言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

これでは何も言つてゐませんよ、山崎正和先生

2017年01月17日 08時57分43秒 | 日記

 久しぶりに産経新聞「正論」に山崎正和氏が書いてゐる。

http://www.sankei.com/column/news/170116/clm1701160006-n1.html

「市場の巨大化が蝕む国家の紐帯 不可欠なのは国際協調と連携だ」と見出しにあるのは、これ以上ない正確な要約である。もつと言へばこれしか言つてゐない。知りたいのは「国際協調と連繋」の中身であつて、離脱したイギリスや批判の中で大統領になるトランプ氏への批判ではない。そんなものは聞き飽きるほど聞かされてゐる。

 では、当代髄一の評論家である山崎正和氏がどうしてこんなことしか書けないのか。

 1つには、それほど困難な問題であるといふことである。

 2つには、ナショナリズムの問題としてこの問題をすり返へてしまつてゐるからである。

 英米で起きてゐる問題は、政府がすべき課題解決を先送りしてしまつた結果起きてしまつたことであつて、その批判なしに起きてゐる現象を批判しても、「国際協調と連繋」の具体策は出てこない。

 国家や企業に倫理を求めることはできないといふのはその通りである。しかし、時間をかければそれも出来るといふのはウソである。なぜなら倫理は個人に求めるものだからである。山崎氏は民主主義といふものにずいぶん信頼が厚いやうだが、制度から倫理が生まれることはない。

 そもそも税金が高くてもこの国から離れないと決断するのは、企業でも労働組合でもない。ましてや民主主義ではない。社長の信念である(会社は株主のものだといふのなら、それを批判すればよい。株主資本主義が唯一のあり方ではないからである)。さういふ信念がどこから生まれるのか。まさか「国際協調や連繋」だとは言ふまい。その信念がないから、国際協調や連繋に頼り、頼れないと知ると保護主義的になるといふのが現状である。

 「個人の資質に問題をすり返へるな」と批判されさうだが、それなら逆に「関係の中に問題点を拡散し、時間が立てば何事も解決する」といふのは無責任だと言ひ返すしかない。

 だから私は、イギリスの離脱もトランプ氏の就任も承認した上で、今の日本ですべき愛国のかたちを日々模索するばかりである。

 

 ちよつと偉さうでした。

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