaker」は同題異曲がいくつもあるが、米国のバンド、グランド・ファンク・レイルロードのヒットナンバーのほう。

69年リリースのファースト・アルバムからシングルカットされ、翌年末に出たライブ・アルバムにも収められた。日本でも、アマチュアバンドの定番レパートリーとなったナンバーだ。

GFRは71年夏に来日して人気爆発しているが、それに先立つ1年前の70年、タイガースはこの曲をすでにライブレパートリーとして消化していたのだから、ものスゴい早取りである。若さゆえの吸収力がハンパない。 

その曲調は、循環コードの繰り返しによるマイナー・バラード。これがジュリーの、艶と陰影のある声質に見事にマッチしていて、実にいい感じだ。

バックの演奏も、われわれがGSに期待するレベルを大きく超える出来映えだ。特に、ベースのサリー、ドラムスのピーのリズム隊の安定感は素晴らしい。GSといって侮るべからず、である。

実際、のちにレッド・ツェッペリンが来日した時に、ジョン・ポール・ジョーンズが当時PYGにいたサリーのベース演奏を聴いて、「日本にもベースのうまいヤツがいる」と賞賛したほど、サリーの技術は国際級だったのである。

ギターのタローも頑張って、マーク・フアーナーのソロをしっかりとコピーしており、ちょっと残念なのはバックコーラスくらいで、このままレコード化しても大丈夫なくらい、いい出来だ。

コロシアムライブでは他に、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル(CCR)のカバー(Susie Q、I Put a Spell On You、Travelin’ Band)を演っているが、そちらもなかなかの仕上がりだ。彼らが超多忙な中、海外アーティストの研究にも余念がなかった様子が察せられる。

それにしてもこの曲で感じるのは、ジュリーの圧倒的な存在感である。

まだ歌唱力が安定していない時期だが、その声の持つ華やぎは、唯一無二、空前絶後のものだ。

彼の華麗な容姿も相まって「天性のスター」としか呼びようがない。後のソロでの大ブレイクぶりも、当然だと思う。

ヒットを何十年も出さずとも、沢田研二というシンガーが、極東ニッポンの最大級スターであることは間違いあるまい。

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音曲日誌「一日一曲」#379 ベイビーフェイス・リロイ「Rollin’ And Tumblin’(Part 1&2)(Parkway)

2024-04-19 08:25:00 | Weblog
2024年4月19日(金)

#379 ベイビーフェイス・リロイ「Rollin’ And Tumblin’(Part 1&2)(Parkway)





ベイビーフェイス・リロイ、1950年リリースのシングル曲。マディ・ウォーターズの作品。

黒人ブルースマン、ベイビーフェイス・リロイことリロイ・フォスターは1923年ミシシッピ州アルゴマの生まれ。ギターやドラムスを演奏するようになり、10代後半、1940年代半ばにシカゴに移住する。

シカゴでピアニストのサニーランド・スリム(1906年生まれ)やハーピストのサニーボーイ・ウィリアムスン一世(1914年生まれ)といった年長のミュージシャンたちと知り合い、共に演奏するようになる。

46年に、当時はまだ駆け出しのギタリストであったマディ・ウォーターズ(1913年生まれ)を知人に紹介される。フォスターはギタリストのジミー・ロジャーズ(1924年生まれ)と共にマディのバンドに参加して、ギターとドラムスを担当する。

彼らトリオは「ヘッドハンターズ」と自ら名乗って、クラブからクラブへ渡り歩き、道場破りのような演奏勝負を繰り広げていたという。

後にこれにハープのリトル・ウォルター(1930年生まれ)が加わり、マディのバンドの基礎が出来上がるのである。

フォスターの最初のレコーディングは45年、サイドマンとしてであった。自己名義の初レコーディングは48年、アリストクラットレーベルからリリースしたシングル「Locked Out Boogie」。これにはマディがギター、ビッグ・クロフォードがベースで参加している。

翌49年にはシングル「My Head Can’t Rest Anymore」をJOBレーベルよりリリース。この曲からウォルターのハープが加わる。

50年、マディたちはパークウェイレーベルで後世に残るレコーディング・セッションを行う。このセッションからは4枚のシングルが生まれた。うち2枚がフォスター・トリオ、2枚がウォルター・トリオの名義でのリリースとなった。

