あの北朝鮮政府による拉致の被害者である横田めぐみさんに関する歌を、かっての人気フォークグループ、ピーター・ポール&マリーのメンバーだったポール・ストゥキーが作り、CDを出したとかで、めぐみさんの父母である横田夫妻や政府首脳の前でその歌を歌うポールの姿を、昨日から何度かテレビのニュースで見た。
PPMといえば高校時代の友人たちには大人気だったグループで、高校の文化祭などはさながらPPMのコピー・バンド大会と化していたものだ。
フォークソング好きばかりが集まった高校で孤独にロック少年をやっていた当方、うんざりして、「出てくる奴らが揃いも揃って”パフ”やら”500マイル”やら、おんなじ曲ばかりをやっている。お前ら、飽きるって事ないの?」などと悪たれをついてみたのだが、多勢に無勢、逆に「レベルの低いロックなんて音楽、いつまで聴いているつもりだよ」などとメチャクチャな論理で言い返されたりしたものだった。
そんな思い出があるので、なかなかにむずがゆい思いでニュースを見ていたのだったが。
しかし、考えてみれば日本のミュージシャンって、めぐみさんに関する歌とか作らないのかね?そんな話、まるで聞いた事がないが。それとも作ってはいるが話題にならないだけなんだろうか?”外人”にだけ作ってもらっている、という状況は情けなくもあるぞなどと、日本のフォーク関係者の顔数名分など思い浮かべたりする。
連中、そのような発想もないのか、それとも何ごとかおいしい思いが出来そうな気配がなければ作っても仕方がないとの極めて芸能界的な都合により手を出さないのか。
と、そこまで想像を進め、しかし、日本のミュージシャンの誰かがそのような歌を発表したとして、自分はそれを素直に受け取れるだろうか?なんて疑問も浮かぶ。
それは売名ではないかとか、それは偽善ではないのかとか、そんな気持ちにしかならないような気がする。ポール・ストゥキーの歌に対してそのような反発を感じずに済んでいるのは、外国人であるがゆえに、その感触が生々しくないからだ。”お客さん”である外国人が演ずる”外国語の芸能”であり、ある意味、絵に描いた餅であるからだ。
たとえば”さだまさし”あたりがもっともらしく、いつもの綿密な計算の元に作り上げた”めぐみさんの歌”とか歌い出したら、多分私はテレビの画面に唾を吐きかけたくなるだろう、確実に。
そもそも”日本の歌の現状”を思うに、そのようなうさんくささを伴わずに、このような事態を歌う方法論といったものを持っていないのではないか。つまり、今、たまたまさだまさしを挙げたが、たとえ歌い手が誰であっても同じこと、うさんくさい結果にしかならないのではないかという気がしてならないのだ、私は。
これは日本の歌文化が持っているべき何かを失っているのか、それとも歌というのはそのような事象を歌うためにあるのではなく、これはこれで当たり前の状態であるのか?いまだ、結論の出せない私であるのだが。