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1984年 合唱コンクール全国大会 秋 大阪

さて、いよいよ私の音楽のルーツも最終章に入ります。
果たして、全国大会には無事出場できたのか?そして結果は如何に!?

憧れの全国行きを決めたものの、我々には少しだけ不安がありました。
そして、やはりそれは現実になってしまうのでした。
それは、本当に全国大会に出場するのかどうか?
こういうときには必ずある、ご意見番メンバーからの投げかけでした。
理由は個人負担となる費用面や1団体しか出ていない代表に疑問?
といったところだったと思います。

しかし、これは想定されたことで我々は(特に私)は行くチャンスをもらえたのだから絶対に行くべき!と、なんとかなだめ、多数決を取ったかどうか忘れましたが、やはりみんなの全国に行きたい!という気持ちが強く行くことに決定!
反対派の予想はしていたものの、きちんと決まってほっとしたのでした。

全国大会は11月の23~25日。
場所は大阪フェスティバルホール!よく知らないが由緒あるホールという話である。
私たちはせっかく全国大会に行くのだからいろいろ楽しもう!と大阪行きを計画。
みんな、歌うことより観光や美味しいものを食べることを楽しみにしていました。
いや、本当のところそれしか考えていなかったかもしれません。
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1984年 3度目の合唱コンクール出場そして!?

この年なんと我々Nグリーもコンクールに出場することになりました!
一般の部の小編成グループ。このグループの出場チームはなんと2団体だったので、優勝する可能性は十分ありました。しかし全国へ行くことはまだ夢の世界でしかありませんでした。
曲は言葉遊び歌という組曲から「かっぱ」と「たそがれ」
強弱、明暗を繊細につけなければいけない難しい曲でしたが、このグリーには合っていました。

さて、コンクール当日、思いがけないことが起こりました!
なんと、我々のグループのもう1つの団体が出場を辞退したのです。
ということは、我々だけ!?優勝決まったようなもんジャン!!!
え~でも1団体じゃ優勝しても意味ない!?それに全国いけないのでは!?

色々なことが脳裏をかすめましたがとりあえず歌うしかない。
相手のいない孤独なレースは逆にやりにくい。。。

しかし、結果はみごと金賞!
そしてついに私にとって悲願の全国大会行きの切符を手にしたのでした!!!
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1984年 夏 ほろにがエピソード

コンサートの後の打ち上げの時に、なんと指揮者から「今日の殊勲賞はG大カルテット!」と思いもかけない評価をもらい、メチャ嬉しかったのを覚えています。
指揮者のAさんはH大OBでまさに正統派の歌唱法のグリーメンでしたから、かなり驚きました。少し気を使ってくれたのかもしれません。
でも、4曲とも新曲で勝負した甲斐があったというものです。

さて、この話にはとんでもないエピソードがありまして、その打ち上げのとき、その場で私は指揮者から今度やる曲のカウンターテナーソロはきまったな!といわれたのです。
最初は冗談かと思いましたが、彼は本気でした。

ところがこの曲はドゥー・ワップのようにテンポのいい曲ではなく、日本の曲で実は私は前から苦手でした。
しかも、大学の時にもやっていて、その時はS君がまさにはまり役のソロを担当していました。
そして、もちろんS君もこのNグリーにも入っていましたので、私はちょっと気が引けました。
とりあえず歌ってはみたもののやはり上手く行かず、最初の練習で指揮者もそれに気づき1回あわせただけであえなくボツ!?

天国から一転地獄へ、指揮者のAさんも私の音楽性の得て不得手が解らなかったようで、そのために生まれた悲劇でありました。

でも、私はなぜかホッとしたのでした。。。
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1984年 夏 ほろ酔いコンサート本番!

さて、「ほろ酔いコンサート」当日。
われわれG大OBとH大OBがしのぎを削りました。
われわれは、ドゥーワップの曲
達郎のイン・ザ・ストリート・コーナーからアローンとザッツ・マイ・ディザイアー、
そして受け狙いのチェッカーズ!?
そしてラストは1番練習したビリー・ジョエルのザ・ロンゲストタイム!

