ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

楼閣に向かって

2012-02-11 03:47:58 | アジア

 ”Me La Tinh Yeu”by Ha Vy

 そもそも歌手の名前、Ha Vyって、ぢう読むんだろうか。鈴を転がすような可憐な声でコロコロと歌っているけど、写真を見るとそれなりのキャリアではあるようだ。いや、ブリッ子とかそういう話ではなく、そのような声を出す伝統の中にいる歌い手ってことで。
 洗練されたサウンド、見事な歌唱、良く出来たアルバムと思う。
 中国音楽の影響を大きく受けたベトナムの大衆歌、田園の生活などを懐かしく歌い上げる”民歌”の好盤が、またアメリカのベトナム人コミュニティから生まれた。

 なんだかこうしてみるとベトナムの”故郷の歌”でありながら、むしろアメリカの方が本場みたいになってきて、おかしな逆転現象が起こっているのだが、つまりは失われゆく古きよきベトナムの田園生活を歌わせたら、故郷を追われるように後にしてきた根無し草の米国在住組に、むしろリアリティがあるってなものなのではないか。
 この盤も、ほぼすべてがしっとりとしたバラードであり、失われゆく、あるいは既に失われてしまった古き時代への哀切なる挽歌となっている。

 ところで、マイナー・キーで始まる曲の内いくつかに、サビの部分になるとそこだけメジャー・キイに転調する、という小細工が含まれていて興味深いのだが、これはもしかしてフランスの植民地時代あたりにヨーロッパから持ち込まれた技巧のひとつなんではないか、とも想像するのだが、どうなんだろうか。あんまりアジアの大衆歌謡に自然に存在するワザって感じじゃないんだが。

 私は7曲目から8曲目あたりが桃源郷に感ずる。この辺に行くと、ほんとに陶然とさせられるのであって。美しいハーモニーのカーテンをゆらゆらと揺らすストリングスに包まれて、軽いエコーを伴いつつ民族楽器が典雅なソロを取る。アルカイックナリズムをキープする打楽器群などなど。そして。繊細極まる美しいメロディが、そのはざまから歌い上げられる。
 私などは、いっそプログレ・ファンの友人にでも聴かせてみたい衝動に駆られるのだ。

 ジャケ写真。川辺でポーズを取る歌手の後方に、いかにも異文化を感じさせる五重塔が幻のように浮かび上がっている。ベトナムの民歌なるものの文化的バックグルンドを象徴させているようで、なにやら遥かな想いにさせてくれるのだった。

こちらで試聴出来ます。
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バッハのマリンバな夜

2012-02-10 01:10:22 | クラシック裏通り

 ”Johann Sebastian Bach - Notenbuchlein”
  by Koen Plaetinck

 クラシック畑のマリンバ奏者が、バッハの作った”無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ”とか”無伴奏チェロ組曲”なんてあたりをマリンバのソロで吹き込んだ一枚。 昨年のクリスマスに買ったのだった。そして年を越し、いまでも何かと言えば手元に置いて鳴らしてしまっている。

 愛聴盤とかいうより、この音をボリューム抑え気味にして流しておくのが快いのだ。シンと心が静かになって、自分の意識の深いところにある小部屋へ降りてゆく、みたいな感じが気に入っている。

 マレットを持って木片を叩くマリンバという楽器の演奏上の特性からか、幾分演奏のタッチがフラットになっていて、若干のテクノっぽさを醸し出している。その一方、木片から発生する音故の、どこか暖かでユーモラスな感触が楽しくもある。
 聴いているこちらの頭の中に浮かんでくるイメージは、人目に触れるのを厭い、人里離れた廃屋に住まいする伝説の妖精属小人目に属する生き物が、律儀にバッハを奏でる姿か。

