刮目天(かつもくてん)のブログだ!

反日ニュースと古代史の謎を中心に日記を書きます
目覚めよ日本人!

【検証4】平原王墓の被葬者は誰だ?(^_-)-☆

2018-01-04 14:34:24 | 古代史
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卑弥呼の墓は、すでに発掘されている!!
考古学者の森浩一は、福岡県糸島市の平原(ひらばる)古墳の年代が、卑弥呼の年代と重なる可能性を述べている(『日本神話の考古学』朝日新聞社刊)。                
平原王墓発掘者の原田大六は、この墓を、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の墓とする。考古学者の奥野正男氏は、この墓を、卑弥呼の墓とする。吉野ヶ里遺跡の発掘で著名な高島忠平氏も、この墓が、卑弥呼の墓である可能性があるとする。古代では、後の時代でも、都の場所と天皇などの墓が遠く離れていることは、よくあることである。    
平原王墓出土の青銅鏡の質と量とは、他の遺跡から、超絶している。
平原王墓からは、直径46.5センチに達する大鏡が五面出土している。       
わが国では、弥生時代~古墳時代を通じて、約五千面の青銅鏡が出土している。その五千面ほどの鏡において、面径のトップ5は、すべて平原王墓というただ一つの墓がしめるのである。このような遺跡が、今後出現する可能性は、まずないといってよい。
平原王墓=卑弥呼の墓の可能性をさぐることからはじめるべきである。


Wikiによれば、『平原遺跡は弥生時代後期から晩期の5つの墳丘墓を合わせた名称である。 1965(昭和40)年1月、平原遺跡1号墓が偶然発見され、原田大六を中心に学術調査された。昭和63~平成11年度にかけて、1号墓周辺に調査範囲を広げて、最終的に5基の墳丘墓が発見されている。 この遺跡は「平原歴史公園」として、1号墓のみが墳丘墓として復元管理されている。

1号墓からは直径46.5センチメートルの鏡5面を含む鏡40面をはじめとして多数の出土品があり、その全てが「福岡県平原方形周溝墓出土品」の名称で2006年、国宝に指定された(文化庁所有、伊都国歴史博物館保管)。』
であり、遺構の配置や副葬品などは邪馬台国大研究ホームページ / 遺跡・旧跡めぐり / 平原遺跡に写真入りで詳しく解説されている。


(「内行花紋八葉鏡」写真は邪馬台国大研究ホームページより

この直径46.5cmの大鏡は、記紀神話での天照大神の岩戸隠れの際に、天照大御神自身を映して、興味を持たせ、天照大御神を岩戸の外に引き出した八咫鏡(やたのかがみ)と寸法がほぼ一致するものだ(注1)。そして、瓊瓊杵尊(ニニギ)が天孫降臨に際し、天照大神からこの八咫鏡を授けられ、天照大神自身だと思って祀るようにとの宝鏡奉斎の神勅が下された鏡だ。なので、三種の神器のひとつとして宮中や伊勢神宮などに奉じられているとのことだが、誰もよく見たわけではないようだ( ^)o(^ )。

平原王墓の八咫鏡は天照大神のシンボルなので、原田大六は卑弥呼の前の時代の天照大神の墓と考えた。安本美典は卑弥呼が天照大神と考えて平原王墓が卑弥呼の墓と考えているようだ。だが、刮目天は卑弥呼と男性神の天照大神は当然別人で、被葬者も卑弥呼ではないと考えている。以下に、詳しく説明しよう(^_-)-☆

神話には、その民族の伝承として人々を和ます効果があり、歴史的事実の反映とみられる部分もあるが、作者が歴史的事実を知っていた場合、何故神話にしたか考えないと騙される。

日本神話の場合、記紀編纂当時の権力者にとって不都合な歴史的事実を隠し、主に皇位継承の正統性・正当性を主張するために皇祖神を女神とする遠い昔の神代の話として創作されたものだ(712年古事記、720年日本書紀が完成)。日本書紀編纂の担当者らは「魏志倭人伝」を引用しているので日本の建国当時のことをある程度理解していたし、神社や各氏族に伝わる様々な伝承を強権で集めて一本化するための作業を行ったことが知られている。だから、日本書紀が完成した後に、その内容に不満を持つ人々もいたはずだ。先に完成したといわれる古事記の序文は、後代の人間が書いたことが分かっており、歴代天皇の崩御年や神話についても日本書紀と内容が違っている。(第4話 何故、「日本書紀」は歴史を隠す?)。

686年、日本書紀編纂を命じた天武天皇が崩御して、4年間空位の時期を経て皇后の鸕野讃良(うののさらら、父は天智天皇)が即位した(持統天皇 在位690- 697年、崩御703年1月13日)。彼女は自分の生んだ皇太子の草壁皇子を即位させたいと考えたが、病弱で689年に薨去したので、天武天皇の他の優秀な皇子らを抑えて、草壁の子である幼い軽皇子(後の文武天皇)を将来即位させるために、取り敢えず自分が皇位を奪った。その事実を隠ぺいし、正当化するために、天孫降臨神話を作った。

実は日本書紀完成から260年も後になるが、雍熈元年(984年)、日本の僧奝然(ちょうねん)が宋の太宗に献上した『王年代紀』がシナの正史『宋史』「日本国」に記載されている(第4話 何故、「日本書紀」は歴史を隠す?付録参照)。その中で、記紀で神代とされた神武天皇以前に、初代天御中主(アメノミナカヌシ)として23代の王が筑紫の日向宮に居たことが明らかにされ、奴国王を指すものだとわかる。古事記でも最初の神は「天御中主」ということである。「中」はナーガ=蛇を意味し、蛇神を祀る種族であるため、西暦57年に後漢光武帝より奴国王に与えられた金印の紐(つまみ)が蛇のデザインであることからも初代奴国王だと分かる。さらにヤマト王権の発祥地纏向遺跡のある三輪山の「大物主大神(=大国主命)」も御神体は蛇であり、ヤマトを作ったことが日本書紀に書かれていることからも、「日本は古の倭の奴国」というシナの歴史書に見られる記述に間違いない(第1話 ヤマト王権は狗奴国だった?)。

記紀編纂者は、『王年代紀』第19代奴国王の天照大神尊を女神にすり替えて、持統天皇自らを皇祖神アマテラスとする神話にしてヤマト王権誕生の真相を隠した(注2)。第18代奴国王素戔嗚尊(スサノヲ)を乱暴者の弟として高天原神話を創作したが、高天原は第17代奴国王伊弉諾尊(イザナギ)が直接支配下に置いた筑後川以北の筑紫平野であると考えている(注3)。

日本書紀では一人の人物の事績を時代が異なる別の人物に似たような事績を割り当てて、何が歴史の事実なのかをぼやかす手法を多用している。しかし、編纂当時の権力者持統天皇の和風諡号が「高天原廣野姫天皇(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)」であることからも、高天原神話を作り、自ら皇祖神アマテラスとしたことが窺える。さらに、アマテラスや神武天皇を祭神とする神社はスサノヲや応神天皇を祭神とする神社と比べると、圧倒的に少ないことも創作だということを支持している。

刮目天は第19代奴国王の天照大神尊が天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(ニギハヤヒ)のことだと考えている。

さて、「魏志倭人伝」で記述された247年の卑弥呼の死と関連して、北九州市から宇佐市付近で見られた可能性のある3月24日の日食の記憶から、記紀神話において女神アマテラスの岩戸隠れ神話が創作されたと思われる。『アマテラスの別名は「大日孁貴」(オオヒルメノムチ)であり、この「ヒルメ」の「ル」は助詞の「ノ」の古語で、「日の女」となる。意味は太陽に仕える巫女のことであり、卑弥呼(陽巫女)と符合するとする。』Wiki「卑弥呼」より)

しかしもしも、卑弥呼が皇祖神アマテラスであるならば、「ここが天の岩戸だ」という確実な伝承があるはずだが、九州では宮崎県西臼杵郡高千穂町大字岩戸 - 天岩戸神社をはじめ沖縄県や山口県、兵庫県、岐阜県など約20か所存在するが、いずれの天の岩戸も日食との関連はなさそうだ。

そして、もしも女神アマテラスが平原王墓に眠っているのならば、女神が隠れた天の岩戸の伝承がその付近にないのは腑に落ちない(注4)。天の岩戸と墓所が別々ならば、何故伊都国平原に埋葬されたのか、記紀に何らかの記述があってもいいだろう。記述がないということは、卑弥呼が殺された場所を知られたくないからこそ神話にしたということのようだ。

