京都大原紫葉工房便り

京都洛北・大原の里のしば漬屋から、毎日!情報発信。

自家製野菜です。

2010-10-29 23:21:34 | お漬物の話
紫蘇収穫後の畑に植えた
すぐきがこんなに成長しました。



これは、
「すぐき菜」切り漬け用に仕分けた分だから小さいのですが
昨日、初めて
丸すぐき用の収穫をしました。



この白い根っこの部分が大きく成長します。



つやつやで、傷・病気のない
見事な葉っぱです。

浅漬けで食べると
ぷりぷりしていて美味しい




こちらは日の菜



初めて見たときは、珍しくて
すごくびっくりしたっけ

ほろ苦さが特徴
独特の風味です。

今の時期は
すぐきと同じく、スライス・味付けした切り漬けも販売していますが
通常は、一本なりの姿で販売しています。

それを、超!スライスにして
すりごま・すりショウガをまぶして食べるのが
おススメ!です。

ちょっと酸味が出てきた頃が好きかな・・・

一袋分なんて、あっという間に食べてしまいます


岡山の良寛さん。

2010-10-28 14:24:09 | いろんな最中。
夏休みに岡山に行ったとき
帰りに買った最中です。
レールスターの中で撮影。



菓子処 ひらい
の良寛庵という最中。

なんとなく、名前だけは知っている良寛さんですが・・・
(何をした人かは、よく知らない

調べてみると
良寛さんは、越後の出身の僧だが
岡山・玉島(倉敷市)の円通寺で厳しい修行をしたそうです。

和歌・書に秀でていたが、決して奢ることなく
庶民には易しく説法することを心がけ
何より、子供たちと遊ぶのが大好きだったという
まさに、この包み紙のようなお人柄だったそうです



良寛さんが子供たちと遊んだ手毬をかたどった最中です。

エピソードとして

子供たちとかくれんぼをして
田んぼの中にうまく隠れた良寛・・・
結局、子供たちは見つけることが出来ず、あきらめて家に帰ってしまった

あくる朝、農作に出てきた民に、その姿を見つけられたが
「子供たちに見つかったらどうするんじゃ」
と逆にいさめたという・・

とてもお茶目な人だったそうです



岡山城記事で、載せ忘れていた写真たち



後楽園

お殿様・池田公の作った庭園です。



何代目か後の人が作った山。

だだっ広い大名庭園に、見事なメリハリをつけています



庭園を流れる小川の上に作られた建物。
なんと贅沢な発想でしょう



古代種のハス。



お城とのコントラストが美しかったです



お殿様の建造した社と
烏帽子岩。





とにかく広い!
だだっ広い非日常空間です。

お殿様の癒し空間?
いやいや、大事な迎賓館として、外交に有用されてきたのでしょうか?

よくわかりませんが
広い空間の中、ゆったりとした気持ちになれること間違いなしです。





ミニ妻!日記

近頃は、PTA活動に忙しかった妻!ですが
ようやく一段落して、間もなく訪れる観光シーズンに備えています。

忙しい時期には、幼稚園バレーを休んでいるんですが
そうすると太るんですよね

せっかく夏の時期頑張って鍛えた筋肉がみるみる衰えるんですよ

これって、毎度毎度ブルーになるんですけどね

今週から、体力・体型維持の意味も含めて
子供たちの登校見守りをすることにしました。

晴れの日は、自転車に乗り
雨の日は、歩いて

毎日、賞味30分ほどの運動です。

きょうで4日目
とりあえず3日坊主は過ぎた・・・

この「見守り運動」は、あくまで自主的に始めたものだから
かなり目立つ

1日でもやめたら、「ああやっぱりね」という感じだから
頑張って続けようと思います。

動くと食欲が出て、結局食べてしまうから、
たぶんダイエットにはならないけど
脚力の維持にはなるから、頑張って一冬続けようと思います
(ブログで公表は、結構励みになりますしね)


必見!!!岩国城北の丸。

2010-10-19 20:59:28 | 中国・四国地方の石垣。
夏休み・帰省中
山口・岩国市の岩国城へ行った時のお話です。

その1
その2

で、今回の投稿が、岩国編その3になります

そもそも
なんで、こんなに丁寧に投稿をするのか・・・
といえば
やはり
それだけ、思い入れがあって、行きたかったから
なのですが

なんで、行きたかったか、というと・・・
その歴史的背景の複雑さに感慨を受けてのことでした。

というわけで

いきなりですが
ウイキペディア検索「岩国城」の説明です。
(私の下手な説明では、説明しきれないので)



慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いに敗れた毛利輝元は
領地を大幅に削減され、広島城から萩城に移封となった。
同時に一族であり毛利家存続に注力(結果的に毛利氏は領土を大幅に削減された)した
吉川広家も同時に米子城から当地(岩国)に3万石で封じられた。

慶長5年10月には家臣団が、慶長6年(1601年)には広家がこの地に赴任した。
広家赴任と同時に岩国城の築城が開始された。
麓に平時の居館となる「土居」と、戦時の城「横山城」が横山山上に築かれた。
築城には8年の歳月が費やされ、まず翌慶長7年(1602年)に土居が完成した。
土居完成とほぼ同時期に横山城の築城が開始され、慶長13年(1608年)に竣工した。
本丸には4重6階の唐造りの天守が建造された。

しかし、完成からわずか7年後の元和元年(1615年)に
幕府の一国一城令により横山城が破却され廃城となった。
これは、周防国にはこの岩国城のみが存在していたが、
長府藩の毛利秀元が居城の櫛崎城を破却したことに合わせざるを得なかったことによる。

その後、麓の土居は
岩国領の陣屋として、また慶応4年の立藩後はその陣屋として、明治維新まで存続した。

以上

ここで注釈をすると
毛利輝元は、吉川広家のいとこに当たります。

毛利元就の息子・・・毛利隆元(その子が輝元)・吉川元春(その子広家)・小早川隆景


関ヶ原の戦いにおいて
毛利輝元は、西軍(石田光成側)の総大将でしたが
吉川広家は、輝元の補佐として動きながらも、東軍(家康側)に内通しており
結果として、広家の内通が、東軍勝利の一端を担うことになりました。
(広家は、毛利家を敵に回す行為をしたのです)

なんで、広家がこんなことをしたかというと

一族が西軍に味方をする中、広家は、家康の勝利を確信しており
説得して回ったようだが、やっぱりあかんかったようで
しょうがないから、内通して、どうにか家康の怒りを買わないようにしたかったようです。

それもこれも
毛利家の存続をかけて・・・
祖父・元就公が命をかけて広げてきた広大な領土
それを取り上げられないように
内々に働きかけをしてきたようです。

しか~し

戦いの後、ふたを開けてみると
家康に、何やかんやケチ付けられて
毛利家の大半の領土没収
一族の本拠地であった、安芸吉田も奪われ
かろうじて、中国地方の端っこの一部が与えられたわけです。

ついでいうと
広家公は、まあ働きあったから、それなりの領土与えよう、とお達しがありました。

それじゃあ、最悪ですよね。
広家公は、一族の裏切り者扱いだし、
自分だけ良ければそれで良いのか・・・という、コウモリ的つら~い立場に置かれました。

つまりは
良かれと思った決死の行動が
家康に利用されただけで、すっかり裏目に出てしまったわけです。

つらい立場ですね。

歴史に、タラ・レバは禁物かと思いますが
でも
彼の行動がなければ、徳川幕府ん百年の歴史も築かれなかったわけですし(おそらく)
毛利元就公以降の奇跡的な軌跡(ダジャレですね~)もなかったでしょう

サーカスの綱渡りのような駆け引きの中
現在まで歴史が継続していることに
ひたすら気が遠くなります。

そんなことを考えながらの
お城の散策

岩国城は、城跡としては、一見それほど遺構も残っていませんし
印象にも残りにくいのですが

歴史背景に注目すると
一味もふた味も魅力の増す
おススメのお城です

(元就公が、命からがら出雲遠征から引き返す場面や
 広家公のつらい立場が目に浮かんで、涙が出ますよ

で、そんなことを考えながらの
岩国城の散策です。


(岩国城の全体図)

中央に本丸・天守閣
左手に二の丸
そして
右手には北の丸があります。

地図の一番右に水色の川のようなものがありますが
これは珍しい空堀

今回、一番の目標でした。
(といっても、一般的にはほとんど知られていないと思います)