フォスターの2枚とは「Boll Weevil(オオゾウムシの英語名)」、そして本日取り上げた「Rollin’ And Tumblin’(Part 1&2)」である。パーソネルはドラムスがフォスター、ギターがマディ、ハープがウォルター。ボーカルはフォスターがメインだが、3人がとっている。

「Rollin’ And Tumblin’」はマディ・ウォーターズの代表曲としてあまりに有名なナンバーだが、彼は同年に自らのボーカルでこの曲をアリストクラットレーベルでレコーディング、シングルリリースしている。後にチェスのコンピレーション・アルバムに収録された。

もともとこの曲は、ハンボーン・ウィリー・ニューバーンにより29年に初めてレコーディングされている。原題は「Roll And Tumble Blues」。ニューバーンの作品とクレジットされているが、実際には作者不明のトラディショナルといったところである。

これを改題してカバーしたのが、ロバート・ジョンスン。それが1936年録音の「If I Had Possession Over Judgement Day」である。また、彼の「Travelling Riverside Blues』にも、本曲の強い影響が見られる。

フォスター、マディらのカバーバージョンは、オリジナルから実に20年以上を経ての復活ということになる。

この音源を聴いてまず感じるのは、カオスな熱狂だ。3人がそれぞれのパワーをぶつけ合って作り出す、異様なまでの興奮状態。

マディはすでに30代後半だったが、フォスターはまだ20代後半。ウォルターに至っては、20歳になったばかりの頃。エネルギーがあり余っているという感じだ。

それは、マディが歌ったバージョンと聴き比べてみるとよく分かる。ウォルターのハープをフィーチャーしたフォスター版に対して、マディのスライドギターをフィーチャーしたバージョンは、音楽的には洗練されているものの、パワー不足の感は否めない。

後に英国のバンド、クリームがこの曲をファースト・アルバムやフィルモア・ライブ盤で取り上げているが、参考にしているのはマディ版よりもむしろフォスター版という気がするね。

リロイ・フォスターはそのニックネーム「ベイビーフェイス」通り童顔だったが、その歌声はわりと低めで渋めだ。サニーボーイ一斉直伝という巻き舌唱法で、鄙びた味わいが濃い。いわゆるダウンホームってヤツだ。

実生活では、大酒飲みで知られていた。ロバジョン、リトル・ウォルターあたりとも共通するものがあり、破滅派ブルースマンの代表格ともいえる。

このパークウェイ盤リリース後も、52年までにJOB、リーガルなどのレーベルで数枚シングルをリリースしたものの、58年に35歳の若さで心臓発作によりこの世を去っている。おそらく、深酒が祟ったのだろう。

アルバム一枚分のみと、一生涯で残した作品はあまりに少ないものの、一曲一曲が強烈な持ち味を持つ個性派。マディやウォルター愛好者のみならず、ブルースを愛好する人なら誰しも、彼のことを忘れちゃいけない。ぜひ、その数少ないレコードに耳を傾けてほしい。




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音曲日誌「一日一曲」#378 ホップ・ウィルスン「My Woman Has a Black Cat Bone」(Ivory)

2024-04-18 07:27:00 | Weblog
2024年4月18日(木)

#378 ホップ・ウィルスン「My Woman Has a Black Cat Bone」(Ivory)



ホップ・ウィルスン、1960年リリースのシングル曲。ウィルスン自身の作品。

米国の黒人ブルースマン、ホップ・ウィルスンことハーディング・ウィルスンは1921年テキサス州グレープランド生まれ。幼少期よりギターとハーモニカを演奏し、10代でスティールギターを入手、こちらをメインで弾くようになる。

郷里に近いヒューストンのクラブで演奏した後、兵役に就く。除隊後、本格的に音楽の道を目指す。

芸名のホップは、子供の頃ずっとハープ(ハーモニカ)を吹いていたため、その発音が変化した「ホップ」がニックネームとなったことによる。

パパ・ホップ(Poppa Hop)という芸名もあり、本日取り上げた一曲「My Woman Has a Black Cat Bone」も、当初はその芸名でリリースされている。

ウィルスンはプロとしては少し遅咲きで、50年代にベースのアイス・ウォーター・ジョーンズ、ドラムスのアイボリー・リー・セミエンとのトリオを組み、57年にようやくルイジアナ州レイク・チャールズのゴールドバンドレーベルで初レコーディング。ホップ・ウィルスンとチキンズという名義でインスト・シングル「Chicken Stuff」を翌年リリースした。

