刮目天(かつもくてん)のブログだ!

反日ニュースと古代史の謎を中心に日記を書きます。
目覚めよ日本人!!

古来、八紘一宇が国是だ!(^_-)-☆

2017-03-31 19:53:25 | 古代史
中国人が日本人の祖先って話、果たして本当なの?

シバラク先生、いつもいい話題を有難うございます(^^♪

倭人は呉の太伯の後裔ですから、太伯の父は周の古公亶父(たんぽ)!
紀元前11世紀から中原を支配した周王朝の先王です(●^o^●)


遺伝子の違うシナ人の最初の統治者はせいぜい紀元前3世紀の秦の始皇帝でしょう。

だとすれば日本人はシナ人よりも古くから大陸を統治した民族ですから、それを言うならシナ大陸の統治権者は日本人ですよ!

ちなみに亶州は古来日本列島の名称ですから、亶父は日本の父祖の意味ですよ(^◇^)
韓半島は倭人が7世紀まで支配していました(^O^)/

シナ人や朝鮮人は後から来た暴力集団ですね(>_<)

お蔭でシナ大陸や半島は滅茶苦茶にされた(≧◇≦)
倭人は呆れて日本列島に落ち着いたということです(^◇^)

ついでですが、徐福は周の軍師太公望呂尚が後に建てた斉の人ですから周王との姻戚関係があったという伝承もあります。

いずれにしても徐福は日本に諸技術をもたらしただけで日本の統治者ではないですから(^_-)-☆
これが歴史の真実( ^)o(^ )詳しくは「半島の古代史だ」でどうぞ!

ついでですが、日本の皇位「天皇」はシナの「三皇五帝」伝説に因むものです。

つまり三皇(天皇、地皇、人皇)は神、五帝は聖人としての性格を持つとされ、理想の君主とされたものですから、民を大御宝と考える日本の天皇位はまさにその筆頭。伝説は、紀元前2千年のシナ大陸最初の夏王朝以前の時代ですからこれ以上古い王朝はありませんね(^^♪
ちなみに刮目天の仮説では、畏れながらもしも万世一系がそこまで繋がっているとしたら、天皇陛下は原始夏族のDNAかも知れませんよ!(●^o^●)

であればやはり、「八紘一宇」を国是とする日本の天皇陛下が東アジア、いや全世界の正統な統治者ということですね(^_-)-☆

神武天皇の「八紘一宇」の御勅令の真の意味は、天地四方八方の果てにいたるまで、この地球上に生存する全ての民族が、あたかも一軒の家に住むように仲良く暮らすこと、つまり世界平和の理想を掲げたものなのです。昭和天皇が歌に「天地の神にぞいのる朝なぎの海のごとくに波たたぬ世を」とお詠みになっていますが、この御心も「八紘一宇」の精神であります。(Wiki「八紘一宇」より)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

半島の古代史だ(^^♪

2017-03-04 06:50:58 | 古代史
【韓国】日本は私たちが海を渡って作った新しい国だったwww
2017年03月03日18:47 kensogolさん@my日本
一年の間、夏場を除いては、3季節のほとんどが北西風が吹く韓半島の特性上、東海岸の江陵、三陟、浦項などで船が漂流すると、日本の西海岸に到着して、釜山近海で流されていくと、福岡近海に着く、済州島で時化に会えば琉球(沖縄)に到着する。このような理由から、先史時代から多くの韓半島人が今の日本に渡って住むようになるが、日本列島の民族構成は、大きく三つに分けられる。

第一は大陸が列島と繋がっていた古代の移住と、氷河期に凍った海を渡って住むようになった韓半島地域の北方渡来人と、第二に南方地域の海洋文化を持った勢力の北上で主流が構成され、白ロシア系のアイヌ族が勢力的に位置している。本格的に大規模な人員が渡日することになる歴史的な出来事が百済の時だろう。


kensogolさん、いつも楽しい日記を有難うございます(^^♪

タイトルを見て口があんぐり('◇')ゞ、気分はアングリ~( ̄ー ̄)

まあ、いつもながらのファンタジックなウリナラ起源説だね(´・ω・`)

最初の海の話だが、図は東アジアの海流と倭人(志賀島を拠点とする安曇氏)がシナ大陸との間を往来したルートマップだ(説明は「九州から見た古代史④」コメント10参照)。



半島の東海岸や釜山沖で漂流したら、え?、え?、日本の西海岸に漂着するのか?

おいおい、対馬海流があるから日本の西海岸には漂着しないと思うけど(*´ω`)
日本海に流されてしまうんとちゃう?

そして、何だって?

済州島沖で時化に遭ったら沖縄に漂着ってか?
これも方向によって違うが、済州島の東側ならこれも対馬海流に流される。東側以外だと黄海の還流があるから山東半島か朝鮮半島の西とか南の海岸だろう!
先史時代なら多分、沖縄には来ないだろう(^^♪

それで?古代の移住?

第一は旧石器時代の話のようだが、当時は氷河期だから大陸と日本は繋がっていたので韓半島は存在してないんだけど?

敢えて言うなら単なる大陸につながる渡り廊下みたいなものだよね(^_-)-☆

渡り廊下に韓半島人が居たのか?(◎_◎;)

ま、旧石器時代の人々がマンモスを追いかけて日本列島にも来ていたが、韓半島人ではないわな(●^o^●)

第二の話は何?