1曲目のアローンはそれでなくてもなかなか難しいのにやや緊張したせいか思うように歌えなかったのですが、歌い終わった後会場からやんやの喝采が起こりしてちょっとびっくり。
2曲目と3曲目は出だしのハーモニーが乱れどうなるいかと思いました。
特にチェッカーズの曲は途中会場を歩き回り、振り付けもやったためかなり乱れましたが、狙いどおり笑いをとることに成功!
ラストの「ロンゲストタイム」はなかなかばっちり決まり満足でした。やっぱ、練習は裏切らないのです!
選曲ではH大のラストに松田聖子の「スィートメモリーズ」を含めた定番路線をやや上回った感じがしました、ほろ酔いという環境の中では我々の方がマッチしていたのでは!?と思いました。。。
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1984年 夏 ほろ酔いコンサート

話を進めましょう。
Nグリーでは夏にアルコールつきのサマー・コンサートを開催することになり、うちのG大グリーとH大グリーにそのステージで歌うチャンスが巡ってきました。

私達は同期のJちゃんと後輩のI君を中心にカルテットチームを結成。
ちょうど山下達郎のアカペラがはやっていた時期で我々もドゥー・ワップ・スタイルの曲をやるために6人のチーム編成。
通常のカルテット(トップ・セカンド・バリトン・ベース)にトップのさらに上の音域を歌うカウンターテナーとバリトンかベースを2人にしたんだったかな。ワスレタ
何回か練習し、本番に臨みました。

Jちゃんはパートはバリトンで非常に性格が温厚な男ですが、これがなかなか面白い。
結構気が合い、札幌に帰省した時は彼が世話役をしてくれてみんなと会ったりしていました。

この時も彼のアイディアで派手なアロハを着てやろうということになり、狸小路で安いやつを買ってきました。
さらにサングラス。
H大チームは予想どおり普通の格好。
そんな中、出来るだけラフな格好でコーラスはバッチリ決める!というのが我々の狙いでした。
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1984年 春 札幌 再びグリーへ!

1984年。
この年の4月、私は人事異動で札幌へ転勤になりました。

この年は札幌も雪の多い年だったのでしょうか、飛行機から見た札幌の街にはまだ雪が残っていた記憶があります。
そしてまた札幌での生活が始まりました。

ここで、私は社会人のグリークラブに入ることにしました。
このNグリーには私の大学のOBや現役も参加していましたので、大学時代からよく知っていました。私の同期の連中もすでに入っていて、当然のごとく勧誘され、私も迷わず入団したのでありました。

しかし、仕事が終わってから練習に行くのはなかなか大変で、実際に練習に来る人は少なかったと思います。
それでも、久しぶりに札幌に戻り仲間と会えた嬉しさもあってこの頃は練習にもよく行っていました。
しかし、色々な大学のグリーメンが来ているので当然ライバル意識もあります。
それぞれの大学で主力を張っていたと自負する人が多いのですがら当然です。
あきらかに今までのグリーとは雰囲気が違いました。

そんな環境の中、私のグリー史の最終章が始まったのです。
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1983年のミュージックシーン

この年は、松田聖子、中森明菜、たのきんトリオ等アイドル全盛時代でありながら、演歌「さざんかの宿」「矢切の渡し」そして「氷雨」が流行りました。
レコード大賞は2年連続で細川たかし。大物のヒットがなかったためか。。。
さらに、欽ちゃんファミリーからは「めだかの兄弟」のわらべ。
映画「探偵物語」の薬師丸ひろ子、アニメからは杏里の「キャッツ・アイ」、洋画は大ブレイクした「フラッシュダンス」のアイリーン・キャラ。
中村雅俊がまるで桑田さんのように歌った「恋人もぬれる街角」、魂のロック「悲しい色やね」上田正樹、そしてEPOの斬新なタイトルとポップな魅力満載の「う、ふ、ふ、ふ、」などが印象に残っています。

では、1983年の年間シングルトップ50です。(Wikipedia)