しかも、前述のとおり『日本書紀』「神功皇后紀」に「魏志倭人伝」の卑弥呼の朝貢と翌年の魏の遣使の記事などを挿入している(注5)。このことから神功皇后を卑弥呼と思わせる意図が見られるが、神功皇后紀66年に女王台与による晋への朝貢記事が挿入されていることから、台与かも知れないとして曖昧にしている。

このことからも、刮目天は関祐二が唱えた神功皇后=台与説を採用している(第2話 神功皇后は邪馬台国の女王?)。そして神功皇后は自ら斧・鉞を持って大奮闘した類まれな女傑として、九州の熊襲・土蜘蛛退治、新羅征伐、応神東征などでヤマト王権創建に大貢献したと描かれている(注6)。しかし、4世紀から5世紀にかけてのヤマト王権による朝鮮半島進出において、特に倭の五王がシナ王朝から官位を賜った事実などを隠ぺいする目的から神功皇后の新羅征伐として創作されたものと見られる。

刮目天はすでに、卑弥呼が、日本書紀の一書にあるという宇佐嶋に降臨した宗像三女神の一人「イチキシマヒメ」であり、宗像大社辺津宮や厳島神社で祀られている祭神だと突き止めている【検証3】『神宿る島』宗像・沖ノ島の謎 )。狗奴国の追討軍(注7)が邪馬台国に迫った時期に北九州市付近で皆既日食が観測され、神通力が衰えたとして、伊都国の男王によって殺されたと推理している(注8)。この八咫鏡は筑前国風土記逸文に宗像大社辺津宮に奉納されたと記されていることからも、卑弥呼をイチキシマヒメとして記録しているようだ。

また、女神が殺されたというのならば、誰が殺したかは暴れ者のスサノヲであろう。そして、岩戸から出てきたのは同じ女神アマテラスではあるが、実際に起こった事象を考えると、「魏志倭人伝」では亡くなった卑弥呼の宗女で13歳の台与(トヨ)が女王を継いだとの記述があり、岩戸から出た女神が台与であることを示唆している。宗女は宗家の血縁の女姓ということであり、卑弥呼と血統的に同族であり、台与に倭国女王としての正統性があることを「魏志倭人伝」が主張している(注9)。

ここで、平原王墓(1号墳)の被葬者に話を戻す。

まず、卑弥呼の墓なら、「魏志倭人伝」に径百余歩とあり、直径150mほどの円形墳ということであるが(注10)、平原王墓は12×10mの方形墳丘墓である。元は土を盛り上げてあったのだが、江戸時代に削平して畑にした模様だ。だから、安本は2号墳から5号墳まで含む墓域全体が径百余歩だとしているが、東に長辺を持つ40×30m程度の方形状の墓域であり、円形状の墓域としても直径40m程度の円内に収まるから、径百余歩にはとても届かない。

また1号墳の墳丘の中に4.5×3.5mの土壙の中央に長さ約3m、直径約90cmの割竹形木棺が置かれて、その内部が顔料で真っ赤に塗られており、夥しい数の玉類の装飾品だけが収められていたので、被葬者が女王であることを示している。しかし、弥生時代後期の北九州では箱型石棺がよく見られ、それ以前は甕棺がほとんどである。割竹形木棺は古墳時代は普及するが、弥生後期では滋賀県野洲市の市三宅東遺跡の方形周溝墓に見られるものが最古級だ。そして、野洲川下流付近は玉つくりで知られており、平原王墓で発見された玉類を作る工房跡から工具類が発見されている(注11)。

「野洲川下流域は、原石を産出しないが、一大玉製品の産地でした。多くの遺跡で、玉つくりの痕跡を残しており、多くの人が玉つくりに従事していたようです。
原石を入手する強い政治力と経済力を持ち、玉つくりに必要な道具を作る技術を保有していました。多くの弥生遺跡の中でもユニークな存在だったと思います。」
(守山弥生遺跡研究会)

つまり平原王墓の被葬者は近江・越の女王だった神功皇后=台与ではないだろうか?(第2話 神功皇后は邪馬台国の女王? 【検証1】佐賀に近江の土器が?(^O^)/

宗像三女神のイチキシマヒメが卑弥呼、残りの二人(タゴリヒメとタギツヒメ)は大国主と結婚したという伝承があるので、卑弥呼の宗女台与と見ている(注4)。

実は平原王墓の近く、糸島市三雲に御祭神として磐長姫(イワナガヒメ)・木之花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)という二柱の姉妹女神を祀る細石神社(さざれいしじんじゃ)がある。『社殿の背面にある「三雲南小路遺跡(文政5年(1822年)発見)の拝殿」であろうと地元民は云っている。』Wiki「細石神社」より)天孫降臨神話で瓊瓊杵尊が絶世の美女コノハナサクヤヒメを娶る際、父親の大山祇神(オオヤマツミ)が、姉で絶世の醜女?のイワナガヒメをセットにしたが、ニニギは姉を突き返したので、彼女は自分を娶っておけば妹の生む御子は不死だったのに、御子は短命となるだろうという呪いの言葉をかけたという伝説だ。卑弥呼がヤマト王権を呪ったイワナガヒメで、台与がコノハナサクヤヒメに、そしてニニギがスサノヲの直系の大国主命に対応するのではないだろうか。日向三代の神話の天孫降臨の場所は宮崎県高千穂辺りではなく、伊都国と奴国の間の高祖山とその南のクシフル山、さらにその南の日向峠付近であろう。

平原王墓の被葬者の股に日向峠から朝日が差すように安置しているが、原田大六は「実在した神話」(学生社)で以下のように述べている(p.145)。

『被葬者は生前においては、女の司祭者(シャーマン)であり、女の支配者(女王)であったことになる。このシャーマンである女王は、他界して神となった。いうまでもなく女神である。(途中省略)太陽も古代では神であり、男神と考えられた。ギリシャでは「ゼウス」であり、中国大陸では「東王父」である。この男神の霊と女神の霊の結合が、平原弥生古墳の神話の構成であった。女神は「太陽の子」をみごもった。だからその女神の子孫はすべて「太陽の子」として生まれてきたと神話は語るのである。このようにして、日本における帝王日子観は生まれたといってよい。』

もしもそうであるなら、卑弥呼に子があったことは記されていないから女神アマテラスでもなく、平原王墓の被葬者は卑弥呼ではないことになる。だが、宗女台与が神功皇后なので、その御子は応神天皇であり、父親である太陽神は住吉大神(住吉大社の伝承)、つまりスサノヲの子孫である大国主命=三輪山の大物主大神ということになりすべての謎が解ける。

以前に、卑弥呼の死後倭国を引き継いだ台与(神功皇后)とスサノヲ(実はその血を引く武内宿禰であり大国主命)が、さらにヤマトの大王(ニギハヤヒの子ウマシマジ=崇神天皇)に追討されて、スサノヲは高良山に立て籠もって奮戦し、その間に台与と生まれたばかりの二人の間の子供(ホンダワケ=応神天皇)が筑後川を下り、有明海から南下して野間岬から大隅正八幡宮付近に逃亡したのではないかという関祐二の推理を紹介した。だが今回の検証から、逃亡したのは母親神功皇后(台与)と別れたホンダワケだけで、女王台与も実は伊都国で奮戦し戦死して平原王墓に葬られたということになる。

割竹形木棺の周りに40面の鏡がほとんど破砕されて置かれていた。そして、被葬者の頭部の木棺の上に素環頭大刀が置かれていた。これらは死者の怨霊を封じる目的だ。しかも、女性の被葬者の頭部に鉄刀を置いているということは女武者として大活躍した神功皇后の話と重なり、実際に台与女王はヤマトの追手と戦闘して亡くなった事実を表しているようだ。

そして当時の人々は、ヤマト王権に対して恨みを持って他界した高貴な人物の祟りを最も恐れた。天変地異はそういう人物の祟りだと信じられていた。だから、後の文献「続日本後記」の承和十年(843年)4月の条と「日本三代実録」元慶元年(877年)7月の条にはヤマト建国の英雄で祟るはずのない神功皇后が祟ったので、山稜に使者が遣わされ篤く祀られたという記録が書かれている(第2話 神功皇后は邪馬台国の女王?)。

やはり、平原王墓の被葬者は卑弥呼ではなく宗女台与(神功皇后)だろう!(^_-)-☆

女王台与が何時亡くなったのかははっきりしないが、台与が晋に朝貢した266年以後で呉が滅んだ280年までの間だろう。崇神天皇は、ヤマト王権の後ろ盾が無くなり晋に滅ぼされるのを怖れ、南九州で逼塞していた親晋倭王台与の子ホンダワケをヤマトに呼び寄せ応神天皇として即位させたと考えている。

