京都大原紫葉工房便り

京都洛北・大原の里のしば漬屋から、毎日!情報発信。

還来神社 2 

2007-12-02 21:44:13 | 近江の石垣。


基本的には、観光名所ではなく、ひっそりとした地元の社、という印象の神社です。
実際、印象を裏切らず、私たち以外は参拝者も居なくて、静まり返っていました。

ひやかしではないよ。
ちゃんと、お参りに来たんだから・・・
と自分に言い訳してみます。
それくらい、静寂に包まれていて、その空間に踏み入るのを申し訳なく思ってしまう・・・



還来神社。
その字の通り、旅立つ人が、無事に帰ってくるようにお祈りをするところです。

毎日きちんと掃き清められているようで、落ち葉が寄せられている・・・
子達が、喜んで落ち葉をかき集めているぞ・・・
申し訳ないです・・・

もうすぐ催事が始まるし、若!の無事でも祈るか・・・





還来神社の由縁をたどってみると・・・
相当古く、ナクヨ(794年)ウグイス平安京を作った桓武天皇の妻・藤原旅子を神として祭ったのが始まりだそうです。

・・・・市が発行した「大津の伝説」によると、還来神社は、桓武天皇の皇妃で淳和天皇の生母、藤原旅子が三十三歳の若さで病気で亡くなった際、「故郷、比良山の南麓のなぎの木の根元に葬ってほしい」と遺言を残し、死後再び生誕の地に戻ったことから神として祭られたのが由来だ。・・・・
(京都新聞・ふるさと昔語りより)


(神木椰が祭られています。)

・・・・彼女の死後、その遺言によって生まれ故郷の梛(なぎ)の木の下に埋葬された。同社には神木椰の古木が残る。・・・・
(大津市歴史博物館のホームページより)



さて。
ここで、ややこしい内容となりますが。
恒例?の、妻!の歴史話。

ナクヨウグイス平安京に桓武天皇が遷都したのは、あまりにも有名な話ですが。
(794年、ちなみに遷都1200年目が1994年、その前の1100年目の記念・1894年に作られたのが岡崎の平安神宮、のはずです。)

それ以前・・・
都は、長岡京に造営されていました。
(つまり、平安京を作る予定ではなくて、もともとは長岡京に永住するつもりだったわけです。)
しかし、長岡京において、あまりに不吉な出来事が続いたから、桓武天皇が都を移すことにした・・・んですね。
「これは、早良親王のたたりだ!」と。



話を掘り進めますと・・・

長岡京において。
桓武天皇の後継者・次期天皇を選ぶにあたって、争いが生じていました。

桓武天皇の息子  桓武天皇の弟の早良親王
(早良親王を後継者に推したのは、桓武天皇の父でした。)

皇位継承をめぐって、びみょ~な空気が流れる中・・・
785年、桓武天皇の留守中に、長岡京造営の最高責任者の藤原種継が暗殺されました!

怒れる桓武天皇は、疑わしきものを捕らえ、次々処刑していき・・・
弟・早良親王も、その一人として挙げられ、乙訓寺に幽閉されました。

早良親王は、無実を訴えますが。
同年、不遇のうち、絶食という形で桓武天皇に抗議しながら、亡くなりました。

それからのち、桓武天皇のまわりでは、不幸が立て続けに起こりました。
近親者の病気や病死。
786年には、桓武天皇の妻であった藤原旅子の母が没し、788年には、ついに旅子自身も病没してしまいました。
その他、桓武天皇の実母や近親者が次々病に倒れました。

都にも疫病が流行し、天災も起こる・・・
これらを陰陽師に占わせると、亡くなった弟・早良親王のたたりであるとのこと。

桓武天皇は、あわてて早良親王の墓所に使者を送り・・・
何とか、霊を鎮めようとしました。



早良親王の祟りと、どれだけ関係があるかは計りかねますが。
ともかく、不吉な長岡京を離れ、794年、平安京に都が移されました。

その後も、不吉な出来事は続き・・・
800年、早良親王には、祟道(すどう)天皇の尊号が贈られ、後、神として祭られることとなりました。

洛中の上御霊・下御霊神社は、早良親王らを神として祭った、御霊信仰の神社です。
また、洛中から大原に入る手前の、上高野には(国道367号線沿い)には、早良親王を祭った祟道神社があります。


(それとはしらずや、綺麗な紅葉。)

歴史話。
オチがあるような、ないような・・・

つまりは・・・
図らずも?早良親王を祭った祟道神社と、若くして病死した桓武天皇の妻・藤原旅子の還来神社は、車でせいぜい20分ほどのところにあります。
都なんて、狭いものだから、そんなものか・・・
いやいや、それが縁というものか。

不思議だなあと、ため息。



(ここは城址デアル、と言われたら、すっかり真に受けてしまいそうです。)


(一番右の円柱上の縄紐に、おみくじを括り付けるようになってました。)

今ではひっそりとしている還来神社ですが。

・・・・約四百年後の一一五九年、平治の乱に敗れた源頼朝が敗走中に同神社に立ち寄り、源氏再興を祈願した。後に平氏との戦いに勝利し、無事京都に戻ったことから、戦乱の度に多く参拝者が訪れるようになった。・・・・
(京都新聞・ふるさと昔語りより)

先の戦争中には、出征して行く人たちの無事を祈るため、多くの人が参詣してたそうです。
歩くにはちょっと遠い、JR和邇駅から長い列が出来ていたとか!

え~、まじで!と思いますが。
なんだか、切ないお話です。

今でも、お礼参りに来る方も居はるとか。
隅々まで手入れされた社中を見ていると、うなづけました。
空気がピーンと張り詰めた、良い神社でした。








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