国際常識を知る者から見れば、顔から火が出るほど恥ずかしい福島瑞穂氏の憲法第9条「推薦文」 高橋洋一

2014-06-18 | 政治〈領土/防衛/安全保障/憲法/歴史認識〉

集団的自衛権は「正当防衛」だ 高橋洋一(嘉悦大学教授)
 《『Voice』2014年7月号より》
日本の国際的責任はどこへ――他国の安全に思いが至らない日本人の恥ずかしさ
*法律に関する常識を知らない
 安倍晋三総理は、5月15日に有識者懇談会(安保法制懇)から提出された報告書を踏まえて、政府としての検討の進め方の基本的方向性を示した。
 この方針に対して、護憲派のマスコミは反発している。『毎日新聞』は、16日付の社説で「集団的自衛権 根拠なき憲法の破壊だ」としている。また、『朝日新聞』は5月3日付社説で日本近海での米艦防護を例に挙げ、「個別的自衛権や警察権で対応できる」「ことさら集団的自衛権という憲法の問題にしなくても、解決できるということだ。日本の個別的自衛権を認めたに過ぎない砂川判決を、ねじ曲げて援用する必要もない」と記した。
 だが、「個別的」「集団的」の違いを言挙げして自衛権の問題を論じているのはこの日本だけである。前記の社説をもし英訳して海外に配信したら、世界中の笑い物になるだろう。なぜか。根本的に、法律に関する国際常識を知らないからだ。
 その常識とは何か。欧米において自衛権が、刑法にある「正当防衛」との類推(アナロジー)で語られているということである。実際に以下、日本の刑法で正当防衛を定めた条文を見てみよう(太字は筆者)。

第36条
1、急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない。
2、防衛の程度を超えた行為は、情状により、その刑を減軽し、又は免除することができる。

 正当防衛の条文であるにもかかわらず、「他人の権利を防衛する」という箇所があるのに驚かれた読者がいるかもしれない。しかし、これが社会の常識というものである。自分を取り巻く近しい友人や知人、同僚が「急迫不正の侵害」に遭っていたら、できるかぎり助けてあげよう、と思うのが人間である。そうでない人は非常識な人と見なされ、世間から疎まれるだけである。少なくとも建前としてはそうだ。もちろん実際の場合には、「他人」と「自己」との関係、本人がどこまでできるかどうか、などで助けられる場合も、そうでない場合もあるが。
 国際社会の論理も、何ら変わらない。「自己」や「他人」を「自国」「他国」と言い換えれば、つまるところ国際社会では「急迫不正の侵害に対して、自国又は他国の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない」。そのまま自衛権の解釈として成立することがわかるだろう。英語でいえば、自衛権も正当防衛も同じ言葉(self-defense)である。
 繰り返すが、正当防衛をめぐる条文は、万国問わず「自己または他人」への適用が原則である。したがって自衛権の定義において「個別的か集団的か」という問いが国際的に通じないことはもはや明らかであろう。
 冒頭に引用した社説のような「個別的自衛権や警察権で対応できる」という意見は、他国が攻撃されても、自国が攻撃されたと見なして個別的自衛権で対応できるので、集団的自衛権は不要という意味だ。一見もっともらしいが、国際社会では通じない。というのは、正当防衛でも、「他人」の権利侵害を防ぐために行なう行為を、「自己」の権利侵害と見なす、と定義するからだ。
 つまり、他国への攻撃を自国への攻撃と見なして行なうことを集団的自衛権と定義するのであるから、冒頭の社説を英訳すれば、集団的自衛権の必要性を認めているという文章になってしまう。そのあとで、集団的自衛権を認めないと明記すれば「私は自分の身しか守らない。隣で女性が暴漢に襲われていようと、警官がいなければ見て見ぬふりをして放置します」と天下に宣言しているのと同じである。
 いくら自分勝手な人間でも、世間の手前、上のような発言は表立っては控えるのが節度であろう。よく恥ずかしげもなく、とは思うが、しかし戦後の日本政府は、無言のうちにこの社説と同じ態度を海外に示しつづけていたと思うと、憲法前文にある「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」を恥ずかしく思ってしまう。
 ついでにいえば、憲法前文で「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」とも書かれている。個別的自衛権のみを主張するのは、この理念からも反している。
 集団的自衛権の反対論者がいう「巻き込まれ論」は、国際的に日本だけが「見て見ぬふり」を公言していることになるのをわかっていない。地球の裏側まで行くのか、という議論も極論である。正当防衛論から見れば、「緊迫性」「必要性」「相当性」が求められているので、地球の裏側というのは、そうした要件に該当するものとはなりにくいから、極論といえるわけだ。
*内閣法制局の掌握事項ではない
 このように正当防衛とのアナロジーで見ると、自衛権に対する批判は利己的なものであり、論理的にも、倫理的にも破綻していることがわかる。
 もちろん正当防衛と同じように、国際法のなかでは自衛権の行使にあたって歯止めとなる条件が存在する。正当防衛の条文が示している「緊迫性」があることに加えて、その防衛行為がやむをえないといえるために、「必要性」と同時に、限度内のものである「相当性」が求められている。防衛の範囲を超えた攻撃すなわち「過剰防衛」になってはいけない。さらに、他国の「要請」があることが条件となる。民家で襲われている人が隣人の助けを拒否するとは考えにくいが、それでも最低必要限度にしなければならない。
 国内法や国際法はそれ自体で漫然と存在しているわけではない。互いに厳密な整合性と連関をもっている。個人の正当防衛が認められるにもかかわらず、国家の自衛権が認められないとすれば、日本の刑法36条が憲法違反ということになってしまう。国内法における個人の正当防衛という延長線上に、国際法における国家の自衛権がある。この当たり前の常識を理解している人が日本ではきわめて少ない。
 加えて日本特有の事情として、内閣法制局という政府の一部局にすぎない組織が権威をもっている点が挙げられる。内閣法制局の役割は総理に意見具申をするところまでであって、「集団的自衛権をめぐる憲法解釈の変更」などという大それた権限を掌握できるポストではないのだ。ところが、東大法学部出身の霞が関官僚があたかも自らを立法(国会)と司法(裁判所)の上位に立つかのように、法案づくりと国会の通過、さらに法律の解釈に至るまで関与しようとする。そのこと自体が異常な現象なのである。
 にもかかわらず、霞が関官僚の仕事ぶりの基本は「庭先掃除」だから、国内を向いた仕事しかできない。自衛権や正当防衛の国際的理解などは一顧だにせず、ひたすら立法府を形骸化させている。官僚は、表向き立法を司る国会を否定はできないので、内閣に法案を持ち込んで閣法(内閣提案立法)をつくらせ、実質的に立法府の権限を簒奪していく。これは国会議員が仕事をしないからで、議員立法をしない政治家の怠慢が問題である。
*「9条にノーベル平和賞」はない
 もう1つ、自衛権の行使容認に反対する人が決まって口にするのが「憲法9条の護持」である。護憲の主張はおろか、近年では「憲法9条にノーベル平和賞を」実行委員会なる組織が活動を行なっているという。国会議員の福島瑞穂氏はこの運動に賛同して、憲法9条に対する「推薦文」をノルウェーのオスロにあるノーベル平和賞委員会宛てに送付した。