アイヌ人が白ロシア系ってか?
白ロシアって白人系ロシア人のことか?
ああああ、ダメだこりゃ(≧◇≦)

Wiki「日本人」に現代日本人とその周辺の民族のY染色体ハプログループの割合を示す表があるので、主要部分だけ切り取って加工したので見てくんりょ( ^)o(^ )



アイヌ20人のうち17人(85%)は縄文人系(D1b)、残りの3人が北方アジア人(C2)だ!

白人は居なかったぞ!(^_-)-☆

最後は百済か?

百済は古代の朝鮮半島南西部の馬韓の地にあった国家(346年?ー660年)とWikiにある。

伝説では高句麗から分かれたことになっているから、北方アジア人系(C2)だ!
でも上の図で現代の朝鮮民族の中に北方アジア系は1割に満たない。

現代日本人男性には?

お、お、お、何と3%じゃないか?これって可笑しかないか?(^_-)-☆

そーだよな!古代の半島の南部は倭人が支配していたんだから!

現代日本人男性の25%が倭人系(O-47z)だ!

朝鮮人男性は倭人とよく似た殷(商)人系(O1b2からO-47zを除いたサブグループ)が全体の1/3だ!

紀元前12世紀の殷(商)の王族の箕子が首都を王険城(現在の平壌)として朝鮮最初の王朝を建てたと「史記」に書かれている。『三国志』「韓伝」ではその後(紀元前194年)、箕子の末裔の朝鮮候箕準が燕人(シナ人)の衛満に追われ、南の馬韓の地に逃げて自ら韓王を名乗ったとある。衛氏朝鮮が建てられたが紀元前108年に前漢の武帝によって滅ぼされ、楽浪郡・真番郡・臨屯郡を設置し、翌年に玄菟郡を置き半島全体を統治した(漢四郡)。コリアの歴史では半島の南部に辰国が存在したことになっているが、「史記」の記述を写し間違って、後に伝えられたという説が有力だ。実は魏志倭人伝にあるように、半島南部を倭人が支配していたのだが、コリアンは死んでも認めないだろうね(´・ω・`)

だからシナ人系(O2)が40%と一番多いんだね(^_-)-☆

9.3%の北方アジア系(C2)の中には古代の濊(わい)人や扶余人や高句麗人などだ。というのも百済は滅亡して、みんな日本に渡ったことになっている。

だけど現代日本人男性の中の北方アジア系は3%!そこには百済系だけじゃないだろうから、日本に渡ったほとんどは百済の中に居た倭人だったということだろう( ^)o(^ )(^◇^)

しかし、天皇家に縁(ゆかり)があるのは本当だが、性染色体のXは女性から受け継がれるね。そうすると次の世代でもその後の世代でもずっと百済系の女子が天皇陛下を生み続けない限り百済系のX染色体は別のX染色体に置き換わってしまうよね(^◇^)

でも例えば、男系に百済王族の血が入ると、その男系男子が皇位を継げば百済系の王朝になってしまう(≧◇≦)

だから、日本はそういうことが起こらないように初代の神武天皇から万世一系の男系男子が即位することになっているんだ【注】^^♪

女性天皇になった時期があったが、その後いずれも皇位は男系皇族が継いでいるので万世一系が保たれているということだ。

なぜ女系天皇が良くないかというと、もしも女性天皇が皇族ではない臣下と結婚すれば、その男系の血統に置き換わってしまうからだ。そうなると万世一系が保たれないからだ(≧◇≦)

天皇になるのは皇族の男子と決めないと、誰でもが皇族になって王朝が交代してしまう。そうなると国民の統合は誰でもできるのかということになる。

日本国民の誰もが納得できる血筋がご皇族ということなのだ( ^)o(^ )

【注】1万4000年前の世界最古の縄文文明の下で、2500年前から皇祖=天の御中主が列島に渡来して新たな日本の伝統・文化が生まれ、万世一系の天皇とその臣民によって日本文明が花開きました(「宋史」に記載される日本の王年代紀によれば初代天の御中主から神武天皇は24代目でした)。

これは文献史学と考古学からも確かなものだというのが刮目天の説です。詳しくはブログにありますが、少しだけ(^_-)-☆

民を大御宝と考える日本の天皇家の起源は古く、殷王朝の後の周王朝(紀元前1046-紀元前256)の先王で初代武王の曽祖父の古公亶父(ここうたんぽ)まで遡ります。

倭人は古公の長男である呉(紀元前585-紀元前473)太伯の後裔という伝承がシナの歴史書に載っています。

古来、亶州は日本列島を指すので、亶父は日本の父祖という意味になりますね(*⌒▽⌒*)。

さらに周建国の功労者の周公旦が書き残したとされる周礼(しゅうらい)は儒家が重視する十三経のひとつで「儀礼」「礼記」と共に三礼のひとつとして、シナの理想の制度を記したものです。周王朝はシナ人のあこがれで、中華思想の下であってもその跡を引き継ぐ東夷の日本国(大倭国=大和国)は西戎・北狄・南蛮の国々とは異なり、決して野蛮人とは見られていません。今のシナ人の多くは文化大革命によって伝統・文化が徹底的に破壊されて、無知蒙昧の餓鬼道に堕ちてませんか?(≧◇≦)

【参考文献】
亀山勝「安曇族と徐福」龍鳳書房、2009
中田力「科学者が読み解く日本建国史」PHP新書、2014
渡邊義浩「孫呉の国際秩序と亶州」PDFファイルp.44上段
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

邪馬台国の見つけ方^^;