「日本書紀」崇神天皇五年に疫病がはやり、民が半数以上死んで世の中の乱れたのは大物主大神が祟ったとして大神のお告げにより、子のオオタタネコを呼んで祀らせたら治まったとあり、オオタタネコが応神天皇のことだろう。また、彼女を埋葬したのはヤマト王権サイドだということも前述のとおり、怨霊封じのための副葬品から分かる。

神功皇后の陵墓に治定されている五社神古墳(ごさしこふん)は、奈良市山陵町(みささぎちょう)にある墳丘長267m、高さ27m(後円部)の前方後円墳であり、佐紀盾列古墳群を構成する古墳の1つであるが、実際の被葬者は分かっていない。4世紀の築造とされている。神功皇后の陵墓に治定される以前は垂仁天皇の皇后日葉酢媛命(ひばすひめのみこと、生年不詳 - 垂仁天皇32年7月6日)とWikiにあるが、どういう根拠でそうなっているのか不明だ。

むしろ、桜井市外山(トビ)にある築造年代が3世紀末から4世紀初頭の墳丘長207m、高さ23mの前方後円墳である桜井茶臼山古墳(さくらいちゃうすやまこふん)は、平原王墓の後の時代の築造だが、同様な副葬品が収められただけでなく、破砕された銅鏡が81面分あり、古墳の後円部の空濠の外に、宗像神社があるので、副葬品の状況を把握していないので分からないが、神功皇后を大和盆地で再葬したのかもしれない。


最後に、天皇陛下のご譲位を市民テルン系マスメディアが退位などと不吉な皇統断絶を示唆する不敬な言葉で報道しているのはけしからんを通り過ぎて、日本人として情けなく思う。彼らはご皇室の伝統を破壊する女系天皇を考えており、根拠を皇祖神アマテラスが女性だからとしているようだ。しかし、刮目天が調べたところ、女神アマテラスはねつ造で、初代王天御中主(アメノミナカヌシ)に始まる男系男子で皇統を継いでいるのは明らかだ。

なぜなら、本文で述べた通り国家に祟る怨霊を抑え、国家鎮護と国民の安寧を祈念する霊力は皇統の男系男子の天皇陛下以上のものはないからだ。

これは非科学的だという指摘は当たらない。日本は自然災害大国だ。人知を超えた自然現象が突然わたしたち日本国民の生活を破壊する。防災・減災を合理的にする方法は科学的にできるが、予知不可能だ。そういう特殊な自然環境が、伝統的に互いに助け合う素晴らしい国民性を育んだ。だから文化の違う外国人の移民を安易に受け入れられない理由がここにある。

もしも女系天皇の配偶者を臣民や外国人から選ぶとしたら子供の代で王朝交代が行われることを意味し、天皇が持つ最高の霊力が失われる。伝統ある日本国の象徴としての権威も消える。つまり、反日国家の人間でも誰でもが日本の皇室・天皇になれるチャンスがあるという日本を崩壊させる現象が起こる。もしも日本からご皇室が消えたら、ご皇室を尊崇する日本は消滅してしまう。日本消滅を意図している市民テルンの謀略を見破らなくてはならない。GHQに排除された旧宮家の復活がとても重要だ!

日本国民はGHQ傀儡政権による占領政策を止めないと日本は消滅する!


(ホケノ山古墳は炭素14による年代推定から4世紀初頭というのが有力な説だが、ヤマト王権成立の過程を考慮すると図のとおり3世紀後半の可能性も捨てきれない。)

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(注1)咫(あた)は円周の単位ともされ、約0.8尺である。八咫鏡は直径2尺(46cm 前後)の円鏡を意味するとWiki「八咫鏡」にある。また、この平原王墓(平原1号墓)の副葬品の青銅鏡計40面の内訳は、
・直径46.5cmの日本最大の大鏡内行花文八葉鏡・・・・・・・5面
・他の内行花文鏡(「大宜子孫」「□宜子孫」銘) ・・・・・・・2面
・方格規矩四神鏡               ・・・・・32面
・虺竜文(きりゅうもん)鏡           ・・・・・・・1面
であり、方格規矩四神鏡が庄内様式土器の邪馬台国時代のものであるとこの本の中で安本美典が説明している。また、考古学により定めた年代には前後60年の幅があるという森浩一の説を紹介している。

(注2)日本書紀は天武天皇の命により編纂された。日本のアイデンティティを主張するために、後漢から金印を賜って、冊封体制に組み込まれた奴国の王の一族がヤマト王権を成立させ、日本という国家を作ったという事実を徹底的に隠す意図が見られる。倭の五王やそれに先立つ大倭国=大和国の対外交渉などの事績も隠すために、神功皇后の三韓征伐という神話に押し込めたと考えられる。ヤマト王権成立の事実は後に淡海三船によるものと言われる漢風諡号を見ると、神の名の付いた4人のキーパーソン(神武・崇神・神功・応神)が浮かび上がり、同一年代の人物と考えられる。関祐二は神武と応神が同一人物であることを突き止めた。神武と崇神が「ハツクニシラススメラミコト」という初代天皇を意味する全く同じ和風諡号をもつことからも、記紀では同時代の事績を時代も異なる別々の人物を当ててことの真相を誤魔化していると分かる。

(注3)高天原は奴国だ!

(注4)刮目天が卑弥呼の宮殿跡と考えている安心院町三柱台地の三女神社の石鳥居の扁額のひとつに「二女神社」と書かれていた不思議な謎が解き明かされた。

(注5)『皇后紀三十九年、この年太歳己未(つちのとひつじ)。ー魏志倭人伝によると、明帝の景初三年六月に、倭の女王は大夫難斗米らを遣わして帯方郡に至り、洛陽の天子にお目にかかりたいといって貢をもってきた。太守の鄧夏は役人を付き添わせて、洛陽に行かせた。
四十年ーー魏志にいう。正始元年、建忠校尉梯携らを遣わして詔書や印綬をもたせ、倭国に行かせた。
四十三年、ーー魏志にいう。正始四年、倭王はまた使者の大夫伊声者掖耶ら、八人を遣わして献上品を届けた。』(日本書紀(上)全現代語訳、宇治谷孟、講談社学術文庫833、pp.201-202より)

(注6)女王台与が卑弥呼と同様に、呉を後ろ盾とするヤマト王権を裏切り、魏から皇帝の位を禅譲された晋に朝貢したので、追討され非業の死を遂げた。その祟りを畏れ、日本書紀では神功皇后というヤマトに大きな貢献をした女傑として描き、怨霊を慰めたものと考えている。(第3話 ヤマト王権成立の謎?)。

(注7)日本書紀では仲哀天皇・神功皇后の九州出兵の話として伝えているが、仲哀は吉備の大王、神功皇后は越・近江の女王=女王台与、武内宿禰がスサノヲの直系のタニハ(丹波・丹後・但馬)の大王で、卑弥呼が死んだ後に立った男王(仲哀天皇)に皆服さず、殺し合いになり千人が死んだという倭人伝の記述があり、殯(もがり)に神功皇后と住吉大神が夫婦のことをしたという住吉大社の伝承から、神功皇后=台与 と住吉大神=武内宿禰だと関祐二が解読している。刮目天はさらに武内宿禰が大国主命=大物主大神=狗奴国の官である狗古智卑狗=久々遅命、台与=豊姫=多紀理比売命(宗像三女神)=虚空津比売命であり、さらに大国主の妃である沼河比売(ヌナカワヒメ)であると考えると、息子は建御名方神(タケミナカタ)、つまり、卑弥呼と同様に奴国王族に繋がる宗像の一族であるので、宗女で間違いないのではないかと見ている。


(注8)日食に関連して卑弥呼が殺されたことを【新説】邪馬台国はここだ!(その5)女王の居城は?に記述したが、「247 年 3 月 24 日の日食について」(相馬,上田,谷川,安本、 国立天文台報第 14 巻,15-34、2012)で、北九州付近で皆既日食が見られた可能性があることを示した。247年3 月24日(ユリウス暦)の日食に関する記述が三國志と晋書にあることを見つけ247年前後の地球時計遅れ∆Tの値の範囲を特定し、安心院付近でも皆既帯から外れるので辺りは真っ暗にはならないが、深い日食が見られた可能性がある(図8より∆T=8700付近)。

