〈来栖の独白〉
新聞連載の小説であるから、日々愉しみに読み、そしてじっと考え込む。五木寛之氏の『親鸞』である。
親鸞は何度も改名しているが、今読んでいる所では「善信」と名乗っている。法然から選択本願念仏集の書写を許され「善信」という名前まで貰った親鸞。法然の高弟に加えられたと周囲は受け止めるが、親鸞はそれらを法然からの「はなむけ」と理解して、巣立ってゆく。
元天台座主慈円は、そういった善信や法然の生き方に強い目を向けずにはいられない。慈円とその弟子良禅との会話から。
「善信は師の法然の示した道を、さらに一歩ふみだすことで、もっとも忠実な弟子となろうとしているのではないでしょうか」
「さらに一歩とは?」
「悪人、善人の区別さえつけないという考えのように思えます」
「なるほど」
「善人、悪人の区別をつけないということは、この世に生きるすべてのものは、だれもみな心に深い闇をいだいて生きている、ということでしょう。それを悪とよんでもよい。(略)われらはすべて悪人である、と、彼は人びとに説いております。その考えをそのまま受けとれば、高貴なかたがたも、立派な僧たちも、貴族も、みな悪人ということになりましょう」(略)
「彼は辻説法はいたしませぬ。寺や、市場で人をあつめることもしない。ただ、ひたすら歩きまわって、さまざまな顔見知りの男女と話をかわすだけです。最初は餌取(えとり)小路のあやしげな店の女主人と親しくなって、そこから話をききたいという者たちが家にまねいたり、庭先でしゃべったりして、たちまち何十人、何百人と話をきく者たちが増えてきたようです。そのほとんどが、世間でさげすまれている者たちで、いわば都の闇にうごめく影のような男や女たちだという。牛飼いもいる、車借(しゃしゃく)、馬借(ばしゃく)もいる、辻芸人たちや、傀儡(くぐつ)も、行商人、遊び女、神人(じにん)、博亦(ばくえき)の徒、そして盗人や、流れ者たちや、主のない武者(むさ)たちなど、さまざまな者たちが善信を仲間あつかいしているとききました。善信自身も、汚れた黒衣(こくえ)に、のばし放題の頭という、まさに野の聖(ひじり)そのものの格好で、ただぼそぼそと相手の問いに答えているだけだそうです。ときには殴られたり、追い払われたりもするようですが、それでもすでに何千人もの人びとが善信のことを頼りにしているそうです」
(略)
自分の一生は、いったいなんであったのであろうか。
関白、藤原忠通の子として生まれた。11歳で仏門に入った。(略)
16歳には一身阿闍梨に補せられ、法眼という高い位もあたえられている。(略)
もう一つは、仏門の現状を知るにつれ、いつしか心にわいてくる隠遁の思いである。
「生涯無益」
という言葉が、いつもつきまとってはなれない。
はじめて比叡山延暦寺の座主となったときも、どこか迷うところもあったのだ。
比叡の山に入った天台の僧たちにとって、その憧れの頂点は座主の地位である。(略)
天台僧としての頂点をきわめながら、それでもなお慈円の心には、どこか迷いがあったと思う。(略)
欲望と権力をめざす争いから脱けでて、山林に静かに自己をみつめて生きたい。
それは世にいう聖(ひじり)の暮らしであり、隠遁は末法の世の僧たちの一つの憧れでもあった。
〈だが、自分にはそれができなかった〉
ところが法然は、それをした。将来の天台座主を嘱望されながら、お山をはなれ、別な世界に生きている。
慈円にはそれが許せない。
〈あたらしい仏法興隆の旗をかかげるなら、どうして叡山にとどまってそれをやらないのだ〉
自分はそれをやろうと努力した。(略)
〈法然はまだいい〉
ほんとうにゆるせないのは、自分があたえた範宴という名前を捨てて、法然のもとにはしったあの男だ。
法然は念仏門をおこしても、僧としての戒はきちんとたもっている。天台に対しても、内心はともあれ、礼はつくしている。
ところがいま善信と称しているあの男はどうだ。
公然と妻をめとり、阿弥陀仏の本願の前には、戒もいらぬ、善行も不要、朝家も貴族も、みな人は同じ悪人よと説いているという。
慈円の誇りは、名門に生まれたことではない。歌人としての名声でもない。
彼は仏法の中心は、祈りにあると考えていた。いまの世は末法の世であるとともに、かつてない乱世であると思う。(略)
それを救うものこそ、僧の祈りであると彼は信じていた。世間の秩序を正し、道理をとりもどすことが仏法のつとめだと考える。
朝廷を守り、世の人びとを守る、このための真摯な祈りこそ真の仏法だ、と。
そして数々の法会を催し、命がけの祈祷をおこなった。この祈祷の力こそ慈円の自負するところだったのだ。