さざんかの宿/大川栄策
矢切の渡し/細川たかし
めだかの兄妹/わらべ
探偵物語/薬師丸ひろ子
氷雨/佳山明生
キャッツ・アイ/杏里
ガラスの林檎/SWEET MEMORIES/松田聖子
セカンド・ラブ/中森明菜
フラッシュ・ダンス/アイリーン・キャラ
め組のひと/ラッツ&スター
時をかける少女/原田知世
3年目の浮気/ヒロシ&キーボー
1/2の神話/中森明菜
初恋/村下孝蔵
氷雨/日野美歌
天国のキッス/松田聖子
禁区/中森明菜
浪花恋しぐれ/都はるみ・岡千秋
トワイライト/中森明菜
想い出がいっぱい/H2O
ボヘミアン/葛城ユキ
秘密の花園/松田聖子
ミッドナイト・ステーション/近藤真彦
恋人も濡れる街角/中村雅俊
エスカレーション/河合奈保子
悲しい色やね/上田正樹
汚れた英雄/ローズマリー・バトラー
君に、胸キュン。/イエロー・マジック・オーケストラ
真夏の一秒/近藤真彦
メリーアン/ALFEE
春なのに/柏原芳恵
僕笑っちゃいます/風見慎吾
ピエロ/田原俊彦
ためいきロ・カ・ビ・リー/近藤真彦
さらば・・夏/田原俊彦
家路/岩崎宏美
ボディ・スペシャルⅡ/サザンオールスターズ
ドラマティック・レイン/稲垣潤一
サマー・サスピション/杉山清貴&オメガトライブ
夏色のナンシー/早見優
冬のリヴィエラ/森進一
う、ふ、ふ、ふ、/EPO
シャワーな気分/田原俊彦
夢芝居/梅沢富美男
そんなヒロシに騙されて/高田みづえ
瞳はダイアモンド/松田聖子
Zokkon命/シブがき隊
恋吹雪/大川栄策
GOOD-BYE青春/長渕剛
恋は、ご多忙申し上げます/原由子
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1983年 春 東京 ~社会人1年目~

長かった1982年も終わり、私はようやく就職することになりました。
いよいよ社会人1年目!
しかし、勤務先は何と東京!
これを3月に聞いた時は不安で浮き足立ってしまいました。
東京で1人で暮らしていけるのだろうか?

それにしても、この時は何でもいいから働きたいと思っていた時代でした。
とにかく行くしかない!

最初はいろいろと大変なこともありましたが、案ずるより生むが易し、東京での仕事も暮らしも月日とともになんとか馴染んでいきました。

この1983年は、MTVのプロモーションビデオに乗り洗練されたハード、ポップロックやパンクなどがテレビから溢れ出ていた時代でした。
このとき私はサミー・ヘイガーの過去のレコードを求めて新宿のレコード店で輸入版を探し買いまくりました。それがサミーキャピタル時代のレコードでありました。
さらにあのYesが天才マルチプレーヤー、トレヴァー・ラビンの加入により復活「ロンリー・ハート」が大ヒットしました。
また、前年1982年あたりからオーストラリア勢の活躍も目立ちました。
メン・アット・ワーク、リック・スプリングフィールド、ムーヴィング・ピクチャーズなどはかなりヒットしていました。

さらにこの頃はまったのがブライアン・アダムスでした。
この年は「カッツ・ライク・ア・ナイフ」のカッコよすぎるジャケットが印象的ですが、翌1984年に発売されたアルバム「レックレス」は大ヒット!「ヘヴン」というバラードがシングルカット。MTVでは2バージョンが流され、そのメロディアスな曲とハスキーな歌声に一発で大ファンになりました。
ブライアンのライヴはこれまでに4回行っています。これはアーティスト別、自己最高です。
また、ジャーニーはアルバム「フロンティアーズ」で大ブレイク!ジェネシスのフィル・コリンズもポップ路線やモータウン・サウンドに乗りよくMTVにビデオが流れていました。
他にはデュラン・デュランなどが印象に残っていますね。

東京の会社の寮で、同期の連中や先輩の部屋でMTVをよく見ました。
社会人1年目、夢中で過ごした1年でありました。
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1982年 再び函館へ ポプコン・テープ審査

札幌には10月ぐらいまでバイトをしていたでしょうか。
確か11月はじめにグリーのOB会があって、それまで札幌にいたと思います。

彼女とは結局色々な心のすれ違いがあり、恋人としては付き合うことが出来なくなってしまいました。
お互いにお互いが重かったのだと思います。実はこの頃すでに就職が内定していたのですが、時すでに遅く、もう札幌にいる目的もなくなった私はまた函館に戻ることを決めたのでした。
しかし、今回の別れはお互いに1歩前に踏み出すためのもので、ある意味吹っ切れていたせいか、前回ほどの悲壮感はありませんでした。

函館に戻るとB君からポプコンのテープ審査があるので一緒に行かないかと誘われ、2人で挑戦することになりました。
確か場所は函館のデパートの中に入っている楽器屋さんの小さなスタジオのようなところだったと思います。そこで、一人ずつ録音し、終わったあと講評をもらいます。

