物質の最小単位レベルの話になると、それが点であろうが、弦(ひも)であろうが、もはや姿形について話しても意味がないようにも思われる。
点は「部分のない」、「長さや幅を持たないもの」。
長さや幅を伴った、「姿」「形」のようなものは、もはやそこには存在しないと思えるからだ。
ところが、このひも(弦)には開いた弦と閉じた弦がある、というから 感覚的なわかりやすさのジャマをする。
しかし、粒子であると同時に量子でもあるという、素粒子の世界を考える時、
それらの素粒子は、弦の振動状態が違うだけだという説には納得がいく。
熱や温度や色が、分子レベルでは、そんなものが存在しないのと同じで、現れ方の問題だと思えるから。
質量を与えるヒッグス粒子の発見が、先頃ノーベル賞を受賞したが、これら「ボゾン」と呼ばれる素粒子は、いわゆる物質ではない。
(発見というが、ヒッグス粒子はニュートリノとは違って、ヒッグス粒子自身が直接検出器にかかるわけではなく、すぐに崩壊してしまうため、直接見ることはできないらしい。)
The Origin of Mass
フェルミオンと呼ばれる素粒子群は物質をつくるもので、排他原理が働く。
つまり、リンゴが存在する空間に、別のリンゴを置くことができないように、
電子のあるところに別の電子は置けない。それが物質というもの。
ところが、「ボソン」は排他原理に従わず、同じ場所にいくらでも詰め込める。
光子も「ボソン」の一種で、(波ではなく)粒子でありながら、同じ場所に詰め込むことで、光は重なり強くなる。
排他原理に従わないので物質を構成できないが、「力」を伝達する素粒子、それが「ボソン」。
(波と粒子について)
ボゾンならば、同じ空間にいくつも詰め込むことができるのだが、
フェルミオンの場合には、同じ空間にいくつもの粒子を重ねることができなくなってしまう。
一つの状態には一つの粒子しか入れないという排他的なフェルミオンを含む空間は、普通の数の座標で記述することができない。
数学的には、グラスマン数(θ)という一度掛け合わせるとゼロになる数を座標に使った、「超空間」という空間を考えることで説明する、という。
弦理論と超弦理論の違いはそこにあって、
ボゾンだけでなく物質を構成するフェルミオンという素粒子まで含めて、弦の振動状態として説明できるようになったのが「超弦理論」。
『普通の目に見える物質』が占める空間が、普通の自然数を用いた座標空間では説明のつかない『超空間』である、という。
なんと、私たちの住んでいる物質世界の空間は、自然数では説明のつかない超空間であり、余剰次元が織り込まれている。
逆に物質というよりは量子的ともいえる「力」を定義される場(空間)が、自然数の座標で決まるというのは、それらの力にはすでに余剰次元が反映されているということを示しているのだろうか。
私たちがこの世界で知覚する影のような揺らぐ周波こそが、時空的には実であり、
目に見える物質世界が、時空的には虚であり、幻想だというのでしょうか。
(一方で虚数が表す時空(ミンコフスキー空間)と、グラスマン数が表す時空の違いが分からないのですけど。。)
なんだか逆説的で、物質と空間の陰陽みたいなペアリングが意外に感じられて面白い。
パワーの存在(力)が、空間的に断定的に一意に示されるというのも、神を暗示しているようで面白い。
ひとくちに素粒子と言っても、物質的なもの、力を伝えるもの、質量を与えるもの、と様々で、
その素粒子の占めうる空間も、超空間であったり、普通の空間であったりする。
( ↓ ) この図で喩えるならば、影のような周波(量子)として見えているのがボゾンで、実体を伴った球体として見えているのがフェルミオンではないか、と思った。
力を伝えるボゾンのような素粒子も、フェルミオンと同じ素粒子なのだが、次元を異にした顕れ方をしているのかもしれない。
三次元的な実体は「事象の地平線」に隠れていて、二次元的な影のような、実体のない「力」として顕れているのではないか。
次元を跨いで顕れるような、単一のモノサシでは測れないスケールを持ったものを、
人間の都合に合わせてみようとする(観測する)から、観測するスケールに合わせた見え方だけが切り取られる。
科学性・客観性を、観測者側の条件を同一にすることで担保しようとする科学的な姿勢には、限界があるのだと思う。
喩えて言うならば、
モナリザはいつも微笑しているわけではない。額縁で切り取られたのがモナリザのすべてではない。
標準模型には含まれておらず、いまだ発見されていないのは、重力を伝えるボゾン(重力子)。
重力波では、空間や時間が伸び縮みして波のように伝わる。
重力を伝えるのは空間や時間そのもの。
~ 「量子と粒子は次元を跨いでそれぞれの性質を見せる。」 (人間は光のようなものではないか ~ ゴルフィー仮説(多次元境界仮説))
時空に関する認識の歴史をいま一度振り返ってみましょう。
「空間や時間は、その中にある物質とは独立に存在するのかどうか」
空間も時間も、物質やその運動に付随して定義されるものであり、独立には存在していない。
~ アリストテレス
空間とは、その中で起きる自然現象の入れ物であって、その中で何が起きているかに関係なく存在する(絶対空間)。
時間とは、どこであっても一様に刻まれていくものである(絶対時間)
~ ニュートン
空間や時間は、物理現象の単なる入れ物ではなく、その中で働く重力と深く関わっていて、伸びたり縮んだりする
~ アインシュタイン
三次元で起きていることが、二次元や四次元に変化する事象があったり、同じ現象でも見方によって、三次元で起きているようにも、なんと九次元で起きているようにも見えたりする。
見方によって異なる次元に見えたりするのでは、空間という概念がはたして本質的なものなのかどうか、疑わしくなってきます。
空間というものも、何かより根源的なものから現れる二次的な概念、つまりは幻想にすぎないのではないか。
~ 超弦理論
おっと、これはMassでなくて、Messだった。 なんという混乱。
Paul McCartney & Wings - The Mess [Live]
[High Quality]
夜になって、モナリザの喩えを思いついた。
空をちゃんと見ないから、夜に向かっておはよう, と言う。
Mona Lisas & Mad Hatters - Elton John Lyrics [on screen]
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