最近感じること(ブログ版)

粕井貫次の書き下ろし個人エッセイ

「あすなろ」25年新年号への投句

2012年12月11日 | 小話
  喪中ゆえ欠礼ハガキ今日もまた
  一月分試薬無料がやたら目に
  またダメかサプリメントの宣伝に
  あちこちの凝り運動が過ぎたるか
  陽の暮れぬうちに帰宅をせよと妻
  即答がイヤでケイタイな持たぬ
  トボついて見えるか座席譲られる
  座る席あてに遅出と早帰り
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すばらしかった太極拳の発表会

2012年11月30日 | 小話
 昨日は八尾商工会議所の大ホールで、私達の所属する「小宇宙会」の第9回
「小宇宙フェスタ・親睦交流会がありました。参加は15グループ、推定120
人と思われるメンバーで、和気藹々盛大裏に修了しました。
 呼びかけのキャッチフレーズは「いきいきと輝いて!100歳まで舞続けよう」
です。演舞は15の催しで、簡化24式、太極扇、不老拳、制定48式、八段
錦、などでした。模範演技として弓場篤子先生の太極日本刀はあり、さすがと感
じました。
 私は男性グループでの不老拳と玉造グループの簡化24式に出場いたしました。
最高の歳らしく、弓場先生への花束贈呈。また女子4名さんと、高齢者5人とい
うことで花束と記念品を頂戴しました。
 来賓に八尾市長さんがお見えになり、そのご挨拶のなかで、「八尾市には
100歳以上の女性が65人、男性が8人います」とおっしゃっていました。
今日の参加者も大部分が女性で、男性はたしか9人か10人くらいでした。
 先生に花束を贈呈したとき、何か一言を・・・と言われました。それで八尾市
は懐かしいところです。70数年前、当時は南河内郡志紀村字天王寺屋という
ところの会社に勤めていたこと。近鉄の駅前に西郷庵という食堂があり、夜学に
通っており利用させていただいたことなどをしゃべりました。
 帰りのエレベータの中で、「その西郷庵のおばあちゃんの私は姪です」と挨拶
され、世間の狭いことにビックリしました。
 帰宅には近鉄の連絡が悪く、苦労しましたが、さわやかないい一日でした。
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家族旅行で淡路島へ

2012年10月10日 | 小話
 去る10月の7.8日と私の家族と家内関係の家族合わせて26人が奈良
交通の大型バス1台を借り切って淡路島へ親睦旅行をしてきました。2日目
は鳴戸の観潮でした。
 最長老は私の夫婦で80歳台、次がその下の世代で50歳台、次いで20
から30歳台の孫たち、その下が孫とひ孫の子供たちという老若男女にぎや
かな組み合わせでした。
 淡路島へは70数年前、商業学校のたしか4年生のころ、大阪港から船で
渡り、夜行軍でいざなぎ神社へお参りしたことが最初でした。戦後、衣料卸
の商売をしてからは何度もお得意様への訪問で津名、洲本、由良などへ行き
ました。明石大橋が出来てからも淡路島に渡ったこともありますが、今回の
ような北から南への高速道路での縦断は初めてでした。商売での第一線を離
れて15年、世の中の大きな変化に驚くばかりです。
 泊まりは島の南端、うずしお温泉を引いてある民宿の「観潮荘」でした
が食べきれぬ量の新鮮な海の幸に満足。画面の大きいカラオケの設備があっ
て若い連中がハリきってにぎやかな夕べでした。でも若い連中の歌はその半
分も知りません。家内も同様でした。
 こうゆう集いは、一年に一回くらいはあってもいいとおもいます。
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北前船と昆布の道