その時やったのは当時自分では1番だと思っていた「ラスト・フライト」と「時には恋人のように」でした。
「ラスト・フライト」は想像で書いた曲で、飛行機の窓から雲海の切れ目から日光が差し込む様を見ながらふと思ったことを曲にしたものです。
もういない恋人を追って最後に異国後へ会いに行く「ラスト・フライト」。
なぜかそんな映画のワンシーンのような情景が脳裏に浮かびました。
この曲はまだ録音していませんが、例のグリーでやったコンサートで1回だけやっています。ですから、作ったのは結構前だったのです。
しかし、この曲がきっかけとなり私はひとつの物語を思いつきました。
「ラスト・フライト」を中心にした何曲かでひとつも物語を作ろうと思ったのです。
まだ未完成ですが、このフォーク組曲?を完成させるのが私のこれからの夢でもあります。

もう1曲は「時には恋人のように」。これは前に聴いた方もあると思いますが、タイトルとは裏腹に派手な曲です。そしてサビの部分は当時でもよほど調子がいいときでないと出ない高音域でした。

私はこの対照的な2曲を何としても完璧に歌いたかった。私は勝負を賭けました。ギターの音を半音下げてチューニングしたのです。「時には・・・」のサビの部分を歌いやすくするために。。。
しかし、それによって逆に「ラスト・フライト」が低くて歌いにくくなり、結果として2曲とも中途半端に終わってしまいました。
講評では「高音はそんなに出るとは思わなかった。」と驚かれたものの「言葉の使い方が気になった。」というようなことを言われました。
それより、半音下げてまで望んだのに満足行くように歌えなかった自分にガックリ。。。

一緒に行った彼も「どうだった!?」と聞くと、顔をくしゃくしゃにして「ダメだった~。。。」とがっくり。
結果は2人とも不合格。
それでも、やることはやったし悔いはありませんでした。でも、変な小細工はするもんじゃない。

私はそれから年末はデパートの配送品回収サンリオフェスティバルなどバイトに明け暮れ、それ以降B君には会っておりません。
いつの日か再会したいものです。
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1982年のミュージック・シーン

私の音楽のルーツ1982年の途中ですが、この年のミュージック・シーンを振り返ってみましょう。
この年は去年の「ルビーの指輪」のような大ヒットがなく、あみんの「待つわ」が代表曲か?また、中森明菜、松本伊予、柏原よしえ、早見優、堀ちえみなどアイドルが次々とデビューした年でありました。
レコード大賞は細川たかしの「北酒場」。もっといい曲あるだろう!と誰もが思った?
個人的には岩崎宏美の「聖母たちのララバイ」に取らせたかった。
「北酒場」は当時、欽ちゃんの番組で強力にプッシュされており、振り付けまでありました。

では、年間シングルトップ50です。(Wikipedia)

待つわ/あみん
セーラー服と機関銃/薬師丸ひろ子
聖母たちのララバイ/岩崎宏美
心の色/中村雅俊
北酒場/細川たかし
悪女/中島みゆき
ハイティーン・ブギ/近藤真彦
チャコの海岸物語/サザンオールスターズ
情熱☆熱風せれなーで/近藤真彦
ふられてBANZAI/近藤真彦
渚のバルコニー/松田聖子
赤いスイートピー/松田聖子
ウエディング・ベル/シュガー
哀愁のカサブランカ/郷ひろみ
小麦色のマーメイド/松田聖子
ジェームス・ディーンのように/Johnny
誘惑/中島みゆき
シルエット・ロマンス/大橋純子
色つきの女でいてくれよ/ザ・タイガース
い・け・な・いルージュマジック/忌野清志郎+坂本龍一
すみれSeptember Love/一風堂
赤道小町ドキッ/山下久美子
原宿キッス/田原俊彦
夢の途中/来生たかお
男の勲章/嶋大輔
ホレたぜ!乾杯/近藤真彦
君に薔薇薔薇…という感じ/田原俊彦
NINJIN娘/田原俊彦
ラ・セゾン/アン・ルイス
みちのくひとり旅/山本譲二
YES MY LOVE/矢沢永吉
$百萬BABY/Johnny
約束/渡辺徹
少女A/中森明菜
ダンスはうまく踊れない/高樹澪
デザイアー/もんた&ブラザーズ
ギンギラギンにさりげなく/近藤真彦
完全無欠のロックンローラー/アラジン
カサブランカ/パーティ・ヒギンズ
匂艶THE NIGHT CLUB/サザンオールスターズ
野ばらのエチュード/松田聖子
暗闇をぶっとばせ/嶋大輔
100%…SOかもね!/シブがき隊
誘惑スレスレ/田原俊彦
ハロー・グッバイ/柏原よしえ
おまえにチェックイン/沢田研二
すずめ/増田けい子
横恋慕/中島みゆき
NAI・NAI16/シブがき隊
だって・フォーリンラブ・突然/三原順子

