中国国盗り物語~9つの椅子の行方/呉儀「裸退するので、その代わりに薄熙来を私の後釜にしてはならない」

2012-03-21 | 国際/中国/アジア

元富豪が明かす薄熙来の真実
日経ビジネス FINANCIAL TIMES 2012年3月19日(月)
 カリスマ政治家、薄熙来氏が重慶市で行った改革は「重慶モデル」ともてはやされてきた。だが政策の1つ、暴力団撲滅運動「打黒」で無実の者が拷問を受けていたことが判明。腹心の離反に加えて、打黒の実態が明るみになりつつあり、薄氏の足元は揺れている。(本誌注:薄氏は3月15日に解任された、と報じられた)
  メタリックブルーの靴にピンクのポロシャツ、後退した前頭部を隠すように野球帽を目深にかぶった李俊氏は、逃亡者というよりどこにでもいる中年の中国人旅行者のようだ。
  だが、彼は重慶市の元不動産開発王で、同市で近年行われた組織犯罪の一斉検挙運動「打黒(ダーヘイ)」により逮捕、拷問され、資産を押収された人物である。
 ただ、「打黒」を主導してきた薄熙来(ボーシーライ)重慶市共産党委員会書記の将来に、このほど予想外の事態が発生し、陰りが見えてきたことから、1年以上逃亡生活を続けてきた李氏は自らの体験を公表することにした。
■薄氏の改革の立役者が離反
 3月5日に始まった全国人民代表大会(日本の国会に相当)のために党幹部が北京に集まる中、「太子党(※1)」の1人である薄氏のスキャンダルに国中が唖然としている。
 ※1=高級幹部の子弟らを指す言葉で、彼らを中心とした派閥。胡錦濤国家主席らが属する共産主義青年団(共青団)派と次期指導体制を巡り、最近権力闘争が激化しているとされる。薄熙来氏の父、薄一波氏(1908~2007年)は小平氏の下で、国務院副総理や中央顧問委員会副主任を務めた
 出世街道一直線で来た薄氏を巡る今回の事件は、中国政治エリート層のめったに見られない内紛をのぞかせてくれる。一方で、李氏の悲惨な体験は、薄氏が野望を実現して中国を率いることになったら、中国がどんな方向に進むかを示唆している。
 中国共産党の最高意思決定機関である中央政治局常務委員会の定員は9人。そのうち、胡錦濤(フージンタオ)国家主席や温家宝(ウェンジャーバオ)首相を含めた7人が年末辞任する。
 常務委員は国家運営や外交のあらゆる面で権力を握る。薄氏はその次期常務委員の最有力候補だった。だがそれは、同氏の腹心で重慶市公安局長(警察トップ)だった王立軍(ワンリージュン)氏が2月6日、薄氏との関係に亀裂が入ったことから命の危険を感じて亡命を企てた(※2)時までの話だ。この時、王氏は薄氏の不正を暴露するとしていた。
 ※2=習近平・国家副主席が訪米する直前の2月6日、王立軍氏が四川省成都の米総領事館に逃げ込んだ。翌7日自ら同総領事館を出てきたが、この間、亡命を図ったとされている。現在、同氏は北京の中国共産党中央紀律検査委員会の審査を受けているとされる
 王氏は薄氏の高く評価されていた政策、いわゆる「重慶モデル」に密に関わっていた人物だけに、この離反を知った大衆の驚きは大きかった。彼らの大半は、インターネットや外国メディア経由で亡命未遂事件を知った。 かつての革命歌を歌って共産主義を称える「唱紅(ツァンホン)」運動や、公共サービスを向上させる一方、「組織犯罪」を徹底して取り締まる打黒運動といった人気取り的な統治モデルは、大きな成功を収めたと広く評価され、年末の薄氏の常務委員会入りは確実視されていた。
■「重慶モデルは新手の文革」
 だが、大衆の支持を集めた「暴力団撲滅運動」では、実は裕福なエリート層が主たる標的となった。警察と軍隊が、薄氏と王氏の命令に従い、数万人の裕福な実業家を「組織犯罪」に関わったとして拘束、自白を強要して、十数人以上に「主犯格」として長期の懲役刑や死刑を言い渡した。
 それがここへきて、党も大衆もこの新機軸の実態を疑い始めており、重慶モデルにより薄氏が権力の頂点に到達できるかどうか疑わしくなっている。
 北京の政治事情に詳しい米シンクタンク、ブルッキングス研究所のチェン・リー教授は、「薄氏の目的は政治アナリストでなくても分かる。次期常務委員の座を手に入れることだ」と語る。
 国外の隠れ家にいる李氏はもっと単刀直入だ。「重慶モデルは、薄熙来と王立軍が法と人権を踏みにじり、政敵を攻撃し、自らの権力を強化するため欲しい物をすべて手に入れた新手の文革にすぎない」と指摘する。
 李氏の話の信憑性は詳細な証拠書類によって裏づけされている。証拠の多くは、中国人専門家2人と、中国研究の第一人者で、流出した天安門事件関連の極秘公文書を編纂した『天安門文書』(※3)の共同監修者を務めた米コロンビア大学のアンドリュー・ネイサン教授が本物であることを確認している。
 ※3=原題は『The Tiananmen Papers』、日本でも文芸春秋から2001年に発行されている
■身に覚えのないことで捜査対象に
  本紙(フィナンシャル・タイムズ)による長時間の取材に数回にわたり応じた李氏は、薄氏が2008年半ばに人気取りの「打黒唱紅」運動を始めた時、気にも留めなかったと言う。
 当時、金融危機と不動産市場が低迷する最中、李氏は重慶の広大な軍用地払い下げで忙しく人民解放軍と交渉していた。李氏はこの土地で「シャングリラ」プロジェクトと名づけた高級住宅地の開発計画を立てていた。
 ところが、売却取引完了後すぐに、李氏の地区担当党書記がその土地を公園にするので政府に差し出すようにと言ってきた。その後も、この党書記やその近い人物から再三要求されたが、断っているうちに2009年初め、李氏は自分が警察当局の捜査対象になっていることに気づいたという。だが、「何も悪いことはしていなかったので警察と会うことは断り、通常業務に取り組んでいた」と李氏は語る。