肝心の天守閣が、一国一城令で破却されていますから
あとは、いかに広家公の頃から残っている遺構を探すか・・・
という感じの再訪でした。
(現在の岩国城は、単なる桜の名所のような感じで
 あまり歴史に触れられてませんし
 一般的な見学ルートは、かなり手が加えられていて
 当時のまま~みたいなレアな感じの遺構はあまりありません
 どこの城跡にも言えることでしょうけどね)

当初の目標は、
旧天守閣の石垣をじっくり観察することでしたが

今回の再訪前のリサーチで
北の丸に大きな空掘があることを知り
そこに行くのを、一つの目標にしました。


(再建された天守閣)

北の丸方面から見た天守閣
この方角から見ると、とても立派で美しいです。

天守閣から北の丸に向かうほうに
本来の天守閣の石垣があり・・・


(山の中央寄りになるので、錦川・山麓からは天守閣全体は見えなかったでしょうね)

昔の天守閣の石垣、ですが
復元されているもので
綺麗な形なので
正直、あまり感動しませんでした。
(石垣マニア的発言ですが)

ただ、説明版には、いろいろ解説がしてあり
随一、岩国城の歴史に触れられる個所ではあります。

そして

この旧天守閣石垣の横を通って
北の丸に向かいます。

こちらは、ロープウエー駅から遠ざかってしまうので
子達に知れると、ブーイングものなのですが

北の丸には、
ちょっと寂しい感じではありますが、子供の遊具があるので
(なんて有難い!)
それをネタに子達を誘き寄せました

歩いて行くと
北の丸につく前に
大きな空堀が見えてきます
(子供らは素通りで、どんどん先に行ってしまいましたが



分かりにくい写真ですが
何となく大きさが分かって頂けるでしょうか?



二条城とか、彦根城のお堀くらいの大きさはあると思います。

当初から、水は張らない空掘として建設されたようですが
鉄砲の届かない距離
ちょっとやそっとでは立ち向かえない距離があります。



思いっきり戦時を想定しているように見えるのは、私だけ?

家康公に屈服しての転封だったかと思いますが
ありありとした戦意を感じるのは、私だけでしょうか?

当時の典型的建築と言えば、それまででしょうが
作る必要がなければ、これだけ大きなものを作ることはないと思うのですが
どうだったのでしょうね。

答えがないだけに
模索にふけってしまいます。

ただの石垣巡りのつもりでしたが
とても興奮しました

さらに
今回、素晴らしい発見がありました


北の丸の周辺に
おととし?散策道が作られて
築城当時のままの石垣を見学できるようになりました。

北の丸の石垣の周りに、散策道がありますので
北の丸の横手から緩い階段を下りて行って
周辺を歩いていくようになっています。

少し寂しいけど(誰にも出会わなかったし
石垣一人占めの気分を満喫できます。



まず、こんな感じに、
荒れ放題、崩れまくりの石垣の中を通って、北の丸北端部に向かいます。



これぞ、当時のまま!
という風景で
石垣マニアにはたまらない限りです。

学術的に言うと?
長期の耐久性がなかったということは
あまり成形されていない積み石を用いた
素朴な感じの石垣であったのだろうと思います。
(まあ、見るからにそんな感じの石が転がってますが)

そういう意味では
あまり経済的・時間的余裕が感じられない石垣です。

切羽詰まった感があります。


少し歩いて行くと、保存状態の良い石垣が見えてきます。



岩国城建造当時の石垣
一人占めっです

一番上の写真の案内図にも載っていないし
あまり周知の進んでいない散策道

もったいないです。

地域のボランティアの方が手入れをされているようですし
もっと多くの方に訪れてほしいですね





岩国・・・
宮島とセットで半日?なんて言わずに
まる一日
い~や二日間でも、じっくり時間をかけて歩きたい観光地です。



帰りの、ロープウエーまでの道
行きとは違う道



大きな井戸があります。



かなりデッカイです。



こんな大きな井戸掘って、ど~するつもりだ?
と、またもやいぶかしがる私・・・
(考えすぎ?)