(注9)「魏志倭人伝」によれば、『正始八年(247年) - 倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣、狗奴国との戦いを報告した。魏は張政を倭に派遣し、難升米に詔書、黄幢を授与。
時期不明 - 卑弥呼が死に、墓が作られた。男の王が立つが、国が混乱し互いに誅殺しあい千人余が死んだ。卑弥呼の宗女「台与」を13歳で王に立てると国中が遂に鎮定した。』

魏の塞曹椽史張政はこの戦乱(第二次倭国大乱)の一部始終を見ていた。その張政が倭に着いた時にはすでに卑弥呼は死んでいたと考えられる。265年に魏から帝位が晋に禅譲された。この情報を倭国に居てキャッチし、晋への朝貢を勧めた人物だ。台与は、倭の大夫の率善中郎将掖邪狗(ややこ)ら二十人をつかわし、張政らの帰還を見送らせたから、それまでの18年間倭国に滞在したことになる。卑弥呼の死の模様を伝えなかったのは、新女王の正統性と関係があるからだろう。

邪馬台国大研究・ホームページ /学ぶ古代史/ 帯方郡と日本列島『帯方郡治の位置は、ソウル(京城)から開城付近というのが通説だったが、「朝鮮民主主義人民共和国」黄海道鳳山郡文井面(沙里院)の古墳の内部で、積まれたレンガに「帯方太守張撫夷」の文字が発見され、帯方郡治は沙里院付近との説も有力となった。』とあり、張政が東夷の倭国を鎮撫した功績で帯方郡太守に出世したものと考えられる。

(注10)Wiki「卑弥呼/卑弥呼の墓」によれば一歩 (尺貫法)の単位については、周代では約1.35m、秦・漢代では約1.38m、魏代では約1.44mと言われている。左足を出してから右足の着地する2歩分の距離

(注11)北九州市・城野遺跡 九州最大級の「方形周溝墓」が発掘 11/21現地説明会 2009-11-17 18:56:29
城野遺跡は玉作り工房もすごい!-3/25講演会“輝く弥生の玉物語”開催-
2017-03-30 23:58:13
 この玉造り工房の遺跡は近江から台与女王が誘致したものではないだろうか?

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半島人はシナに任せろ!(^_-)-☆

2017-11-15 15:52:48 | 古代史
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本当は”北”の民は泣いている!
2017年11月10日19:06 宇宙原理さんの日記@my日本


半島の歴史を見れば今の金王朝は朝鮮の人々にとっては極普通の伝統的な支配構造だと思いますよ(*⌒▽⌒*)

それは韓国をみれば分かります!

政権が革命的に倒されて、今までの権力者が鎖につながれたり、殺されたり、自殺したりと、およそ国家の体をなしません!

そう言う人々がわが国に難民として大量に入り、更に帰化までされたら日本は日本でなくなって半島の一部にされてしまいますよ(*`Д´*)

日本を愛する者として、日本が消えてしまうような政策は絶対に許容できません!

コリアンの父系のルーツを見ると、八割位は古代シナ大陸から流れてきた戦争難民です!【参考記事1】

シナ人系(O2) 40.0%
殷(商)人系等(O1b2) 37.3% (内、倭人系O-47z 4.0%)
越人系(O-M95) 2.7%
原始夏人系(O1a) 2.6%
 合 計      82.6%



引き取るべきはシナでしょう!


シナ共産党は20億人分の鬼城を用意していますから、【参考記事2】

そこに入れてもらいましょうよ(*⌒▽⌒*)

習近平も半島はシナの一部だとトランプに講義したようですから、【参考記事3】

安倍さんからも習近平に頼んでもらいましょう!



【参考記事1】
半島の古代史だ(^^♪

主として、Wiki「日本人」に記載されたY染色体DNA分析の結果を、脳科学者中田力氏の「科学者が読み解く日本建国史」PHP新書943に刮目天が加えた以下の考察に基づき、東アジアの民族の父系ルーツを推定した結果を図に示す(カッコ内の記号は遺伝子系譜学国際協会ISOGGの表記、毎年見直されるので注意が必要)。


サムネイルをクリックするともっと鮮明な画像になります(^_-)-☆

縄文人系(D1b) 
現代日本人男性の約40%に見られ、アイヌの80%、沖縄で60%と高頻度を占める。中央アジアから日本列島に到達したハプロタイプD1の中から3.8-3.7万年前に誕生したと考えられている。「最終氷期の約2万年前の最盛期が過ぎると地球規模で温暖化に向かった。最後の氷期である晩氷期と呼ばれる約1万3000年前から1万年前の気候は、数百年で寒冷期と温暖期が入れ替わるほどで、急激な厳しい環境変化が短期のうちに起こった。・・・・温暖化による植生の変化は、マンモスやトナカイ、あるいはナウマンゾウやオオツノジカなどの大型哺乳動物の生息環境を悪化させ、約1万年前までには、日本列島から、これらの大型哺乳動物がほぼ絶滅してしまった。・・・・旧石器時代の人々は、更新世の末まで、キャンプ生活・遊動生活を営みながら頻繁に移動生活を繰り返してきた。・・・・旧石器時代から縄文時代への移行期である草創期には一時的に特定の場所で生活する半定住生活を送るようになっていた。縄文早期になると定住生活が出現する。」このハプロタイプを持つ人々が約1.5万年前から約2,300年前(紀元前4世紀)まで日本列島固有の縄文文化を作った。


原始縄文人系(C1a1)
日本列島固有のハプログループであり(済州島に一体見つかっている)、「崎谷満はC1a1の祖型はイラン付近からアルタイ山脈付近を経由し朝鮮半島経由で日本に到達したとしている[7]。その渡来年代は定かでないが、現存系統の拡散開始は約12,000年前であり、縄文時代の開始とほぼ一致している。すなわちハプログループC1a1は日本に縄文文化をもたらした集団かもしれない。」とある。


北方アジア人系(C2)
約5万年前に中央アジアまたはシベリアまたは東アジア北部(アルタイ山脈〜モンゴル高原付近)で発生したと推定され、北東アジア、中央アジア(カザフスタン)、北アメリカ北西部におけるアルタイ系民族(チュルク系民族、モンゴル系民族、ツングース系民族)やナデネ系民族に高頻度。

遼河人系(N1)
2万年前から2.5万年前に東アジアでハプロタイプNOから分かれたと推定されるNは、ユーラシア北部、シベリア、北欧まで広く分布している。さらにNから分かれて、8,200年前ころに遼河文明を開いたN1の一部が日本列島に進出し、三内丸山遺跡との関連も言われている。図中の日本民族においてN は0.8%であり、その中の何%がN1かは分からないが、図ではNを遼河人系とした。

原始夏人系(O1a、旧O1)
約3万年前に中国南部でハプロタイプNOから分かれたと推定され、このハプロタイプの人々が長江下流のデルタ地帯において紀元前3500年ころから紀元前2200年ころの良渚遺跡にみられる長江文明を築いたと、中田さんは推理している。さらに中田さんは、高度な文明を築いた人々が一夜のうちに消え去った痕跡があり、大洪水に見舞われたと考え、北上した良渚文化のこの集団が3,900年前(紀元前1,900年)ころに黄河中流域で興した、シナ大陸最初の国家が夏王朝であるとの説が有力としている。この人たちは、海を渡って台湾に移住した集団が先住民の約90%を占めるが、さらに台湾を拠点として、フィリピン、インド洋から太平洋の広い地域に及ぶオーストロネシア語族へと広がり、マダガスカルにまで到達する船の民と見ている。

越人系(O-M95、旧O2a)
「現存の全てのO-M95の最も近い共通祖先は約10,800年前にさかのぼると推定されていてかなり古いが、現在からおおよそ6,000年前~5,000年前(即ち紀元前4千年紀)の間に多くのサブクレードを生み出していると見られるため、その頃に中国のある地方から東南アジアへ分布を広げたのかも知れない[1]。この分布拡大は稲作の拡散[12]年代と一致しており、稲作を携えたO-M95に属すオーストロアジア人が中国南部から東南アジア、南アジアへ移住していった歴史が推定される。」とあり、O1b1から分かれたグループである。

さらに、紀元前600年頃 - 紀元前334年に存在したは、「春秋時代に中国浙江省の辺りにあった国。首都は会稽(現在の浙江省紹興市)。後に漢民族形成の中核となった黄河流域の都市国家群の周辺民族とは別の、長江流域の百越に属する民族を主体に建設されたと言われる。越は楚、呉など長江文明を築いた流れを汲むと考えられており、稲作や銅の生成で栄えた。」このハプロタイプO-M95の人々が「広東から南にかけて展開し、東南アジアの稲作民の祖となったが、呉城文化以前の対応する新石器時代の遺跡ははっきりしていない。」と中田さんは述べているが、その末裔が越を作ったと考えている。