 当時の李氏は重慶の富豪上位30人の1人だった。不動産開発からガソリンスタンド、ナイトクラブ、金融業、ホテル経営など手広く事業を展開していた李氏の会社の年商は当時約10億元(約130億円)に達し、李氏の総資産も約45億元(約586億円)に上った。
 だが2009年6月までには、何十人もの実業家が打黒の嵐の犠牲となって逮捕された。当局の手が迫ってきたため、李氏は会社の所有権を弟の李修武氏と甥の台士華氏に移した。2人とも月収8000元(約10万円)の下級従業員だった。また、妻と2人の娘を守るために離婚もして重慶を逃れた。
 後に李氏は、打黒運動を担当していた公安局長の王氏が自分について捜査する警察と軍の合同部隊の設置命令に2009年8月22日に署名したことを知る。同年12月4日、密かに重慶の家族の元を訪ねた李氏は警察に見つかり、頭巾をかぶせられ、手錠をかけられて、取り調べのために連行された。
 その後の3カ月間、李氏は長時間にわたる肉体的、精神的拷問を受けた。彼が、贈収賄や銃の密輸、売春斡旋、高利貸し、違法宗教組織の援助などに関わったマフィアのボスだという自白を引き出そうとしたのだ。取り調べは「タイガーベンチ」と呼ばれる座る場所がでこぼこの棒でできている鋼鉄製のいすに手足を鎖でつながれた状態で行われ、しばしばその状態で殴られ、蹴られ、電気棒で打たれたという。
■薄氏の目的はライバル追い落とし
 最初の1カ月間は重慶市第1拘置所にいた。そこには、李氏と同様に暴力団を組織した罪を問われた実業家が何十人も捕えられていた。李氏によれば、彼らも自白を引き出すために拷問を受けていたという。
 具体的な名前や日付、場所、監房の番号に至るまで彼の詳細な証言は、告発された実業家たちの弁護を担当し、打黒運動で拷問が広く行われたことを知る弁護士たちによって事実であることが確認されている。
 「重慶での尋問は封建時代でさえ使われなかった方法が用いられた。被告に有利な証人を秘密裏に拘束したり、尋問されていることを口外した家族を拘束したりしていた」。華東政法大学の童之偉(トンジーウェイ)教授は、中央政府に先日提出した重慶の犯罪撲滅運動に関する報告書の中でこう述べている。
 多くの政治関係者やアナリストによれば、薄氏の主たる目的は前任の重慶党委書記で常務委員の座をともに争うライバル、汪洋(ワンヤン)氏の評判を落とすことだったという。標的となった重慶の実業家や役人の多くは汪氏の下で頭角を現した者たちだった。典型例が汪氏時代の公安副局長で、この人物は2010年7月に処刑された。
 積極的な政治活動とライバル関係から「2門の大砲」と呼ばれるこの2人の政治構想は全く異なる。現在、広東省党委書記を務める汪氏は、政治及び経済政策の刷新を強く主張している。
 「中国は今歴史的岐路に立っている。汪氏らが提唱する政治改革に向かうのか、薄氏が好む新たな文革に向かうかのどちらかだ。もし薄氏が勝てば、中国は後戻りすることになり、それは中国と世界にとって惨事となろう」
 カナダ・トロント在住の中国人ジャーナリストの姜維平(ジャンウェイビン)氏はこう指摘する。同氏は香港の新聞に批判的な記事を書いたことで、薄氏により2001年から8年間投獄された。
 王氏の亡命未遂事件と身柄拘束によって、薄氏の昇進の芽は消え、主導した打黒運動の内実が明るみに出そうだ(※4)。
 ※4=薄熙来氏は8日、全人代を欠席したことから失脚した可能性があるとの噂が一時浮上したが、9日に北京で記者会見を開き、欠席は「体調が悪かったから」と説明、自身の重慶市党委書記に関する辞任説についても否定した
■6日6晩続いた厳しい取り調べ
 李氏を含む多くの証人によれば、収監された人に対する最も残酷な虐待行為は、秘密の監禁室や市中に点在する「改造労働農場」で行われたという。
 李氏は2009年12月31日、重慶の軍事施設の兵器庫に特別に作られた取調室に連れていかれた。そこで6日6晩タイガーベンチに座らされ、まぶしい明かりや電気ショック、繰り返しの殴打を受けて、眠らせてもらえなかった。失禁しても、そのまま汚物の中に座らされていたという。
 20人の軍高官のリストを見せられ、彼らの違法行為を告発するように迫られた時、薄氏は政敵を追い落とすため自分を利用したいのだと気づいたと言う。
 拷問を受けた数週間後の2010年2月10日頃、李氏は土地を彼に売却した軍の部隊に4004万3400元(約5億2100万円)支払えば、自由にしてやると言われた。取り調べの結果は、重大犯罪では無罪だが、軍との土地売買契約に違反があったのだという。
 2009年半ばの公文書を本紙が確認したところ、その時契約違反していたのは軍の方で、李氏を捜査する特別部隊が編成される2カ月前の段階では双方に未解決問題はなかった。「契約違反をしているのだから自由になるにはカネを払えと言われた時は、誘拐されたのだと思った。だが、ほかに選択肢はなかった」と李氏は語る。
 専門家は、重慶モデルの大規模な社会保障プログラムの莫大な費用を賄うには、新たな資金源が必要で、「違法な」資産をこれに充てるのが適切な解決策だと考えられたと見る。
 童教授は報告書の中で、「(打黒の)主な目的は、民間企業や起業家を弱体化、排除することで、国有企業を強化し地方財政を潤すことだった」と述べている。また、「重慶の打黒運動の特筆すべき結果は、資産や権力、家族を失った民間実業家の多さだ」という。