疑って、食ってかかると
考えることが多すぎて
とても楽しい岩国です



下山後


(錦雲閣)



昔のお土居・お堀の名残



橋の先の吉香神社が
山城破却後
藩政を行った場所でした。


(ずいぶん古めかしい狛犬)


(旧吉川邸厩門・明治時代の建築)



(昌明館附属屋の左側部分)

昌明館は、七代藩主吉川経倫の隠居所として建造されたそうです。


(付属屋と連続した門と、付属屋の右側部分)

この門は、現在は、吉川史料館の入り口になってます。

この史料館
こじんまりとしていますが、吉川ファンにはたまらない展示がしてあります。

『 秋展示 鳥取城の戦い、上月城の戦いを中心に』
   期間 9月16日(木)~12月23日(木・祝)

なんと尼子氏の勇将・山中鹿介の兜が展示してあるそうです
うう~、行きたいよう







資料館から、錦帯橋に戻る途中



吉川経家忠魂碑がありました。



鳥取城で、羽柴秀吉の兵糧攻めにあい
自らの命と引き換えに城を明け渡した武将です。

島根の温泉津の出身で、なかなか優秀な人物であったそうです。

そのような人材を犠牲にすることになり
後の岡山・備中高松城明け渡しの経緯もあり・・・
吉川元春公は、秀吉嫌いを深めたと言います。



寒さ深まる今日この頃ですが
岩国に行ったのは、8月お盆前
猛暑のさ中でしたので
下山後は川遊びとあいなりました。



とおあさ~~~



山遊び・川遊びに夢中で
すっかり昼ごはん食べそびれてしまいましたが
充実した一日でした


岩国城散策の続き。

2010-10-15 06:15:54 | 中国・四国地方の石垣。
すっかりお預けになっていた
夏休み・山口岩国散策の続きです。

(先日も安土に行ってきましたので、レポートがたまっています
 ざざっと済ませます



錦帯橋で有名な錦川と
岩国城のある横山。

復興天守は
錦帯橋とセットで眺められるよう設計されています。
(昔の天守閣は、もっと奥にありました、あくまで実用的)

横山の麓にあるロープウエーで登城~

頂上駅からお城までは、しばらく山道を歩きました。
真夏の暑い日でしたが
山頂は爽やかな涼気が漂ってました。

森林浴が楽しめます。


(二の丸の南端の石垣が上の方に見えてきました)


(粗雑な感じの石垣が並んでいます)



私たちは、案内板の左下から歩いてきました。

「現在地」の手前(左)・・・
ロープウエー駅から来たら最初に出くわしたのが
出丸!


(出丸の正面左端)

なかなか立派な高石垣です


(出丸の正面右端)

背後にある、二の丸や本丸を擁護し
それに、出丸のすぐ後ろの大手門への道を包み込む形になっています。


(出丸の奥、二の丸の石垣)


(出丸の右端を横から見た)


(先ほどの出丸正面・右端の裏側)


(出丸の全体を、二の丸入口・大手門から見渡した)


(先ほどの出丸の横から・・・二の丸の正面・石垣)
(木の向こうの出っ張ったとこからが、本丸の石垣)


(ここからが、本丸の石垣・左端)

なかなか立派な構えの城です。

結局、一度も戦いをすることなく
江戸幕府成立後の破却命令の後は
山から下りて藩政を行ったのですが

建造中の広家公の心意気
関ヶ原の戦い後とはいえ
時代は、まだまだ戦国の名残を帯びていたことが分かります。

正直
いろんな意味で戦意を温存していたのではないかと
憶測を走らせてしまいます。
(その辺は、どの大名も同じでしょうが


(大手門の手前の石段・二の丸の石垣・敷地)

たぶん、観光地岩国にそんなことを考えながら来る人は
あまり居ない・・・(たぶん)

つい、天守閣ばかりに目が行ってしまうのですが
石垣にも注目してほしい妻!です


(二の丸から見た天守閣)

復興天守
南蛮造りとやらで、なかなか変わった形のお城です。


(天守閣展望台から見下ろした北の丸方面)


(二の丸方面・横山の全体が見渡せます)
(右に見えているのが、新幹線新岩国駅方面)

岩国城の醍醐味は
なんといっても、この景観です。

こういう点では、
景観に気を配った復興天守に、軍配が上がるでしょう

遠く、周防大島の連なりまで見渡せます


(天守閣展望台から岩国市街地をのぞむ)

中央が岩国城下町
下の、山麓部分が、藩政を送っていた場所です。

ついで言うと
岩国は、米軍基地でも有名やし
ここまで来ると、瀬戸内工業地帯?の雰囲気も出てきます
(広島市内は、意外と少ないんです)

新旧入り混じる風景です。


(昔の天守台)


(昔の天守台方面から現在の天守閣をのぞむ)

