「誰でもよかった」過去にも=社会を逆恨み?-通り魔事件で容疑者
(時事通信社 - 06月08日 21:01)
「誰でもよかった」。東京・秋葉原の通り魔事件で、7人を殺害した加藤智大容疑者(25)はこう語ったとされる。過去の無差別殺傷事件の容疑者も同様の供述をしている。
今年3月に茨城県土浦市のJR荒川沖駅前で8人が殺傷された事件で、逮捕された男は「人を殺したかった。誰でもよかった」と説明。「複数殺せば死刑になれると思った」とも供述しており、検察側は精神鑑定をしている。
JR岡山駅で同月、岡山県の男性職員がホームから突き落とされ殺された事件では、当時18歳の少年が「人を殺せば刑務所に行ける。誰でもよかった」と供述した。
1999年12月の東京・池袋の通り魔殺傷事件で、死刑が確定した男も「誰でもよいから人を殺して世間を驚かせてやろう」と犯行を決意したとされた。
東京の繁華街での無差別殺傷という点で今回と共通点があるが、男は日ごろから「自分が社会で正当に評価されていない」と不満を持っていた。
一方、加藤容疑者は「世の中が嫌になった」と供述しているという。
8日は大阪教育大付属池田小の児童殺傷事件からちょうど7年。名門小学校を襲った宅間守元死刑囚=執行=は、元妻への恨みを社会全体に転化したとされた。
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「秋葉原で人を殺す」と書き込み=携帯電話掲示板に犯行予告?-秋葉原通り魔
6月8日21時31分配信 時事通信
秋葉原の通り魔事件をめぐり、携帯電話のネット掲示板で、事件発生の約7時間前に「秋葉原で人を殺します」などと犯行予告とも取れる書き込みがあったことが8日、分かった。
書き込みは、8日午前5時20分に「秋葉原で人を殺します」とのタイトルで記載。「車でつっこんで、車が使えなくなったらナイフを使います みんなさようなら」と書かれており、事件に酷似した内容だった。
別のインターネット掲示板「2ちゃんねる」では、5月27日の書き込みで「秋葉原で大惨事」とのタイトルとともに、「6月5日以降絶対事件起こるだろうから先に立てとくね」との記述も見つかっている。
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〈来栖のつぶやき 2008/06/09/09:10〉
突然に肉親、友人を亡くされた方の言葉を聴いた。事件発生瞬間の悲しみは、時を経て(何が起こったのか認識できるようになるにつれて)、更に深い底なしの悲しみに変わる。昨日、大事な人を失ったのに、或いは大事な人が救急のベッドに横たわっているのに、夜は訪れ、日は昇って朝は来る。何ということだ・・・。
「複数殺せば死刑になれると思った」、「人を殺せば刑務所に行ける。誰でもよかった」、「誰でもよいから人を殺して世間を驚かせてやろう」等、類似の事件が続発している。
安田好弘さんの著書『死刑弁護人』の「まえがき」の一節が思い起こされた。次のように言っている。
“ひとりの「極悪人」を指定してその人にすべての罪を着せてしまうだけでは、同じような犯罪が繰り返されるばかりだと思う。犯罪は、それを生み出す社会的・個人的背景に目を凝らさなければ、本当のところはみえてこない。その意味で、1個人を罰する刑罰、とりわけ死刑は、事件を抑止するより、むしろ拡大させていくと思う。”
「死刑とは、白昼堂々、人を殺すこと」だ、と或る元刑務官(故人)は言った。生前、名古屋拘置所で処刑に携わった人だ。