 2010年3月5日、「罰金」を支払った李氏は釈放され、犯罪の証拠は見つからず、彼は善良な人物だと思われると書かれた文書を渡された。
 後で、罰金を受け取った軍の部隊が、取り調べを担当した警官らに10万元(約130万円)のボーナスを渡し、軍の射撃練習場に招いて重機関銃を撃たせたり、高級酒でもてなしたことを知った。
 李氏の捜査を担当した警察当局はコメントを拒否した。重慶警察は、この事件は「未解決」なのでメディアは報道を禁じられていると回答してきた。薄氏も重慶市政府も取材には応じなかった。軍の部隊からもコメントは得られなかった。国営メディアは李氏を暴力団のボスと呼び、取調官が無罪放免したのと同じ罪で彼を糾弾している。
■今も暗殺者に追われる李氏
 釈放後、数カ月で李氏の事業は傾き、再び逮捕されるとの匿名の警告もあったため、2010年10月に元妻の助けを借りて、国内の別の都市から香港に逃れた。香港に到着すると、李氏は元妻と31人の親族と社員が、自分の逃亡直後に逮捕されたことを知った。
 李氏が資産を移した弟と甥は昨年、「暴力団のボス」だとして懲役18年と13年という判決を受けた。残りの親族と社員には8カ月~数年の懲役刑が下された。彼の逃亡を助けたため、元妻は1年の懲役となった。そして彼の資産はほぼすべて没収された。
 国営メディアは治安警察が世界中で李氏を捜していると報じている。本人は暗殺者に追われているという信頼できる情報があるために、常に国や場所を移動しなければならないという。
 現在、事実上無一文で、国際的人権団体に保護されている李氏は、いつか中国に戻りたいとしているが、薄氏が失脚しない限りその日は来ないと考えている。「私は重慶弾圧の暗い秘密を知る生き証人だ。そして私の体験は、薄煕来が権力を握ったら何が起こるかを警鐘として世界に知らしめるものだ」と彼は語った。
FT Reporters (©Financial Times, Ltd. 2012 Mar. 4)
===========================================
中国国盗り物語~9つの椅子の行方を追う
その1:重慶市の王立軍事件と薄熙来の巻
毛沢東回帰を押さえ込む政変  遠藤 誉
日経ビジネス2012年3月5日(月)
 中国の北京市で今日3月5日、日本の国会に相当する全国人民代表大会(全人代)が開催される。胡錦濤政権が取り仕切る最後の会議だ。1年後の今日は、次期政権の国家主席がこの全人代で選出される。国家主席の前提となる中国共産党中央委員会総書記のポストは、今年の秋に開かれる第18回党大会で決定される。
 そのポストに就くのは現政権で国家副主席を務める習近平氏と目されている。だが、政権の移行に向けて今、中国の権力中枢では何が起きているのか?
 中国は中国共産党が指導する国だと言われている。中枢に座っているのは「中国共産党中央委員会政治局常務委員」という「9人」の男たちだ。私はこの「中国を動かす9人の男たち」を「チャイナ・ナイン」(※1)と名付けている。そこには外からは見えない「ブラックボックス」の世界があり、時には協力し合い、時には激しい論争や権力闘争を展開しながら中国の方向性を決めていく。
※1:「チャイナ・ナイン」の内幕に関しては3月16日に朝日新聞出版が出版する『チャイナ・ナイン 中国を動かす9人の男たち』を参照していただければ幸いである
 筆者は中国で生まれ育ち、現在の中国すなわち中華人民共和国(新中国とも言う)が誕生する革命戦争を経験した。また中国政府のシンクタンクである中国社会科学院社会学研究所の客員教授として、あるいは中国政府そのものである国務院にある西部開発弁公室人材開発法規組の人材開発顧問として「中枢」の周りで仕事 をしてきた。この連載では、これらの経験に基づいて、中国政局の現状と次期政権成立への道及びその周辺事情を追ってみたい。
その1:重慶市の王立軍事件と薄熙来(はく・きらい)の巻
 2012年2月6日、あるニュースが中国全土をアッと驚かせた。中国共産党重慶市委員会書記(中国共産党では書記がトップ)である薄熙来(はく・きらい)の右腕として敏腕を振るっていた王立軍(副市長・公安局長・公安局党委員会書記)が、四川省成都市にあるアメリカ領事館に逃げ込んだのだ。共産党の幹部がこともあろうにアメリカ大使館に逃げ込むなどということは、中華人民共和国の建国以来なかったことだ。
 しかも重慶市は、薄熙来の強烈な指揮によって「唱紅(ツァン・ホン)」(毛沢東時代の革命歌を歌おう)運動を展開して、毛沢東回帰型の市運営を特色としている直轄市。その副市長であり、公安局長でもある共産党幹部がアメリカ領事館に逃げ込んだという構図はあまりにアンバランスだ。
 文化大革命(1966年~76年)(文革)中の1971年に起きた林彪(りんぴょう)クーデターを想起させて、5億を超える網民(ネット市民、ネットユーザー)は沸き立った。文革時代、やはり毛沢東の右腕であった林彪は、毛沢東に反乱を起こそうとして失敗。飛行機で逃亡する途中、モンゴル上空で空中爆発し死亡している。彼は当時の文革推進派の中心的人物だった。
 今、薄熙来率いる「毛沢東回帰型」の重慶市の重鎮である党幹部が、今となっては「敵国」ではないにせよ、アメリカ領事館に逃げるとは――。
 いったい、いかなる政変が起きたのか――。
■政治亡命した王立軍は、泣く子も黙る中共中央紀律検査委員会へ
 王立軍はその日ひと晩、アメリカ領事館にかくまってもらった。翌7日に自分がこれまで指揮してきた部下を含む200人以上の特殊警察に囲まれて北京へ護送され姿を消した。
