昨日は、実家の家事手伝いをしてきた。実家には、両親だけがつつましく暮らしている。 後期高齢者の二人には、日常の家事が重荷になってきた。特に母の認知症と末期がん、父の負担が増すばかりである。妹とローテーションを組んで、世話をしている。「じいちゃん、ばんごはん。作ったん?」「まだしてない」というので、買い物をして、食事の支度をした。今日は、なにも料理をしていないなと
感じた。食事のとき、いそいそと父が母のごはんをついで食卓に運んでくるのを見て、「あら、やさしい。」と思った。普段はこんなことはない。父にも、やさしい心がある。今まで母に対しての言動には感じられない光景だった。
年老いて、連れ合いの死期を宣告されて、共に生活してゆく父の心を考えると、いかばかりかと思う。父にも母にもできるだけのことをしよう。二人の心に寄り添いながら・・・
今朝、ご神前でおつとめをしようとしていると、お参りの方があった。一緒に拝んでいるとすすり泣く声が聞えてきた。どうしたんかな?と思った。終わって少しお話をした。「すいません。目に見えないものを見せていただいて・・・」「ご両親のお心ですか?」「いいえ」「神様のお心?」「はい、先生のお心です。お優しいお心がみえました」 どきっとした。この方のお心にどんな風にうつったかはわからないが、
あらためて身の引き締まる思いがした。誰のこころにもある神様のお心、その心のままで過ごすことができたら、これが高天原である。私中心の心が働くから、
ストレスや争いがおこる。つとめて、神心でありたいものである。