「人を殺すに足る特段の事情があるなら、殺してもよい」と、人殺しを公認しているのが死刑制度であり、実際に国家がそれをやってみせて(執行して)いる。「どんなに悔しくても、どんな理由があっても、殺すことは絶対にいけないよ」とは言っていない。最近は、法務大臣による「理由あり殺人」執行命令が頻発している(その前段階として下級・上級を問わず、裁判所において「理由あり殺人」判決の乱発がある)。このような国で、殺人事件が増えないはずがない。ブログを通じての知人Eさんの言われたことだが、「人を殺すこと(死刑も)は、いけない。それには、どんな例外もない」。同感である。人を殺してはいけない。どんな理由も、例外も、認めてはならない。死刑制度(殺人容認)の「世の中」では、人の心は、どこまでも荒んでいく。
安田好弘著『死刑弁護人 生きるという権利』講談社α文庫
p3~
まえがき
いろいろな事件の裁判にかかわって、はっきりと感じることがある。
なんらかの形で犯罪に遭遇してしまい、結果として事件の加害者や被害者になるのは、たいていが「弱い人」たちなのである。
他方「強い人」たちは、その可能性が圧倒的に低くなる。
私のいう「強い人」とは、能力が高く、信頼できる友人がおり、相談相手がいて、決定的な局面に至る前に問題を解決していくことができる人たちである。
そして「弱い人」とは、その反対の人、である。
私は、これまでの弁護士経験の中でそうした「弱い人」たちをたくさんみてきたし、そうした人たちの弁護を請けてきた。
それは、私が無条件に「弱い人」たちに共感を覚えるからだ。「同情」ではなく「思い入れ」と表現するほうがより正確かもしれない。要するに、肩入れせずにはいられないのだ。
どうしてそうなのか。自分でも正確なところはわからない。
大きな事件の容疑者として、連行されていく人の姿をみるたび、
「ああ、この人はもう一生娑婆にはでてこられないだろうな・・・」
と慨嘆する。その瞬間に、私の中で連行されていく人に対する強い共感が発生するのである。オウム真理教の、麻原彰晃さんのときもそうだった。
それまで私にとって麻原さんは、風貌にせよ、行動にせよ、すべてが嫌悪の対象でしかなかった。宗教家としての言動も怪しげにみえた。胡散臭いし、なにより不遜きわまりない。私自身とは、正反対の世界に住んでいる人だ、と感じていた。
それが、逮捕・連行の瞬間から変わった。その後、麻原さんの主任弁護人となり、彼と対話を繰り返すうち、麻原さんに対する認識はどんどん変わっていった。その内容は本書をお読みいただきたいし、私が今、あえて「麻原さん」と敬称をつける理由もそこにある。
麻原さんもやはり「弱い人」の一人であって、好むと好まざるとにかかわらず、犯罪の渦の中に巻き込まれていった。今の麻原さんは「意思」を失った状態だが(これも詳しくは本書をお読みいただきたい)、私には、それが残念でならない。麻原さんをそこまで追い込んでしまった責任の一端が私にある。
事件は貧困と裕福、安定と不安定、山の手と下町といった、環境の境目で起きることが多い。「強い人」はそうした境目に立ち入らなくてもじゅうぶん生活していくことができるし、そこからしっかり距離をとって生きていくことができるが、「弱い人」は事情がまったく異なる。個人的な不幸だけでなく、さまざまな社会的不幸が重なり合って、犯罪を起こし、あるいは、犯罪に巻き込まれていく。
ひとりの「極悪人」を指定してその人にすべての罪を着せてしまうだけでは、同じような犯罪が繰り返されるばかりだと思う。犯罪は、それを生み出す社会的・個人的背景に目を凝らさなければ、本当のところはみえてこない。その意味で、一個人を罰する刑罰、とりわけ死刑は、事件を抑止するより、むしろ拡大させていくと思う。
私はそうした理由などから、死刑という刑罰に反対し、死刑を求刑された被告人の弁護を手がけてきた。死刑事件の弁護人になりたがる弁護士など、そう多くはない。だからこそ、私がという思いもある。
麻原さんの弁護を経験してから、私自身が謂われなき罪に問われ、逮捕・起訴された。そういう意味では私自身が「弱い」側の人間である。しかし幸い多数の方々の協力もあり、1審では無罪を勝ち取ることができた。裁判所は検察の作り上げた「作文」を採用するのでなく、事実をきちんと読み込み、丁寧な判決文を書いてくれた。