 ネット情報によると、この時、成都のアメリカ領事館は、北京にある駐中国アメリカ大使館の特命全権大使Gary Locke(ゲイリー・ロック)から「王立軍の政治亡命を拒絶する」旨のホワイトハウスの指令を受けていたという。証拠を見たわけではないが、領事館が王立軍を庇護しなかったという結果から見れば、この情報は正しいだろう。
 また2月14日から、次期国家主席と目されている習近平がアメリカを訪問しオバマ大統領と会うことになっていた。そんな時期にたった1人の共産党幹部を庇護して、アメリカ国債の最大の保有国であるこの大国、中国と敵対するようなことを、アメリカがするはずがない。アメリカは習近平の歓迎にどれだけ力を入れていたことか。
 アメリカ領事館を出た王立軍は「中央に投降しても、薄熙来には投降しない」と言ったという。これがなぜ漏れたのか。200人もいる特殊警察の中には、ネットに「何らかの情報」を流す人がいないとも限らない。それゆえ、臨場感のある情報が流れたのかもしれない。
 2月8日、重慶市政府は「王立軍は長期にわたる仕事のストレスで、精神的緊張が高じて体の不調を訴えていた。このため、しばらくの間休暇を取って治療に専念することとなった」と正式に声明した。
 しかし精神疾患を患っているとされた王立軍は、その夜、北京行きの飛行機に乗っていた。連行したのは、北京から派遣された国家安全部副部長の邱進(きゅうしん)。胡錦濤に引き立てられた共青団(中国共産主義青年団)派の出身である。9日、連れて行かれた先は、泣く子も黙る、あの中国共産党中央紀律検査委員会(中紀委)だ。今はそこで審査を受けている。
 重慶市公安局局長で公安局党委書記という中国共産党幹部が、なぜアメリカ領事館に逃げ込んだのか? そして、そこで何を頼んだのか? 2月8日にワシントンで開かれた記者会見においてアメリカ政府のスポークスマン、ヴィクトリア・ヌーランドは、こうした問いに対する言及を控えた。しかし、王立軍が重慶副市長として成都にあるアメリカ領事館を訪ねてきたことは明らかにした。
 記者らとのこのやりとりの全貌がYouTubeを通して全世界に流れた。ヌーランド氏は質問した記者に「私たちは避難(亡命)してきた人に関しては詳細を明らかにしてはならないことになっている」と答えている。報道したのはRFA(Radio Free Asia)香港特派員である(該当記事)。非常にクリアに聞こえる(ゆっくり話している)英語と中国語の字幕スーパーがあるので、興味のある方はアクセスしてほしい。
 ヌーランド氏はrefugee(避難者、亡命者)という単語を使っている。これは王立軍がアメリカ領事館に逃げ込んだ目的は「政治亡命」だったことを意味する。中国共産党幹部がアメリカ領事館に「政治亡命」したという事実は、まるで大地を揺るがさんばかりの驚きをもって中国のネット界を駆け巡った。王立軍が薄熙来の悪事を暴いたという公開状までがネットに現れた。
■文革時代に戻すわけにはいかない
 実際は何が起きたのか――。
 実は胡錦濤国家主席は、早くから薄熙来に狙いを定めていた。
 薄熙来による毛沢東回帰型のキャンペーンを進めていくと、行きつく先は第2の文革だ。
 文革による破滅的な中国経済の崩壊を立て直すために、中国は1978年末から改革開放を推進してきた。そして今や世界第2の経済大国にまで成長している。それを指揮したのは改革開放の総設計師として崇められている小平だ。小平は(これまで日経ビジネスオンラインで何回も書いてきたように)「先に富める者から富め」(先富論)という号令を出して、中華民族に潜む商魂を刺激した。その狙い通り中国は爆発的な成長を遂げ、「爆買い」で日本人をあぜんとさせている。
 しかし、「先富論」は貧富の格差や地域の格差を生み出し、社会主義国家にあってはならない災禍をもたらしている。しかし、だからと言って、その問題を解決するために、毛沢東時代に戻って政治闘争を進めることなど、到底、許されるものではない。
 胡錦濤政権は、格差の問題を解決すべく、「和諧社会」(調和の取れた、より平等な社会)と「科学的発展観」(経済重視型でなく、経済の恩恵を全国民が享受できる国民重視型の経済発展)を政権のスローガンとした。2007年に党規約にも盛り込んだ。
 小平は改革開放を宣言するに当たり、「先富論」だけでなく、「先に富んだ者が、まだ富んでない者をけん引して共に富裕になれ」という「共富論」を唱えている。その「共富」を実現するためのスローガンである。
 「共富」が遅々として進まないのは、既得権益を手放したくない利益集団がいるからだ。
 利益集団とは、1989年6月4日の天安門事件の後、小平の指名を受けて国家のトップに立った江沢民一派、上海閥のことである。
 胡錦濤グループと上海閥が入り混じって、現在の中国の権力中枢にいる。
 その権力中枢とは中国共産党中央委員会政治局常務委員会のこと。これを構成する委員「9人」が、実は今、「中国を動かしている」と言っても過言ではない。
 胡錦濤国家主席も温家宝首相も、この9人の中に入っている。
 日本の国会に相当する全人代に提出する議題は、この「9人」の承諾を経なければならない。国家主席も国務院総理(首相)も、「9人」の中で誰にするかを予め決めてから、全人代にそのリストを“提案”し全人代の決議を受けて確定する。国家運営の役割分担は「9人」の中で決めた順番、すなわち党内序列によって決まる。
 私は彼らを「チャイナ・ナイン」と名付けている(3月16日発行の拙著『チャイナ・ナイン 中国を動かす9人の男』(朝日新聞出版)に詳述)。
