ミーハーのクラシック音楽鑑賞

ライブ感を交えながら独断と偏見で綴るブログ

インバルの都響“卒業”公演

2014-03-19 21:07:05 | 都響
一昨日(17日)サントリーホールで開かれた東京都交響楽団の第766回定期演奏会Bシリーズを聴いてきた。指揮はエリアフ・インバル。

【演目】
マーラー/交響曲第9番ニ長調
《19時00分開演、20時40分終演》

私は元芝居制作者なので、開演時間に関してはかなり厳しい考えをもっている。なぜならば、多くの観客は定時開演だと思って心の準備をしていることを知っている。遅れてくる客のことなどを考えていない。しかしながら、クラシック音楽の演奏会は「悪しき慣習」のせいか、定時になっても出演者は舞台に登場することはほとんどなく、5分遅れで入場してくる「5分押し」が当たり前になっている。

この日の都響は舞台上に出演者が登場してきたのは7分過ぎだった。そして、指揮のインバルが登場したのは10分過ぎであった。いくら演奏時間が80分前後の演目と解っていても、これでは緊張感が切れる。私のテンションはこの時点で半減していた。

次にテンションがさらに半減したのは、インバルが第2楽章と第3楽章の間にちょっと小休止をして、遅れてきた観客を入れたことである。観客を入れるならばせめて第1楽章と第2楽章の間にしてほしかった。というわけで、この日の私のテンションはかなり低い状態で演奏を聴いていた。というより、醒めて聴いていた。というわけで、感想も醒めている。

都響の演奏はそこそこ良かったと思う。ただし、オケのメンバーたちに妙な高揚感があり、冷静さを欠いていたように思える。それでもインバルは都響をうまく纏め上げて外連味のない音楽を作り上げていた。なかでも、第2ヴァイオリンとヴィオラの音色が素晴らしかった。

ところで、私はマーラー音痴ゆえに、この曲が世間一般でよく言われる彼の死生観を表しているように思えず、なんかパブロ・ピカソの一生を表しているような曲だなあなどと思いながら聴いてしまった。第1楽章はピカソの生い立ちから画家になるまでを、第2楽章は青の時代を、第3楽章がキュビスムの時代、そして第4楽章がゲルニカから晩年にいたる時代などではないだろうかと・・・。

演奏会の最後は、マーラー信者およびインバル支持者たちによるにインバルのプリンシパル・コンダクターとしての卒業式と化した。インバルには大きな花束が贈られ、熱狂的な観客は一般参賀を2度行った。ただし、テンションが低い私はそうした光景を横目にやりながら、会場を去るしかなかった。

「終わりよければすべて良し」ではない。やはり「始まりも良くなければすべて良し」とは言えない。

『死の都』@新国立劇場

2014-03-17 01:25:51 | オペラ
一昨日(15日)新国立劇場オペラ劇場で公演されている『死の都』(ドイツ語上演/日本語字幕付)を観てきた。音楽はエーリッヒ・ヴォルフガング・コルンゴルト。演出はカスパー・ホルテン。指揮はヤロスラフ・キズリンク。管弦楽は東京交響楽団。主な出演者は下記の通り。

パウル:トルステン・ケール
マリエッタ/マリーの声:ミーガン・ミラー
マリー(黙役):エマ・ハワード
フランク/フリッツ:アントン・ケレミチェフ
ブリギッタ:山下牧子
ユリエッテ:平井香織
リュシエンヌ:小野美咲
ガストン(声)/ヴィクトリン:小原啓楼
アルバート伯爵:糸賀修平
ガストン(ダンサー):白鬚真二
合唱:新国立劇場合唱団
児童合唱:世田谷ジュニア合唱団

《14時00分開演、17時30分終演》3幕上演(休憩2回)

作曲者コルンゴルト、名前こそ知っているが、音楽を聴いたことは一度もない。というわけで彼が書いたオペラを観るのも聴くのも初めて。私はライブに行くときなるべく先入観をもたないようにというポリシーなので、何の予習もすることなく開演に臨む。それゆえに、新国立劇場が【新制作】と銘打っているものの、実際はフィンランド国立劇場のレンタル上演ということも、休憩時に読んだプログラムで初めて知った。(^_^;