 信じられないくらい冷え込む夜が続くこんな冬は、この木片の歌うバッハが、凍り付いた空気を突いて夜の中に広がってゆくのが見えるように思える。


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ケイトとアンのまかない飯

2012-02-08 04:01:55 | フリーフォーク女子部

 ”Odditties” by Kate and Anna McGarrigle

 へえ、Kate and Anna McGarrigle の、こんなアルバムが出ていたのか。2010年の発売。トボけたタイトルだが、様々な企画のもとに録音してきた”ふざけた曲”ばかりを集めた盤、ということのようだ。
 とはいえ、別に冗談音楽をやっている訳でもなし、英語やフランス語の歌詞の細かいニュアンスまで理解できるわけでもない身としては、コミカルな曲に吹き出す、という訳にも行かず。
 彼女らの活動の本流から外れていると二人が判断した曲たちを集めてこのアルバムに押し込んでみた、ということのようだ。

 実際、聴いてみると奇妙な曲も含まれてはいるが、それが逆に、成り行きでそのような歌も歌う羽目になった彼女らの営業模様(?)を偲ばせ、興味深いものとなっている。
 聴いていると二人がライブ会場の楽屋裏で、あるいはコンサート・ツアーの合間に交わした無駄話やら笑い声みたいなものが聞こえてくるような、いわば二人の音楽活動の”行間”に流れていた空気感などを生々しく伝えてくるようで、気が付けば何度も聞き返してしまっているのだ。

 ことに、旧態依然、という感のあるバラードものが何曲が収められているのだが、その臆面もない感傷丸出しの歌い方が、これはパロディでやっているのだろうが、今となってはむしろ心に残る。皆の愛した姉妹デュオの片割れが昨年、天に召されてしまって、もう幸せなデュエットは聴くことができない、という現実を見据えてしまった今となっては。
 そしていつか、そんな”不在の日々”の手触りにも慣れとしまって、それでも我々の生きている明日は続いて行く。



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冬天的故事

2012-02-06 03:28:54 | アジア
 ”Winter story”by mandy chiang

 香港の美少女歌手、マンディ・チャンの2007年作。ちょっと古いが、香港語のタイトルは”冬天的故事”で、時期的には合っているので許して欲しい。
 アルバムの冒頭、なにやらせわしない調子のワルツが、まるで巨大な幻燈機が映し出したみたいに冬枯れの香港の街の夜空に浮かび上がった、ネオン輝く遊園地の幻を運んでくる。そんな、ホンワカとピンク色に染まった幻想が似合いのマンディ嬢である。

 息が半分、歌声にならず空気になって漏れていってしまうアイドル発声(日本では菊池桃子が典型例だったね)で、そんなシャボン玉みたいなカラフルな女の子の夢物語を歌うマンディ・チャンの夢物語を私が笑う気になれないのは、その幻想が香港で、自分の夢を掴むために日々働いている名もない香港の少女たちの夢の結晶であるから。
 半分、非現実の霞みのかかった宵の口の南華の街の大通りを、キャンディの味の美しいメロディが揺れながら行く。間奏にはギター曲にアレンジされたバッハのカンタータなどが援用されたりするのだった。

 ところで。いつも不思議に思うんだが、例えば沖縄の音楽は、まあ、南国の音楽という印象で、実際に暑そうな響きがあるんだが、それより南に位置する台湾の音楽は、そこまで南国っぽくはなかったりする。これが、さらに南に位置する香港となると、明らかに”冬”のイメージがその感性のうちに存在しているらしいのは、どうしたわけだ?
 沖縄の音楽を聴いていて「那覇の港に雪が降る」なんて風景は想像できないが、香港の音楽には冬のイメージの楽曲は、いくらでもあるのであって。

 それらを聴いていると、歓楽街チムチャアソイの通りが大雪に埋もれ、九龍島行きのフェリーボートが海面氷結のため運休になってしまった香港のホワイト・クリスマス、なんて情景が簡単に想像できる。そんなこと、あるはずはないんだけどね、現実には。東南アジアのとば口あたりに存在する街だ、香港は。
 けど、長年、香港ポップスに馴染んできた身には、分厚いコートや手袋を身に付けた香港の歌手の写真を見ても、何も不自然には感じず、彼ら彼女らが歌う木枯らしの街の情景に酔うのに何の努力もいらないのは事実なのだった。