 世界は今、誰が中国の次期国家主席になり、誰が次期首相になるかに関して強い関心を示している。しかし、中国ではそうではない。中国国民の関心は、誰が「チャイナ・ナイン」になるかであり、その党内序列がどうなるかに集中している。
 では「チャイナ・ナイン」は一枚岩かというと、決してそうではない。
  その中では、江沢民・上海閥と、江沢民が自分の傘下に引き入れた太子党(中国共産党高級幹部の子弟)の一部と、団派(共青団派)が激しい権力抗争を展開している。太子党の代表は習近平・国家副主席。団派の代表は言うまでもなく胡錦濤・国家主席である。その「チャイナ・ナイン」の間で展開されている“暗闘”は、まるで人間ドラマを見るようでスリリングだ。
 小平は、このチャイナ・ナインの任期を5年、最大2期(したがって10年)と定めた。だが、1989年に中国共産党中央委員会総書記となり1993年に国家主席になった江沢民は、現役を引退して早や10年がたとうというのに、いまだに政権の“操作”から手を引かず、チャイナ・ナインの中に自らの配下を“刺客”として送り込もうとしている。
■改革開放路線を守るためチャイナ・ナインが結束
 しかし今回の王立軍更迭と拘束に関しては、チャイナ・ナインのほぼ全員の意見が一致したと考えていい。なぜなら、チャイナ・ナインの中では「多数決」が鉄則だからだ。この鉄の掟を破ることは党規約に反し、絶対に許されない。だから王立軍を更迭し、中紀委で預かって審査することに関して、本来なら団派の対抗馬である習近平でさえ賛同し、胡錦濤を支持しているということになろう。中紀委の書記を務める賀国強は、もともと江沢民派だが、彼は中紀委のトップとして、この更迭劇で積極的な役割を演じている。
 だから王立軍更迭という事件は、政権抗争ではなく、現在の改革開放路線が目指す「特色ある社会主義国家」体制を覆そうとする者(薄熙来)を追い込む「政変」なのである。
 それでは、この政変のからくりは、どうなっているのだろうか。
 重慶市書記の薄熙来は実は中国共産党の元老・薄一波(はく・いっぱ)(1908~2007)の子息で、れっきとした太子党の一員だ。薄一波は元国務院副総理や中央顧問委員会副主任として小平の下で国家の指導層人事を操ってきたキーパーソンである。
 その彼は、天安門事件後の国家指導者を誰にするかを決める際に、北京に巨大な陣地を形成している「北京閥」ではなく、当時、上海市の書記をしていた江沢民を強く推薦したという。
 なぜか――。
 それは自分の息子・薄熙来の将来(出世)を託す人物が北京閥の中にいなかったからだ。北京閥は、中国建国以来の政治の中心である首都・北京に地盤を持つ。メンバーのそれぞれが、誰に自分の権限を分け与えていくかに関して膨大な後継者ネットワークを持っている。入り込む隙間はない。
 一方の江沢民は、北京にいかなる地盤も持たない。そこで薄一波は、江沢民を推薦して恩を売り、その代わり、息子・薄熙来の後ろ盾になってほしいという交換条件を江沢民に突き付けたという。こうして江沢民政権の第2期あたりから、薄熙来は異例の出世をするようになる。
 小平は文革時代の独裁を嫌がり、周りの人たちの意見を取り入れていた。他の元老の一部も賛同したことから、右にも左にも偏らないとして江沢民に白羽の矢を立てた。
 こうしなければ出世できないのは、薄熙来には文革時代に紅衛兵の先頭に立って暴力の限りを尽くした過去があるからだ。そういう者を登用してはならないという内部取り決めが、文革を総括する段階でなされた。だから普通なら抜擢は困難だったのである。
 しかし、それを可能にする事件が1995年に再度、起きた。
 それは北京閥のトップであった北京市書記・陳希同が小平に送った手紙だ。
  そこには江沢民の出自に関する内容で、「江沢民の実父は、日本の傀儡政権に仕えた漢奸(かんかん)(売国奴)だった」という事実が書いてあった。
 この手紙を小平は、江沢民を強烈に推薦した薄一波に突き付けた。
  すると薄一波はなんと、この手紙を江沢民本人に見せたというのである。江沢民はこれに激怒し、北京市書記・陳希同の更迭と逮捕を即時断行して北京閥を一掃。薄一波は、「取り合うな」と小平にささやく一方で、江沢民に再度「息子をよろしく!」と告げる。
 小平は1997年に逝去しているが、その後の薄熙来の昇進がすごい。遼寧省副書記、同省長ををはじめ、商務部部長(大臣)そして重慶市書記へと異例の抜擢を受けていく。重慶市は北京市、上海市、天津市と並ぶ直轄市なので、「省」レベルの書記になったのと同じだ。
 ただ、その薄熙来にも限界が来た。江沢民に対して2008年、国務院副総理に自分を任命してほしいという「おねだり」をしたのだ。
 江沢民傘下の呉儀(ごぎ)(女性)が2008年、69歳になり年齢制限にひっかかることから国務院副総理の座を退くことになった。この時、薄熙来は江沢民に泣きついて、自分を呉儀の後釜にしてくれと頼んだという。
 しかし呉儀は断固としてそれを跳ねのけた。薄熙来を拒絶する交換条件として呉儀は「私は次の位は何もいらない。裸退(次の官位なしに引退)するので、その代わりに薄熙来を私の後釜にしてはならない」と言い残して去っていった。
 この「裸退」という言葉はネットで大ヒットした。その後、日経ビジネスオンラインの連載コラム中国“A女”の悲劇で筆者が書いた「裸婚」など、一連の「裸」言葉の流行を導いている。それくらい、この「裸退」は社会に大きなインパクトを与えたために、薄熙来の「おねだり」が中国庶民の知るところとなってしまった。