多くの人が冤罪で苦しんでいる。その意味で、私は僥倖であった。
この国の司法がどこへ向かっているのか、私は今後も、それを監視しつづけていきたいと思っている。「弱い人」たちに、肩入れしつづけていきたいと思っている。(~p5)
問題は「自分は価値有る人間だ、でもこの人生に価値は無い。 原因は自分ではなく、社会に有る。 だから道連れにしてやる」という歪んだ短絡に有るのでしょう。 この犯人は、“被害者達”を道連れにしたのではなく“、社会”を道連れにしたのだ、という視点での分析が必要だと思います。
“誰にでも輝く未来が有る”と教える(戦後民主主義の無条件の礼賛)だけでなく、“身の程、身の丈、足るを知る”こと(日本の旧社会にはあった意識)も教育する必要が有ります。
死刑が相当の罪です。 でも、死刑が何の解決にもならないのも確かです。
>どんな例外もない
ということが、大事なことやと思います。
情状で争うべきなのに誰にも納得のいかない新事実を突然出して、それまでの法廷を全否定したのは戦術上の非常識だったと。
被告人が閉廷の際に丁寧に礼をした姿には好感をもって、そういう反省の言葉をもっと前面に出すべきだったと書いています。
安田氏のこの本を読んだらそうはいかないということがよく分かりました。
友人たちに話をしても頭から安田って変な弁護士と決め付ける。
どうしようもないイラだたしさを感じています。
左翼人権派のレッテルべったりの扱いのせいで、安田氏の当り前の論理を端から否定的に捉える人が、所謂インテリにも少なくないのは悲しい限りです。
ゆうこさんもよく引用される田中森一氏、あと佐藤優、魚住昭あたりの本を読んで、検察の堕落を知った人間は、私のような右翼でも安田シンパになるんですがねぇ。
佐木氏ですが、どういう感性でいらっしゃるのか、到底理解できません。現代人文社刊『光市事件を考える』という本でも、無茶苦茶なことを言っています。差し戻し審からずっと傍聴しているのなら、当然、被告人の供述内容が肝腎なところは1審から変わっていないこと、また被告人の独特の口ぶり(精神の成長の遅れ)なども目の当たりにしているはずですのに、何も氏には響いていません。思い込みの強い人で、聴きたくないことには、耳を貸さないようですね。virtualな世界に引篭もっておられる(笑)。
コリン・ウィルソンの言葉を引用したりしていますが、佐木氏にはどうやら、犯罪者を、というより人間を類型化して捉える癖がおありのようですね。それ自体、とっくに、人間を観る「物書き」ではなくなっている証左でしょう。「犯行現場は、新日本製鉄光製鉄所の社宅だった」などと、要らぬことまで書いています。
私事ですが、弟勝田清孝も、氏から「嫌いな犯罪者」と言われました。嫌いな犯罪者(好きな犯罪者?)・・・、妙なことをおっしゃいます(笑)。
よろしかったら、読んでみてください。佐木氏の著作に触れています。
http://www.k4.dion.ne.jp/~yuko-k/kiyotaka/meikaini.htm
BPO申し立て人の一人太田昌国さんが次のように言っています。
“この光市裁判の中で、死刑という人の死を求める意見がここまで公然と報道されている。それはこの社会が人の死に対してだんだんと慣らされていく、訓練がされていく段階であるととらえている。犯罪を犯した人間が処刑されることを待ちわびる、待望する社会になっている。メディアの中でも突出して影響力のあるテレビで、そこで発言するキャスター・コメンテーター、番組に関わるディレクターが、冷静な言葉と観察力でもって報道しないと、この社会は極めて不気味な力によって押し流されていく。”
>社会”を道連れにしたのだ、という視点
安田さんや村上弁護士の言葉を借りるなら、容疑者は(容疑者もまた)「凶悪化」する社会の巻き添えを食らった、ようにも思います。