 この、ありもしない冬景色の中に展開する香港式の冬の感傷を、私は愛さずにはいられない。それは、そんな虚構を設定せねば信じられない夢もあるということ。冬の日の街の片隅で起こった、小さな出来事。さあ、もう一度、酔いに行こうか。





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君よ知るや南の国

2012-02-05 04:29:27 | ヨーロッパ

 ”Sale Di Sicilia”by Edoardo De Angelis

 夕食後にダラダラとテレビを見ていたら、そのまま居眠りしてしまい、夜中に目を覚ましたら風邪でも引いたのか、クシャミと鼻水が止まらない。もう、鬱陶しいなあ。いつまでも続くこの寒さ、なんとかならんのかね。などと呪詛の言葉を吐きつつ。
 こんな具合に冬に倦み、春の日差しが恋しくなったらイタリア物を聴くことにしている。これが赤道直下の音では、オノレが身を置く現実とかけ離れ過ぎてしまうし、イタリアレベルの”南度”が、遠くはるかにいる春を偲ぶにはちょうどいいんではないかって気がするんで。

 という次第で、今回の Edoardo De Angelis。イタリアのシンガー・ソングライター。ということぐらいしか、知らない。もちろん、この人の歌を聴くのも初めてだ。おそらく、長くイタリアの人々に愛されて来た歌い手なのだろう。いかにもそんなものを感じさせる悠揚迫らざるマイペースの低音ボーカルで、文字通りの気ままな歌を聴かせる。力まず、感情に走らず、思いをそのまま、「あ、そういえば、今思い出したんだけど」くらいの気軽さで歌にしてゆく。

 生ギターの弾き語り中心の隙間だらけのサウンドも、いかにも気さくなおっさんの世間話、みたいな気のおけない雰囲気を盛り上げる。
 その歌のうちには強い潮風の香りが吹き抜け、鋭い太陽の光が宿っていて、おそらくは南イタリア出身の人なのだろうなあ、あるいは島の。と思ったりしていると、バック・コーラスにナポリ民謡チックな女性ボーカルが入ってきたりで、やはりそうなのかなあと。

 ジャケも歌詞カードも、ほとんど真っ白けの装丁もまた、地中海の陽光に干しあげられた南イタリアの古い家々の壁みたいだ。
 なんだか朝の静かな海岸を散歩しながら、浜辺に打ち上げられている漂流物に、遠い昔の出来事に思いを馳せる初老の男の姿が浮かんでくる。
 とはいえ、彼がのんびりと歌い流すメロディに流れる濃厚なセンティメントのそのまた奥には、実はとんでもない頑固オヤジの鉄の意志がズド〜ンと横たわっているのも、きっと忘れたらいけないことなのだろうね。
 ハードな生活と聞く、イタリアの南の土地の日々は。


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からっ風の大地から

2012-02-03 04:02:52 | アジア

 ”NOW”by Kim Jung Mi

 韓国のジャニス、と異名を取った人、キム・ジョンミ73年度作のアルバム。私は何故かこの盤に縁が無くて、”名盤”との噂を聞くばかりでなかなか現物に出会えず、今回の再発でやっと手に入れることが出来たのだった。
 聴いてみると、その異名から想像していたハードなシャウトはこの盤においてはあまり目立つものではなく、むしろアルバムの後ろ盾である韓国の異形のロック・ヒーロー、シン・ジュンヒョンの独特の美学による、乾いた風吹くバラードの世界が広がっていたのだった。