 これにより、薄熙来は国務院総理へと登りつめるチャンスをなくしてしまう。今は、ただひたすら、最後の望みとしてチャイナ・ナイン入りにすべてを賭けているのである。
 そのために薄熙来は強引すぎる手法を用い、王立軍との間に亀裂を生んだだけでなく、チャイナ・ナインの一人で中紀委の書記である賀国強を怒らせてしまった。
 胡錦濤国家主席は、もともとから薄熙来の動き方に国家の危機を感じている。
 それらが中国をどの方向に導こうとしているのか、そして次期国家主席と目されている習近平は、いかなる視点に立ってどう動こうとしているのか。
 次回は中国の命運を分けるその政局ドラマを引き続き見てみたい。
<筆者プロフィール>
遠藤 誉(えんどう・ほまれ)
 1941年、中国長春市生まれ、1953年帰国。理学博士、筑波大学名誉教授、東京福祉大学・国際交流センター センター長。(中国)国務院西部開発弁工室人材開発法規組人材開発顧問、(日本国)内閣府総合科学技術会議専門委員、中国社会科学院社会学研究所客員教授などを歴任。
 著書に『ネット大国中国――言論をめぐる攻防』(岩波新書)、『チャーズ』(読売新聞社、文春文庫)、『中国大学全覧2007』(厚有出版)、『茉莉花』(読売新聞社)、『中国がシリコンバレーとつながるとき』『中国動漫新人類~日本のアニメと漫画が中国を動かす』(日経BP社)『拝金社会主義 中国』(ちくま新書) ほか多数。2児の母、孫2人。
------------------------------
薄熙来解任劇は党内権力闘争ではない!
その1:重慶市の王立軍事件と薄熙来の巻 続編
 遠藤 誉
日経ビジネス2012年3月21日(水)
 これまで中国共産党(中共)重慶市委員会書記である薄熙来の危険性に関して追跡してきた。そして、3月15日、中共の中央はついに薄熙来のすべての役職を解任すると発表した。
 胡錦濤国家主席は2008年から薄熙来の動向をじっと静観し、微動だにしなかった。しかし、今年に入ってから包囲を開始。ついに胡錦濤の本当の思いを表面化した、と言うことができる。
 3月5日に始まった全国人民代表大会(全人代)における胡錦濤の表情はすごかった。
  温家宝首相の政治活動報告を聞いている時の胡錦濤の顔は、まるで奥義を極めた武士のように威厳があり、見る者を圧倒した。国家最高指導者として10年間に及ぶ苦難を乗り越えてき者が持つ不動の信念がにじみ出ていた。その心の中では、3月15日の「薄熙来解任」に向けた決意が静かに固まっていたのだろうと、今にして思う。
 これで薄熙来の政治生命はほぼ終わることになろう。
■薄熙来の解任はチャイナ・ナインの総意
 薄熙来は分類するなら太子党(中共の高級幹部の子女)だ。しかし、この連載で何度も注意を喚起したように、「太子党」は一つの党派でもなければ、組織でもない。さらに、「党」という名称には一種の軽蔑の意味さえある。
 例えばネット言論において政府のために政府側の意見を書き込んで「ネット世論」をつくり上げるサクラを「五毛党」と呼ぶのに似ている。「五毛党」は「5毛という安い報酬をもらって政府のためにネット世論をつくるやから」という、一種の蔑称だ。
 「太子党」は、自分は偉くないのに、親の七光りで出世した「2世議員」というニュアンスを持った俗称にすぎない。さらに太子党に分類される政治家同士は怨念を残している場合がある。親同士の仲が悪かったら、子供の世代も基本的に仲が悪い。したがって、「太子党」と言っても、一つの党派と思ってはならない。
 日本のメディアは、「党」とあるので勘違いして、「薄熙来の一件は、胡錦濤率いる共青団(中国共産主義青年団)と習近平率いる太子党との間の権力抗争の表れだ」と報道している。
 このような解釈をしたら、中国の政局は何も見えなくなってしまう。
 そうした過ちを犯さないよう、警告として、本連載で描いてきた薄熙来の問題の位置づけを、その解任劇をきっかけにして、もう一度明らかにしたい。
 今回の解任劇は、むしろチャイナ・ナイン(中共中央政治局常務委員)の意見が一致した結果だと解釈しなければならない。太子党である習近平も、江沢民派である賈慶林(党内序列ナンバー4)や賀国強(党内序列ナンバー8)なども、胡錦濤と温家宝の意見に賛同したのだ。
 そして重慶市公安局長の王立軍が、胡錦濤からすれば「幸いなことに」、アメリカ領事館に逃げ込むという前代未聞のことをやってくれたので、薄熙来を下野させるに足る十分な理由ができた。「薄熙来は部下が起こした不始末の責任を取らなければならない」という、誰もが納得する理由ができたわけだ。このチャンスを逃してはならない。王立軍がアメリカ領事館に逃げ込んだ瞬間、薄熙来の解任は秒読みに入っていたと考えていい。
 今般の全人代における薄熙来の表情を見ただけでも、その結末は分かっていた。薄熙来自身も自分の末路を認識し、覚悟はできていたはずである。あくびしたり、きょろきょろとしつつ全人代を抜けたり、挙動不審とさえ言える動作が顕著だった。
■温家宝が語った、第2の文革への懸念
  胡錦濤&温家宝がどのような考えを持っていたかに関しては、これまでの3回の連載で十分に書いてきた。彼らの考えが筆者の推測通りだったことを、温家宝が自身の言葉で語った。
 証拠をお見せしよう。
  薄熙来が解任される前日の2012年3月14日に、温家宝は、全人代閉幕後の恒例である記者会見を開いた。国内外メディアに向けた記者会見で、彼は「政治体制改革」を唱えるのを常としている。筆者はそれを『チャイナ・ナイン 中国を動かす9人の男たち』の中で「白鳥の歌」と名付けている。しかし今年の「白鳥の歌」の歌い手が歌ったのは「白鳥の歌」ではなく、実に激しいトーンの「攻撃」に近いものだった。
