ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力 (朝日選書) | |
帚木蓬生 | |
朝日新聞出版 |
このブログを継続して読んでくださつてゐる方は、ご存じかもしれないが『ケイパビリティ』といふ言葉を今年になつて取り上げたことがある。その意味は、「能力、手腕、性能」といふ意味である。
その言葉の前に「ネガティブ」と著者の帚木は付けて「答えの出ない事態に耐える力」といふ意味にとらへてゐる。この言葉を最初に使つたのは詩人のジョン・キーツである。1817年12月二人の弟に宛てた手紙の中に登場した。シェイクスピアの戯曲を読みながら詩作を続けてゐるうちに、シェイクスピアの中に「ネガティブ・ケイパビリティ」があることを発見したのだらう。
すぐに「分かつた」とは言はずに、分からないままで他者を自分を社会を歴史を他国との付き合ひをあきらめない、さういふ力であるのだらう。それが大事であるといふことを、精神科の臨床医でもある著者が感じたといふことである。結論は、たつた一つ、このことである。これまでの症例、シェイクスピアの作品、源氏物語などを通じてそれを何度も繰り返してゐる。それを言ふのに一冊の本が必要であつたやうだが、読む方は飛ばして読めばいい。私もところどころ飛ばし読みした。
ただ精神科医ビオンの章だけは丁寧に読んだ。不学にしてその人の名を知らなかつた。ラカンと共にフロイト以後の精神分析学の泰斗であつた。その詩人でも作家でもないビオンが、キーツのたつた一度用ゐた「ネガティブ・ケイパビリティ」といふ言葉に注目し、それを取り上げたといふのが二度目の奇蹟である。
大事な言葉を、その意味をよく知る人によつて発掘され、それが確実に後世に伝へられていく。さういふ奇蹟を見たやうな気がした。だからこそ、この言葉はとても大事な言葉であると感じるのである。
しかし、ここからは否定的な評言になるが、分からないといふことを尊重しすぎることの弊害も指摘する必要はないだらうか。
本書の最後に、「現代史の中で、大量虐殺の場を三つ挙げるとすれば、アウシュビッツ、カンボジアのキィリングフィールド、そしてルワンダでしょう。(中略)ルワンダでは、フツ族によるツチ族の虐殺でした。」と書かれてゐる。事実は、その通りである。そして、続けてかう記してゐる。「虐殺の場に欠けていたのは、(中略)<親切>、(中略)<共感>でしょう。そこには、ネガティブ・ケイパビリティのひとかけらもありませんでした。」とあるのはどうであらうか。
(引用はじめ)
ルワンダのケースを見てみよう。最初にツチ族がフツ族を虐殺し、フツ族は、国境を越えて東コンゴに逃げ込んだ。その直後、国連の介入により、悪いことが起こった。NGOが介入してきたのである。これは「悪夢」といってよい。
このNGOは、まったく無責任な存在だった。右も左も分からないまま、「フツ族がかわいそうだ」というだけで、ルワンダから越境してきたフツ族をかくまう難民キャンプを設置し、彼らに食事を提供した。ところが、昼間に配給された食事で腹を満たしたフツ族は、夜中に国境を越えて、ツチ族を殺しに行ったのである。難民キャンプは、国境からわずか三キロの場所にあったからだ。
NGOの行動は、あまりに無責任なものだった。活動資金を募るために、メディアの注目を集めたい彼らは、当事国の事情をろくに調べもせずに、ひたすら「困った人を助ける」という目的で、難民キャンプを設置する、という大失態を犯したのである。
この時、真実を唯一語っていたのは、フランスの「国境なき医師団」である。彼らだけは、このような行為は犯罪的である、と主張し、その無責任ぶりを非難した。フツ族を国境近くに留め置くことで、紛争を長引かせていたからだ。
(引用終はり)
戦争にチャンスを与えよ (文春新書) | |
Edward N. Luttwak,奥山 真司 | |
文藝春秋 |
これは、エドワード・ルトワック『戦争にチャンスを与えよ』の一節である。きちんと事実を知るといふことも蔑ろにしてはいけない。その上で「ネガティブ・ケイパビリティ」は必要である。「親切」「共感」もまたその上でのものでなければ、「おためごかし」になつたり、自己満足になつたりしてしまふ。小説家の想像力だけでは何ともしがたい。
「ネガティブ・ケイパビリティ」は、国際情勢を語るのにはふさはない術語であると思ふ。