めじるし農処(のーじょ)

Iターンで飯南町(島根県)に生息し、今年28年に新規に農業を始めた新人農家のブログ

6月23日 沖縄慰霊の日

2016-06-23 23:59:59 | 日記
6月23日(木) 雨のち晴れ
 朝4時半起床。雨がまだ降っている。今日は、午後から晴れるという。雨は小降りなので、早速雨衣に着替え、作業開始。
 昨日、完了することが出来なかった採取大根の圃場へのネット展張を実施。雨の為、足場はぬかるんでいて作業し辛いが、今日中に何とかしなければならない。ブヨや蚊に襲われながら作業実施。
 10時過ぎ、車屋が軽トラを持って来訪。先日来、お願いしていた軽トラを納車に来たのだ。これで、作業効率が向上する筈だ。
 軽トラ受領後、再び作業再開。次第に雨は止み、陽が出て暑くなってきた。
 正午、作業を一旦中止し、家に籠もり昼食。NHK第一放送を聴きながら喫食。本日はタイトルにあるとおり「沖縄慰霊の日」。正午より、沖縄全戦没者追悼式が実施される。別にこれに合わせて休憩を執った訳では無いが、せっかくなので知事及び首相の発言を拝聴する。
 その後、作業再開。15時前までに、なんとかネット展張を終了する。
 雨は上がり、昼過ぎから非常に良い天気となったので、水が溜まり水田状態に戻ってしまった圃場の排水作業(側溝掘開)を実施。また明日以降、雨が降るという。水田では、作物は育たないどころか、死んでしまう。
 16時までにある程度、排水作業を実施。その後、採種大根及びキャベツ圃場の防除を実施。明日以降雨になるので、今日なんとかしなければなるまい。
 20時半まで防除作業を実施。その後、ラガーを調達するためにコンビニへ前進。
 帰宅後、ラガー補給。

雑記
 今日6月23日は「沖縄慰霊の日」として、沖縄県は休日だ。なので、沖縄県民は休日が無い月は8月のみ。だけど、「山の日」が制定されたため、沖縄県民は毎月、休日があることになる。余談だが。
 この「沖縄慰霊の日」は、1945年3月末(地上戦は4月1日)から始まった沖縄戦が、6月23日に組織的な抵抗が終了したという事で、制定された。この日、6月23日早朝(一説では6月22日)、第32軍司令官の牛島満中将(死後大将)が自決された
 時世の句  「矢弾尽き 天地染めて 散るとても 魂還り 魂還りつつ 皇国護らん」
          「秋待たで 枯れ行く島の 青草は 皇国の春に 甦らなむ」

 本日、追悼式で知事は「沖縄は太平洋戦争末期、本土決戦のために捨て石にされた」と発言していた。確かにその一面はある。大本営は沖縄を捨て石にし、本土決戦の準備を進めていた。が、沖縄戦で戦没された兵士達には、全く関係の無い事だ。全国(満州や樺太等を含む。)から兵士が集まり(命令ではあるが。)、祖国を守るため、また、沖縄を守るために戦ったのだ。まず、その事について謝意を述べる事が「慰霊」になるのではないだろうか?
 また、この沖縄戦においては、住民も多数巻き添えをくらい、戦没された。これも兵隊達が争いに巻き込んだという事で一般的に認識されているだろうが、そう単純な問題では無い。サイパン陥落以降、沖縄戦に備え、政府は沖縄県から住民を本土や台湾に疎開させる政策を実施した。これは「希望を募る」形で行われた。何故なら、当時も現在も日本は民主主義国家だったからだ。けど、沖縄県民の多くは、長年育った故郷を離れる事に抵抗感があった(当然ではあるが。)。
 中々疎開が進まない中、1944年8月22日、政府命令で実施されていた学童疎開中、学童疎開船「対馬丸」が米潜の雷撃を受け撃沈。1476名の犠牲者を出す事件が起きた。これにより益々疎開の実施が困難となった。そこで現地の第32軍は、山原(沖縄北部)へ疎開するよう指導するが、病気(マラリア等)や軍隊(敵と戦ってくれる者)と離れる事の不安から、これもなかなか進まなかった。そこで、敵の上陸が困難な知念半島への疎開を指導するが、やはり軍隊(敵から守ってくれる者)と離れる事の不安から、なかなかこれも進まなかった。これが、住民が多数巻き込まれた一因だ。
 加えて、第32軍の作戦方針の転換が非常に大きい。当初、第32軍は首里地区を拠点に、最期まで敢闘する計画だった。が、5月初頭の無謀な戦いによる戦力消耗により、5月末、作戦方針を転換。摩文仁(南部地区)へ後退して戦う事を決める。この時、第32軍は、住民に対し「非戦闘地域の知念半島への避難指示」を出すが、負け戦・後退時の混乱で、住民全体にそんな指示が行きわたるわけも無く、一緒に後退した住民及び、南部地域に先に避難していた住民等を巻き込む結果となってしまった。
 戦争さえしなければ、こんな事にならなかったと言う人がいる。そりゃそうかもしれないが、戦争をするしないも、そんな単純な問題じゃない。先の「大東亜戦争」にしても、天皇陛下は「戦争反対」だった。が、「大日本帝国憲法」下、政府が決定した意志を覆す事は、天皇陛下には出来なかった。なぜなら、我が国は昔から「法治国家」だったからだ。が、それでも再三、政府に対し「開戦の方針を見直せ」と発言され、その都度、当時の首相(政府)は「戦争回避」に尽力した。が、結局、戦争を望む「米国」の意思に飲み込まれ、戦争になったのだ。
 それらの歴史を踏まえ、二度と戦争を繰り返さないように努めていく事は非常に大事で、大切な事だと思う。その努力はしていくべきだと思う。けど、戦没者の慰霊とは何だろうか?今回の知事の発言は、明らかに「政治」的な要素が多く、とても「慰霊の言葉」には聞き取れなかった。まぁ「平和宣言」と題されていたので、題からすれば問題は無いのかもしれないが…
 ちょっと意地の悪い事を思ってしまったのだが、今回知事は、先にあった元米軍人(海兵隊員)による女性殺害事件について言及していた。これにより「日米地位協定の見直しを進めていくべきだ!」と発言していた。私も「日米地位協定」の見直しは必要だと思う。が、今回の事件は、「日米地位協定」に基づく保護を全く受けていないのだが…
 政治的な活動に終始するのではなく、しっかりと「慰霊」をしてほしいなぁ…と思う、元自衛官のブログでした。

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