〈推薦文の概要〉(プログ「福島みずほのどきどき日記」2014年4月18日より、字間の空白は引用ママ)

ノルウェー・ノーベル委員会 御中
 日本国憲法は前文からはじまり 特に第9条により 徹底した戦争の放棄を定めた国際平和主義の憲法です。特に第9条は、戦後、日本国が戦争をできないように日本国政府に歯止めをかける大切な働きをしています。そして、この日本国憲法第9条の存在は、日本のみならず世界平和実現の希望です。しかし、今、この日本国憲法が改憲の危機にさらされています。世界各国に平和憲法を広めるために、どうか、この尊い平和主義の日本国憲法、特に第9条を今まで保持している日本国民にノーベル平和賞を授与してください。

 国際常識を知る者から見れば、冒頭の社説と同様、顔から火が出るほど恥ずかしい文章である。なぜなら9条にある戦争放棄は、べつに日本の憲法だけにある規定ではないからだ。
 次の表は、日本との比較で韓国、フィリピン、ドイツ、イタリアの戦争放棄をめぐる条文を記したものである。一見して、日本国憲法9条の戦争放棄に相当する条文が他国の憲法に盛り込まれていることがわかる。とくにフィリピンの憲法には「国家政策の手段としての戦争を放棄」とはっきり書いてある。「憲法9条にノーベル平和賞を」授与しなければならないとしたら、フィリピンにもあげなければならない。希少性のないものを顕彰する理由はないので、日本の憲法9条にノーベル平和賞が授与されることは、世界で現行の憲法が続くかぎり永遠にない。このように少し調べればでたらめとわかる話で、憲法改正に反対したいためにノーベル賞まで持ち出す意味を筆者は理解しかねる。