舞台美術(エス・デブリン)は遠近法の斜舞台。中央に大きなベッドが置かれ、それを取り巻くように小道具、花束、ミニチュアの建物などが無造作(実際は決算されている)に置かれている。左右の壁にも幾段ものを棚を作り、同様な装飾が施されている。そして、舞台奥にはブラインド・カーテンのような木枠があり、これが第2幕以降は開いて効果的な演出を行う。これまで数多くの新国立劇場のオペラを観てきたが、シンプルな『蝶々夫人』の舞台美術が今まででもっとも好印象の残っているが、今回の舞台美術はある意味猥雑さと幻想さをミックスさせたものとして印象に残るだろう。グッドジョブだ。

あらすじは、美しい妻(マリー)をなくした男(パウル)が彼女の思い出が詰まった部屋で回想に耽っていると、友人(フランク)がマリーに瓜二つの踊り子(マリエッタ)を連れてくる。すると、パウエルはたちまちマリエッタの虜になり、死者であるマリーと生者のマリエッタのどちらの女性を愛するかという狭間に陥り、何度も葛藤を繰り返すというものである。この話は本来はとても幻想的な夢物語のようらしいが、今回の演出ではマリーとマリエッタが1人2役という形ではなく、マリーを黙役という形で登場させることによって、単なる夢物語ではなく現実味をもたせた人間ドラマの様相に仕立てている。

このオペラ、そのほとんどを主演のパウルとマリエッタが歌うというもので、2人はかなりの体力が必要であり過酷である。そのせいかどうか解らないが、2人とも第1幕は歌声をセーブしているように思えた。というより、舞台構成としては第1幕はパウエルとマリエッタの状況説明が長過ぎて退屈もする。加えて、オペラ特有の序曲や間奏曲もほとんどなく、歌声としての緊張感は続くもののの、少し歌を入れ過ぎの感も否めない。

パウル役のトルステン・ケールはこの役を2001年のストラスブール上演以来世界各地で演じ続けてきて、今回の公演中に100回目のパウルを迎えるという、いわばハウル役のオーソリティ。それゆえに、2人の女性を愛することの葛藤やジレンマを見事に表現している。一方、マリエッタ役のミーガン・ミラーは初役にもかかわらずじゃじゃ馬な役どころを自由奔放に演じて、女の色香を振りまいて好演だ。また、黙役のエマ・ハワードもその存在感の微妙な目立ち方の出し引きをうまく演じていた。

コルンゴルトはこのオペラを23歳で作曲したが、全編を通してのオーケストレーションは耽美にして華麗。どことなくリヒャルト・シュトラウスの音楽に似ていないくもないが、ところどころにドイツオペラというよりイタリアオペラのような甘美なメロディもあり聴き応えは十分である。しかし、前述したように聴かせる序曲や間奏曲がほとんどなく、もう少しゆとりのある構成でも良かったのではないかと思わざるをえない。

演奏の東京交響楽団には今ひとつの工夫が必要ではないだろうか。おそらく誰もがこの曲を演奏するのは初めてだと思うが、ドイツオペラとイタリアオペラを表層的にミックスさせるのではなく、時に壮大に時に繊細に、幻想的かつ叙情的な響きをはっきりと区別して轟かせるべきではないだろうか。これは演奏より指揮者ヤロスラフ・キズリンクの問題なのかもしれないが・・・。ただし、弦の音は全体として弱すぎる。

ちなみに、この日はNHKが録画していたので、いずれテレビ上映されるかもしれない。ただし、この作品はテレビでは全体の情感が伝わることはまず無理なので、興味ある方は残り3回の生舞台(18日夜7時、21日昼2時、24日昼2時)に足を運ぶことをおすすめする。一見の価値はあるオペラである。

下野竜也と読響の真骨頂

2014-03-13 23:31:55 | 読響
昨日(12日)サントリーホールで開かれた読売日本交響楽団第535回定期演奏会に行ってきた。指揮は下野竜也。

【演目】
ドヴォルザーク/レクイエム
  ソプラノ:中嶋彰子
  メゾ・ソプラノ:藤村実穂子
  テナー:吉田浩之
  バス:久保田真澄(妻屋秀和の代役)
  合唱:国立音楽大学合唱団
《19時00分開演、20時50分終演》

バスの妻屋秀和が体調不良によりドクターストップがかかり出演不可能に。新国立劇場オペラで馴染みがあるだけに残念~。

東日本大震災から3年の翌日公演ということで、指揮者の下野竜也および読響はこの演目を選んだのであろう。下野も普段の燕尾服ではなく黒のスーツに黒ネクタイという喪服スタイルで登場。

