鈴木宗男氏収監①「これからも権力と闘う」/暴走する検察 東京地検特捜部の惨憺たる内情

2010-12-07 | 政治/検察/裁判/小沢一郎/メディア

【第1報】ムネオ氏収監「これからも権力と闘う」(田中龍作ジャーナル
 午後1時ちょうどに検察庁に到着した鈴木氏は収監される無念さに涙をにじませた。(6日、検察庁前。写真:筆者撮影)
 検察による国策捜査の果てに有罪が確定した鈴木宗男前議員は6日午後1時、収監手続きのため東京高検に出頭した。鈴木氏は検察庁前で記者会見を開き次のように語った。
 「事実が明らかにならなかったことが残念。とはいえ日本は法治国家なのでルールに従わなければならない。私は何一つやましいことはしていないし、これからも権力と戦う」。鈴木氏は赤く充血した目に涙をにじませながらよく通る声で話した。
 記者会見を取り仕切った記者クラブからは検察の捜査のあり方に関する質問は一言も出なかった。
 「家族は何と話しているか?」「最後の食事は?」・・・あまりのアホ臭さに耐えかねた田中龍作が怒りの質問を叩きつけた――
(つづく~)
 ※田中はこれから菅首相の記者会見に出席するため首相官邸に行きます。「ムネオ氏収監」は首相記者会見の後、執筆致します) ⇒「鈴木宗男氏収監②/冤罪なのに選挙民が選んだ代議士をこんな簡単に失職させてよいのか
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〈来栖の独白〉
 本当に、私も悔しさに戦慄する。検察は何をしているか(憤慨)! 国民は何処を見ているか(憤慨)!
記者会見を取り仕切った記者クラブからは検察の捜査のあり方に関する質問は一言も出なかった。「家族は何と話しているか?」「最後の食事は?」・・・あまりのアホ臭さに耐えかねた田中龍作が怒りの質問を叩きつけた――
 問題の核心を知ろうともしないアホの記者クラブ。小沢氏に「説明責任」「説明責任」と国会招致を言い募るアホ議員と同じ(慨嘆)。
 「田中龍作ジャーナル」より転載させて戴きました。
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ムネオ日記
2010年12月4日(土) 鈴 木 宗 男

 収監までの限られた時間の中で種々打合せをする。
昨日昼は私の指南役ともいうべき佐藤優さんと様々なシュミレーションの中で戦略・戦術を話し合う。佐藤さんの分析・先見性にうなずきながら自信がわいてくる。
 夕方、札幌に向かい松山千春さんと私の居ない時・留守の間・選挙になった時を含めて新党大地の立ち位置・対応・細部にわたり相談する。
松山さんの考えと私の思いは一致し価値観を共有できることは有難いことである。松山さんの人間失ってはいけない「情」「心」「感性」を改めて感じながら凄い「心友」に心から感激した。
今日も松山さんから電話があり「ムネオさん堂々と胸を張って行って下さい。どんなことがあっても最後迄ムネオさんと一緒ですから。足寄がルーツの2人ですから。何も心配しないで何かあった時には先頭に立ってやりますから」と励ましを受ける。ただただ涙が流れてくる。電話の向でも千春の涙声が伝わってきてお互い言葉が繋がらない。足寄に生まれ育ち、故郷にこだわって生きてきた2人だけにしかわからない価値を確認でき幸せである。私にとって松山千春さんは特別の人である。
 10時から帯広・十勝管内、14時から網走管内、17時から釧路・根室管内の鈴木宗男後援会新党大地支部の拡大役員会。皆さん「待っていますよ。身体に気をつけて」「死ぬ迄鈴木宗男ですから心配しないで」「必ずカンバックして下さい。応援しますから」等々声をかけられる。
 厳しかった昭和58年最初の選挙。有罪判決を受けての平成17年9月、21年8月の選挙を乗り切ってくれた我が後援会は日本一の後援会である。
 人間関係に感謝しながら収監前にお詫びの挨拶が出来ホッとする。8年前逮捕の直前はマスコミにも追いかけられ選挙区に帰ることはままならなかった。
 今、世の中空気は変わり東京・北海道の事務所には激励の山である。判ってくれる人、理解してくれる人が圧倒的に多い。私は意を強くして6日に臨んで行く。
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ムネオ日記
2010年12月5日(日) 鈴 木 宗 男