やはり、「待つわ」あみん、「 セーラー服と機関銃」薬師丸ひろ子、「聖母たちのララバイ」岩崎宏美、「心の色」中村雅俊などのヒットの印象が強いが、ポプコングランプリの本田美緒「哀・ダンサー」、同じくポプコン出身の明日香「花ぬすびと」 などもスマッシュ・ヒットだったと思います。
さらに、アニメ「超時空要塞マクロス」からは飯島真理がデビュー、そして美人ジャズシンガー・ブームにのって秋本奈緒美などもデビューしました。

洋楽ではあの、サミー・ヘイガーが「THREE ROCK BOX」を発表。前年の「STANDING HAMPTON」からGeffenに移籍し、洗練されたジャケットとサウンドで日本でも注目され始めていました。
またジョー・ジャクソンがアルバム「Night and Day」をリリース、これがよかった!前年に「エスケイプ」をヒットさせていたジャーニーにも注目していました。
そして70年代の匂いを引き継ぐ私が最後に期待したバンド、ヴァンデンバーグが鮮烈なデビュー!!!
忘れてはならないのはこの年コンパクト・ディスク(CD)が発売されたこととASIAがファーストアルバムを発表。ASIAが成功した背景には前年の1981年に放送を開始したMTV(ミュージック・テレビジョン)の存在が不可欠であったともいわれています。
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1982年 夏 札幌

再び札幌での生活が始まりました。
私はグリーのH君に頼んでIアパートへ転がり込むことに成功。
屋根裏のような部屋でした。
H君は札幌で就職してまだこのアパートに住んでいました。

私はアルバイトを探しに毎日出かけましたがなかなか生活をするだけの給料をもらえるところがない。
しかも、この年の夏は暑く、数時間外を歩いていると日射病になりそうでした。
それでなくても精神状態が不安定なのにこの暑さですから判断も鈍ります。
給料が高いと思っていけば、なにやら怪しげな教材販売だったりしたこともありました。

それでも2ヶ月ほどのバイトとをようやく見つけなんとか食いつないでいましたが、彼女とは心がすれ違うことが多くなり徐々に心が離れていきました。
当時彼女も仕事で不安定な時期にあり、お互いに疲れてしまったのだと思います。
皮肉にも私が札幌に来たことが裏目に出てしまったのだと思いました。
こういう時って、どんどん心が離れていくのが手に取るように分かるのです。
信じたくなかったけれど。。。

そんな中、IアパートではH君と色々な話をしたり、カレーライスを作って一緒に食べたりしました。
彼も心配していたと思いますが、常に明るく接してくれたのが嬉しかったな~
あの頃彼はローラースケートをやっていて、「やりたかったら使っていいよ!」といわれ、休みの日に気分転換に近くの公園まで行ってやってみた事があるのですが、これが意外に難しい!アスファルトの上で転んで膝を擦りむいてしまい血を流しながら、近くに住んでいた後輩のMちゃんのところに行き手当てをしてもらったことがありました。

IアパートにK君はもう住んでいませんでしたが、札幌で就職したS君やイルカちゃんも時々様子を見に来てくれました。
卒業しても心の支えはグリーの仲間達でした。

このIアパートでもその当時の思いを曲にしています。今でもその曲を歌うとあの頃のことを思いだしで胸が締めつけられる思いですが、ようやく、最近、思い出として振り返ることができそうな気がします。
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1982年 喫茶店でフォークバトル

この年の夏、私はH氏の友人で同じくフォークをやっているB君を紹介され、彼の詞に曲をつけることになりました。
彼は私とは正反対のハスキーな声で迫力のある歌を歌うひとでした。
彼の詞は2曲あり、1曲はちょっとタイトルは忘れましたが、ほのぼのとした歌詞でカントリーっぽい曲に。もう1曲は「ハイウェイ・ララバイ」という曲で、ちょっと派手目のポップフォークに?仕上げました。