60年にはヒューストンのアイボリーレーベルと契約、何枚ものシングルをリリースしていくが、ツアーを嫌い、地元でのライブにこだわり続けたため、全国的な知名度を獲得するには至らなかった。75年に54歳の若さでヒューストンで亡くなっている。

テキサス・ブルースマンとして知る人ぞ知る存在といえるウィルスンの、後世に唯一ポピュラーとなったナンバーが、60年リリースの「My Woman Has a Black Cat Bone」だが、読者のみなさんは一聴しただけではピンと来ないかもしれない。

しかし、1985年にリリースされたアルバート・コリンズ、ジョニー・コープランド、ロバート・クレイによるアルバム「Showdown!」でのカバーバージョン「Black Cat Bone」(ボーカルはコリンズ)を合わせて聴けば、「あ、この曲のオリジナルはホップ・ウィルスンだったんだ!」となるはず。

二者は、まったくアレンジが異なっている。ウィルスン版はアップテンポのシャッフル、コリンズらのバージョンは、少しスローなファンク・ビート。またリズム同様、メロディラインも大幅に変更されている。まるで違う曲に聴こえても無理はない。

このニュー・アレンジが、時の流れとともにほとんど忘れ去られていた本曲を甦らせたと言っていいだろう。現在でも「Black Cat Bone」はセッションの定番曲としてはよく演奏される。その場合、アレンジは100パーセント、Showdownバージョンである。

白人ブルースギタリスト、マット・スコフィールドも、「Black Cat Bone」をレパートリーとしているが、そちらも明らかにShowdownバージョンを下敷きとしている。本曲の生みの親であるウィルスンに対して、コリンズは、「育ての親」と言っても過言ではあるまい。

実はジョニー・ウインターもコロムビアからメジャーする前の69年のアルバムで、アップテンポのシャッフルで本曲をカバーしているのだが、リスナーの記憶にはほとんど残らなかった。完全にコリンズの勝利である。

ウィルスン同様テキサス出身のコリンズ(32年生まれ)は、先輩ブルースマンへのトリビュートとして、この曲を、それこそこの歌詞にも登場するブードゥー教のまじないを使って、甦らせたのだ。

ホップ・ウィルスンはブルース界では極めて少ない、スティールギターの弾き手である。通常のギターとも、ボトルネックのスライド・ギターとも違う独特のニュアンスで、唯一無二のサウンドを創造したパイオニアだ。

そのサウンドはカントリー・ミュージックの軽さ、明るさも織り込んでいるものの、根底にあるのは、重たいブルース。その歌声は陰影に富み、底知れないものを感じさせる。

コリンズ、ウィンターらのほか、英国のミュージシャン、例えばロニー・ウッド、ピーター・グリーンといった人たちも、実はウィルスンのレコード(おそらくエースレーベル盤)を愛聴していたという。

明るい曲調とは裏腹の、恐妻家のボヤきというのだろうか、ブラックユーモアに満ちた歌詞がなかなか面白い「My Woman Has a Black Cat Bone」。

終生我が道を行ったブルースマン、ホップ・ウィルスンの極めて豊かなオリジナリティを、この一曲に感じとってくれ。




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音曲日誌「一日一曲」#377 カーク・フレッチャー「I Smell Trouble」(JSP)

2024-04-17 09:04:00 | Weblog
2024年4月17日(水)

#377 カーク・フレッチャー「I Smell Trouble」(JSP)





カーク・フレッチャー、1999年リリースのデビュー・アルバム「I’m Here & I’m Gone」の10周年記念再発盤(2009年リリース)からの一曲。ディアドリック・マローン(ドン・ロビーの本名)の作品。ジミー・モレロによるプロデュース。

米国の黒人ギタリスト/シンガー、カーク・フレッチャーは、1975年カリフォルニア州ベルフラワーの生まれ。父親は牧師だったこともあり、幼少期より教会で音楽に親しみ、ギターを覚える。

高校時代はジャズバンドに参加、ツアー活動も行い、アル・ブレイク、ロベン・フォードらプロミュージシャンとの交流も深める。

99年、23歳にしてレコーディングの機会を得て、JSPレーベルより初のアルバムをリリース、ギターのみならず歌でもデビューする。

ブレイクより紹介されて、しばらくキム・ウィルスンのバックでギターを弾くことになる。続いて、チャーリー・マッセルホワイトとも共演する。

2003年のセカンド・アルバム「Shades of Blue」のリリース後、2005年から09年までは、ウィルスンの率いるファビュラス・サンダーバーズにも加わり、アルバムレコーディングにも参加する。