 昨夜、釧路からの最終便で上京。家に着いたのは23時になった。限られた時間しかないので雑誌の校正とか残された仕事をしたら夜中の3時近くになってしまった。
 9時から日程が入っていたので予定通りこなしながら午後からは事務所で書類整理や留守の間の打合せを事務所の人達とする。9月15日異議申し立て棄却、10月7日食道ガンと言われ26日手術。あっという間の80日だった。
 8年前逮捕される時は検察のリークによるメディアスクラムともいうべきバッシングで身動きが取れなかったが今回は同情や激励ばかりで、メディアの皆さんも冷静に受け止めて下さり。北海道内の後援会はもとより全国の主要な処にも挨拶に行く事ができよかった。
 与えられた宿命の中でしっかり頑張って結果を出したいと改めて決意する。北海道はもとより全国の後援会、仲間、同志の皆さんしばらく留守を致しますがお許し下さい。
 東京も北海道の事務所も従前通り機能しておりますので宜しくお願いします。一日も早くお目にかかれる事を楽しみにしながら行って参ります。
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『暴走する検察』別冊宝島編集部 編)
p12~「鈴木宗男」起訴で迷走 東京地検特捜部の惨憺たる内情! 阿部雅亮(ジャーナリスト)
検察の威信をかけた「宗男包囲網」
 2002年9月13日。元北海道・沖縄開発庁長官の鈴木宗男衆院議員を巡る疑惑を調査していた東京地方検察庁特捜部は、鈴木代議士を議院証言法違反(偽証)と政治資金規正法違反(虚偽記入)の罪で追起訴し、約7ヵ月に及ぶ一連の事件捜査を終えた。この日、居並ぶ検察担当記者を前に記者会見に臨んだ東京地検の佐渡賢一・次席検事は、こう言って胸を張った。
「起訴すべきものについては起訴を終えた。あとは公判で専従態勢をとって全力を挙げて立証する。従前から言っているとおり、立証については充分、自信を持っている」「相当、難しい事件だったと理解しているが、全力で取り組んで相応の成果を挙げたと考えている」
 翌日の新聞各紙は、いずれも鈴木宗男事件の捜査終了を大きく、しかも“特捜部の功績”として報じた。それはまるで、特捜部とマスコミとが一体化しているかのようでもあったが、なかには、自分たちが、“ムネオ疑惑”を解明したかのように報じたマスコミすらあった。
 しかし、こうしたなかで実は、検察内部や特捜検OBから、それまでの捜査手法やきたる公判に対する不安を指摘する声がいくつも上がっていた。こうした声は決して報道されることはなく、外部には伝わらなかったが、検察関係者の間では、特捜部が抱える“制度疲労”が、そうした不安材料の根源にあると受け止められていた。
 鈴木宗男事件の捜査を通して、特捜部が抱える諸問題を考える前に、まず鈴木代議士を巡る疑惑と特捜部の捜査を振り返ってみる。
 特捜部が、利益誘導型政治家の代名詞的存在だった鈴木代議士を捜査のターゲットにしたのは2002年2月に遡る。衆議院でアフガニスタン復興支援会議のNGO参加問題が取り上げられ、それを契機に鈴木代議士と外務省とを巡る疑惑が噴出した直後だった。
 国会の証人喚問などの場で、外務省との癒着が次々と明らかにされ、“疑惑の総合商社”“疑惑のデパート”などと鈴木代議士を糾弾する世論が形成されていった。そんななか、その世論に後押しされる形で同年4月30日、特捜部は、北方四島支援事業の1つである国後島の緊急避難所兼宿泊施設「友好の家」(通称・ムネオハウス)建設の入札を妨害したとして、公設第1秘書ら7人を偽計業務妨害容疑で逮捕に踏み切った。刑法は「偽計を用いて、人の業務を妨害した者は、3年以下の懲役に処する」として偽計業務妨害を定めているが、政治家の秘書が関係した業者間の調整行為に同罪が適用されたのは異例のことだった。
 さらにその2週間後には、鈴木代議士の“懐刀”といわれた外務省国際情報局の佐藤優・元主任分析官と、ロシア支援室の前島陽(あきら)・元課長補佐を、イスラエルで開かれた国際学会への派遣費用を外務省の関連団体「支援委員会」に不正支出させたとして背任容疑で逮捕。間髪を入れずに、鈴木代議士の政治団体「北海道開発研究会」の政治資金規正法違反容疑で、鈴木代議士の自宅などの家宅捜索に踏み切っている。
 特捜部の狙いは誰の目にも明らかだった。鈴木代議士の側近の身柄を拘束、外堀と内堀を埋めることで、同代議士の不正を暴こうとしたのだ。このとき特捜部の捜査態勢は、捜査検事の数を通常の31人から50人にまで増員、鈴木代議士の疑惑解明に「検察と特捜部の威信」(特捜部関係者)をかけていた。