その祈りを、あの男は完全に否定している。どんなことがあっても、絶対に許してはならない。
私はカトリックで洗礼を受けているという意識があって、ついついイエスやパウロの言葉、そして中央協議会のあり方を考えてしまう。無論、私自身の生き方も。
上記、慈円の「悲しみ」は、私に痛切に響き、訴えかけてくるようだ。祈りは、いまも、こうしている今も、例えば、全地に散らばっているカトリック教会・修道会において間断なく捧げられている。地球上で、夜眠っている地域もあれば、早暁の祷りを捧げている地域もある。この祷りが、地上の平和や命を支えてきたことを私は信じている。祈祷文に沿った祷りであったり、個人の言葉による祷りであったりするだろう。人から発せられてはいるが、神からの呼びかけであるとも思う。修院で観るシスターたちの祷りの姿には、神と人とが呼応するものを感じた。
ただ、私は、「教会」とは線を引いてきた。私に協調性がなかったという理由もある。小教区の人たちとの付き合いに費やす時間が私になかった、ということもある。日曜の、主にシスターたちが与る早ミサでオルガン奉仕するのが精いっぱいだった。
しかし、教会と一線を引いた主たる理由は、そこにイエスがいなかった、ということだと思っている。
もう随分前の事になるが、本田神父さんが、福田管区長(当時)との往復書簡(写し)を「読んで」と言って、下さった。教会を3つほど挙げて司牧を要請する管区に対して、本田師は「小さくされている人たちと生きてゆきたいから」と固辞している。除名もちらつかせる管区に「フランシスカンでありたい」と、釜が崎で野宿の人と生きることを選択する。
人は、生を受けて生きて行くなかで(人とのかかわりのなかで)当然のように悲しみや苦しみに揉まれる。教会に集う人たちも、信仰を得たからといって、例外ではない。
しかし、本田さんの言われる「小さくされた人びと」というのは、教会のそういった人びとのことを指してはいないだろう。これまで長く引用してきた『親鸞』に幾度も現れる“世間でさげすまれている者たちで、いわば都の闇にうごめく影のような男や女たち”のことを指している。本田師は「(人の道を)踏み外した人びと」と言われるが、差別に屈して出自を偽ったり、食べるに窮して金品を盗んだり、追いつめられて人を殺めたり・・・、そういう人たちを指しているのではないか。
野宿者への炊き出しに参加していた頃、「イエスは、炊き出しする教会の中にではなく、一杯の雑炊を貰うために並ぶ人の列の中にいる」と言われる本田さんの言葉が如実に響いたものだ。黒く汚れた手をした人もいた。嘘を言う人もいた。巧妙に立ち回る人もいた。しかし、人の痛みに対しては敏感で、思いがけない優しさを見せてくれたりもした。人間を感じた。
話は変わるが、先日、ある人からメッセージを戴いた。死刑の問題に関心があり、関与しているということのようだった。が、伴侶に「理解がないので」大っぴらにできない、知られないように気を遣う、疲れる、と書かれていた。
「理解がないので」という、辛そうな言葉をよく聞く。----自分の生き方(乃至は価値観)は正しい、と思い込んではいないだろうか。或いは、相手を頭から否定していないだろうか。
「朝に道を聞かば、夕べに死すともかなり」と古人は言った。イエス(道)は何処に居られるのか。居られる場は、直ぐにはわからない。歳月をかけて、見えてくる。メッセージの主の伴侶さんも、探している途上なのではないだろうか。互いが、途上にあることを認めることから歩みが始まるのではないか。「理解がない」と片付けてはいけない、そんな気がする。
お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。 (マタイ25,35-36)
見るべき面影はなく、輝かしい風格も好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。・・・わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちは癒された (イザヤ53,2~5)
わたしは苦しんでいます。目も魂もはらわたも、苦悩のゆえに衰えていきます。命は嘆きのうちに、年月はうめきのうちに尽きていきます。罪のゆえに力はうせ、骨は衰えていきます。わたしの敵は皆、わたしを嘲り、隣人も、激しく嘲ります。親しい人々はわたしを見て恐れを抱き、外で会えば避けて通ります。わたしは死んだ人のように忘れられ、壊れた器のようになりました。 (詩編31,10~13)