 温家宝は
  「文化大革命のような歴史的悲劇が繰り返される可能性がまだ存在する」
  とした上で、王立軍事件に関するロイター社の質問に対して、次のように答えた。
 「これまで長きにわたって、重慶市の歴代の政府と広大な人民大衆は、改革建設事業のために多くの努力を注いできた。それは明らかな成果を生んでも来た。しかし、現在の重慶市(中国共産党)委員会と(重慶市)政府は必ず反省しなければならない。そして王立軍事件から真剣に教訓を学び取らなければならない」
 この言葉を発した時の温家宝の表情は、かつて見たことがないほど厳しいものであり、激しい嫌悪感と叱責さえ露わにしていた。
 筆者は3時間に及ぶこの記者会見を、一言一句逃すまいとリアルタイムですべて見ていた。だから温家宝の心の高まりが手に取るように分かり、「ああ、遂に動くな」と感じ取った。
 また筆者の分析が的中したと、ホッともした。スクリーンに向かって思わず拍手を送ってしまった。3月15日の薄熙来解任宣言は、筆者にとっても、2008年から続けてきた分析が間違っていなかったのだと秘かに安心した瞬間であった。
 これまでの3回の連載で詳述したように、薄熙来が唱える毛沢東回帰型のキャンペーンは、「民衆を動員して現政権に迫る」という「文化大革命型運動」の性格を持っている。それも重慶市だけに局所化しているのならまだしも、彼は中央にアピールするため、全国に、特に北京に「革命歌を歌おう!」運動を広げようとした。
 中国は改革開放以来、すさまじい勢いで経済成長を続けてきた。それは同時に、社会主義国家にあってはならない貧富の格差を生んでいる。そのことに不満を抱く中国の民は多い。そこに火をつけて「大衆運動」を展開したら、第2の文化大革命に発展する可能性がないではない。民衆は「中国が混乱してまた貧乏になること」は望まない。しかし、それが「民主化運動」に発展していった場合、どうなるだろうか。中国の全土はまたもや、「動乱の時代」へ逆戻りしていく。それは社会主義指導体制の崩壊を意味する。
 そのようなことは習近平も決して望まないことだ。
 第2の文革の危険性を、自らがトップに就く前に、胡錦濤政権が摘み取ってくれる。これを、習近平が喜ばないはずがない。トップに就任した直後の習近平には、チャイナ・ナインの中に薄熙来のような危険要素を抱えて、政権を運営していく能力はないだろう。だから、今のうちに第2文革の芽を摘み取ってくれる胡錦濤に感謝しているはずだ。
 その証拠の一つに、3月16日に出版された中国共産党の雑誌『求是』にある習近平の論評を挙げることができる。習近平は3月1日に中共中央党校でスピーチを行い、「大衆の歓心を買って派手に立ち回り、人気を取って個人の利益ばかりを求めることに熱を上げていると、党と人民の事業が前進することを困難にし、党のイメージを傷つけ、結果的に人民を失望させて党への信頼を失わせる」と述べている。言うまでもなく、薄熙来批判だ。
 したがって、この習近平の発言は、1)チャイナ・ナインの決意は早くから決まっていたこと、2)胡錦濤の果敢な行動を、習近平が非常にありがたいと思っていること、を裏付ける。
■チャイナ・ナインへの道
 薄熙来の代わりに重慶市の書記に就いたのは国務院副総理(副首相)の張徳江である。
 主として「工業、電信、エネルギー源、交通」などを管轄する副首相だ。中共中央政治局委員の一人なので、次期政権でチャイナ・ナイン入りする可能性を十分に秘めていた。
 張徳江は、鉄道関係も管轄していたことから、2011年7月に浙江省温州市で起きた鉄道事故で責任を取らなければならない立場にあった。国務院副総理であった者が、直轄市とは言え、地方の(中国共産党委員会)書記になったことは、一種の降格とみなすことができる。
 張徳江が次期政権のチャイナ・ナインの席を得ることができるかどうか。その可能性を分析するには、まず中国共産党の基本的な組織構成を理解しなければならない。ここで基本的な構図を説明させていただきたい。
 中国共産党における、形の上での最高意思決定機関は「中共全国代表大会」だ。その下に「中共中央委員会」と「中共中央紀律検査委員会」がある。「中共中央委員会」の中には「中共中央委員会総書記」というポジションと、「中共中央政治局」及び「中共中央政治局常務委員会」、そして「中共中央軍事委員会」がある。
 「中共中央政治局」には25人の政治局委員がいる。チャイナ・ナイン9人は、この25人の中に含まれている。つまりチャイナ・ナインは政治局のメンバーでもあるわけだ。しつこいが、政治局メンバーの中の選りすぐりの9人がチャイナ・ナインである。胡錦濤国家主席も、温家宝首相も、もちろん、このチャイナ・ナインのメンバーである。
 組織上は
 中共中央委員会→中共中央政治局→中共中央政治局常務員(チャイナ・ナイン)
  となっているが、命令指揮系統と権限から見ると
中共中央政治局常務員(チャイナ・ナイン)⇒中共中央政治局⇒中共中央委員
  となる。
 ところで政治局委員はすべて、「70歳」が定年と決められている。しかし、5年に一度の党大会(中共全国代表大会)の年に、ピッタリ「70歳」になるという人はあまりいないので、不文律で「七上八下」原則がある。「七上八下」というのは、党大会の時に「67歳ならば候補者に挙げていいが、68歳なら下がっていただく」という意味である。この「七上八下」原則に基づくなら、現在のチャイナ・ナインのうち2012年党大会で残るのは習近平と李克強だけとなる。