2017-01-17 21:03:00 | 古代史
3.古代史を考えるにあたっての国際性、学際性の必要性
(邪馬台国の会第349回講演会)

洛陽での三角縁神獣鏡を示した王趁意氏は国土資源資源局長であり、地方政府の官僚である。中国の官僚について、谷崎光氏が書いてる本が参考になる。
(中略)
(谷崎光氏の)">『男脳(おとこのう)中国・女脳(おんなのう)日本』(集英社インターナショナル、2012年刊)中国の「官僚」や「地方政府」に関した文章を書きぬく。

ちなみに中国で一番、金持ちが多い都市は上海ではない。官僚のいる北京である。
2007年、新華社が中国の100億元(1300億円)以上の億万長者3220人のうち、2932人が官僚というニュースを流したが、すぐに消されてしまった
。」

(コメント)官僚が、そんなに金持ちになってよいのであろうか。日本では考えられないことである。

「企業のほうも、官僚の娘や息子を雇っておくと、いろいろ有利なため、実際は出勤もせず顧問料だけを受け取る官二代もたくさんいる。北京の某大学の老師によると、受け持ちの学生で一番最初に就職が決まったのは北京の官僚の娘、次に有名俳優の息子が映画界へ、他は能力があっても今年はイマイチと嘆いていた。」

349-08
「工場などの大規模な進出の場合、地元政府にしてやられることも多い。
契約した土地は水も電気もない(企業側に整地させるわけである)、法律で工場が建てられない! 認可かおりない、借金まみれの国有企業を倒産させた跡地で権利が複数の人に売られていたりする。
また土地ころがしのところに一時つなぎに入れられ、地価が上がったとたん法律を変えられ追い出しをくらう、買った土地が登記できない、合弁相手が隣にニセモノエ場を建てていた……などという泣きそうになる話が続出している。
中国と合弁する場合、中央政府直轄の『国有資産管理委員会』『工業信息部(強いていえば昔の日本の通産省)』などと組む方法と、省政府以下の地元政府(小さな市や県など。『県』は日本と違い市よりも小さな行政単位)と組む場合があるが、後者はほぼ100%騙し、と言われている。いわゆるトヨタなど日本の大メーカーは中国の大国有企業との合弁でもあり、中央政府直轄扱いになる。一方、中小企業などが進出する場合、地元政府と組むことになる。
うまくいく場合もあるが、途中でいろんなことを覆されても、中央政府は関与しない。地方政府はその土地の司法と警察を全部握っているから、訴訟などしても勝ち目はない。基本的に地方政府と組むのは怖いヒモの付いているホステスさんと付き合うようなものである。
だから個人でビジネスをしたり地方政府(の傘下)と組むとしたら、リスク承知で一件一件を固めていくしかない。」

「中国に進出するということは、すなわち『夜の世界』に突入することである。
夜の世界=玄人の世界、と言ってもいい。


ここで言う玄人は『プロフェッショナル』の意味ではなく、人間は本来、性悪、と知っている人々である。
恵まれた世界では誰でも表向きはよい人でいられる。
が、いざとなると人は裏切るし、怠けるし、嘘をつく。自己保存の本能ともいえよう。
食べ物が足りないとか、極度に貧しく、衣食住にも事欠くとき、人間のこういう動物的な面が出現しやすい。日本では戦後の一時期がそうだったが、中国はその状態が何千年も続いた。近代50年間ほども、無法地帯で力が支配する闇市状態だった。結局中国人は長い間の飢えがあり ━人の性悪を知り━ 玄人になっていったのだろう。
現在でも中国は暴力で政権をとった集団(中国共産党)がやはり力(私兵━中国では軍隊は国ではなく共産党に属する)で支配する無法地帯である。
今の日本人は自分の仕事については責任感が強く、技術や専門知識が豊富でも、こういう世界を生き抜くことについては素人である。人を善人と思いこみやすく騙されやすい。」
「ここは夜の世界、と思えば、彼らの嘘の多さも見栄もプライドも多少は理解できるだろう。」

「そして最後には、『合弁契約で騙された。土地は登記もできない』『大切にした社員が情報を持って中国系の会社に高給で転職した』『売上と客を根こそぎ持っていかれた』『お店の権利を取られた』『教育したのにすぐやめて恩知らず』と怒りや嘆きにかられる。」

「中国人にももちろんまじめな人もいるし、日本人にもふまじめな人もたくさんいる。
基本は個人差、という前提で誤解を恐れず言うならば、中国人一人が一生につく嘘の量の平均値は日本人の100倍以上だろう。学歴、階層はまったく関係ない。
原因は短期の利を追う社会、正直な人が損をする環境、自己チュー的な性格、面子を過度に重視するためである。日本だったら何でもないようなことでも、嘘をつかないと物事がうまく運ばないという部分もある。嘘までつかれて『給面子(顔を立てる。面子をあたえる)』機嫌をとられても私はうれしくないが、男・中国様はまた違うのだろう。男というのは、ホステスさんのおだてに、嘘と知りつつ高い金を払う動物である。」

「現地で働く日本人技術者の言葉は説得力がある。
彼らは技術屋ではない。奇術屋だ。そもそも比べる対象ではない。優れている、優れていない、という区別ではなく、中国人技術者には『考える』という過程が抜け落ちている。いや、存在しないという表現のほうが正しい。こういってしまうと身も蓋もないので、『モノマネはできるが』と前置きして。(中略)他社のモノマネ商品を作って持ってくる。それは品質トラブルが出ていると指摘すると、いや、そこより安く市場に出せるから大丈夫とくる。(『KANAN MONTHLY二』2011年5月、6月号)」