O1b2系統[殷(商)人系(旧O2b*)は倭人系O-47z(旧O2b1)を除いたグループ]
28,500年前にシナ大陸で発生したと推定されるハプロタイプO1b2から、さらに12,100年前
に分かれて、日本列島と朝鮮半島に高い頻度で見られるが現在、大陸には存在しない。中田さんによれば「O1b2の拠点は、現在の江蘇省北部から山東省にかけてと考えられ、大汶口文化、山東龍山文化の担い手であった可能性が極めて高い。このグループは日本の成立と深い関係にある」と述べている。また山東龍山文化の担い手が3,600年前頃に夏王朝を滅ぼし、殷(商)王朝を打ち立て、黄河の中・下流域を支配した。」とある。その時、夏王朝の集団は故地長江下流域に戻り、越人の先祖となるO-M95の中に溶け込んだので、越は夏王朝の後を継ぐという考え方がある。越の支配層が原始夏人系O1aであり、被支配民が越人系O-M95であったと推定している。

またこの殷(商)を建てた集団から分離したサブクレードO-47zの集団が約1万年前ころに長江流域(湖南省周辺地域)で水田稲作を始めた人々であると言われる。その後裔で、水田稲作をしながら漁労も行う海洋民族である江南の呉人が、後に日本列島(当初は北九州沿岸部)や朝鮮半島南部に居住地を移して倭人と呼ばれたと考えられる。

夏王朝の王族は姫氏(O1a)であるが、その一族が後に殷周革命によって周王朝を建て、「商(殷)の祭祀を天皇の祭祀とする、日本という国家成立の序曲であった。」と中田さんは述べている。周の先王「古公亶父」の末子季歴の子の昌(文王)が優れた子であったので、「わが家を興すのは昌であろうか」という父の意を量った長男太伯とその弟虞仲が、季歴に後を継がせるため荊蛮の地(長江下流域)へと自ら出奔し、そこで呉を興した。従って呉王族のハプロタイプは原始夏人系O1aで、被支配民がO-47zの集団だった。倭人が太伯の後(太伯には子がなかったので、虞仲の末裔)と『魏略』逸文(『翰苑』巻30)や『梁書』東夷伝に記されているが、倭人の支配層である呉王族のことである。

刮目天は、紀元前473年に越によって滅ぼされた呉の王族が半島南部を経由して福岡県早良平野に集落(吉武高木遺跡)を築き、最盛期(紀元後1世紀)には筑紫平野まで直接支配下に置いた奴国の系統だと考えている。初代王が天御中主(あめのみなかぬし)として『古事記』や『宋史』「王年代紀」に記載され、記憶されていると考えている。この仮説が正しければ、万世一系の天皇家は、現代日本人男性の3.4%を占める原始夏人系O1aのハプロタイプである可能性が高い。

一方、殷周革命によって殷(商)が滅ぼされたが、すでに紀元前1,126年に殷(商)の王族箕子が民を連れて朝鮮で最初の国を興した。紀元前195年、前漢の劉邦配下である燕王盧綰の部将であった衛満が、箕子朝鮮を滅ぼして衛氏朝鮮を興した。『後漢書』には朝鮮王準が衛満に敗れ、数千人の残党を連れて海に入り、馬韓を攻めて、これを撃ち破り、韓王として自立した」と記されており、衛満に敗れた準王は数千人を率いて逃亡し、馬韓を攻めて韓王となった。その末裔が現在の朝鮮民族の1/3を占める殷(商)人系である。

シナ人系(O2、旧O3)
3万から3.5万年前にシナ大陸においてハプロタイプOより分かれ、現在のシナ大陸と朝鮮半島に多数を占める。日本にも約16%見られ(Nonaka et al. 2007)、特に九州では26%と多い(Hammer et al. 2006)。中田さんによれば、「長江中・上流域に留まり大渓文化を開いたグループと、北上して黄河中・上流域に移動し、仰韶文化馬家窯文化などを開いたグループがあることが知られている。」とある。後者が黄河文明で、仰韶文化は黄河中流全域に存在した新石器時代の文化、馬家窯文化は黄河最上流部の甘肅省や青海省に存在した新石器時代後期の文化です。



ハプログループO (Y染色体)より作成(図を一部改変)

【参考記事2】
半島の跡地利用案?(^_^)ノ

【参考記事3】
半島はシナの一部だった(^◇^)


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天皇家が高麗にゆかりがあるのか?(;一_一)

2017-09-21 19:14:50 | 古代史
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韓国紙、「歴代天皇で初」と詳報=埼玉の高麗神社参拝
15:02時事通信


 【ソウル時事】21日付の韓国主要各紙は、天皇、皇后両陛下が20日、古代朝鮮半島にあった高句麗からの渡来人を祭った埼玉県日高市の高麗神社を参拝されたことについて、「私的な旅行の一環だが、歴代日王(天皇)で初めて」と写真付きで詳しく報じた。

 中央日報は、天皇陛下が2001年の会見で「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」と述べたことなどを紹介。「韓国の歴史と文化に関心を示してきた」と伝えた。

 中央日報や朝鮮日報によると、陛下は、神社を案内した宮司に「高句麗はいつ滅亡したのですか」「高句麗人と百済人は、どのような違いがあるのですか」などと質問し、強い関心を見せたという。

 東亜日報は「天皇は訪韓に意欲を示してきたが、実現していない」と指摘。「18年12月または19年3月に退位するとみられており、在位中の訪韓は難しい状況だ」と解説した。


▽国体毀損のご行為・・・
2017年09月21日10:31りょうさんの日記@my日本


とても見過ごすことができない話です(*^▽^*)

高麗神社(こまじんじゃ)をWikiで調べたら、現在の埼玉県日高市の一部および飯能市の一部にあたる高麗郷および上総郷は716年武蔵国高麗郡が設置されたが、その辺りの高句麗からの帰化人が建てた神社のようだ。

666年高句麗の使者玄武若光が我が国に来てそのまま帰化して高麗王(こにきし)として姓を与えられたと日本書紀にあり、高麗神社はこの方をご祭神にしている。668年に高句麗が唐に滅ぼされたが、救援依頼目的で来日し、すでに663年に倭国は白村江の戦いで敗北したので、最早高句麗を助けることができず、彼はそのまま日本に留まったと言うことだろう(^_-)-☆

だから高句麗は百済とは異なり、ほとんどご皇室とは所縁(ゆかり)が無いはずだが、両陛下は半島からの渡来人を近しく感じておられるのかも知れない。コリアンが日本の起源に異常反応していることも理由なのかもしれない。

百済と日本の関係については、桓武天皇の生母高野新笠が百済の武寧王の子純陀太子を先祖とすると『続日本紀』に書いてあるので、ゆかりがあるにはあるが、神武天皇以来の男系男子による万世一系というのが重要なのだ!もしも、男系に臣民の血が入ると王朝交代ということになるからだ。そしてそのような事実は認められないというのが日本の天皇家のすごいところだ(何故万世一系なのか、その理由は括目天の古代史をご覧ください)。

しかし、コリアンたちによる百済が日本の起源というウリナラ起源が拡げらていて、韓国首相も日本の教科書にその記述が無いことで文句を付けているようだ。

日本の皇室の万世一系の意味を理解していない妄言でしかない。

日本・百済説という本を読んだが、考古学的な裏付けはなく、逆に百済人の多くが倭人だったと分かる話だ。これはY染色体DNAハプロタイプの分布からも裏付けられている。百済滅亡で日本に亡命できたのは倭人語を話していたからだが、日本に残る地名を百済が起源だというように根拠が逆立ちしてしまっている。

また百済王家は帰化して天皇の臣下になっていたが、文献のどこにも百済王が日本の支配者だと言う記述もないし、事実ではない(≧◇≦)

半島南部に前方後円墳が造営されていることは5世紀にヤマト王権の支配下にあったことを示すもので、高句麗の広開土王碑の記述とも一致するのはよく知られている。

だから百済の武寧王が日本を統治した物証など皆無!もしもそうであれば日本は百済という国名になっていたはず!また日本の前方後円墳には墓誌が残されない風習があるから、百済やシナの習俗と異なるのは歴然としている!

いつまでもウソを拡散して、あたかも事実のように定着させたいようだ!