そして、デビュー10周年の2009年には、「I’m Here & I’m Gone」に未発表曲を加えて、再発売する。本日取り上げた「I Smell Trouble」はその追加分にあたる一曲である。

この曲のオリジナルは、ボビー・ブルー・ブランド。曲はデュークレーベルのプロデューサー、ドン・ロビーが書いている(もっとも、ロビーはアーティスト自身が書いた曲も、ちゃっかり自分名義にしているケースが多いと言われていて、クレジットは鵜呑みにできないが)。

1957年に「I Don’t Want No Woman」のB面としてシングルリリース、チャートインはしなかったものの、ブランドの定番曲として幾つものアルバムに収録されている。

タイトルの意味は「面倒なことになりそうだ」といったところか。歌詞から察するに、近隣の人々との人間関係のこじれと思われるが、実にヤバいムードがプンプンと漂ってくるね。

この曲を後にカバーして好評を得たのが、アイク&ティナ・ターナー。69年にアルバム「The Hunter」に収録したほか、ライブ盤でも2度取り上げている。また、バディ・ガイ版も有名である。

オリジナルにせよ、カバーバージョンにせよ、どれもスリリングでエモーショナルなボーカルが印象的だ。かなりキャリアがあり、歌に長けたシンガーでなくては到底歌いこなせない、そんなイメージが専らの曲である。

若き日のフレッチャーは、果敢にもこの難曲に、がっぷりと四つに組んでいる。

若干暴走気味ではあるが、あふれるパッションをしぼり出して歌にぶつけている様子が、手に取るように分かる熱唱である。

ギターも流麗なテクニックを見せびらかすような感じではなく、多少もつれ気味でも、とにかく高まるエモーションをそのまま表現しており、そこがまた聴く者の心を揺さぶってやまない。これぞ、ブルースである。

テクニックは十分綺麗に弾くだけのものを持っているが、そういうものには頼りきらず、自らのフィーリングを頼りにブルースを歌い、弾く。

この姿勢こそが、フレッチャーが「巧い」だけのミュージシャンではない証明だと思う。

その後のフレッチャーは、ジョー・ボナマッサ、イタリアのエロス・ラマゾッティをはじめとしたビッグネームとの共演が多く、どちらかといえばバッキングに長けた裏方ミュージシャン、あるいはYoutubeで見られるようなギター・インストラクターといったイメージが強くなってしまったが、本来はソロ・シンガーとしても十分やっていける実力の持ち主なのである。

「I Smell Trouble」は、その見事な証明の一例。彼のシンガーというもうひとつの顔を、ぜひ知ってほしい。

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音曲日誌「一日一曲」#376 クリス・ファーロウ「Stormy Monday Blues」(Island,Sue)

2024-04-16 09:03:00 | Weblog
2024年4月16日(火)

#376 クリス・ファーロウ「Stormy Monday Blues」(Island,Sue)





クリス・ファーロウ、1966年リリースのシングル・ヒット曲。アーロン・ウォーカー(T-ボーン・ウォーカー)の作品。クリス・ブラックウェルによるプロデュース。

英国のロック・シンガー、クリス・ファーロウ(本名ジョン・ヘンリー・デイトン)は1940年、ノースロンドンのイズリントン生まれの83歳。今も健在である。

50年代半ば、英国ではスキッフルというポピュラー音楽の一大ブームが起こり、無数のスキッフル・バンドが生まれた。

それに触発されてファーロウも、シンガーとして57年にジョン・ヘンリー率いるグループに参加後、翌年にはジョニー・バーンズのカルテット、59年にはさらにギタリストのボブ・テイラーと共にサンダーバーズを結成と、幾つものバンドを渡り歩く。

1962年に初のレコーディング。デッカを皮切りに、コロムビア、イミィディエイト、アイランドやその傘下のスーで数多くのシングル、アルバムをリリースしていく。

中でもローリング・ストーンズの曲のカバーで、ミック・ジャガーが自らプロデュースした66年6月リリースのシングル「Out Of Time」が大ヒット、全英1位を獲得する。これにより、ファーロウは人気シンガーとしての地位を固めたのである。