(中略)

狩猟民族の『嘘の肯定』
(中略)
「戦争=戦いの本質は何か。
『略奪』である。
食糧や資源や土地や人を奪い合う。名誉や大義名分も奪い取るもの。
漢(オトコ)の中の漢、『男子漢』の中国様は、女のように何かをちまちま時間をかけて育てたりはしない。馬や食糧や女や奴隷は奪ってくるもの。
今もコピー商品で人の努力や才能を奪って平気、時間を守らず人の時間を奪って平気、自己チューである。
もっとも地球規模で見れば、この略奪型のほうが標準かもしれない。」

中国の領土支配は、広域暴力団組織のようなもの、と言ったのは『貝と羊の中国人』の加藤徹氏である。」

「だからこそ私は、こう断言する。
『中国(男)を信じるのはやめましょう。大切なのは、中国(男)を理解することなのです』」

「『性善説』の日本企業、さぞかしいろんな被害にあっていると思われるが、気づいてすらいないかもしれない。」

(以下省略)
日本人の真面目な研究者が、海千山千の中国共産党の地方官僚に、洛陽で三角縁神獣鏡がでたというガセネタを掴まされた話のようだ(-_-メ)。

ウソをつくのは不真面目だと考えているのは日本人だけかも知れない(≧◇≦)
そう言えば、シナ政府の報道官を見ていれば良く分かるが、堂々とウソを言えることが大事だ。本当かどうかは別だ。軍事力さえあれば弱小国はシナの言うことを聞かざる得ないということだね(-_-メ);

しかし、事実を軽視する人たちは事実を怖れる!メンツが大事だからか?

だから、事実を言う奴を暴力で黙らせるか、次々にウソを重ねなければならない。

日本人と違い罪の意識はない。

ウソをつくことが仕事だと割り切っているようだ。

やっぱりヤクザの世界だった(-_-メ);


さて、邪馬台国の正しい位置は魏志倭人伝からは読み取るのは難しいから中々解決しなかった。何故ならば魏志倭人伝はある場所に邪馬台国を置きたかった。だが、その場所は海の中だった。

つまり、在りもしないいい加減な場所を書いたということだ。

だから、魏志倭人伝を正しく読めば正しい位置が分かると言うまじめな研究者もいるようだが、それは大間違いだ。別にまじめな方をバカにしているわけではない。漢籍の本場の現代シナ人が正しく読んでも答えは同じだった。在りもしない場所しか魏志倭人伝は示していないからだ。

だからウソを見抜く力こそ邪馬台国問題解決のカギなのだ!

では、何でそこに邪馬台国を持って行きたかったかだが、それは前に述べた通り、正しい位置に邪馬台国があっては困ると言う当時の関係者の個人的な理由からだ(【新説】邪馬台国はここだ!(その2)、その3 参照)。

元々シナの正史だけでなく日本の正史「日本書紀」なども政治文書だから、文章を正しく読んだところで直ぐに真実が分かるはずはない。でも、全てデタラメかというとそうではないことは他の歴史書や考古学の成果等から確かめることができ、そこで推論が検証される。

魏志倭人伝の作者の陳寿が執筆に利用したのは邪馬台国を記述した魏使の報告書などだが、すでにそこに邪馬台国の行程記事があったからそれを土台に書けたわけだ。その報告書が現在残っていないのが残念だが。

もっとも魏志倭人伝の原本も残っていないので、前に述べたとおり、現存する12世紀の版本の文字の転写ミスの疑い(「会稽東治」か「会稽東冶」、「陸行一月」か「陸行一日」)や、元々意図的に「臺」の字を「壹」に改変したとか、短里(魏の1里約430mのところを約80mと実際の1/5程度にしている)を用いた行程の記載や、不弥国から里程をいきなり日数に変えた議論などがある。

伊都国からの行程を並列で記載したとか対馬や壱岐の外周も計算に加えるとか、常識を超えた天才的な解釈で自説に導く努力がなされているが、それらの真偽については総合的な推論結果を検証して判断する他ない。あれだけいい加減な記述だと、邪馬台国は四国だとか、いや岡山だ、宮崎だ、熊本だったとか、町おこしで頑張るその地元の人たちには大受けするかもしれないが、ほとんど学術的に相手にされないし、日本に存在しないとか云う説も考古学の成果から考えて、とても受け入れられない。

邪馬台国問題の解決には、従来の議論を踏まえ、魏志倭人伝に書かれる次の根本問題に上で述べたような新たな発想の注入が必要なのだ。

①何故、邪馬台国が会稽東冶(治)の東海上に存在しなければならないのか?
②何故、帯方郡から東南1万2千余里に存在しなければならないのか?
③何故、現在の糸島市に在った伊都国へ、道なき道を5百里も陸行しなければならない末廬国にわざわざ上陸して、そこから明らかに間違った南東方向(実際は北東)を記載する必要があったのか(すでに周時代以来伝承されてきた種々の天文算術知識を後漢末頃に集成して「周髀算経(しゅうひさんけい)」が成立している。だから、3世紀後半のシナの役人が方角を90度も間違うのか?絶対あり得ない話だ)?
④何故、「不弥国から南に水行二十日で投馬国」と不弥国から先、邪馬台国まで日程で書いたか(「隋書」に「倭人は里数を計ること知らず、距離を計るには日数で数える」とあり、シナ人は倭人を未開人だと嘲笑している感じだ)?