B君は気さくな人で彼のアパートでお気に入りのコーヒーを入れてくれて音楽の話に花を咲かせたこともありました。
この時のコーヒーの味は今でも覚えています。挽き立てで美味かった~

彼とのエピソードをひとつ、それは1度彼の知っている喫茶店で、H氏と3人で会った時のことです。。。

喫茶店のマスターを巻き込んでの音楽談議から、マスターが急に「話だけじゃあれなんで1人ずつ何か歌ってみせてよ!」と言いだし、成り行きでやることになってしまったのです。

その店にはちょっとしたステージがあり最初は彼が歌ったと思います。
彼のオリジナルか人の曲だったか忘れましたが、絞り出すような迫力のあるハスキーボイスで上手い。イメージとしてはブルース・スプリングティーン!?、日本で言えば浜省をもっと太くしたような感じの声でした。

続く私は、彼の「ハイウェイ・ララバイ」(もしかするともう1曲もやったかも)を初お披露目!
二人とも流す感じではありましたが、まずまずの出来だったと思います。

マスターは2人の歌を聴いたあと、「2人はまったく違うタイプだね。彼はぐわ~っと迫力でくるし、あなたはふわ~っと軽い感じで。。。いや~よかったよ!」と、上手いコメント!?でありました。

この時、漠然ですが彼とは目指すものが違うな~と感じました。それは多分彼も同じだったのではないでしょうか。
私が曲をつけた彼の2曲は今は手元にありませんが、今度、是非探し出してまた歌ってみたいものです。
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1982年:レンタル・レコードにはまる!

函館に戻ってから、私は再びH氏と会いました。
ここ数年洋楽を満足に聴いていなかったというと、彼はここ数年の洋楽のヒット曲を集めたテープを私のために作ってくれました。

私はこのテープでこの頃の洋楽をおさらいしました。
そして、今までたまっていたテープの整理も始めました。
この頃はまだ、心に余裕がありました。

そして、家の近くにレンタル・レコード店を見つけ、毎日のように通っていました。
中学、高校の頃買えなかったレコードや聴いてみたかったアイドルや邦楽のレコードなどを片っ端から借りました。
そのうち、中古レコード販売のコーナーも気になりだし興味のあるものを買うようになりました。このお店は料金も安く魅力的でいつの間にか私の生活の一部になっていしまいました。

この頃、アイドルで気になっていたのはデビューしたばかりの中森明菜でした。
松田聖子は当時すでにトップアイドルでしたが、またしても新人発掘に燃える私は新人の中森明菜をプッシュ!ルックス的にも松田聖子より明菜の方が好きでした。
しかし、聖子ちゃんの明るいポップスに対し明菜の歌は暗かった。それに、この頃から松田聖子の楽曲の制作陣には呉田軽穂(ユーミン)も加わり錚々たるメンバーでありました!
他には、秋本奈緒美もこのお店で知りました。いろいろな音楽を聴きあさっていた時代でした。

このレンタル・レコード店は私にとって本当に心の安らぐ場所で宝の山でした。
何度行っても飽きないし、色々なレコードが借りられるので楽しかった。
しかし、このレンタル・レコード店も残念ながら今はなくなってしまいました。
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1982年:札幌から函館へ

さて、いよいよ私の音楽のルーツも1982年までやってきました。
前にも触れているように、この年は私の空白の1年間ですが今振り返ってみると色々な経験をした年でもあり、私の人生において何かが動いた重要な年であったように思います。
音楽的にはこの年以降あまり動きはありませんが、2年後札幌に戻ってまたグリーを始めるのことになるのです。。。
私の音楽のルーツ、もう少しお付き合い下さい。

1982年3月。
私は大学は無事に卒業できたものの就職が決まらず、とりあえず函館に帰ることになりました。
送別会を、K君や妹のS子ちゃん、SS君達が開いてくれました。彼女も喜んでくれました。楽しかったが寂しかった。この時の満面の笑顔の写真を見ると逆に当時の気持ちが思い出されます。