本日取り上げた「Stormy Monday Blues」は、それに先立って66年1月にスーレーベルよりリリースされたシングル曲だ。これはいうまでもなく、米国のブルースマン、T-ボーン・ウォーカーの代表曲にして、永遠のブルース・スタンダードである「あの」ストマンである。

ウォーカーのオリジナルは1947年リリース。R&Bチャート5位というスマッシュ・ヒットとなり、彼の名を大いに高めた。以降、さまざまなブルース・アーティストによりカバーされたが、白人シンガーによるめぼしいカバーはないまま20年近くが経過したが、異国人のファーロウによりそれがついに実現したのである。

ファーロウの「Stormy Monday Blues」は当初リトル・ジョー・クックという変名で、スーレーベルよりリリースされた。この名前は、いかにもアメリカ人っぽいということで付けられたらしい。アイランドレーベルからは、クリス・ファーロウという本来の芸名でリリースされている。

ヒットとしてはかなり地味ではあったが、大西洋を越えて、この曲の存在は米国にも届く。ラジオでクリス・ファーロウという聞き慣れない名前のシンガーが、お馴染みのブルースナンバーを歌っている、ということでファーロウを黒人シンガーだと思った米国人も少なからずいたようである。

そのことは、ファーロウ自身もインタビューで出演している、マーティン・スコセッシ監督制作のドキュメンタリー映画「Red, White & Blues」で彼の口から語られている。

「私はクリス・ファーロウというシンガーだ」と名乗ったら、初対面の米国人が「それは奇遇だ。私はクリス・ファーロウという黒人シンガーの歌う『ストーミー・マンデー・ブルース』を聴いたことがある」「いや、それは私だ」というような、笑えるやり取りがあったというのだ。

写真を見たことのない米国人が、歌声だけでファーロウのことを黒人と勘違いするぐらい、ファーロウの持つフィーリングは黒人そのものだったということだ。エルヴィス・プレスリーのことを、当初黒人だと思っていたリスナーが多かったというエピソードを思い出させる。

このファーロウのカバー版リリースに大いに触発されたのか、同じく英国人のジョン・メイオールは自身のバンド、ブルースブレイカーズでも、この曲を歌うようになる。エリック・クラプトンのバッキングによるライブ盤をはじめとして、いくつかのレコーディングが残っている。

そしてさらには、メイオールの影響下、米国のオールマン・ブラザーズ・バンドにもカバーされ、フィルモア・ライブでの演奏は名演と呼ばれるようになる。

英米の白人ロック・ミュージシャンたちに、この古いブルース・ナンバーの魅力を知らしめたという意味でも、パイオニア、ファーロウの果たした役割は大きいと言えるだろう。

ファーロウ版「Stormy Monday Blues」は、オルガンをバックに配しており、当時のジャズの流行スタイルを感じさせるアレンジだ。ギターもブルースというより、ややジャズ寄りのスタイル。

対してハスキーな声で力強くシャウトするファーロウには、もろにブルースの肌触りが感じられる。

結局、人種による違いなどなく、ブルースの心さえあれば、白人、異国人にもブルースは歌えるのである。これは、極東のアジア人にとっても、非常に心強い材料である。

クリス・ファーロウはその後、60年近くにわたって第一線で活躍している。コロシアムやアトミック・ルースターといったバンドで優れた作品を数多く残しているが、ごく初期のレコーディングからして、すでに堂々たる世界を持っていたことが、この一曲からもよく分かる。ぜひ、聴いてみてほしい。

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音曲日誌「一日一曲」#375 ガイ・キング「It’s About the Dollar Bill」(Delmark)

2024-04-15 08:44:00 | Weblog
2024年4月15日(月)

#375 ガイ・キング「It’s About the Dollar Bill」(Delmark)




ガイ・キング、2016年リリースのアルバム「Truth」からの一曲。ジョニー・ギター・ワトスンの作品。キング自身によるプロデュース。

米国で活躍する白人ブルースギタリスト/シンガー、ガイ・キングは、1977年イスラエル生まれ。今年47歳になる。ブルース界において、今後が期待される気鋭のアーティストのひとりだ。