⑤何故、「南に行くと邪馬台国。女王の都とする所。水行十日陸行一月(日)」と途轍もなく遠い所に女王が居ると書いたか(そんな遠いところに都を置いて、国々の長官らが女王の言葉を聞けたのかも心配だ)?

新たな発想とは、陳寿が利用した魏使(梯儁と張政)の報告書からそういう記述になっており、陳寿にとってもそれが都合が良かったと云う仮説を立てることだ(【新説】邪馬台国はここだ!その2、その3 参照)。

それは、邪馬台国の外交・内政の実権を持っていたのは伊都国に居た男王という推論だ。伊都国の男王が魏使と談合して報告書を書かせたと考えた理由は、以下のとおりだ。

a)伊都国に「代々王が居た。(王以下)皆が女王に統属している。(伊都国に)往来する(帯方郡)の使者が常に駐まる。」と魏志倭人伝にある。王墓にふさわしい副葬品の数々が付近で発見されている糸島市の三雲遺跡で硯の欠片が発見された。

b)伊都国に長官1名、副官2名に加え、「大率を置いて女王国より北の国々を検察させたので、国々は畏れ憚った」とあり、大率は長官より上位の伊都国の男王の指揮下にあったと考えられる(大率は刺史のような役職とあるが、帝都から遠方に派遣される刺史そのものではない)。

c)「女王は独身で、千人の侍女とただ一人の男子が飲食を給仕し、指示を受けるために(女王の宮殿を)出入りして、男弟が政治を助けた。」とあり男弟が男王だと見做せる。給仕の男は男王(弟)の配下だと考えられる(狗奴国が倭国に侵攻してきた時期の247年ころ、卑弥呼が死んだ。日蝕で霊力が衰えたと見て殺されたのかも知れない。だとすれば、卑弥呼が人前に姿を現さないので、この男子が男王の指令で殺したのかも知れない)。

d)倭国内の国名が伊都国のみ良い意味の好字で記され、他は悪字が多用されている。邪馬台国は邪な馬が王なのか?(^^♪奴国という字は後漢光武帝の時代に付けられたが、狗奴国を犬ころの奴国とバカにしている。前述のとおり、伊都国は王の住まう都、あるいは「伊」は殷(商)が夏を滅ぼす際に活躍し、殷王を補佐し、数百年続く殷王朝の基礎を固めた「伊尹 (いいん)」を連想させる国名だ。

e)帥升王から倭国大乱が発生する前の7、80年間は子孫によって正常に統治されていたとみられ、倭王は反倭王勢力を懐柔し、和解のため反倭王勢力の中心的な立場に在った邪馬台国の女王卑弥呼を倭国の女王に共立したと考えられる。

f)更に、帥升王等は107年に後漢の安帝に朝貢し、生口160名を献上して倭王の座を認定された。旧奴国王を殺したか追放し、王の家臣を大量に捕虜にして奴隷としたと考えられる。江戸時代に志賀島で金印が発見されたことは奴国が滅亡したことを示唆する。また、大和地方の地名と北九州(旧奴国から筑紫平野)の地名と位置関係が一致することからも大和地方に旧奴国の王族が移り住み、往時の繁栄を懐かしんだものと推理できる(高天原は奴国だ! 第1話 ヤマト王権は狗奴国だった? 参照)。

これらのことから政治・外交の実権は男王が握っていたと推理できる(従来の説明では何故、倭国大乱が起こり、卑弥呼を女王に誰と誰が共立したのか明確でなかった)。

こうやって考えると、邪馬台国の位置は魏志倭人伝から読み取れる。

半島の西海岸を進むのか半島内部の河川を利用しようが狗邪韓国まで7千里だ。末廬国まで丁度1万里だから残りは2千余里だ。短里で計算すれば邪馬台国まで160km程度。ということは邪馬台国がほぼ九州の中に在ることは明らかだ。大和説のように、そこから急に長里に戻すわけには行かないだろう(^^)/

だが、あるべき場所にないと困るから、末廬国で磁石の向きを90度操作して、実際には東だが、南に水行二十日で投馬国、水行十日陸行一月で邪馬台国とべら棒な行程を書いたわけだ。

そして邪馬台国大和説は魏志倭人伝の記述と考古学の発見が一致しない。九州説の中では有力な山門説や筑紫平野説でも、魏志倭人伝に「女王国の東(本当は北)千余里の所にまた国がある。皆倭種である」という記述を無視している。

宇佐市から周防灘を北に渡ると防府市の佐波川辺りに弥生集落があるから、九州説では宇佐説しか該当しない。宇佐には卑弥呼の墓の伝承もあるし、伊勢神宮と同格以上の皇室にゆかりがあり、神武天皇よりも圧倒的に数多く祀られている応神天皇を祀る宇佐神宮が存在するから、ここが最有力の候補地ということになる。しかし、戦乱の時代に宇佐平野は海からの襲撃に弱く、危険なので、駅館川の上流に遡ると、安心院盆地に女王の宮殿と見られる三女神社のある弥生後期から終末期の宮ノ原遺跡が見つかった(【新説】邪馬台国はここだ!(その5))。

全ては倭王帥升が奴国王を追放したことから始まり、旧奴国王族との抗争から倭国大乱が起こり、最終的に旧奴国王族の血を引く狗奴国ヤマトの大王が倭国を奪還したと推理してすべての謎が解けたわけだ。