特捜部が持ち出した「意外な容疑」
 ところが、特捜部が鈴木代議士に王手をかけたのは、疑惑が指摘されていた外務省絡みの案件ではなく、林野庁を舞台にしたあっせん収賄事件だった。特捜部は、98年に林野庁の行政処分を巡り、北海道帯広市の製材会社「やまりん」から同庁への不正な働きかけを依頼され、見返りとして現金500万円を受け取ったとして、2002年6月、鈴木代議士をあっせん収賄容疑で逮捕したのである。
 なお、このとき贈賄側の公訴時効(3年)が成立している「やまりん」側は不問となった。国会議員があっせん収賄罪に問われたのは、94年のゼネコン汚職事件の中村喜四郎・元建設相(1、2審有罪で、現在上告中)以来のことだ。
 特捜部はさらに、鈴木代議士が旧北海道・沖縄開発庁長官に就任した97年9月から98年8月までの間に、後援企業の「島田建設」(北海道網走市)から北海道開発局発注の9件の工事を受注できるよう口利きを依頼され、600万円の賄賂を受け取ったとして受託収賄容疑で再逮捕した。贈賄側は、特捜部の調べに対して事実関係を認めたが、この場合もあっせん収賄事件と同様、贈賄側の罪は公訴時効(3年)が成立しているため不問となった。
 特捜部はこのほか、北方四島支援事業の国後島「ディーゼル発電所」建設工事に関し、大手商社「三井物産」(東京都千代田区)の社員3人を、外務省の関連団体「支援委員会」が行った入札を妨害したとして偽計業務妨害容疑で逮捕。同時に、入札情報を漏らしたとして、外務省ロシア支援室の前島元課長補佐と国際情報局の佐藤元主任分析官を再逮捕した。
 そして、7ヵ月余りにわたって捜査を展開してきた特捜部は、2002年9月13日、鈴木代議士を、▽同年3月11日に行われた衆院予算委員会の証人喚問で、①受託収賄事件での贈賄企業「島田建設」から贈賄など800万円を受け取った。②島田建設に秘書給与を肩代わりさせていたことを認識していた。③鈴木代議士の圧力で水害救助の国際緊急救助隊のモザンビーク派遣が中止になった---という三つの事実を否定するような虚偽の証言をした(議院証言法違反、偽証)。さらに▽99年2月、資金管理団体「21世紀政策研究会」の10年分の政治資金収支報告書を作成した際、政策秘書らと共謀して、パーティー券収入約1億円と鈴木代議士の自宅購入費などにあてられた3600万円の支出を記載していなかった(政治資金規正法違反、虚偽記入)---以上、2つの罪で追起訴し、その捜査を終了した。
 なお、国会議員が偽証罪で起訴されたのは、95年の山口敏夫・元労相以来のことだった。
一貫性の無い捜査
 「見込み捜査がはなはだしい。だから、捜査がどこを向いているのかわからない」「行き当たりばったり。場当たり的で一貫性がない」
 特捜部が初めて鈴木宗男事件の強制捜査に踏み切った直後の5月中旬、検察外部だけでなく特捜部内部からも、捜査指揮に対する不満や、首を傾げる声が出始めた。
 複数の検察関係者と検察OBは、次のように証言する。
 「そもそも国後島『友好の家』建設の入札を妨害したとして、公設第1秘書ら7人を偽計業務妨害容疑で逮捕したことからして不自然だった。特捜部には、世論の流れから鈴木代議士を逮捕しなければいけないという焦りがあったが、鈴木代議士を引っ張るネタがなかった。そこで無理やり異例ともいえる容疑を探し出し、鈴木代議士の側近の身柄を取ろうとした。
 ところが、それでも鈴木代議士の犯罪につなげることはできなかった。そこで狙いをつけたのが、鈴木代議士の側近中の側近といわれた佐藤優氏だ。佐藤氏は最初は背任容疑で逮捕されたが、本当に背任罪の構成要件を満たしていたのかどうかはかなり疑問だ。しかも、特捜部はこの佐藤氏の線からも鈴木代議士を追い込めなかった」
 「特捜部が偽計業務妨害容疑で三井物産を狙ったのも、標的は鈴木代議士だった。北方事業は鈴木代議士の利権事業という見方をしていたのだ。特捜部が描いた絵は、三井物産から鈴木議士に金が渡り、鈴木代議士が三井物産に何か便宜を図っていたという構図だった。
 しかし、鈴木代議士は三井物産と2、3回、会ってはいるが、手土産一つもらっていない。当然、現金は出てこなかった。ここでも鈴木代議士の疑惑を事件化できなかった。明らかに事件の筋読みを間違えたわけだ。
 たしかに、特捜部が手がけた一連の事件を通してみると一貫性に欠ける。この疑問を、ある法務検察関係者はこう解説する。