7歳でクラリネットを始め、クラシックを演奏していたが、13歳でギターに興味を持ち弾き始める。そしてこちらが彼のメイン楽器となる。

16歳でイスラエルのシンガーのバッキングで渡米する。祖国の3年間の兵役を経て、米国のメンフィスへ移住。その後、ニューオリンズを経て、シカゴと移り住み活動の拠点とする。

シカゴのブルースシンガー、ウィリー・ケント(1936年生まれ)のバックを6年間つとめる。2006年にケントが亡くなった後、ソロ活動に入る。

2009年以降、アルバムを3枚リリースした後、2015年デルマークレーベルと契約、世間にも注目されるようになる。

同レーベルで現在までに出したアルバムは2枚。2016年の「Truth」、21年の「Joy Is Coming」だ。

本日取り上げた一曲は、「Truth」中では数少ない、他のアーティストのカバー・ナンバー。1935年生まれで1996年にこの世を去っているジョニー・ギター・ワトスンの作品である。

ワトスンについては「一枚」「一曲」の両方で2回ずつ取り上げたので、詳しい紹介はあえてしないが、1950年代以降、ブルースに限らずファンク、ヒップホップ(の原型)などさまざまなスタイルの音楽を生み出し続けた天才である。ホーン以外のほとんどの楽器をこなした、マルチミュージシャンのはしりでもある。

そのワトスンが70年代、DJMレーベルからリリースした一連のアルバムのひとつに77年リリースの「Funk Beyond the Call of Duty」という、ひときわヒップな一枚がある。

白スーツでサファリ帽を被り、ギブソン・エクスプローラーを携えて、黒人のハイレグ美女と並んで撮ったジャケ写がまことに印象的なアルバム。筆者が大学に入ったばかりの頃にこれを見て、「うわ、なにこのヤバカッコいい(筆者の造語)ロイクのおっちゃん」と感嘆したのを覚えている。

イキでヤクザなワトスンの作る音楽は、その容姿同様、ひたすらヒップでクールだった。

言ってみれば、ワンアンドオンリー。誰にも真似の出来るものではなく、実際ワトスンの死後も、彼のスタイル(ルックスと音楽、両方の意味で)をフォローした(出来た)黒人ミュージシャンはいなかった。

そんな彼を、42歳も年下、しかも白人のミュージシャンが21世紀にカバーするとは、誰も想像出来なかったと思う。事実、筆者が初めてキングのカバー・バージョンを聴いた時は、一瞬耳を疑ったものだ。

オリジナルはブルースとはおよそいいがたい、歌詞の皮肉がなかなか効いている、ファンク・チューン。これを、原曲にほぼ忠実なアレンジで再現しているのには、二度たまげた。中間のギター・ソロも、ワトスンのあの少しジャズ・ギターっぽい「ペナペナ感」をうまく出している。

これは、他人のスタイルを自分流に変えてしまうことなく、きちんと元のスタイルで再現出来るぐらいテクニックがないと出来ないワザである。

キングのライブ映像をいろいろ観ていると、アルバート・キング、レイ・チャールズ、ジュニア・パーカーといった、わりと正統派のブルース、R&B路線のカバーが多いが、そのギターもわりあい元のスタイルを崩さずに弾いていることが多い。要するに、キングはとても器用な人なのだ。

裏を返せば、そのミュージシャン本人にしか出せない、強い臭みみたいなものは希薄とも言える。特にボーカルには、そのことが言えそうだ。軽めで、いかにも白人っぽい歌い方なのだ。

ワトスンの歌声の持つ「いかがわしくもカッコいい」雰囲気は6割くらいしか出せていないのが、このカバーの限界である。

でも、演奏に絞って言えば、なかなかヒップでいい感じだ。こちらは90点差し上げてもいい。

オリジナルも合わせて聴いて、それぞれの魅力の違いを確かめて欲しい。

ブルース界の「王=キング」といえば、BB、アルバート、フレディの三大キングを初めてとして、大勢いるが、すべて黒人である。白人として、初めて王位を取れる可能性があるとすれば、実力派のこのガイ・キングだろう。

ギターの実力はすでに十分。後は、歌のこれからの成長ぶりにかかっている。

ブルースマンにおいては、40代まではリハーサル、50代からが本番だとよく言われる。今年47歳になるガイ・キングにとって、今後が正念場なのは間違いない。




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音曲日誌「一日一曲」#374 ジュニア・ウォーカー&ザ・オールスターズ 「Shotgun」(Tamla Motown)

