ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

キャッシュのバカ歌が伝えるもの

2007-02-05 02:31:30 | 北アメリカ

 ”Everybody Loves A Nut”by Johnny Cash

 しかしアレですね、昨日みたいに”戦いの歌ウンヌン”なんて話を書いちゃうと、まるで私が”歌は正義を伝えるもの”とか、”歌には主義主張があらねばならぬ”とか考えてる人間であるかのように思われちゃうかなあ?まあ、逆の人間であるわけなんですけどね。ただ今回、そのような歌と民族性の相性、なんてことにふと思いが行ったもので、あのような文章を書いてみたんだけど。

 ちょうど高校の頃が反戦フォークとか注目が集まりだした頃で、同級生たちはそんなのが大好きだったんだけど、私は連中の崇拝する反戦フォーク歌手(岡林とか、いるでしょ?)連中は大嫌いだった。そいつらの”正義の味方”気取りが鼻についてね~。その歌の主張ウンヌン以前に、嫌悪を感じてしまって共感なんてとても出来なかった。

 実際のところ、”絶対的正義の歌”なんてのはないと思うんですよ。以前、もう20年くらい前じゃないかと思うんだけど、ある音楽誌で、”ベトナム戦争とロック”なんて特集が行なわれて、あの戦争に従軍した兵士たちの体験談として、”ロックをBGMに流しながらベトナムのジャングルを爆撃していた”なんてのが掲載されていて、ひときわ印象的だったわけです。

 そこでは、反戦とか歌っているはずだったバンドのものほど爆弾投下作業のBGMにはノリが良かった、とも述べられていた。なんとも皮肉な話ですが、殺戮の現場ではそうなんだろうなと、妙に納得させるリアリティを持った挿話だった。「殺すな!」という叫びの提示するリズムに乗って、流れ作業で爆弾は投下されるわけです。

 まあ、仕方がないでしょうね。歌には、音楽には、うつろいやすい感情やその場の気分は伝えることが出来ても、主義主張なんてものを乗せて運べるほどの利便性なんて、そんな都合のよい構造はない。もっと、人間の手になんか負えないほどややこしく深い、正義や悪なんて概念の彼方にあるもので、だからこそ我々はそれに魅了されてならないわけでしょう。

 五木寛之の昔の小説、「海を見ていたジョニー」なんてのも思い出されます。これもベトナムの戦場で残虐な行為を重ねてしまった、音楽を聖なるものと信ずる黒人兵ジョニーのものがたりです。彼は、”自分の音楽は汚れているべきなんだ”と思い込むんだけど、実際の彼の演奏は、戦場で重ねた苦しみの体験により、より深く感動的なものになっていた。ついに彼は、「最後の心のよりどころである音楽さえ信じられないのなら・・・」と、自ら命を絶つのですが。

 なんてえ話をしているうちに、ふと聴きたくなってしまうのがここに取り出だしましたるアメリカの大物カントリー歌手、ジョーニー・キャッシュの” Everybody Loves A Nut”であります。「みんなみんな、アホが好き」って感じでしょうか。これ、”「私はメッセージソングに反対である」というメッセージがテーマのアルバム”なんですな。

 私なんかよりちょっと先輩のフォークファンにはおなじみ、シェル・シルバースタイン(日本では絵本描きとして有名になってしまった人だけど)作の”大蛇に食われて死んでゆく男の悲しい悲しい物語”なんて歌が収められてます。こわもてのカントリー歌手のドスの聞いた声でバカ歌が歌われるのも楽しい、そんな内容。

 そんなお笑いソングの連発のハザマでキャッシュは語りかけてきます。「主義主張がどうの、なんて話は後回しで良い。まずはきっちり”歌”を歌おうよ。それが俺たちの職分じゃないか。そんな風に誠意を尽くせば、お前の思いなんてものは、きっとその後についてくるはずさ」と。そんなものだと思いますね、うん。