 アルバムを再発したアメリカで付けられたライナーでは、キム・ジョンミをむしろ、韓国版フランソワーズ・アルディになぞらえていた。余りにも個性的なディレクターに育てられた才能ある女性歌手、というあたりに共通点を見出したのだろう。ほかの盤は知らず、この盤にかんしては、そちらの理解方法がむしろ自然か。
 この盤は、韓国ロック界の大立者、大韓サイケの創始者、と讃えられ、また異端視されるシン・ジュンヒョンの作った曲とアレンジ、独特の個性を持つギターのプレイで埋めつくされている。むしろシン・ジュンヒョンの魂がキム・ジョンミという優れた表現者の体を借りて歌いだしたかのようにも見える。

 そこに見えてくるジュンヒョン像は、奇矯な振る舞いの目立つ異端のロッカーの肖像ではなく、韓国大衆音楽の巨大な流れに連なる、蒼古の響きさえうちに秘めたメロディの描き手である。その余情がエレキギターのアンサンブルの狭間に溢れ出し、遠い時間の向こうで、韓国の大地をさすらった放浪詩人たちの孤独の呻きが響く。
 青空の下に佇むキム・ジョンミを捉えたジャケ写真は、まさにそのような大地の伝承を踏まえて立つ彼女の青春の血の高ぶりを伝えて、見事だ。
 若い日、誰もがこんな青空の下で、何事か、まだ名の付いていないものを見つける旅の夢を見たものだった。その回答は、まさにこの盤の中で風に吹かれている。


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終わりの予感とJPN

2012-01-31 22:09:57 | その他の日本の音楽

 ”JPN”by Perfume

 この場で韓国のポップスについてなど時々書いているせいか、「最近の少女時代とかの軽薄なK-Popののさばりようには腹が立つでしょう」とか、たまに言われることがあるのだが、別に何も腹は立たない。
 こちとら根っからのアイドル・ファン、その種のものがどんなにくだらなかろうが腹を立てたりするものか。当方が無条件で罵倒することにしている音楽は、とりあえずラップだけなのである。

 そんなわけで我が国の誇るアイドルグループ、パフュームの新譜の出来にも、それは気になるものだったりするのである。
 もっとも、アイドルとしてのパフュームの個性はともかく、そのサウンドに関しては以前より大いに文句があるのはご承知の通り。ともかく、あんなにハードな”テクノの音”があるもんか。
 テクノなんてものは薄っぺらなオモチャの音楽が本質なのであって、安物のドラムマシンがリズムを刻めば十分。なのに、ドカドカドスドス、やかましいドラムセットの音がど真ん中に鎮座ましますパフュームのサウンドのどこがテクノかね。また、何かというと耳をつんざくギターソロがでかい顔をしてソロを取る。あれではシンセ多用したハードロックバンドの音ではないか。

 なんてブツクサ言いながらもCD買っちゃうんだからファン道は険しい。まあ要するに、パフュームのキャラも唄も好きだが、そのサウンドは納得できない、ということなんだけど。とはいえ、そのキャラ設定やら歌声も、その嫌悪すべきサウンドを作っている奴のプロデュースになるものなんだから、こちらの気分もますます複雑で、自分でも何考えているのやらようわからん。
 そんな狂おしい存在であるパフュームが、なぜか2年数ヶ月ものブランクののちに世に問うたのが、今回のこのアルバム、”JPN”である。ミュージックマガジンのクロスレビューでは結構評判悪かったみたいな(立ち読みしかしていないので、評価の詳細を知らず)この盤であるが、私は妙に気に入ってしまっている。

 これまでの盤にはなかった、微妙な陰影が感じられるサウンドの作りに魅入られてしまったのだ。
 とりあえずサウンド。まず、あのやかましいドラムがやや抑え気味となり、時にリズムボックス的な音の刻みとなる箇所もあり、そうかそうか、このなんたらいう名のプロデューサーも、もしかしたら根っからの悪人ではないのかも、などと思えて来たりするのだ。
 三人のコーラスと、”ただのキーボード”仕様のフレーズを奏でる鍵盤群とがひとかたまりになってリズムの中を縫い進み柔らかな流れを織り成して行く、みたいな響きが新鮮だった。若干の湿り気をはらんだ”気配”としか言いようのないものが、風の姿をして、そこに吹いている。

