一昨日(17日)サントリーホールで開かれた東京都交響楽団の第766回定期演奏会Bシリーズを聴いてきた。指揮はエリアフ・インバル。
【演目】
マーラー/交響曲第9番ニ長調
《19時00分開演、20時40分終演》
私は元芝居制作者なので、開演時間に関してはかなり厳しい考えをもっている。なぜならば、多くの観客は定時開演だと思って心の準備をしていることを知っている。遅れてくる客のことなどを考えていない。しかしながら、クラシック音楽の演奏会は「悪しき慣習」のせいか、定時になっても出演者は舞台に登場することはほとんどなく、5分遅れで入場してくる「5分押し」が当たり前になっている。
この日の都響は舞台上に出演者が登場してきたのは7分過ぎだった。そして、指揮のインバルが登場したのは10分過ぎであった。いくら演奏時間が80分前後の演目と解っていても、これでは緊張感が切れる。私のテンションはこの時点で半減していた。
次にテンションがさらに半減したのは、インバルが第2楽章と第3楽章の間にちょっと小休止をして、遅れてきた観客を入れたことである。観客を入れるならばせめて第1楽章と第2楽章の間にしてほしかった。というわけで、この日の私のテンションはかなり低い状態で演奏を聴いていた。というより、醒めて聴いていた。というわけで、感想も醒めている。
都響の演奏はそこそこ良かったと思う。ただし、オケのメンバーたちに妙な高揚感があり、冷静さを欠いていたように思える。それでもインバルは都響をうまく纏め上げて外連味のない音楽を作り上げていた。なかでも、第2ヴァイオリンとヴィオラの音色が素晴らしかった。
ところで、私はマーラー音痴ゆえに、この曲が世間一般でよく言われる彼の死生観を表しているように思えず、なんかパブロ・ピカソの一生を表しているような曲だなあなどと思いながら聴いてしまった。第1楽章はピカソの生い立ちから画家になるまでを、第2楽章は青の時代を、第3楽章がキュビスムの時代、そして第4楽章がゲルニカから晩年にいたる時代などではないだろうかと・・・。
演奏会の最後は、マーラー信者およびインバル支持者たちによるにインバルのプリンシパル・コンダクターとしての卒業式と化した。インバルには大きな花束が贈られ、熱狂的な観客は一般参賀を2度行った。ただし、テンションが低い私はそうした光景を横目にやりながら、会場を去るしかなかった。
「終わりよければすべて良し」ではない。やはり「始まりも良くなければすべて良し」とは言えない。
【演目】
マーラー/交響曲第9番ニ長調
《19時00分開演、20時40分終演》
私は元芝居制作者なので、開演時間に関してはかなり厳しい考えをもっている。なぜならば、多くの観客は定時開演だと思って心の準備をしていることを知っている。遅れてくる客のことなどを考えていない。しかしながら、クラシック音楽の演奏会は「悪しき慣習」のせいか、定時になっても出演者は舞台に登場することはほとんどなく、5分遅れで入場してくる「5分押し」が当たり前になっている。
この日の都響は舞台上に出演者が登場してきたのは7分過ぎだった。そして、指揮のインバルが登場したのは10分過ぎであった。いくら演奏時間が80分前後の演目と解っていても、これでは緊張感が切れる。私のテンションはこの時点で半減していた。
次にテンションがさらに半減したのは、インバルが第2楽章と第3楽章の間にちょっと小休止をして、遅れてきた観客を入れたことである。観客を入れるならばせめて第1楽章と第2楽章の間にしてほしかった。というわけで、この日の私のテンションはかなり低い状態で演奏を聴いていた。というより、醒めて聴いていた。というわけで、感想も醒めている。
都響の演奏はそこそこ良かったと思う。ただし、オケのメンバーたちに妙な高揚感があり、冷静さを欠いていたように思える。それでもインバルは都響をうまく纏め上げて外連味のない音楽を作り上げていた。なかでも、第2ヴァイオリンとヴィオラの音色が素晴らしかった。
ところで、私はマーラー音痴ゆえに、この曲が世間一般でよく言われる彼の死生観を表しているように思えず、なんかパブロ・ピカソの一生を表しているような曲だなあなどと思いながら聴いてしまった。第1楽章はピカソの生い立ちから画家になるまでを、第2楽章は青の時代を、第3楽章がキュビスムの時代、そして第4楽章がゲルニカから晩年にいたる時代などではないだろうかと・・・。
演奏会の最後は、マーラー信者およびインバル支持者たちによるにインバルのプリンシパル・コンダクターとしての卒業式と化した。インバルには大きな花束が贈られ、熱狂的な観客は一般参賀を2度行った。ただし、テンションが低い私はそうした光景を横目にやりながら、会場を去るしかなかった。
「終わりよければすべて良し」ではない。やはり「始まりも良くなければすべて良し」とは言えない。