最初に報告書を書いた梯儁は自分の仕事を帯方郡太守に評価してもらいたい一心だったと思う。伊都国の男王は、日増しに倭国に圧迫を与える旧奴国=狗奴国を抑えるには魏の力が必要だと切羽詰まった気持ちからこういう偽りの報告書を書かせたと推察される。

こう考えると、今までの魏志倭人伝の解釈はまじめすぎると評価できる
これもすでに述べたが、魏の将軍司馬懿のライバルの曹真が西域の大月氏と同盟させて蜀に圧迫を加える功績があった。魏の時代には洛陽から大月氏の都カーピシーまでシルクロードを通ってキッチリ1万6千3百7十里と知られていた。司馬懿の功績はもっと大きいと主張したかった。司馬懿が、曹操と敵対する孫権の呉に圧迫を加える戦略上の好位置にあり、かつ、カーピシーより遠い所にある東夷の大国「倭国」を支配下に置いたとしたい。だから洛陽から楽浪郡まで5千里、プラス、帯方郡から1万2千余里の合計1万7千里を優に超える場所に邪馬台国があるとサバ呼んだわけだ(岡田英弘「日本史の誕生」弓立社,pp.48-72 に詳しい)。たまたま周代に短里が使われたとしても魏の時代に同じ国で長里と単里が使われたなどとは考え難い(^^)/

考古学専門の方は史書を軽視し、「記紀は虚構だから最初から受け付けない」感じの方もいるようだ。一方、文献史学者で考古学に疎い方は史書に記されたものの真偽が分からない。中々、安本美典氏のような両方に精通された方が少ないので、諸説に合理的な評価を下せないから邪馬台国問題が長引いているようだ。先に「日本は古の倭の奴国だ(^^♪」で邪馬台国の仮説の優劣に関する安本氏が提案した下の基準に従い、刮目天仮説を述べたが、ヤマト王権成立からその後までの歴史を概ね矛盾なく説明できる、論理的にもすっきりした仮説だと考えている(^_-)-☆

 邪馬台国問題の解決のためには、つぎの四つの問題について、
統一的総合的な見解が与えられる必要があると考えられる。

(1) 卑弥呼は、日本の古典に記されている誰にあたるのか。
(2) 邪馬台国はどこか(これは7万戸の人のすむ広い地域)
(3) 卑弥呼の宮殿はどこか(これは狭い地域)
(4) 卑弥呼の墓はどこか。

これらを、どれだけ統一的に説明できるかによって説の優劣が決まる。


ということで、今回は考古学による更なる検証はスキップしましたが、次回も検証を続ける予定ですので、疑問点などがあればよろしくお願いします(●^o^●)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

【検証2】前方後円墳のルーツ?

2017-01-14 00:20:00 | 古代史
前方後円墳のルーツ発見か 奈良で弥生末期の円形墓
田中祐也 2016年5月12日19時42分 朝日新聞デジタル

 奈良県橿原(かしはら)市の瀬田遺跡で弥生時代終末期(2世紀中ごろ~後半)とみられる円形の墓が見つかった。奈良文化財研究所(奈文研)が12日発表した。円形の一部に四角い突出部があることから、専門家は「前方後円墳のルーツではないか」と指摘する。

この記事に写真があるが、円墳の周りに溝があり、一部だけ円墳への通路で溝が切断されている。前方部が外に少し開いた形の通路だ。前方後円墳と見えなくもない。この古墳が場所と言い、時期的にも前方後円墳のルーツと言えそうだ(●^o^●)

と云うことは奈良盆地ヤマトが前方後円墳の発祥地で間違いないね。

3世紀半ば過ぎに纒向遺跡の箸中に築造された大型古墳で、大物主の妻倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)の墓という伝承のある箸墓古墳が卑弥呼の墓、つまり卑弥呼は倭迹迹日百襲姫命という邪馬台国大和説がさぞ盛り上がったことだろう(^^)/

でも何度も述べたとおり、纏向遺跡が出現した時期(180年から210年)の外来土器に北九州のものが見られないことから邪馬台国ではないんだけど(^_-)-☆

それで、九州で最古級の前方後円墳を見ると、3世紀中葉に築造された福岡市博多区那珂1丁目の那珂八幡古墳(なかはちまんこふん)と言われている。Wikiに依れば、後円部から見つかった2基の主体部のうち1基から、三角縁神獣鏡などの初期古墳に典型的な遺物が出土しており、福岡平野の首長の墓と推定されている。

出土した三角縁神獣鏡は直径約21.8センチメートルの三角縁五神四獣鏡で、同笵鏡(同一の鋳型,または原型から作られた鏡)として、京都の椿井大塚山古墳、岡山市の湯迫車塚古墳で出土したものや奈良の富尾丸山古墳出土品と伝えられている鏡などが知られている。

刮目天の仮説では第二次倭国大乱の時期ヤマト勢が北九州の邪馬台国連合倭国を攻撃し、占領したから、その時期に造られたものだ。

宇佐市を南から北に流れる駅館川右岸の台地に川部・高森古墳群があり、6基の前方後円墳を中心として、周辺に約120基の円墳や周溝墓が集積している。6基の中で最大の前方後円墳が赤塚古墳(全長57.5メートル、後円部の直径36メートル、高さ4.8メートル、前方部の幅21メートル、高さ2.5メートル)で、これも3世紀末に築造された九州最古級の前方後円墳だ。特徴だが、石室に箱式石棺が有り、副葬品として三角縁神獣鏡4面・三角縁龍虎鏡1面・碧玉管玉、鉄刀片、鉄斧などが出土している。銅鏡は、椿井大塚山古墳(京都府)、石塚山古墳(福岡県)、原口古墳(同)出土のものと同笵鏡であるとされており、初期のヤマト王権が各地の首長に与えたものであると考えられている。