 そいつは例えば夏の終わり、まだ盛んな日差しの下にふと忍び寄る秋の気配の風、みたいなささやかな、でも決定的な終わりの感触。それを正体も分からず感じ取ってしまうことの喪失感。
 そいつは今は、”Have a Stroll”の主人公が買いに行ったプリンの数が足りなかった、なんて形でしか、しかと確認できる姿の現し方をしていないが。その喪失はいずれ全世界を被ってしまうだろう、そのような予感。あるいは。ドライにオシャレな騒ぎを繰り広げているつもりでいて、でもいつの間にかあたりを細かい霧雨が覆ってしまっているような”575”で歌われている情景を見れば、”それ”はもう始まっているのかもしれない。

 自分が何を予感してしまったのか自分でも分からぬまま、心の隅に生じてしまった喪失への不安や、失われるであろうものへの哀惜を歌う。そんな風が吹いているから、私はこのアルバムに惹かれてならない。気になってならない。作る側は多分、そんなものを作ってしまったとは自覚していないだろうけれど。




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ノルディック、北のふるさと

2012-01-29 18:12:18 | ヨーロッパ

 ”Sarastus”by Rija

 何が驚いたと言って、急転直下、母の退院が決まったのには驚いた。週が開けたら、家に帰ってくる。
 昨年暮れ、救急車で母を病院に連れていった際には担当の医師から、「お母さんから以前より、”いざというときには、積極的延命処置は行わない”との要望を受けているのですが、ご家族の方も、それでよろしいですか?」なんて訊かれたものだった。それほどの症状だったと考えていいのだろう。それが意外に順調に。
 まあ、治ったといえるのかどうか。医師の説明のニュアンスから想像するに、「完治したと言えるほどでもないんですが、医学のやれることはここまでで。あとはご自身の回復力ということですね。まあ、だいぶご高齢ですしねえ」というところではないか。

 母をあずける予定でいた老人向け療養型病院はただいま満杯の状態で、順番待ちの列も長く、いつ入れるのか分からないという返事。まあそれまでは家に引き取っておきましょ、という次第なのだが、とりあえずの処置とはいえ家に帰れると決まってからの母がめっきり明るく元気になった様子など見ていると、よほど施設には入りたくなかったんだな、口には出さなかったが。
 それならいっそこのまま、どこまで行けるかやってみるかと思いかけているが、これはどの程度、無茶な考えなのか。なにしろ引き取り先は満員であり、とりあえずはそうするよりないのだが(結構気難しい母であり、どこの病院でもいい、というわけには行かないのだ)この”とりあえず”をいつまで続けるのか。そして母の”小康状態”はどこまで。冬空に重苦しい雲が下がって、先は見えない。

 本日の一枚。フィンランドの、土着志向らしき女性歌手。ジャケには副題のように”ノルディック・ヴォイス”と記されてあり、北欧独特の歌唱法を指すらしい。それが彼女の”売り”のようだ。

 聴いてみると、いわゆるトラッドの歌手とケイト・ブッシュみたいな不思議ちゃん系歌手の要素が混在した感じで、”ノルディック”の実態はよく見えない。超高音でヒラヒラ歌ったり、モンゴルのホーミーみたいな人力エフェクターを披露してみたりするが、明らかなノルディックの証しみたいなものはあるのだろうか。
 それでも、いかにも北国の音楽らしい陰りや神秘性などはそれなりに漂い、ワールドミュージック欲求は一応、満足させられる。
 伴奏陣も、ハープギターなどという珍しい楽器を動員したり、曲のあちらこちらに中世ヨーロッパっぽい雰囲気を盛り上げるフレーズを挟み込んだり、なかなかの凝った仕事をしている。

 ただ、彼女の母国のフィンランドの言葉は2曲でしか使われておらず、あとは英語の歌詞であったり、それほど濃厚に北欧志向の音楽性が披露されるわけでもなく、むしろあまりマニアックにならずに万人に、北欧の森と伝説の神秘を楽しんでもらおう、なんて意匠で作られた作品のようだ。収められた曲には、”スカボロー・フェア”みたいな曲調のものが多く、このあたり、汎ヨーロッパ的意識における”北のふるさと”のイメージかとも思う。




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我が青春のアポストリア(?)