レクイエムとは死者への哀悼もしくは追悼の意を表した鎮魂歌もしくは鎮魂曲だと思う。それゆえに、モーツァルトやヴェルディのレクイエムは厳粛にして格調高い曲というイメージがある。しかし、このドヴォルザークのレクイエムは、鎮魂歌であると同時に賛美歌かオラトリオのような面も大きく持ち合わせている気がする。それは復興への応援歌という思いを込めているのかもしれない。

歌手陣では海外でキャリアを積んだ2人の女性(中嶋彰子、藤村実穂子)の声には艶とハリがあり聴いていて気持ちが良かった。テノールの吉田浩之は声量がいまひとつ。急な代役の久保田真澄は無難にこなすものの、もう少し個性を出してほしかった。約100人の国立音楽大学合唱団は清々しい。今回のような曲の合唱にはキャリアのある合唱団より、若さと勢いのある合唱団の方がマッチしていると思う。その意味において、音大の合唱団を選択したのは正解だろう。

下野竜也と読響はドヴォルザークの全曲演奏会を確か行っていたが、まさにその真骨頂というか集大成を今回披露したのではではないだろうか。たった1回だけの公演のためにしっかり譜面を読み込んで、全身全霊の力を注いだ下野には大いなる敬意を評したい。ブラボー!

なお、この日の演奏会は録画されていたので、後日日テレおよびBS日テレの「読響シンフォニックライブ」で演奏されるのではないだろうか。

問題山積の新日本フィル

2014-03-08 23:13:42 | 新日本フィル
一昨日(6日)、サントリーホールで開かれた新日本フィルハーモニー交響楽団の第521回定期演奏会を聴きに行ってきた。指揮は準・メルクル。

【演目】
ストラヴィンスキー/交響的幻想曲『花火』
ドビュッシー/バレエ音楽『遊戯』
  ~休 憩~
ベルリオーズ/幻想交響曲―ある芸術家の生涯のエピソード
《19時15分開演、21時05分終演》

昨年9月にインゴ・メッツマッハーが“Conductor in Residence”(座付指揮者とでも訳すのか)に就任して、新日本フィルは変わるのかなと大いに期待したが、11月の藤村実穂子を迎えた演奏会ではヴァイオリンのプルト間が間延びしていてバランスが悪く、また先週の演奏会でも指揮者のスピノジが出たり入ったりの繰り返しで緊張感を削いだ。どうも今のところ“期待”というようり“失望”が先行している。そして、今回の演奏会も残念ながらその“失望”を払拭するには至らなかった。

1曲目。タイトル通り煌びやかな音楽で、金管・木管が華やかに炸裂するが、それを支える弦が冴えない。冴えないどころか「ふぞろいの林檎たち」状態。とてもじゃないが褒められたものではない。

2曲目。バレエ音楽ということで興味津々に聴いたが、この曲、バレエを演じるにはかなり難しい音楽だと思う。プログラムにも音楽としては成功したが、バレエとしては不評だったと書かれていたが、曲にはリフトをするときの浮遊感はあるものの、地に足がついているというか土着感がまったくない。これでは振付ができないのではないだろうか。さて、演奏の方だが、これまた弦が浮き足立っていて、それこそ地に足がついていなかった。

3曲目。この日の弦は前半は14型。後半は『幻想』だから18型になるのだろうなあ、と思ったら、なんと後半も14型。それもプルト間が開いた編成。思わず「これはいくらんでも」と危惧したが、その予感はビンゴとなってしまった。第1楽章から第3楽章までの弦は存在感に乏しく、また締まりもない。コンマス(崔文洙)は大きなアクションでヴァイオリン・セクションを引っ張ったり、上手側の低弦とコンタクトを取るものの連携は上手くいかず空回り状態。第3楽章になってチェロ(辻本玲が客演首席奏者)が冒頭で力強い音色を伝えてからやっと『幻想』らしくなったが、結局最後までなんか表層的な楽譜をなぞっただけの演奏で、『幻想』がもつドラマチック性はまったく感じられなかった。

それにしても『幻想』を14型でやるとは・・・。これは指揮者の準・メルクルの指示なのだろうか。それとも財政的な問題なのだろうか。どちらにしても以前にも指摘したがあのプルト間が開いている配置では弦(特にヴァイオリン)はしっかりした響きを観客に伝えることはできないだろう。昨年12月の公演では「精彩を欠いた新日本フィル」とタイトルにしたが、今回は厳しいが「問題山積の新日本フィル」とさせてもらう。