那珂八幡古墳の被葬者と同様に在地の首長という推定だが、刮目天の説では狗奴国ヤマトから邪馬台国連合倭国の追討でやって来た地方の首長(王)か将軍の墓ではないかな。

赤塚古墳の鏡が、那珂八幡古墳の鏡と同じく京都の椿井大塚山古墳の鏡の同笵鏡だったというのが凄い。

また、赤塚古墳と椿井大塚山古墳は石室の中に石棺が置かれているタイプだから、魏志倭人伝に記述される邪馬台国の墓の形式「棺あって槨なし」とは違うもの。だから、宇佐の赤塚古墳は明らかに邪馬台国の墓じゃない、外来のモノ=狗奴国のものだ(^O^)/

那珂八幡古墳の場合は割竹形木棺を石槨を造らず墳丘に直接埋葬した直葬形式と確認されているから、被葬者はひょっとしたら死んだ伊都国の男王なのかも知れないね。男王の親族がヤマト王権に恭順の意を表すために造ったものかも知れないぞ(^^)/

今回はここまで。ヒントになるコメントなどもらえると嬉しいですよ。次回もよろしくお願いしますね!(^◇^)

【参考】邪馬台国の会「前方後円墳は畿内説の優等生 」毎日新聞連載 「深読み日本史 邪馬台国」第三回より

付録】ヤマト王権の誕生と成長
北九州における前方後方墳の築造時期およびヤマト王権支配下の各地での前方後円墳築造の時期を図に示した。
 
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

【検証1】佐賀に近江の土器が?(^O^)/

2017-01-11 22:24:00 | 古代史
弥生終末期の動乱に迫る「外来系土器」

 吉野ケ里遺跡(神埼市郡)で出土した「外来系土器」のルーツの解明が進んでいる。他地域から持ち込まれた土器は「畿内系」などと推定していたが、地域が具体的に絞られてきた。同遺跡は、九州では珍しい「前方後方墳」も存在するなど、弥生終末期には他地域の政治・文化の影響を強く受けていたとみられる。県文化財課は「交流を調べることで、弥生から古墳時代へ移り変わる動乱期の実態や前方後方墳の謎に迫れるかもしれない」と期待している。

 7月下旬に吉野ケ里歴史公園で開かれた考古学者約70人の研究会で、複数の学者が型や文様、発色などから外来系土器の具体的な地域を判定した。同遺跡で出土した外来系土器は約190点。これまでは畿内系、西部瀬戸内系など幅を持たせて呼んでいたが、今回の研究会で十数点の出自が特定された。

 県文化財課が「畿内系」としていた「手あぶり型土器」は、滋賀県守山市周辺で出土した土器と同型であることが判明。県文化財課は「土器に使われた土が吉野ケ里とは異なる。何らかの交流があったのは間違いない」とする。



手あぶり型土器(同記事より)

 吉野ケ里の南内郭で見つかった4基の前方後方墳は、弥生終末期に出現。甕棺(かめかん)や石棺(せっかん)で埋葬していた吉野ケ里で、なぜ近畿でよく見られる前方後方墳が造られたのかは明らかになっていない。県文化財課は「『墓制』が変わるということは、集落にとって非常に大きな変化。当時の守山市の集落との関係を調べることで、何か分かるかもしれない」と解明に期待を寄せる。

 守山市文化財保護課によると、吉野ケ里の手あぶり型土器は弥生終末期から古墳時代初頭に作られたとみられる。「関東では、前方後方墳の発生とともに手あぶり型土器が流入している。両者は文化的にセット関係にある」と説明。「九州北部でも、近畿の文化要素が波及したのでは」とみる。

 このほか、奈良県地域の土器と考えられていた庄内甕は、福岡市付近で作られたと特定。瀬戸内地域産とみられていた加飾つぼは、岡山市付近の土器と同型であることも判明した。吉野ケ里遺跡にさまざまな地域の土器が持ち込まれているが、吉野ケ里から何が見返りとして持ち出されたのかは分かっていない。

 県文化財課は「弥生から古墳時代に移り変わる当時の状況はよく分かっていない。外来系土器のルーツを手がかりに、交流があった地域との関係を詳しく調べたい」としている。

 ■外来系土器 他地域で作られたものが持ち込まれたり、それを模倣して作られた土器。他地域の年代を並行的に調べることができるほか、物資や人々の往来を知る手がかりとして注目される。吉野ケ里遺跡では朝鮮半島や北九州、近畿などさまざまな地域の土器が出土しているが、これまで詳細な絞り込みはできていなかった。
(2013年08月26日更新 佐賀新聞)


外来土器が古代史解明に大きな役割を果たすことは前に述べたとおりだ。

3世紀初頭に突然奈良盆地の三輪山麓に出現した政治都市の纏向遺跡に、北九州から来た土器が見つからないのは邪馬台国大和説が間違いである端的な証拠だった。魏志倭人伝では大率を伊都国(福岡県糸島市)に置いて、女王国より北の諸国の検察させたとあり、もしも邪馬台国が纏向にあったというなら、この時期に北九州の土器が纏向遺跡で大量に見つからねばならないからだ。

