『地図をつくった男たち』 を読んで
山岡光治著 原書房刊行 の本です。
近くの図書館で借りました。
読んでいるうちに、私の不勉強さを痛感しました。
後日、この本を買い求め、再三読んでみたいです。
今回は、地図の大まかな変遷のみをを羅列します。
① 先ずは、「国絵図」です。
これは、徳川幕府が諸大名に作らせたものですが、
私の観た対馬藩の地図などは、その精度、美しさ、詳細さにおいて、
現代地図に引けを取らない出来のように見えました。
② 次に、伊能図(1821)。
米屋を終えた隠居身分のおっさん・伊能忠敬さん(1745~1818)の作品です。
彼は 「天に基準を求めて、地をはかる」 から出発した人です。
全国測量と「大日本沿海与地全図」作製は、単なるもの好きではなく、
天文学、数学(和算)、測量器具など本格的に勉強し、直接自分の足で歩いて測量しました。
その様子は、井上ひさしさんの著作 『四千万歩の男』 に垣間見ることができます。
③ お雇い外国人(政府雇用外国人)による地図
そして、新政府になるのですが、
新政府は、経験の浅い薩長等だけで地図をつくったのではない。
静岡移封を命じられた徳川家の沼津兵学校(明治5年廃校)の生徒たちや、
お雇い外国人により、地図は作製されたようです。
④ その一つ、フランス式地図が主流になります。
その成果に、
参謀本部陸軍部測量局「五千分一東京図測量原図」(明治17年)が、
陸軍参謀本部「二万分一迅速図」(明治13~19年)があります。
フランス式の色鮮やかな原図として残されています。
その美しさは、川上冬崖(1828~81)らの指導によるともされています。
特に欄外に添えられた「視図」(風景のイラスト)は代表的な点景で、軍事作戦用に重要な風景でした。
見たことはありますが、手元にはありません。橋の絵など目標になります。
⑤ ドイツ式の国家機密地図「陸地測量部の五万分の一」へ
明治6年(1873)山縣有朋が陸軍卿に就任すると、
普仏戦争(ドイツ諸邦もプロイセン側で参戦)に勝利したドイツを範とする軍制に変わり、
地図も参謀本部で作成され、
一般人を対象としない軍機密の一色刷り地形図に変わりました。
「明治30年(1897年)鉄道補入」とあります。
そして、日清、日露戦争などをかいくぐって、
地形図が全国網羅されたのは大正13年(1924)です。
実に50年を要しています。
⑥ 太平戦争後の日本地図
アメリカは終戦前後数年のうちに日本全土を写真撮影し、地形模型までも作りました。。
空中写真を利用し、五色刷り「特定五万分の一」を
日米共同利用の地形図として作成し始めました。
その地図には、ローマ字も併記されていました。
嘆かわしい限りです。
しかしその後、ローマ字併記等は止め、日本固有の地図に衣替えされました。
大変なご苦労があったのでしょう。
監督官庁も建設省国土地理院と改編し、
平和目的に利用されるようになりました。
⑦ 現在はデジタル化し、広く、無償で利用されるようになりました。
測量の精神は、測量法にも記されているように、
「測量の正確さを確保し、その精度の向上を図ること。」
「測量の成果を広く利用させることによって、測量の重複を除くこと。」 ですね。