札響のシベリウス・ツィクルス

2014-03-07 23:29:28 | 国内オーケストラ
一昨日(5日)サントリーホールで札幌交響楽団の東京公演を聴いてきた。指揮は尾高忠明。

【演目】(※はアンコール曲)
シベリウス/組曲『恋人』
シベリウス/交響曲第4番 イ短調
  ~休 憩~
シベリウス/交響曲第2番 ニ長調
※シベリウス/悲しきワルツ
《19時00分開演、21時15分終演》

来年はシベリウスの生誕150年。それに向けて札幌交響楽団が昨年より3月に行っているシベリウス・ツィクルス。昨年は『フィンランディア』交響曲『第3番』『第1番』。今年は上記の3曲。そして、来年は交響曲『第5番』『第6番』『第7番』。

1曲目。打楽器(テインバニー、トライアングル)を伴う弦楽曲。「恋人」「恋人の小径」「こんばんはーさようなら」の3曲からなる15分ぐらいの曲。チャイコフスキーの『弦楽セレナーデ』のような起伏の激しい感情を表すことはないが、どの曲もロマンティックで優美。演奏も印象派の絵画(セザンヌとかモネ)を彷彿させてくれる。

2曲目。初めて聴く。シベリウスの交響曲のなかでは異色作。シベリウスが体調がよくない時期に作曲したということもあるが、全体を通してとにかく暗い。明るいのは最終楽章のみで、それ以外は冬の北欧を表しているかのようで、光の刺さない教会で瞑想にふけるためにあるような曲という感じ。これではなかなか演奏されないというのも解る。しかし、この曲はある意味でシベリウスにとって、自分自身へのレクイエムと復活の曲だったのではないだろうか。思い過ごしだろうか。

3曲目。この日の札響は全員が素舞台で弦は非常にタイトな配置。それゆえに音色が小じんまりとかコンパクトと思われた方もいるかもしれないが、私としては逆に大らかにしてのびのびしていて気持ちが良かった。加えて、木管陣の叙情的な音色も決して華美になることなく淑やかにしてしなやか。これまでに何回もこの「シベ2」を聴いてきたが、在京のオケでシベリウスの故郷である北欧と、これを作曲したイタリアの両方の雰囲気を併せ持った演奏を、これまでに聴いたことがなかった。しかし、今回初めて北欧のオケのような演奏を聴いた思いである。いくら札響の十八番とはいえ、これには脱帽である。来年の演奏会が楽しみだ。

セミオノワ&ABTの『マノン』

2014-03-03 13:30:17 | バレエ
先日(2月28日)東京文化会館で公演されたアメリカン・バレエ・シアター(ABT)の『マノン』を観てきた。音楽はジュール・マスネ。振付はケネス・マクミラン。指揮はオームズビー・ウィルキンズ。演奏は東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団。出演者は下記の通り。

マノン:ポリーナ・セミオノワ
デ・グリュー:コリー・スターンズ
レスコー:ジェームズ・ホワイトサイド
レスコーの情婦:ヴェロニカ・パールト
ムッシューG・M:ヴィクター・バービー
流刑地の看守:トーマス・フォースター

その昔、アメリカに遊学していたときにアメリカ人のルームメイトから女の子を口説くときに使う言葉をいろいろと教えてもらったことがある。それは “I love you” とか “My love is you” といった単刀直入な言葉ではなく、小洒落た言葉の数々であったが、そのなかでよく憶えているのが “I've gotta kick out of you” という言葉。今回のポリーナ・セミオノワにはそんな衝撃的な美しさを受けた感じで、その容姿・踊りすべてに魅了させられた。

マノンは第1幕では純情可憐な少女の姿を、第2幕では魔性の女として転落していく姿を、そして第3幕では流刑の地で死にいたる姿を表現するという、演劇的要素がかなり含まれた難役。加えて、マクミランの耽美かつエロティックな振付は難易度が高そうで、第1幕や第3幕のコリー・スターンズとのパドドゥは相当な技術力とコンビネーションがないと表現ができそうにない。また第2幕の男たちに翻弄されていく踊りにしても、その表情の付け方は一筋縄ではいかないと思う。

