昨日(30日)、ミューザ川崎で東京都交響楽団による「フェスタ・サマーミューザ KAWASAKI2014」公演を聴いてきた。指揮はエリアフ・インバル。
【演目】
ワーグナー/ジークフリート牧歌
~休 憩~
ブルックナー/交響曲第7番<ノヴァーク版>
《19時00分開演、20時55分終演》
冒頭から余談で申し訳ないが、この日の午前中ひょうんなことから初めて聴力検査なるものを受けた。完全密閉の個室でヘッドホンをつけて、いろいろな音が聞こえるかを検査するものだが、そのなかでもちょっと難題だったのが渦を巻くような雑音などを聞きながら、微かな電子音を聞き取るというもの。始めは慣れなかったので少し戸惑ったが、途中からはなぜかどんどん音が聞き分けることができるようになった。で、検査結果は「全く問題ないです。同年代の人に比べても素晴らしい結果です」とお誉めの言葉というかお墨付きをいただいた。そのときはこれはヘッドホンやイヤホーンなどを使わず、音楽を生で聴いているからだと自負したが、まさかその夜に自分なりにそれが証明できようとは思わなかった。w
1曲目。都響の弦にはひた向きさというか向上心というのを常々感じる。失礼な言葉かもしれないが、都響の弦奏者にはいわゆるソリストクラスという人は少ない。それでも、その団結力というか統率感はいまや在京オケNo.1かもしれない。また、これはミューザ川崎という素晴らしいホールのせいだったためかもしれないが、コンマス(矢部達哉)やチェロ(古川展生)などの首席奏者たちの音色が、セクションソロのときに後ろの奏者たちに後押しされ、まるで波乗りをしているかのように波状的に聴こえたのには驚いた。今後もこうしたひたむきな姿勢で都響ならではのキュービック(立体的)かつ重層的な弦の世界を築きあげていってほしい。それにしてもワーグナーを情感たっぷりで暖かな演奏え聴くのは気持ちがいい。
2曲目。2年前の定期公演でも聴いているが、前回に比べてインバルの指揮が少し早め。そのせいか1曲目で素晴らしかった弦に多少のバラツキを感じる。一方で、トランペット(岡崎耕二)やホルン(有馬純晴)など金管陣の明晰な音色が素晴らしい。また、木管陣は目立ちはしないものの、ブルックナーにしては清涼感のあるこの曲調を見事に表していた。しかし、なにか一つ物足りなさを感じたのは私だけだろうか。
最後に、少し前の読響ファンによるミスターSことスクロヴァチェフスキのときではないが、いまの都響ファンはインバルが指揮すれが、どんな演奏だろうが“一般参賀”(ソロ・カーテンコール)をするようになっている。なんか新興宗教の様相である。ただし、そのときの演目は大概はマーラーかブルックナーである。たまにはベートーヴェンのときもやってくださいよ、都響ファンのみなさん、もしくはマラオタまたはブルオタのみなさん。
【演目】
ワーグナー/ジークフリート牧歌
~休 憩~
ブルックナー/交響曲第7番<ノヴァーク版>
《19時00分開演、20時55分終演》
冒頭から余談で申し訳ないが、この日の午前中ひょうんなことから初めて聴力検査なるものを受けた。完全密閉の個室でヘッドホンをつけて、いろいろな音が聞こえるかを検査するものだが、そのなかでもちょっと難題だったのが渦を巻くような雑音などを聞きながら、微かな電子音を聞き取るというもの。始めは慣れなかったので少し戸惑ったが、途中からはなぜかどんどん音が聞き分けることができるようになった。で、検査結果は「全く問題ないです。同年代の人に比べても素晴らしい結果です」とお誉めの言葉というかお墨付きをいただいた。そのときはこれはヘッドホンやイヤホーンなどを使わず、音楽を生で聴いているからだと自負したが、まさかその夜に自分なりにそれが証明できようとは思わなかった。w
1曲目。都響の弦にはひた向きさというか向上心というのを常々感じる。失礼な言葉かもしれないが、都響の弦奏者にはいわゆるソリストクラスという人は少ない。それでも、その団結力というか統率感はいまや在京オケNo.1かもしれない。また、これはミューザ川崎という素晴らしいホールのせいだったためかもしれないが、コンマス(矢部達哉)やチェロ(古川展生)などの首席奏者たちの音色が、セクションソロのときに後ろの奏者たちに後押しされ、まるで波乗りをしているかのように波状的に聴こえたのには驚いた。今後もこうしたひたむきな姿勢で都響ならではのキュービック(立体的)かつ重層的な弦の世界を築きあげていってほしい。それにしてもワーグナーを情感たっぷりで暖かな演奏え聴くのは気持ちがいい。
2曲目。2年前の定期公演でも聴いているが、前回に比べてインバルの指揮が少し早め。そのせいか1曲目で素晴らしかった弦に多少のバラツキを感じる。一方で、トランペット(岡崎耕二)やホルン(有馬純晴)など金管陣の明晰な音色が素晴らしい。また、木管陣は目立ちはしないものの、ブルックナーにしては清涼感のあるこの曲調を見事に表していた。しかし、なにか一つ物足りなさを感じたのは私だけだろうか。
最後に、少し前の読響ファンによるミスターSことスクロヴァチェフスキのときではないが、いまの都響ファンはインバルが指揮すれが、どんな演奏だろうが“一般参賀”(ソロ・カーテンコール)をするようになっている。なんか新興宗教の様相である。ただし、そのときの演目は大概はマーラーかブルックナーである。たまにはベートーヴェンのときもやってくださいよ、都響ファンのみなさん、もしくはマラオタまたはブルオタのみなさん。