函館に帰る日、駅まで彼女は見送りに来てくれました。
何も話す言葉がありませんでした。
SS君も来てくれたので正直助かりました。

発車時間になりドアが閉まるとき、胸が締めつけられそうでした。
ホームから列車が滑り出すと二人が引き裂かれるような気持ちになりました。
こんな辛い思いはもう2度としたくないと思いました。

函館に戻ってから私は時間をみて自作のテープ作りを開始しました。
札幌にいる彼女が寂しがらないように、との思いだけで。。。

昨年、友人のブログを通して常連の方々からこの頃の曲を聴かせて欲しいといわれ、最初お断りしたのはこういう理由があったからです。
この頃の曲は彼女との思い出がいっぱい詰まっていました。ただ、全てがそうというわけでもなく、当時も親しい友人にはテープを貸したこともありました。
それも、もう20年以上も前の話で、私の中でも彼女のことはいい思い出になりつつあり、熱心にお願いされるうち、もう、この曲達も少し日に当ててあげてもいいかなと思うようになったのです。

そして、それがきっかけで昨年、約20年ぶりの新録音。
あの頃の曲をまた録音するなんて、1昨年までは思ってもいないことでした。
この年になって新たな1歩を踏み出すことが出来ました。
応援してくださった皆さんには本当に感謝!感謝です!
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1981年のミュージック・シーン

大学4年目、1981年のミュージックシーンを振り返ってみましょう。

この年はなんと言っても寺尾 聰「ルビーの指輪」です。
もとグループサウンズ、ザ・サベージのベースギターであった寺尾 聰はこの頃は俳優として活躍していました。
80年代アイドル全盛時代ではありましたが、とにかくすごいヒットでした。
当然のごとくこの年のレコード対象も受賞。
アルバム「リフレクション」もあわせて大ヒット。
このアルバムは最近セルフカバーされたようです。

米国でも同じ81年「ジェシーズ・ガール」が大ヒットしたリック・スプリングフィールドも同じく売れっ子俳優で寺尾 聰と同じような現象といわれたこともありました。
しかしリックの場合イケメンでシンプルでストレートなロックンロールもかっこよかった!

ではこの年のシングルトップ50です!(Wikipedia)

ルビーの指環/寺尾聰
奥飛騨慕情/竜鉄也
スニーカーぶる~す/近藤真彦
ハイスクールララバイ/イモ欽トリオ
長い夜/松山千春
大阪しぐれ/都はるみ
街角トワイライト/シャネルズ
恋人よ/五輪真弓
チェリーブラッサム/松田聖子
守ってあげたい/松任谷由実
ブルージーンズメモリー/近藤真彦
恋=Do!/田原俊彦
愛はかげろう/雅夢
夏の扉/松田聖子
ツッパリHigh School Rock'n Roll(登校編)/T.C.R.横浜銀蝿R.S.
みちのくひとり旅/山本譲二
帰ってこいよ/松村和子
メモリーグラス/堀江淳
シャドー・シティ/寺尾聰
ヨコハマ・チーク/近藤真彦
ギンギラギンにさりげなく/近藤真彦
ブランデーグラス/石原裕次郎
白いパラソル/松田聖子
ブギ浮ギ I LOVE YOU/田原俊彦
もしもピアノが弾けたなら/西田敏行
万里の河/チャゲ&飛鳥
サンセット・メモリー/杉村尚美
恋のぼんちシート/ザ・ぼんち
ハリケーン/シャネルズ
ペガサスの朝/五十嵐浩晃
ふたり酒/川中美幸
キッスは目にして!/ザ・ヴィーナス
まちぶせ/石川ひとみ
風立ちぬ/松田聖子
悲しみ2ヤング/田原俊彦
ひとり上手/中島みゆき
ロンリー・ハート/クリエイション
春咲小紅/矢野顕子
キミに決定!/田原俊彦
シティ・コネクション/エマニエル
抱かれたいもう一度/矢沢永吉
シンデレラサマー/石川優子
少女人形/伊藤つかさ
羯徒毘ロッ薫’狼流/横浜銀蝿
すみれ色の涙/岩崎宏美
愛のコリーダ/クインシー・ジョーンズ
出航/寺尾聰
グッドラックLOVE/田原俊彦
スローなブギにしてくれ/南佳孝
一恵/山口百恵

やはりアイドル、特に松田聖子、近藤真彦の曲が目立ちます。
そして、アルバムでは大滝詠一が、名盤「ロング・バケーション」を発表した年でもあります。            
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