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「終わらざる夏」より (つづき)

2015-10-16 | 読書

「終わらざる夏」より (つづき)

 

北千島の占守島は千島列島の最北東端で、面積は230㎢(小豆島の1.5倍)、

海抜200mくらいの緩やかな、丘陵や沼や草原のひろがる島です。

 

オホーツク海と太平洋に囲まれ、気温は夏でも15°Cくらい。
濃霧が濃く、視界が開けない日が多いそうです。
また、冬はマイナス15°Cの極寒で、かつ吹雪の日が多い。

カムチャッカ半島の南端、ロパトカ岬とは12kmしか離れていない島です。

この島での玉音放送の様子は、

「正午ちょうどに、『君が代』が流れ始めた。
音曲はきれぎれで、どうかすると何秒も雑音に紛れた。
人々は直立不動のまま、だれも生まれて初めて聴く玉音を待った。

  『朕深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑みーー』

 そこまでははっきり聞こえた。・・・
全身を耳に変えた。
玉音は雑音に冒され、まるで荒波に見え隠れする小舟のように、消えたり現われたりした。

 『帝国の自存と東亜の安定・・・戦局は必ずしも好天せず・・・

残虐なる爆弾を使用してしきりに無辜を殺傷し・・・
皇祖皇宗の心霊に謝せんや・・・始終東亜の開放に協力せる諸盟邦に対し・・・

堪えがたきをーー堪え、忍びがたきを忍び・・』」

 

 『堪えがたきを』の後の「ーー」は、1,2秒の空白を示します。こみ上げるものがあったのでしょうか。

 

 続いて鈴木貫太郎首相による説明があり、
「これもまた雑音に紛れてよく聞こえなかったが、
まるで企まかれたように、『無条件降伏』という言葉だけは人々の耳にはっきりと届いた。
それですべては明らかになった。」

とありました。

そして、ここ北千島では、

「その日、占守島に正しく玉音放送が流れることは無かった。
ラジオ受信機は長崎港(占守島の)海軍根拠地隊と、日ロ漁業の工場と、
四嶺山山頂の電探を使った独立歩兵大隊の装備品があるきりで、
それらにしてもほとんど聞き取れぬ感度だった。

・・・高貴な抑揚がときおり雑音のすきまに確かめられるだけで十分だった。
本土決戦に向けて、陛下が全国民を激励なさっているのだと、将兵は皆信じ切っていた。・・・」

 

しかし、遅くとも八月十五日のうちには、全将兵が終戦を知った
「多年にわたる常時即応の気構えが直ちに挫けるはずもなく、
翌十六日にはいつに変わらぬ訓練や作業が行われた。
そしてその惰性の一日で将兵らは、
それぞれの常の日課がすでに無意味であると知り、終戦を受容した。」

 

 「傍受することのできた電文の中に・・・

 『十八日一六〇〇ヲ以テ師団ハ一切ノ戦闘行動ヲ停止ス可シ。

但シ、止ムヲ得ザル自衛行動ノ為ノ戦闘ハ之ヲ妨ゲズ』、 

 一見したところ正当な判断だが、・・・」

 この『但シ、止ムヲ得ザル自衛行動ノ為ノ戦闘ハ之ヲ妨ゲズ』、が多大な災いを生じた。

 その一つが、占守島の戦いです。
ネットによると、

「太平洋戦争終戦後の1945年(昭和20年)8月18日 ~21日に、

千島列島東端の占守島で行われたソ連労農赤軍と大日本帝国陸軍との間の戦闘である。

ポツダム宣言受諾により太平洋戦争が停戦した後の8月18日未明、
日ソ中立条約を一方的に破棄(8月9日)したソ連軍が占守島に奇襲攻撃、
ポツダム宣言受諾に従い武装解除中であった日本軍守備隊と戦闘となった。

戦闘は日本軍優勢に推移するものの
軍命により21日に日本軍が降伏し停戦が成立、23日に日本軍は武装解除された。

捕虜となった日本兵はその後大勢が法的根拠無く拉致され、シベリアへ抑留された。」

 

この戦いのなかで、400人の女子挺身隊員の本土への送還問題がありました。
ソ連軍が上陸してからでは、無残の状態は見えていた。

しかし、まともな船は無く、かつオホーツク海側は霧が晴れていて危ない。

止むを得ず、霧で視界の見えない太平洋側を、小さな漁船に分乗して漕ぎだし、

無事、根室に上陸しえたことです。 

「飢えと寒さの中で、その捕虜がばたばたと死んでゆくこの有様が、
国際法で禁じられている虐待でなかろうはずがない。
ましてや終戦まぎわの八月八日に、不可侵条約を一方的に破棄して宣戦布告をした国の、
正当な権利であるとは思えない。
それでも、理不尽な終戦後の戦争を勇敢に戦った兵士たちは、
この仕打ちさえ無条件降伏の内だと信じて、
飢えも寒さも、その結果としての知れ切った死すらも潔く受容していた。」

そして、
「四百人の女子工員を乗せた船団が、一隻も欠けることなく根室に到着したという無線を傍受したとき、・・・
時ならぬ万歳の大歓声が上ったそうだ。」

 


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