品位欠く「朝日社説」の鳥越氏批判

2010-11-10 | 政治/検察/裁判/小沢一郎/メディア
品位欠く「朝日社説」の鳥越氏批判
「内憂外患」2010年11月10日 09時00分
リベラルタイム12月号「メディアの現場」
 一緒に薬物を服用していたクラブホステス(当時三十歳)を救命しなかったとして、保護責任者遺棄致死罪等に問われた元俳優、押尾学被告(三十二歳)に、東京地裁で実刑判決(懲役二年六月、求刑懲役六年)言い渡しがあったのは、九月十七日のことだ。
 ホステスを放置して「死なせた」(致死)のかどうかが争点の一つだったが、判決は「直ちに通報しても確実に助かったとまでは証明されていない」と致死の成立は求めなかった(その後、押尾被告側は控訴、東京地検は控訴せず)。
 この裁判員裁判の判決を受けて、朝日新聞が「押尾被告判決 市民の力が発揮された」と題する社説を掲げたのは同月十九日朝刊。内容的には「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の鉄則が貫かれ、被告が芸能人であることに左右されず、法廷に提出された証拠だけで司法判断したという、裁判員の「市民の力」が働いたことを褒め称えている。
 しかし、後段になって突然、批判の矛先が二人の「著名人」に向けられる。
《市民の力を信じる──。
 ごく当たり前の話なのに、それを軽んずる姿勢が、社会的立場の高い人の言動に垣間見えることがある。
 裁判員と同じく一般の市民がかかわる検察審査会制度について、小沢一郎氏が「素人がいいとか悪いとかいう仕組みがいいのか」と述べたのは記憶に新しい。ジャーナリストの鳥越俊太郎氏は新聞のコラムで「“市民目線”と持ち上げられてはいるが、しょせん素人の集団」と書いた》(原文ママ、以下同)
 民主党前幹事長という公人の小沢氏はともかく、全国紙、しかも社説で名指しされて酷評された一ジャーナリストの鳥越氏は黙っていなかった。毎日新聞の十月四日付朝刊メディア欄の連載コラム「ニュースの匠」で「『市民の力』は正しいか」と題し、次のような反論を展開した。
《政治家や団体の責任者など公的立場の人間ではなく、メディア関係者とはいえ一民間人の私の名前を取り上げるのは社説の中では異例です。まあ察するに、私が当コラムで取り上げた朝日新聞の社説「あいた口がふさがらない」についてのカラシがちょっと効きすぎたのか、社説子にはお気に召さなかったんでしょうね》
 朝日新聞社説に「小沢氏出馬へ あいた口がふさがらない」という見出しが躍ったのは八月二十七日付朝刊。これを読んだ鳥越氏が九月六日の毎日新聞コラム「ニュースの匠」で
《あいた口がふさがらないのはこっちだよ。新聞は小沢氏が嫌いらしい》
 と論評したのが、応酬の発端になっているようなのだ。
「ヒステリック報道」の典型
 双方、言論でやり合っているのだから嘴を挟む必要はないかもしれない。しかし、大新聞の社説で特定のメディア人を取り上げて論評するのは、確かに「異例」である。「市民の力という言葉だけで信じるわけにはいかない」と、“常識”にも疑問を投げかけるジャーナリストは、鳥越氏の他にもたくさんいる。にもかかわらず、一人を実名入りで批判するのは公正さ、品位に欠けるのではないか、と朝日新聞社に質問してみた。
 返ってきた回答は、「鳥越俊太郎さんに関する記述は、裁判員制度と同じく市民が参加する検察審査会制度に対して著名人から続いた批判の一例として、小沢一郎氏の発言と合わせて引用したものです。各界で活躍している方の名前や発言を引用することは社説でもあります」(朝日新聞社広報部)というものだった。
 正面から答えようとしない不誠実な態度に呆然。朝日新聞社らしい、「役人答弁」といえばそれまでだが、尖閣列島周辺で起きた中国漁船衝突事件の際に見られた「弱腰外交はけしからん」という、ヒステリックで冷静さを欠いた最近の報道姿勢に通底するものがある、と感じるのは筆者だけか。感情むき出しで「社説」を書いてはならない。

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