 ご参考までに現時点におけるチャイナ・ナインを党内序列の順番で示すと、
1.胡錦濤 2.呉邦国 3.温家宝 4.賈慶林 5.李長春 6.習近平 7.李克強 8.賀国強 9.周永康
  となる。
 党内序列が付いているのはチャイナ・ナインだけで、残り16人の政治局委員に序列はない。その16人のうち、「七上八下」原則に基づいて2012年党大会で引退となるのは7人。残る9人はチャイナ・ナインに昇っていく可能性を秘めている。その候補者は以下の通り。
候補者:王岐山、劉雲山、劉延東(女)、李源潮、汪洋、張高麗、張徳江、俞正声、薄熙来
 特殊な飛び級がない限り、一般的には「政治局委員」の中からチャイナ・ナインを選ぶのが原則だ。なので、まずはこの候補者9人の間で競争が展開される。
 ただし、チャイナ・ナインのうち2人は既に習近平と李克強と決まっているので、残る椅子は7つのみとなる。誰がその中に入るかが中国の民の最大の関心事だ。しかしこのたびの解任劇により、まず薄熙来が脱落した。同時に張徳江が道連れで脱落したことになろうか。
■重慶市の新しい書記、張徳江
 張徳江については、拙著『チャイナ・ナイン 中国を動かす9人の男たち』の中で詳細に分析している。同氏は大きく分ければ江沢民派だ。
 ポスト薄熙来に胡錦濤系列の共青団派を持っていかず、江沢民派を持っていったことに我々は注目しなければならない。つまり、胡錦濤は「薄熙来解任は決して党内権力闘争の結果ではない!」ということを内外に強く知らせたかったのであろう。そのシグナルと受け取るべきだ。
 張徳江は、1946年11月に遼寧省で生まれた漢族。朝鮮金日成綜合大学経済学系卒業という、非常に珍しい経歴の持ち主だ。北朝鮮に行く前に延辺大学朝鮮語学系で朝鮮語を学んでいる。延辺は中華人民共和国の中の吉林省延辺朝鮮族自治州の首府である。
 張徳江が江沢民と接触を持つようになったのは、まさにこの延辺大学に学んだことがきっかけである。江沢民が中国共産党総書記になって初めて訪問した外国は北朝鮮だ。1990年3月14日から16日*のことである。まだ金正日の父親である金日成が総書記だった。
(*拙著『チャイナ・ナイン 中国を動かす9人の男たち』p.134に「6月14日から16日」とあるのは、「3月14日から16日」のまちがいである。訂正してお詫びしたい。)
 この時、張徳江は北京で民政部の副部長をしていた。しかし北朝鮮に強い張徳江を延辺に戻そうとした江沢民は、彼を吉林省延辺朝鮮自治州党委(中国共産党委員会)書記兼吉林省党委副書記に任命。張徳江が北京を離れる前の90年10月に、直接張徳江と会った。そして張徳江が延吉に戻った3カ月後(91年1月7日)に江沢民は吉林省を視察する。
 その後の張徳江の勢いはすさまじく、吉林省党委書記を皮切りに、浙江省党委書記そして広東省党委書記へと昇進していく。もちろん中央政治局委員にもなり、胡錦濤政権では国務院副総理にまで昇った。
 だから、張徳江は江沢民の大切な持ち駒だったはずで、北朝鮮問題もあることから、次期チャイナ・ナイン入りする可能性が大きいとみなされていた。しかし中央、しかも副首相から一地方の書記になるという人事異動は、「ここで落ちた」ことを意味することになろうか。
 となると、胡錦濤が10年後の国家指導者として可愛がっている胡春華が、2段階飛び級してチャイナ・ナイン入りする可能性が大きくなってきたと言えるかもしれない。
 ただし、だからといって、薄熙来解任劇が党内派閥の権力抗争であると位置づけてはならない。この事件はあくまでも、中国が富の再分配を行う際にどのような手段を用いるかという、中国の今後の方向性を示す基軸の問題なのである。中国は、温家宝が発表したように、市場経済を堅持しつつGDP成長を7.5%に抑える、というマクロコントロールは行う。だが、毛沢東回帰型の政策によって貧富の格差の縮小を図ることはない、ということである。
 その意味で党内は一致した。江沢民の配下にある習近平でさえ、その方向に賛同した。
 それだけでなく、あの江沢民でさえ、薄熙来を自分の陣営に抱え込むのは不利と見て最後には見放したと推測される。
 これは結果的にだが、何を意味しているだろうか。
  本連載の第1回に書いたように、江沢民はこれまでは薄熙来を応援してきた。江沢民は実は、義理人情には篤い男なのである。だから父親の薄一波との約束を守り続け、薄熙来の出世を保障してきた。
 しかし、毛沢東回帰型は、主義主張から言えば江沢民の経済発展重視型と真っ向から対立する。おまけに薄熙来のあまりに見境のないスタンドプレーに、さすがの江沢民も第2の文革の危険性を感じ取ったものと考えられる。
 ということは、胡錦濤の判断が正しかったことになる。
  チャイナ・ナインは党内権力抗争をすることなく、中国の安定的発展という観点から一つになった。そして、それが「江沢民の行動のまずさ」を結論付けてしまった、という格好なるのである。
 この区別と認識は重要だ。
 党内権力抗争することなく、江沢民の一部弱体化を招いた。
 これが歴史の帰結だ。
 となると、習近平が頼るべき強力なバックボーンの影が薄くなる。習近平体制になると、多数決による集団指導体制の「集団性」が、一段と強くなることが予想される。
 つまり、チャイナ・ナインの存在がますます大きくなるということだ。
  これが、薄熙来解任劇がもたらした次期政権のもう一つの予想図なのである。


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。