2024-04-14 07:47:00 | Weblog
2024年4月14日(日)

#374 ジュニア・ウォーカー&ザ・オールスターズ 「Shotgun」(Tamla Motown)




ジュニア・ウォーカー&ザ・オールスターズ、1965年リリースのシングル・ヒット曲。オートリー・デウォルト(ウォーカーの本名)の作品。ベリー・ゴーディ、ローレンス・ホーンによるプロデュース。アルバム「Shotgun」に収録。

サックス奏者にしてシンガー、ジュニア・ウォーカーことオートリー・デウォルト・ミクスン・ジュニアは、1931年アーカンソー州プライスヴィル生まれ。

インディアナ州サウスベンドで育ち、高校生の頃からサックス(おもにテナー)を吹き始め、50年代半ばに自身のバンド、ジャンピング・ジャックスを結成する。そして、リズム・ロッカーズというバンドにも掛け持ちで参加する。

リズム・ロッカーズはサウスベンドのローカルTV局での仕事を得て、シンガー、ウィリー・ウッズの歌伴奏をつとめる。その頃、同バンドはザ・オールスターズと改名する。

モータウンのプロデューサー、ジョニー・ブリストルが彼らに才能を見出し、61年自身のレーベルを持つプロデューサー、ハーベイ・フークアに推薦する。

ウォーカーらはハーベイレーベルでレコーディングを行い、この時に「ジュニア・ウォーカー・オールスターズ」となる。

その後、ハーベイレーベルはモータウンのプロデューサー、ベリー・ゴーディに引き継がれ、彼らはモータウン傘下に入る。

メンバーも一部交代して64年にレコーディングされ、最初のヒットとなったのが、本日取り上げた「Shotgun」だ。

オープニングから銃の爆発音、「Shotgun」というタイトル・ワードをシャウトするキャッチーなソウル・ナンバー。シンガーとしてのウォーカーの、デビュー・レコーディングでもある。R&Bチャートでは連続4週1位、全米チャートでも4位という、堂々たる記録を残した。

実はこの曲、レコーディング・セッション時に雇われたシンガーが現れなかったので、ウォーカーがひとまず代役をつとめたのだが、ゴーディはこのテイクにOKを出し、ウォーカーの歌声が世に出ることになった。これにはウォーカー自身も驚いたという。

ウォーカーのハイトーンの歌声、そして力強いブローが気分をアゲアゲにしてくれるこのナンバー、実は筆者がオリジナルを聴いたのはかなり後で、80年代以降である。

一番最初にこの曲を聴いたのは、ロックバンド、ベック・ボガート&アピスの、日本武道館ライブのアルバムでだった(1973年リリース)。

ティム・ボガートとカーマイン・アピスのふたりがハモるソウルフルなコーラスを、筆者は心踊らせて聴いたものだ。「なんてカッコいい曲なんだ!」と。

その後まもなく、彼らがかつて所属していた米国のバンド、ヴァニラ・ファッジの4thアルバム「Near the Beginning」(69年リリース)で既にこの曲をやっていたことを知ることになる。

だが、その作曲者がジュニア・ウォーカーであることは知っても、当時彼のレコードはほとんど流通しておらず、聴くこともなかった。

むしろ、ウォーカーの音にじかに触れたのは、BB&A同様英米混成のバンド、フォリナーの81年リリースのシングル曲「Urgent」での演奏においてだったかもしれない。ゲストプレイヤーとして、ウォーカーが参加していたのである。その事実も、恥ずかしながらだいぶん後になって知ったのだが。

つまり、ジュニア・ウォーカーというサックス奏者が作り出したサウンドは、単にR&B、ソウルといったレイス・ミュージックの枠を越えて、英米の白人たちのロックにも大きな影響を与えて来たということだ。

世間に名前はあまり知られていなくても、その作った楽曲や演奏により、広範囲のミュージシャンに、多大な影響を与えたミュージシャンが、実は結構な数でいるものだ。

ジュニア・ウォーカー、そして彼の代表曲「Shotgun」は、まさにその典型例である。

この曲を皮切りに、彼の「(I’m a) Road Runner」、「How Sweet It Is(To Be Loved by You」「What Does It Take(To Win Your Love)」といった一連の曲を聴いてみれば、そのことは十分納得していただけるはずだ。ぜひ、ご一聴を!




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