2012-01-28 00:42:51 | ヨーロッパ

 ”Th Afisi Epohi”by Apostolia Zoi

 これはいいや。もしかして今まで聴いたギリシャもののアルバムの中で、これが一番好きかも知れない。とか言ってしまう。
 ともかく、ギリシャ歌謡に60年代イタリアのカンツォーネの甘く切ないメロディが混じり込んだみたいな曲調の冒頭の一曲だけでも、そう言い出す理由として十分な気がする。ギリシャのライカから、こんな青春の甘酸っぱい感傷を受け取る日がこようとはねえ。良い曲だわ。

 曲調だけでなく、歌い手のZoi嬢もまた、歌う青春スター(?)の雰囲気十分の可憐な歌声で、これがまた切ないのですね。
 後に続く曲は、いつもの喉を締めたテンション高い歌唱が似合うアナトリア調(?)のメロディなんだが、その種のものも彼女が歌うと、ずいぶん透明度が増して胃にもたれない感じだ。

 とか言っていると、アコーディオンが入ったりブラスが聞こえてきたり、やや曲調の変わってくる中盤あたりから、Zoi嬢の歌唱は肩の力が抜けた感じで、ラフに歌い飛ばしたりもし、いかにも”自分の土俵で勝負している”って感じになってくる。
 もしかして彼女はライカ本流の人ではなく、このへんがメインの歌い手なのかも。ほかのアルバム、あるものなら聴いてみたくなってきた。後半に展開される世界、なんかワールドミュージック者の血が騒ぎます、この一枚。

 それにしても、”後半に”とか”このへん”とか表現がパッとしなくて、情けないなあ。デモーティカ風になる、とかいえばいいのかもしれないけど、その種の区別、結構ついてません。「聴いて楽しけりゃそれでいいし、ジャンルのレッテル貼り分けなんてどうでもいいさ」とかうそぶいていた報いだな。
 とか言いつつ、たいして反省もせずに次へ。


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ロシアの、冬のインナ

2012-01-27 04:02:17 | ヨーロッパ

 ”WINTER”by INNA ZHELANNAYA 

 ロシアの民族音楽の今日的展開、というシーンにおいては、最も尖った場所にいるのではないかと思われる、女性シンガー、インナ・ジェランナヤの2006年ライブ。この人の最新作(といっても2009年作だけど)は、以前、この場でも取り上げた。

 ジャズっぽいエレキ・ピアノの朦朧としたフレーズに導かれて、迷子になった幼女の呟きみたいにこころもとないフレーズを唄いだすインナ。が、いつの間にかそれはロシアの広漠たる大地にこだまするパワフルな叫びとなって行く。
 バックバンドは、これは普段プログレでもやっているバンドなんだろうか、相当なテクニックを秘めつつ、蛇がうねるようなファンク・リズムを織り成す。基本、ジャズ寄りのロックの音で、民族音楽の色は、ほぼない。

 そいつに乗って闇のメロディを唸り叫ぶインナの歌声は、古代のシャーマンにでも憑依されたような、研ぎ澄まされた狂気。ジャンル的に民謡、とは言うものの、ここにはそのような民衆の日常生活の臭いはなく、むしろ個人の魂が孕んだ悪夢の記憶の再現かと感じられる。
 民衆が広漠たるロシアの大地に繰り広げた恐怖と錯乱の曼荼羅が、依り手たるジャンナの声を借りて、中空に泥絵具のような色彩で提示される。

 このロシアの夜は深く濃く長く、インナが「スパシーボ」とつぶやいてステージを降りても明けることがない。




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