しかし、最近特に感じるのだが、日本もシナやコリアに負けず劣らずのねつ造がまかり通っている。

平和憲法のウソや国の借金詐欺=消費増税詐欺は、日本国民がまんまと騙されて日本は本当に危うい状況だ!

日本国憲法は日本の非武装化・属国化・弱体化を目的としてGHQにより国際法に違反して不正に作られたが、GHQに公職追放されるのを恐れた東京帝国大学法学部の共産主義の教授たちが、彼らの保身のために東大の権威とGHQの権力を利用して、すばらしい民主主義国家の憲法だと強弁し、言論統制と洗脳教育で日本国民に定着させたものだ!

自民党や野党の中に潜り込んだ反日国家の工作によって、日本を危機に陥れている日本国憲法の罠から早く日本国民が解放されないと、ダメだ!

すでに独立国家には自衛権があるという従来からの政府の憲法解釈だから、今更9条3項に自衛隊を記述しても、インチキ平和主義で作られる防衛政策に変わりはない。

安倍首相の改憲案は、従来の政府解釈が違憲だったことをカミングアウトするとんでもない改憲案だ!

もしも国民投票で否決でもされたら、日本は法治国家でないと宣言することと同じじゃないか(>_<)

国民の安全・安心な生活を取り戻すためには、日本国憲法を賞味期限の切れた占領政策基本法として国会で廃止し、合理的な防衛政策にするのが待ったなしで最優先だ!

日本国民を危険に陥れる憲法9条は反日国家が一番喜ぶという事実に気付くことだ!

安倍さんは国連演説でも「人づくり革命」と称した教育無償化の話をしているが、大切な子供たちに様々なウソを教えて日本に対する愛国心など持てないようにしているから、まずはこういう根本的な日本国憲法のウソを正すのが先だ!

それに財源を高齢者の社会保障費や消費税増税で賄ううわさがあるが、景気の先行きを悲観的なものにする最悪の手だ!まるで、日本を潰すためにやっているようだ!

デフレ脱却によって国民に安心感を与える、いわゆる国防国債を20年で1千兆円発行するのがベストの案だぞ!

これ以外に、日本の危機を救えない!


ちょっとテーマから外れましたが、お許しください(*^▽^*)

【参考記事】
半島の古代史だ(^^♪ 2017年03月04日03:06 @my日本
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【検証3】『神宿る島』宗像・沖ノ島の謎 

2017-07-12 09:40:16 | 古代史
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<世界遺産>福岡「沖ノ島」登録決定 構成資産8件一括で
07月09日 18:11 毎日新聞

 ◇ユネスコの世界遺産委 国内で文化遺産17件の計21件に

 ポーランドのクラクフで開かれている国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産委員会は9日、福岡県の「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」を世界文化遺産に登録することを決めた。ユネスコの諮問機関は、日本政府が推薦した構成資産8件のうち4件を除外するよう勧告したが、逆転で一括登録が認められた。これで国内の世界遺産は文化遺産17件、自然遺産4件の計21件となる。

 宗像市の沖約60キロに浮かぶ沖ノ島は、4〜9世紀に航海の安全と大陸との交流の成功を祈願する祭祀(さいし)が営まれ、その跡がほぼ手つかずで残る。戦後の学術調査で大陸からもたらされた銅鏡や武器、装身具などの奉献品約8万点が出土し、全て国宝に指定された。宝物の多彩さから「海の正倉院」と呼ばれる。島そのものが神体とされ、立ち入りは原則禁止されている。

 ユネスコの諮問機関「国際記念物遺跡会議」(イコモス)は今年5月、沖ノ島を「古代祭祀の記録を保存する類いまれな収蔵庫」と評価し、周辺の3岩礁「小屋島」「御門(みかど)柱」「天狗(てんぐ)岩」と合わせた「宗像大社沖津宮(おきつみや)」を世界文化遺産に登録するよう勧告した。

 しかし、沖ノ島を望む大島にある宗像大社の「中津宮」や九州本土にある「辺津(へつ)宮」、祭祀を担った豪族の墓とされる「新原(しんばる)・奴山(ぬやま)古墳群」など、古代から現代まで続く沖ノ島の信仰を裏付ける4件は「世界的な価値は認められない」として除外を求めた。

 勧告を受け、文化庁や福岡県などの地元自治体は「宗像大社は3宮で一つで、考古学的な価値と信仰の価値は不可分」と訴え、世界遺産委の21の委員国に8件での登録を粘り強く要望した。その結果、委員国から信仰の価値を評価する意見が相次ぎ、一括登録となった。

 世界遺産を巡っては、富士山が2013年に世界文化遺産に登録された際にも、イコモスが構成資産の三保松原の除外を勧告し、日本政府が再度説明して三保松原も含めて登録された。【伊澤拓也


日本関係者「うれしさで泣きそう」=逆転登録に満面の笑み―世界遺産
(時事通信) 07月09日 20:05

兎に角、全部認められて本当によかった(●^o^●)

沖ノ島は下の図にある周囲4kmほどの孤島で、「縄文前期以降、ほぼどの時代の遺物も少量ながら発見されてはいるが、それらは漁労活動や航海の途中にたちよった程度のもので、とりたてて祭祀遺跡はのこしていない。これにたいして、目を見張るような祭祀遺跡物は四世紀ごろから急に目立ちだし、五~六世紀の奉献品が豪華で、遣唐使派遣の中止される九世紀末までつづく。」(「列島の地域文化」日本の古代2、森浩一編、中央公論社、1989、p.41 )


「魏志倭人伝」で記述された図中の島伝いの「倭人伝ルート」が厳しい玄界灘を渡る半島へのメイン・ルートだ。当時の手漕ぎの刳り舟の時代に、何故、より厳しい神湊から沖ノ島経由で半島に行く「海北道中」ルートが使用されたのか。何故、4世紀から大和朝廷が海人集団の長である宗像君に沖ノ島祭祀をさせたのかよく分かっていない。4世紀後半以降の解明は、「風土記」や「日本書紀」などによってある程度進んでいるが、それらの文献や伝承の内容が編纂当時の政治権力などによりかなり歪曲・ねつ造されているという認識の下で導いた、通説と異なる刮目天の仮説を検証しながら謎を解明しよう。

縄文時代には、玄界灘が穏やかな6月から7月に産卵や子育てで沖ノ島に上陸した二ホンアシカを捕まえるために、主に北九州沿岸部の人々が来ていたことが知られている(「宗像大社・古代祭祀の原風景」正木晃、NHK Books1119, pp.23-31).


弥生時代には中期に製作された瀬戸内海系土器片がわずかに発見されるが、西暦50年頃から出土量が増え、遠賀川流域から周防灘の地域の特徴を持つ土器片、対馬・壱岐で多く見られる土器片や朝鮮半島で発見される無文土器片も出土している。しかし、渡航目的はよく分かっておらず、縄文時代からの推測でアシカ猟と考えるのが自然であるが、それを裏付ける骨や貝殻の綿密な調査は行われていないらしい。(前掲書, pp.31-32)。

沖ノ島の祭祀は上記のとおり4世紀後半から5世紀までは巨岩の上で行われ、6,7世紀は岩陰で、7世紀後半は半岩陰・半露天、祭祀が終了する9世紀末か10世紀初頭までは露天祭祀だった。(前掲書, pp.35-39)。

さて、宗像君が奉斎する宗像三女神(タゴリヒメ・タギツヒメ・イチキシマヒメ)はアマテラスとスサノヲの誓約(ウケイ)で生まれたとして「古事記」も「日本書紀」も共通しているが、下の表のとおり、その伝承はバラバラで、何が本当なのかを分からなくしているのが面白い。特に、「日本書紀」は何かを必死に隠そうとしているとみて取れる。


(サムネイルをクリックすると精細な図になります)
宗像三女神は、元々は倭人である海人族が航海の安全と豊漁を祈願するために祀った女神であり、半島南部の東側では海娘神などと呼ばれ特に若い、未婚の女性神が祀られていることが多いらしい(「玄界灘の島々」任藤権、海と列島文化第3巻、小学館、1990,pp.124-125)。同書によれば半島南部の西側では男神が祀られることが多いとある。那の津(博多)で住吉三神を祀る奴国王族(注1)や志賀島でワタツミ三神を祀る安曇族と(注2)、三女神を祀る宗像君が支配する宗像海人族(鐘崎海人)とは同じ海人族でも少し違うようだ。