2012年09月11日 | 小話
 昨日の大阪シニアクラブは宮本克己さんの「北前船と昆布の道」のお話でした。
宮本さんの生家は宇和島の海運業で、海運について大そう詳しく説明をしていただ
けました。内容は
1、船と文明
2、昆布の歴史
3、松前藩と近江商人
4、越中富山の薬売りと薩摩藩
5、北前船と昆布の道
6、北前船の衰退と転化
で、われわれが歴史で学ばなかった古代人の生活、交流、冒険、才覚、時代の流れ、
などがよくわかりました。
 お話に先立ち、日本列島と近隣の朝鮮半島、北へ続く大陸の地図を示されました。
私達のみる地図は北が上になっていますが、宮本さんが示された地図は南が上でし
た。このタイフの地図は、ソ連が崩壊しロシヤになる直前にソ連を旅行したとき、
モスクワで見たことがありました。
 逆の地図を見ると、ロシヤや朝鮮(韓国)にとっつて何か日本列島が太平洋に進
出するときの邪魔者のようにも見えなくはない、と感じました。あなたも一度、日
本地図を逆さにしてご覧になってみては?
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懐かしい名の芳本倉太郎

2012年06月26日 | 小話
一昨日、「いこま番傘」川柳会で宮田宜子さんから「川柳二七会の句誌634号
6月号)を頂きました。634は偶然にも東京スカイツリーの高さと同じです。
ところでその表紙裏に「二七誌掲載句抄」(二七誌昭和36年5月号より)の欄
があり、兼題「落語」岸本水府選で17句が掲載されていました。
 その中に川柳の作者の名が出ていましたが、そのお一人芳本倉太郎さんはよ
く私の家にも来られ、父粕井豊誠(画家)と趣味や遊びなどの友人だったことを
覚えています。
 父は郷土玩具、土鈴、箸置き、こけし人形、木版刷り浮世絵などを蒐集する
のが趣味でした。その仲間の会、面茶会、娯美会、八手会などによく出かけて
いたようです。芳本さんのことを父は「よしくら」さんと呼んでいました。
歳は父より10歳くらい若かったようです。お住まいは新町にあり、お訪ねし
たとき瀟洒な奥さんと綺麗な姪ごさんがおられました。9月の月見の季節に父
とよしくらさんに連れられ、今でもある平野町のガスビル屋上での観月会に行
き、江戸前にぎりをいただいた思出があります。私は確か小学校5年生くらい
のことです。戦時中は趣味や遊びは出来なくなりました。「よしくらはどうし
て食っているのかわからん」と父がよく言ってましたが、支那事変が長引き、
徴用令で男子は軍需工場などで働かねばならなくなりました。よしくらさんは
徴用逃れに京阪電鉄に勤められたようです。その頃電鉄会社では、自社の身分
証明のカードを見せれば他社の路線も顔パスで同行者も通れる慣習がありまし
た。父はよしくらさんとよくご一緒して顔パスであちこち遠くまで行ったよう
です。でも「改札でどうも気が引けて」といっていました。
 話はもとに戻りますが、掲載句の作家の中に、父がよく口にした人の名前が
ありました。桂 米朝、林家染丸、旭堂南陵など噺家の方々です。薩摩卯一と
ありますのは美々卯の経営者と思います。画家の藤原せいけんさんの名もあり
ました。父は川柳はやりませんでしたが、こうした方々の名をときどき言って
いましたので、とどこかの会で交流があったものとおもいます。
  春団治はでな羽織をはでにぬぎ         芳本 倉太郎
  落語家は税務署へきて話下手          藤原せいけん
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パニック

2012年02月06日 | 小話
 私は自宅近所のバス停から何時も駅までバスに乗っている。そのバス停は交差点から20
メートルほど手前にあり、バスが止まるスペース分だけ歩道に食い込んでいる。
 信号が赤のときは何台かの車が信号待ちで停車するが、そのときの停車振りがいろいろ。
前後の車間距離が1~2メーターというのが普通だが、中には7~8メーターかそれ以上の
という慎重?な場合も見られる。 
 平均して女性のドライバーは車間距離を空けるようである。そうすると信号が青に変わ
るまで、路線バスが引っ込んだバス停スペースに入れない。やっと信号が変ってバスに乗る
と、その頃に信号が赤でまた停車になる。
 先日も車間距離を3台分、10メーター以上空けた乗用車があった。ドレイバーを見ると
中年のご婦人。「気の利かぬ人だなー」と車のナンバーを見たら「829」(パニック)で、
納得した司次第です。
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