「特捜部長だった伊藤鉄男さんは穏やかな性格で、本来、特捜部長の器ではなかった。次の部長につなぐまでの、いわゆるリリーフ的存在だった。
 特捜部の場合、事件の捜査指揮は特捜部長が執るが、同時に東京地検の検事正と次席検事、それに最高検の担当検事と相談しながら詰めていく。ところが今回の場合、検事正はどうしたわけか、捜査にほとんど口をはさまなかったようだ。当然、特捜部長と次席検事、最高検の間で話が進められたわけだが、この次席検事と最高検との間で捜査方針が食い違っていた。伊藤さんは次席検事と最高検との間で揺れ、強い捜査指揮権を出せないまま、最終的には次席検事の意向が優先されてしまったようだ。ところが、当時の東京地検首脳は大きな問題を抱えていた。冷静に事件捜査の見通しを立てられる人材が不足していたことだ」
外務省に敗れた
 捜査関係者らの声を集めると、まだまだ首を傾げたくなるような話が出てくる。背任罪と偽計業務妨害罪で起訴されたロシア支援室の前島元課長補佐に関してもそうだ。
「前島氏が取り調べのなかで、最終的にどうして容疑を認めてしまったのかわからない。彼こそ、捜査の“被害者”という見方が検察内部でも強かった。逮捕時から、容疑の確定にかなり無理をしていた。だから、もし前島氏が否認を貫き通していたなら、捜査はどうなっていたかわからない。特捜部はなんとしても認めさせようと、かなり厳しい取り調べを続けていたようだ。しかし、当初否認していた前島氏が、一転して認めた裏には、検察との取引があったという説も出ている」
 たしかに、特捜部の取り調べは厳しい。過去に取り調べを受けたことのある元会社役員は、「とにかく人格を全否定されるんです。罵倒されるのは序の口で、女房はもちろんだが、孫のことまで持ち出す。それまでいちおう社会的な地位があったので、それには耐えられなかった」「調書が知らないところでできあがっていて、しきりに署名するよう強要されたことを覚えている」と話す。
 前島氏の場合も、同様な取り調べが行われたのだろうか? それとも特捜部から何らかの形で取引を求められたのだろうか? いずれにせよ、前島氏に対する同諍論が検察内部にあることは事実だ。
 ところで、この背任事件については最初から、外務省の大物である東郷和彦・元欧亜局長の関与が指摘されていた。前述の前島氏らは国際学会への派遣費用などを外務省の関連団体「支援委員会」に不正に支出させていたとして背任罪に問われているが、東郷氏はこの支出に関し、東亜局長として前島氏が起案した決裁書にサインするなどしていた。新聞報道などによると、前島氏も特捜部の調べに対し、「東郷氏の指示で違法な決済書類を作成した」と供述したとされており、東郷氏に対する疑惑が深まっていた。
 ところが、東郷氏は疑惑が取り沙汰されて以来、日本を離れてヨーロッパに滞在。特捜部の参考人聴取も、病気療養を理由に出頭を引き延ばしていた。最終的に、検事がヨーロッパに出向いて参考人聴取したが、その結果、私的な流用はなかったとして立件は見送られた。
 しかし、捜査関係者はこう言う。
「どうして東郷氏の逮捕に踏み切らなかったのか? 佐藤、前島両氏を背任罪で起訴しておきながら、それを指揮した疑いの強い東郷氏の立件を見送ったことは理解できないし、公正さを欠く。失態といっても過言ではない」
 また、別の検察関係者はこう話す。
「今回の捜査では当初、『支援委員会』が、税法上不要な消費税分を事業費に上乗せして受注業者に支払っていた問題を狙っていた。消費税の上乗せ分は、2億6000万円を超える。当初、支援委員会による背任事件として立件を検討したこともある。もし、そのまま捜査を始めていればもっと違った展開になり、捜査もスムーズにいったかもしれない」
 外務省が、検察当局の本格的な捜査を受けたのは初めてのことだ。特捜部の事情聴取を受けた職員の数は100人を超える。
 しかし----。
 「そもそも、今回の鈴木宗男事件の発端は外務省との癒着問題だった。それが捜査を終えてみると、外務省の本丸には切り込めなかった。佐藤氏ら外務省を摘発はしたが、局長や課長クラスの刑事責任は追及できなかった。鈴木宗男疑惑の中心にあった外務省との癒着、疑惑はほとんど解明されなかったという結果を見ると、検察の敗北と言わざるをえない」(東京地検関係者)


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