鐘崎海人は「和名抄(倭名類聚抄)」にある筑前宗像郡海部(あま)郷に比定される鐘崎や中津宮のある大島に住む海女たちで、アワビなどを獲り、時には壱岐・対馬や響灘から山陰の海岸や北陸の輪島などに移動して漁労採集を行っていた模様だ(同書、伊藤彰,pp.393-395)。男性は海士・白水郎と呼ばれる海人族であり、「魏志倭人伝」にも「倭の水人好んで沈没して魚蛤(ぎょこう)を捕え、文身(イレズミ)するも亦た以って大魚水禽を厭(おさ)えんとしてなり」とあるとおりだ(「倭国伝」藤堂明保ら、講談社学術文庫2010、p.96)。


ここで関裕二さんが指摘する「ムナカタ(宗像)の子はスミヨシ(住吉)でその子がウサ(宇佐)」という宗像大社の不思議な伝承がアタマをよぎる(「海峡を往還する神々」関裕二、PHP文庫、p.188)前にも述べたが、住吉大神は関さんはスサノヲだと推理している。だとすればスサノヲはイザナギが父で、母はイザナミだ。そしてウサは宇佐神宮の祭神応神天皇(ホンダワケ)だから、応神がスサノヲの子?と言うことになる。ところが、既に刮目天は『宋史』「日本国」に記載された「王年代紀」からスサノヲは第17代奴国王伊弉諾尊(イザナギノミコト)の子で、1世紀末から2世紀初頭頃に帥升らによって奴国を追放された素戔嗚尊(第18代奴国王)だとつきとめているので、応神天皇は奴国王直系の子孫だと言える。だからスサノヲの母伊弉冉尊(イザナミ)がムナカタの一族だと考えると伝承のとおりだ。

「日本書紀」では応神天皇は仲哀天皇(注3)と神功皇后の子ということになっているが、これも関裕二さんが指摘するとおり、仲哀天皇が崩御した晩に神功皇后と住吉大神に夫婦の密事があったという伝承が住吉大社にあり、その晩皇后と一緒に居たのは武内宿禰であるから、彼が住吉大神=スサノヲの血を引く王だ。さらに関さんの神武=応神説から推し進めると、仲哀天皇は狗奴国に集まった尾張の王であり、武内宿禰は出雲・丹後・但馬・丹波を支配下に置いた出雲王大国主命(大己貴命オオナムチノミコト)だと分かる。神功皇后は近江・越を支配する女王であり、邪馬台国の卑弥呼の跡を継いだ宗女台与(トヨ)だというのが関さんの女王トヨ=神功皇后説だ。

以前に述べたとおり記紀編纂当時の権力者である藤原不比等と持統天皇はヤマト王権成立の本当の歴史を隠すために、神武天皇の話を創作した。神武は鸕鶿草葺不合尊(ウガヤフキアエズ)と玉依姫の子であり、ウガヤフキアエズは彦火火出見尊(山幸彦)と海神の娘である豊玉姫の子で、玉依姫は豊玉姫の妹、彦火火出見尊は天照大神(アマテラス)の孫の瓊々杵尊(ニニギ)と大山祇神の娘である木花之開耶(コノハナサクヤ)姫の子であるとしている。瓊々杵尊・彦火火出見尊・鸕鶿草葺不合尊を日向三代として書かれている。

しかし、刮目天は物部氏族伝承の「先代旧事本紀>(せんだいくじほんぎ)籠神社(このじんじゃ)宮司家の海部氏系図などから天照大神が男性神であり、第18代奴国王素戔嗚尊の跡を継いだ天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(ニギハヤヒ)だと考えている。スサノヲが追放された後、吉備を支配して力を蓄えた第19代奴国王天照大神尊だ。その次の正哉吾勝速日天押穂耳尊(マサカアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト)の後が日向三代で、神武=応神の父ウガヤフキアエズが大国主命であり、23代目の奴国王と言うことになる。

吉備で勢力を蓄えた天照大神ニギハヤヒの子ウマシマジが邪馬台国連合倭国に対抗して、ヤマトの三輪山山麓の纏向に尾張・近江・出雲・丹波などの旧奴国王族を糾合して政治都市を建設したと推理している(注4)。

ヤマト王権の基を築いたのがスサノヲ・天照大神兄弟の子孫だ。

海北道中(沖ノ島ルート)で半島南部の鉄素材を宗像海人族が出雲・吉備などへ細々と供給していたので、それで作った貴重な鉄製工具を用いて日本海沿岸や東国が開発され、それらの国々が力を蓄えて、盟主としてヤマト王権が発展したのが事実だろう(図参照)。



実はこの時期に山陰から越にかけて四隅突出型墳丘墳(注5)が盛んに作られた。そして主として近江から東国にかけて前方後方墳が作られた。【検証2】で述べたとおりトヨが占領したことにより北九州でも作られた。さらに吉備から纏向に移った天照大神の子孫のヤマト王権は各地の首長に対して恭順の印として前方後円墳を作らせた。祭祀の形式を同じくすることで連合体を作っていったと考えるのが妥当だ。

したがって、沖ノ島祭祀は、海北道中ルートで鉄素材を供給した宗像海人族の当時の功績を称えるとともに、その後に裏切り者としてヤマト王権が追討した宗像の姫卑弥呼のヤマト王権への祟りを抑えるために始められたと推理できる。

またヤマト王権が次に追討した悲劇の女王台与(トヨ)の呪いを封じる目的で、ヤマト王権を発展させた神のような立派な功績を残した神功皇后という伝承を創作し、宇佐八幡神宮をはじめとしてゆかりの各地で祀った(注6)。

同様に、ヤマト王権は出雲王国を奪ったので大国主命の祟りを封じる目的で「雲太・和二・京三」で知られるとおり、日本一豪壮な出雲大社を作った。国譲り神話では大国主命の息子タケミナカタがタケイカズチに力比べで負けて、諏訪に逼塞することで許されたが、その名前からも母親が宗像系であることがわかる。

その後の卑弥呼と宗女トヨの呪いを封じ込め、半島政策(注7)や遣唐使派遣の事業の成功を祈願して、道主貴(ミチヌシノムチ)とする宗像三女神として、奥津宮・中津宮・辺津宮において宗像氏に祀らせたというのが真相だろう。全国の宗像神社で祀られる宗像三女神のうち、タゴリ姫とタギツ姫が大国主命の妃という神婚伝承があるので二人の姫がトヨ女王と推理できる(注8)。そうすると卑弥呼は厳島神社の祭神イチキシマ姫に対応することになる。つまり卑弥呼は七福神のひとり弁財天だったんかね(*⌒▽⌒*)

倭王帥升が奴国王スサノヲを追放したことから始まり、その子孫の伊都国の男王と海北道中ルートを抑える宗像海人族とが和解して、倭女王卑弥呼が共立された。卑弥呼は親魏倭王としてヤマト王権狗奴国と対立し、狗奴国が派遣した討伐軍のスサノヲ(大国主命=武内宿彌)と台与(トヨ=神功皇后)がヤマトを裏切って北九州から日本海沿岸部を支配する倭国を作った。なので、再度ヤマト勢が倭国を滅ぼして大倭国(大和国)を作ったという厄介な事実を隠す目的で、様々な伝承を創作したのだと考えている。

それでも何故、そんな史実と異なる伝承を残さなければならないのかという疑問が起きる!それはヤマト王権に怨みを抱いて亡くなった高貴な人々が鬼神となって国家に災いを起こすと信じられていたからだ。鬼神の呪いを封じるために神社で祭神として祀った!そして天変地異が発生する度に祟りを鎮める祈祷を行ったと言うことだ!

それでも天変地異は発生するので、皇祖神スサノヲに繋がる蘇我氏が最初に仏教を導入した。その後、空海がシナから直接輸入した真言密教が霊験があると信じられた!つまり神道も仏教も全て怨霊の呪いを封じて国家を鎮護する目的で導入されたと言うのが真相だった!

科学技術が発展した現代日本では最早不要だと考える人がいるかもしれない!しかし、科学で解明できないものもある!さらに、火山列島の日本は自然災害が頻発する!自然災害などから復興するには国民が力をあわせ、助け合わなければだめだ!

そのためには長い歴史とその中で培われた伝統・文化を大切にする日本民族でまとまることが必要だ!

修羅場では外国人がどういう振る舞いをするかよく知られていることだ。
だから日本では多文化共生は素晴らしいなどというきれい事は通用しない


そういう日本国民の統合の象徴になれるのは国民を大御宝とし、国家鎮護と国民の安寧をひたすら祈り続けてきた天皇陛下とご皇室以外にない!