同様に、この記事の外来土器などの情報はかなり有用だ。近江の手あぶり用土器が見つかったということは、近江の人々が佐賀までやってきたと考えていい。前方後方墳は近江から主として東国に波及・分布しているから近江勢の勢力範囲ということだ。古墳の形式は、その地方がどの勢力圏にあるかを示すものだと言える。初期の古墳は首長祭祀が目的だから、同じ形式ならば同じ血族関係、つまり先祖を同じくする同族と考えられるね。

東近江市の神郷亀塚古墳の前方後方墳が最古のものだと言われているが(3世紀前半)、佐賀県鳥栖市にある赤坂古墳が九州最古級(3世紀後半)の前方後方墳と言われている。

「第2話 神功皇后は邪馬台国の女王?」で述べたように卑弥呼の宗女台与は近江と越の女王だから、台与が九州遠征に連れてきた同族の将軍らの墓ではないだろうか。

台与と言う名前だが、「魏志倭人伝」によれば「邪馬壹国」と同様「壹与」と記されている。しかし、前回述べた通り邪馬壹国は邪馬臺国の「臺」の字を避けて、似た漢字「壹」と書いたのと同じ理由だ。意味的にも東夷の女王に「臺を与える」などと書けば皇帝が激怒して、報告者のクビが飛ぶ。司馬懿のクビも怪しくなるはずだから絶対にこの字は書けない!

「臺与」はトヨの発音から書いたのは明らかだが、後に「豊(とよ)」という字が女王台与を意味するものとして使われたのだろう。

刮目天は投馬国を遠賀川流域と下関を含み企救郡から京都郡を含む行橋平野がその領域だと考えている。そして邪馬台国だが、豊前市から中津・宇佐までの豊前平野は豊前、豊後高田から国東半島とその南の大分平野などは豊後と呼ばれている。つまり豊(トヨ)の国=邪馬台国を意味している。やはり中心は豊前と豊後の境の宇佐の安心院盆地だったと分かる。

トヨが女王になった当時(248年頃)はまだ、戦乱が続いていた訳だから防衛上女王の宮殿は安心院盆地のヤマトに置いたが、266年に魏から帝位を禅譲された晋に素早く朝貢したその時期は非常に落ち着いていたのだろう。だからこそ前に述べた青大勾玉を糸魚川から手に入れて晋に貢物として贈れたと云える。そのころ奈良盆地の狗奴国はトヨ(神功皇后)とスサノヲ(武内宿禰)の倭国に圧倒されて、必死で対応策を練っていたのだろうね(^_-)-☆

だから、この平和な時期には投馬国の周防灘に面した京都平野は半島南部の倭人や辰韓のシナ人などや日本列島各地の珍しい産物を持ってくる倭人や縄文人などで賑わったのではないだろうか。豊津という地名が現代に残っているのは、女王トヨに因む地名だから、女王トヨは何度か滞在したのだろうね【注1】。

勿論、九州の穀倉地帯の筑紫平野にも度々訪れたはずだ。神功皇后に因む地名などが北九州各地に残されている。そういえば、宇佐神宮名物の「宇佐飴(うさあめ)」も神功皇后に因むものだったね。

なお、上の佐賀新聞の記事の最後の方にあった、奈良盆地の庄内甕が福岡付近で作られたものだという発見だが【注2】、古墳時代に入る直前の弥生時代終末期(180~300±20年)ということだ(石野博信討論集「倭国乱とは何か」新泉社,p.83)。だが「第3話 ヤマト王権成立の謎?」で述べたように、既に卑弥呼が女王に共立された後の第二次倭国大乱で狗奴国ヤマト勢が北九州の倭国を討伐した248年ころからヤマト王権が成立する280年ころまでの話だ。この時代、北九州と奈良盆地の人的・物的交流が盛んになったことを示している。だとすれば仮説が正しいという証拠のひとつだね(●^o^●)

今後は、「第3話 ヤマト王権成立の謎?」で図示したヤマト王権成立過程の仮説の考古学による検証について、もう少し詳しく述べるつもりだ。また、お付き合いくださいね(^O^)/

【注1】7世紀初頭に隋の煬帝のヤマト王権への使者が、竹斯国(筑紫国)から東へ向かい、この京都郡(みやこぐん)の辺りで、陝西方言のシナ語を話す人間が多く集まっているのを見て秦王国と呼んだと考えている。新羅の前身の辰韓は秦の始皇帝の圧政を逃れたシナ人が集まって村を作ったようだ。倭人も混ざって盛んに鉄を採ったところだ。倭国東北1千里にある多婆那(タバナ)国から来た倭人の脱解王伝説もあるね。多婆那国が「丹波の那国」だとすれば奴国を追放された第18代国王スサノヲ(初代)のことかも知れないね(^^)/

【注2】2007年9月4日 矢塚古墳の前方部を確認(桜井市広報「わかざくら」)なのか確認できていない。しかし福岡の庄内甕については、福岡市博物館のアーカイブNo.305[平成19年9月4日(火)~平成20年1月14日(月祝)]に以下の記事が載っていた。どうも、最初の佐賀新聞の記事と見解が少し異なるようだ。
人が集い モノが集う
(途中省略)
奈良盆地では庄内式土器とよばれる、非常に薄手で軽い甕が作られました。この奈良盆地産の庄内甕は単に福岡平野に持ち込まれただけでなく、在地の土器作りにも影響を与え、庄内甕とよく似た甕が作られるようになりました。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加