そんな過酷な大役をABTに移籍したばかりのセミオノワは見事に演じきった。彼女の肢体は見た目は華奢だが、動きをみるととても強靭でしなやか。それでいて、手足の関節がなんか点のように見えたり、しなりのある線に見えたりと変幻自在で眩い輝きを放っている。う~ん、これまでに彼女を観る機会は何度かあったのに、観過ごしてきた自分に反省しきりだ。できれば、すぐにでも再来日して今度は『ジゼル』のような妖精姿の彼女を観てみたい。

今回のABTの出演者たちは全体的にボリショイ・バレエ団やロイヤル・バレエ団に比べて、男性陣は若々しく体格も大きくエネルギッシュに満ちあふれていた。女性陣も若々しく群舞でも自由奔放で、いかにもアメリカのバレエ団といった感じ。それにしても、初めてデ・グリューを演じたというコリー・スターンズはリフトも力強く、しっかりとセミオノワを支えていて好演だった。また、レスコーの情婦を演じたヴェロニカ・パールトも芯の強そうな女性を表現していて、舞台を締めるピリリとしたいい味を出していて好印象だ。

東京シティ・フィルの演奏は第2幕のホルンのアンサンブル、第3幕のチェロのソロなど聴き惚れる部分も多く、非常に安定していて舞台下からの舞台上の華たちをしっかりサポート。今やバレエのオケピでは東京シティ・フィルの右にでるものはいないだろう。いつかこうした成果を演奏会で思いっきり披露してもらいたい。

写真:ユニクロからセミオノワに届いた生花

スピノジ&新日本フィルのおフランス

2014-03-02 21:55:46 | 新日本フィル
先日(2月27日)、サントリーホールで開かれた新日本フィルハーモニー交響楽団の第520回定期演奏会を聴きに行ってきた。指揮はジャン=クリストフ・スピノジ。合唱は栗友会合唱団。

【演目】
ビゼー/歌劇『カルメン』より
 第1幕 前奏曲、広場を人々が通る、タバコ女工達の合唱
 第2幕間奏曲、第3幕間奏曲、第4幕 闘牛士の行進と合唱
  ~休 憩~
ラヴェル/亡き王女のためのパヴァーヌ
ドビュッシー/牧神の午後への前奏曲
ラヴェル/ラ・ヴァルス
ドビュッシー(カプレ編)/『ベルガマスク組曲』より月の光
ラヴェル/ボレロ
《19時15分開演、21時05分終演》

前半は『カルメン』の合唱にスポットを当てたプログラム。昨年のNHK音楽祭ではタイトルロールのカルメンをフィーチャーしたプログラムだったが、今回はその他大勢といったら語弊があるかもしれないが、合唱をフィーチャーしたもの。こうした構成は以外に少ないような気がする。その意味でも興味津々であったが、合唱団(栗友会合唱団)が正装ながらも芝居がかって登場したのには元演劇畑の私としては苦笑せざるをえなかった。また、歌うときも単に正面を向いて歌うのではなく、それぞれがちょっとした小芝居をしながらの合唱。まるで三文オペラかと思ったりしたが、それでも『カルメン』の雰囲気をイメージさせてくれてそれはそれなりに良かったかもしれない。できれば、今後もオペラの「合唱」をクローズアップしたプログラムが登場することを願いたい。その意味においては、スピノジはいい線をついてくれたと思う。

後半はラヴェル→ビュッシー→ラヴェル→ビュッシー→ラヴェルというおフランス音楽の傑作のプログラム。特にフルートにハイライトがあるプログラムゆえにフルート好きの私としてはかなり期待した。しかし、スピノジは1曲演奏されるごとに下手舞台袖に引っ込み、また登場して拍手をもらうという形式を取ったがために、拍手が何回も行われ、白尾彰のフルートをはじめ古部賢一のオーボエの余韻が消されてしまい、かなり白けてしまった。指揮者は演奏のたびにいちいち舞台袖に引っ込むものではない、ということを教えされた思いであった。

最後にスピノジが作り出す音楽は色彩感かつ躍動感に溢れていて聴いていて気持ちがいい。ただし、それは若干表層的すぎて内面的なお洒落感という域には達していない。それでも、指揮台狭しと踊るようにしてオケを導いていく姿には好感がもてる。来年も新日本フィルに登場予定なので、そこでいかなる進化かつ深化した音楽を聴かせてくれるだろうか。楽しみである。