日本国民は古代からそのことをよく理解していたから、王朝交代やシナのような易姓革命などは決して起こらなかったのだ!

皇祖神に最も近い血筋の男系男子の天皇陛下だけが国家国民のために怨霊を抑える霊力があると信じられてきた。

ひたすら国民を思い、ご祈祷して頂くことこそ伝統を重んじる日本国民の願いであり叡智であると思う!

今進行している皇位継承問題に国民ごときの口出しを許す驕慢な国民主権そのものが大間違いなのだ!

また、反日国家の暴虐はこのように日本人が劣化したことが原因だ!

日本政府が占領政策として反日国家を育成した!皇祖神の祟りとも云える!

憲法が占領期に不正に押し付けられた本当の目的を知れば、欺瞞の日本国憲法を廃止すること以外に日本を救う手段はないと日本人なら分かるはずだ(*´Д`)

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(注1)住吉三神はスサノヲを指すので、旧奴国王族の末裔であるヤマト王権成立後に創祀されたものと考えている。また、『隋書』「倭国」に「倭王の姓は阿毎(あめ)、字(あざな)は多利思比孤(たりしひこ)、号して阿輩鶏弥(大王、おおきみ)というもの、使いを遣わして闕に詣(いた)らしむ。」とある。『宋史』「日本国」に日本の僧が献上した「王年代紀」が以下のとおり書かれている。「初めの主は天御中主(アメノミナカヌシ)と号す。次は天村雲尊(アメノムラクモノミコト)と日(い)う、其の後は皆「尊」を以って号と為す。次は天八重雲尊(アメノヤエクモノミコト)、次は天弥聞尊(アメノニニギノミコト)、・・・、次は彦瀲尊(ヒコナギサノミコト)、凡そ二十三世、並びに筑紫日向宮に都す。彦瀲尊の第4子は神武天皇と号し、筑紫の宮自り大和州樫原宮に入居す・・・」とあり、倭王が天氏(アメウジ)であると分かる。天は海を意味し、海神を祀る海人族であると考えている。筑紫日向宮は、博多西部の早良平野と伊都国のあった糸島との間に高祖山日向峠があり、その付近を王宮としていたと思われる。ただし、王宮は固定ではなく、弥生時代初期は吉武・高木遺跡、中期に須玖岡本遺跡に置かれた模様。、後期には那の津と須玖岡本遺跡の間に直線道路が建設されて、さらに運河も併設されている(那珂遺跡)。奴国の最盛期は糸島市の井原鑓溝遺跡あたりに王宮を移したようで、最大版図は朝倉地区までだろう。そこを記紀では高天原と呼び、故地を懐かしんで大和盆地にも同じ位置関係の同一地名を採用している。その旧奴国を倭王帥升の一族が乗っ取り、邪馬台国連合になっても伊都国で内政・外交の実権を男王が握っていたと考えている。


(注2)安曇族は海人族の中で最も広く日本列島を動き回り、水田稲作の適地や鉱物を探索したと考えている。日本各地にゆかりの地名を残している(例えば安曇野、渥美半島や滋賀など多数)。邪馬台国の安心院町も元は安曇族の拓いた土地だ。ワタツミ三神は海神「豊玉彦」・「竜王」と呼ばれているので、歴代奴国王のことだと思われるから、安曇族は元々奴国王族の配下の海人族と考えている。

(注3)仲哀天皇は『日本書紀』では父の日本武尊(ヤマトタケル)の死後36年も経ってから生まれたことになる不自然さもあって、実在には疑いが持たれている(Wiki「仲哀天皇」より)。しかし、神武天皇に逆らってニギハヤヒに殺されたナガスネヒコがトヨ(神功皇后)とスサノヲ(武内宿禰)に殺された足仲彦(たらしなかつひこ=仲哀天皇)の跡を継いだ尾張王であると考えるので、ヤマトタケルの子のヤマトの大王ではないが実在の尾張王だと考えている。

(注4)「魏志倭人伝」では「狗奴国」と蔑称され、卑弥呼に敵対する男王が「卑弥弓呼(ヒミヒコ)」で官は「狗古智卑狗(クコチヒコ)とされる。その男王が「先代旧事本紀」にあるニギハヤヒの子ウマシマジで「日本書紀」の第10代崇神天皇だ。「狗古智卑狗」は熊本の菊池彦ではなく冨来隆氏が宇佐神宮の摂社の伝承から指摘した「々遅命(ククチノミコト=武内宿禰)」と考えている。武内宿禰が大国主命ということになる。

(注5)これが四隅突出型墳丘墓だ!館内に展示された四隅突出型墳丘墓の巨大ジオラマ

(注6)6世紀から7世紀にかけて活躍した蘇我氏の一族の推古天皇の和風諡号は豊御食炊屋姫尊、王都は神功皇后と仲哀天皇が倭国追討で落合った場所と同じ豊浦宮としている。日本各地に豊橋など豊のつく多く地名は倭の女王トヨにちなむものだ。貞観年間に大地震が発生すると大和朝廷は神功皇后の祟りと考え、各地のゆかりの神社で位階を追贈している。

(注7)記紀では神功皇后の三韓征伐としているが、倭の五王の事跡を隠すために創られたと考えている。その時期は半島支配の正統性を主張するためにシナの官位を貰っていたので、冊封体制に組み込まれていた事実と帥升からトヨまでの倭国の歴史を消すために創作された。

(注8)宗像三女神についても、「古事記」には大国主命がタギリヒメを娶り、「播磨国風土記」ではオキツヒメは伊和大神(=大己貴=大国主命)が娶り、「先代旧事本紀」でもオオナムチが辺津宮の高津姫神を娶ったという神婚伝承が残されている。「出雲国風土記」でも宗像姫神と大国主命の子が賀茂大神(アジスキタカヒコネ)だとして、「新撰姓氏録」で宗像氏は出雲神大国主6世孫の吾田片隅命(アタカタスミノミコト)としている。
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古来、八紘一宇が国是だ!(^_-)-☆

2017-03-31 19:53:25 | 古代史
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中国人が日本人の祖先って話、果たして本当なの?

シバラク先生、いつもいい話題を有難うございます(^^♪

倭人は呉の太伯の後裔ですから、太伯の父は周の古公亶父(たんぽ)!
紀元前11世紀から中原を支配した周王朝の先王です(●^o^●)


遺伝子の違うシナ人の最初の統治者はせいぜい紀元前3世紀の秦の始皇帝でしょう。

だとすれば日本人はシナ人よりも古くから大陸を統治した民族ですから、それを言うならシナ大陸の統治権者は日本人ですよ!

ちなみに亶州は古来日本列島の名称ですから、亶父は日本の父祖の意味ですよ(^◇^)
韓半島は倭人が7世紀まで支配していました(^O^)/

シナ人や朝鮮人は後から来た暴力集団ですね(>_<)

お蔭でシナ大陸や半島は滅茶苦茶にされた(≧◇≦)
倭人は呆れて日本列島に落ち着いたということです(^◇^)

ついでですが、徐福は周の軍師太公望呂尚が後に建てた斉の人ですから周王との姻戚関係があったという伝承もあります。

いずれにしても徐福は日本に諸技術をもたらしただけで日本の統治者ではないですから(^_-)-☆
これが歴史の真実( ^)o(^ )詳しくは「半島の古代史だ」でどうぞ!

ついでですが、日本の皇位「天皇」はシナの「三皇五帝」伝説に因むものです。

つまり三皇(天皇、地皇、人皇)は神、五帝は聖人としての性格を持つとされ、理想の君主とされたものですから、民を大御宝と考える日本の天皇位はまさにその筆頭。伝説は、紀元前2千年のシナ大陸最初の夏王朝以前の時代ですからこれ以上古い王朝はありませんね(^^♪
ちなみに刮目天の仮説では、畏れながらもしも万世一系がそこまで繋がっているとしたら、天皇陛下は原始夏族のDNAかも知れませんよ!(●^o^●)

であればやはり、「八紘一宇」を国是とする日本の天皇陛下が東アジア、いや全世界の正統な統治者ということですね(^_-)-☆

神武天皇の「八紘一宇」の御勅令の真の意味は、天地四方八方の果てにいたるまで、この地球上に生存する全ての民族が、あたかも一軒の家に住むように仲良く暮らすこと、つまり世界平和の理想を掲げたものなのです。昭和天皇が歌に「天地の神にぞいのる朝なぎの海のごとくに波たたぬ世を」とお詠みになっていますが、この御心も「八紘一宇」の精神であります。(Wiki「八紘一宇」より)
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