さて
お城の見学の後は
一番奥(ロープウエー駅から見て)の北の丸に行きました。

今回初めてです。

今回の一番の目当ては、昔の天守台の撮影だったのですが
実際の大収穫は
北の丸でありました。


(天守閣の北側には、昔の石垣の?石がごろごろしてました)

すでに、この辺で大収穫の予感がしています。

もったいぶるようですが
続きは、次回のお楽しみ~~

といっても
マニア必見のコーナーかと思いますので
あんまり期待はしないでくださいね



~~~ つ づ く ~~~

夏休み・お城めぐりの続き。

2010-10-05 15:13:19 | 中国・四国地方の石垣。
先日の・・・
9月の連休に行ったお城めぐりと前後して、ややこしいのですが・・・

これは、夏休み・帰省の時のお話です。



山口・岩国の錦帯橋

春休みの吉川史跡めぐりの
その後バージョン・・・
(毛利元就が宮島・厳島に建造した石垣の見物も魅力的だったのですが

この錦帯橋は、岩国観光のシンボル
岩国藩3代領主の吉川広嘉(元就の息子・吉川元春のひ孫)の命で建造されました。

ここ錦川は川幅が広く、洪水が絶えなかったそうです。
城下町とお城を結ぶ橋として
初代城主・吉川広家(元春の子)の転封後に建造されましたが
洪水のたびに流出

3代城主の時に、中国の橋に習って、
今の形の橋・・・
連続したアーチ橋の構想が生まれました。

1673年に建造された最初の橋は
翌年の洪水で流出してしまったそうですが

二回目、橋台の敷石を強化したところ、功を奏し、
以後250年間~昭和期まで流失することなく、持ちこたえたそうです。




これが、橋の土台

石垣、と言って良いのかな
とにかく頑丈

現代の橋脚と比べても
なかなか類を見ない太さです。

橋の歩行部分は、
知名度の割にボリュームがない・・・
頼りない感じが否めないのですが
これは、洪水時の負荷を考えてのことでしょうね。

単なる観光地としてだけじゃなく
いろんな視点から見ると面白い岩国です。



さて
今回で、岩国に行くのは3回目

一度目は、ただ何となく
二度目は、吉川広家のお城と知ったけど、何となく・・・
でしたが

三度目の今回は、
毛利・吉川ファンとして
かなり気合を入れて行きました

といっても
子達を連れて、ですから、
ロープウエー・ソフトクリーム・水遊び・・・
などで釣りながら、になってしまいますが

それでも、今回行ってみたかったのが
こちら



吉川家墓所
もともとの吉川家の所領(広島県北広島町新庄)にあった洞泉寺が
広家の転封に伴って移転し
以後、代々の岩国藩主が葬られています。



地方の小藩とは思えないほどゴージャスな墓所です。

特大級のお墓がいくつもありました。
(2メートル以上の高さだったか・・・)

吉川元春の奥さんのお墓は
わりとこじんまりしていましたが
それでも、この大きさ



元春公のお墓と同じくらいか
ちょっと大きいくらい


(H22・3月、広島県北広島町の吉川元春公のお墓)

これは、地位の大小よりも
亡くなった時の時代背景によるものでしょうか?

元春公が亡くなったのは、豊臣秀吉の九州征伐の頃~
奥さんが亡くなったのは、徳川幕府成立の3年後でした。

とはいえ
息子・広家が、関ヶ原の戦いで
お家(毛利家)存続をかけて、とはいえ、主家に背いて、東軍・徳川(敵方)に内通
(主家・毛利輝元は、西軍の総大将でしたし、メンツ丸つぶれですわな)
その後の親戚内での扱いはケチョンケチョンだったと思います。
(毛利家取り潰しの危機を免れたんですから、広家公はよく貢献したと思いますが

母として、広家をおもう気持ちを考えると、胸が締め付けられます

その息子の墓所は・・・



さすがに
初代城主として、ひときわ高い場所
城山の麓に位置しています。

広家公にお会いするのを楽しみにしていたのですが
登り口が倒木で危険な状態ということで
通行止めになっていました

残念です

でも、またこれで岩国に来る理由が出来たし、良かったかな


(いかにも暴れ川って感じでしょ)

次回リベンジを胸に誓って
一路
ロープウエーで、岩国城のある山頂へ・・・

続きは、次回投稿のお楽しみ~


~~~ つ づ く ~~~