言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

「AIの性能を上げてゐる場合ではない。」

2017年02月01日 21時33分16秒 | 受験・学校

 この1月30日から、読売新聞が一面左上の欄を使つて「読解力が危ない」といふ記事の連載を始めた。

 またぞろOECDの学力調査の結果が悪かつたことによるものであるが、そこに挙げられてゐた問があまりにも簡単で、それすら分からないといふのは(正答率45%)、あまりにも下らなすぎて質問に真面目に答へなかつたのではないかといふ疑義があるほどのものである。

 

 それで、職員室で話題にした。すると理科の教員が、「先生、それはたぶん本当だらうと思ひますよ」と言はれ、昨年の3月30日付けの日経新聞のコピーを見せてくれた。

 例えば「仏教は東南アジア、東アジアに、キリスト教はヨーロッパ、南北アメリカ、オセアニアに、イスラム教は北アフリカ、西アジア、中央アジア、東南アジアにおもに広がっている」という例文から「オセアニアに広がっているのは(   )である」という文の空欄にあてはまるものを選ぶ問題がある。

 答へは、キリスト教であるのは明らかだが、正答率は53%。ヒンドゥー教はゐなかつたが、イスラム教が12%、仏教が35%であつたといふ。

 いづれもAI研究をしてゐる国立情報学研究所の新井紀子氏の調査であるので、単一調査の結果には方法論的に問題があるのかもしれないといふ点を考慮に入れる必要もあるが、中学3年生の実態が、これに近いものであるとすれば、新井氏の言葉ではないが「AIの性能を上げてゐる場合ではない」。

 キーワードだけで理解し、文脈を理解していくといふことが困難である生徒は、どの学力層にもゐる。

 ある文章を読んで、「昨日、晶子、散歩」といふキーワードだけが頭に入つて、それを勝手に「昨日、晶子は散歩をした」と理解し、じつは「昨日はたいへんな雨のなかではあつたが、晶子は散歩に出たいといふ祖父の願いを聞き戸惑ひながらも外に出た」といふ文脈を理解したことにはならない。そこで「晶子」の気持ちを訊かれたら、前者と理解した人は「散歩をしたいといふ思ひ」としか答へられないし、後者だと理解した人の「祖父のことを思つて雨のなかを散歩したやさしい気持ち」は理解できない。そしてすかさず「どうしてそんなことが分かるんですか」と質問してくるだらう。そして、捨て台詞のやうに「だから国語は嫌ひなんだ」と。

 文は、単語の集合であるといふことは事実であるが、単語の集合は文にはならない。要素還元主義が、子供たちの意識や、親の気分の中にもあるのだらうか。文を作り出すメタの視点があるから、必要な単語が集合して文を作る。文はシステムである。

 学び自体が、何かの手段になり、ある学びをつなぎ合はせていけば何かが出来上がると思つてゐるのではないか。さういふ人はきつと「これをやつたら何に役立ちますか」と問ふはずである。しかし、その問は本来成立しない。何かに役立てようといふ意識がある人が今やつてゐることを何かに役立てることができるのであつて、その意識無しには知識を役立てることはできないからである。要素還元主義ではなぜ駄目なのか、一つの証である。

 今目の前にあること、今現にやつてゐること、から何かを作り上げられるのは、メタ価値があるからだ。

 文章を読んで、何かを読み取れるのは、その人がその文章は何を言ひたいのかを考へて読んでゐるからである。

 「何を言ひたいのか」を考へずに読めば、単語だけが頭に入つてくる。そして、適当に文脈を作り理解したこととする。今起きてゐる「危ない読解力」の正体はさういふことではないかと思つてゐる。

 

 

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