<日韓比独伊の憲法比較>
◆日本
 第9条
 (1)日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 (2)前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
◆韓国
 第5条
 (1)大韓民国は、国際平和の維持に努力し、侵略的戦争を否認する。
 (2)国軍は、国の安全保障と国土防衛の神聖な義務を遂行することを使命とし、その政治的中立性は遵守される。
◆フィリピン
第2条
 (2)フィリピンは国家政策の手段としての戦争を放棄し、そして一般に認められた国際法の原則をわが国の法の一部分として採用し、すべての諸国との平和、平等、正義、自由、協力、そして友好を政策として堅持する。
◆ドイツ
第26条
 (1)諸国民の平和的共存を阻害するおそれがあり、かつこのような意図でなされた行為、とくに侵略戦争の遂行を準備する行為は、違憲である。これらの行為は処罰される。
 (2)戦争遂行のための武器は、連邦政府の許可があるときにのみ、製造し、運搬し、および取引することができる。詳細は、連邦法で定める。
◆イタリア
第11条
イタリアは他の人民の自由を侵害する方法としての戦争を否認する。
イタリアは、他国と等しい条件の下で、各国のあいだに平和と正義を確保する制度に必要な主権の制限に同意する。イタリアは、この目的をめざす国際組織を推進し、支援する。
出所:https://www.constituteproject.org/   http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worIdjpn/

*なぜ日米は同盟を結んでいるか
 筆者がプリンストン大学で勉強したのは経済学ではなく、国際関係論である。マイケル・ドイル(プリンストン大学助教授、現在はコロンビア大学教授)という国際政治学者が私の先生で、カントの『永遠平和のために』を下敷きにDemocratic Peace Theoryを提唱した人物である。「成熟した民主主義国のあいだでは戦争は起こらない」という理論で、たしかに第二次世界大戦後の世界を見れば、朝鮮戦争やベトナム戦争、湾岸戦争やイラク戦争など2国間ないし多国間で戦争が起きる場合、いずれかの国が軍事政権あるいは独裁政権であった。イギリスとアルゼンチンとのあいだで生じたフォークランド紛争でも、アルゼンチンは独裁政権だった。
 ドイル先生のいうように、民主主義国の価値観や手続きのなかで戦争が勃発する事態は現代の世界において考えづらい。彼の理論を日本と中国に当てはめれば、日本は民主主義国家だが、共産党一党独裁国家の中国はそうではない。この一点を見れば、なぜ日本とアメリカが共に民主主義国として同盟を結んでいるのか、根本的な理由を知ることができる。
 私がドイル先生に国際政治学を学んでいた1998年当時から、日本の平和憲法は特別ではないという点、自衛権の行使を妨げる議論がおかしいことは聞いていた。たいへん説得力のある話で、日本で巷間いわれる平和論がいかに論理を欠いているかを理解することができた。
 たとえば国際法をわずかでも勉強すると、集団的自衛権が国連憲章51条に規定されていることに気付く。「国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない」。
 つまり武力攻撃に対しては最終的には国連の安保理によって解決するのが最も望ましいが、それに至る過程でその国が占領支配されないように、(個別的・集団的の別を問わず)自衛権で対処するという発想である。もちろん安保理が機能して対応を図るのが最善だが、そうならない局面も現実には起こりうる。
 場合によっては中国のような安保理の常任理事国が紛争当事者となり、拒否権を発動するケースも考えられる。実際に2014年3月、常任理事国であるロシアがクリミアをロシアに併合した際、国連は何もできなかった。万が一、日本が他国からの武力攻撃を受けた際は当面、自衛権でしのぎ、安保理に報告を行ないつつ最終的な解決に結び付けるというのが最も現実的な選択である。
 その際、日本一国で中国のような軍事国家の侵攻に持ちこたえられるか、という問題が生じる。だからこそ日本は他国と「正当防衛」を共に行なえる関係を構築すべきだ。
 具体的に筆者が提唱するのは、NATO(北大西洋条約機構)のアジア版である。ウクライナがクリミア侵攻を許したのは、ひとえにNATOに加盟していなかったからだ。NATO自体がいわば集団的自衛権の固まりのようなものであり、わが国も安保理の措置が機能しなかった際に、日米の2国間同盟だけでは対処しきれない事態が発生することを想定する必要がある。
 2014年5月、中国がベトナムの排他的経済水域(EEZ)を公然と侵し、石油掘削作業を進めようとしてベトナムと衝突した。南シナ海では中国に加えて台湾、ベトナム、フィリピン、マレーシア、ブルネイが領有権を主張している。2002年にASEAN(東南アジア諸国連合)が中国と結んだ自制と協調をめざす行動宣言はあっさり無視され、ベトナムが面と向かって中国と対峙せざるをえない状況が生まれた。中国の台頭と膨張により、南シナ海における中沙諸島・西沙諸島・南沙諸島と同じ領土危機が日本の尖閣諸島に起こりうる事態はいっそう切実なものになっている。いま安倍総理が感じている危機意識と「緊迫性」をわれわれも共有すべきではないか。
 <筆者プロフィール>高橋洋一(たかはし・よういち)
 嘉悦大学教授
 1955年、東京生まれ。1980年、大蔵省(現財務省)入省、理財局資金企画室長、内閣参事官などを歴任。小泉内閣、第一次安倍内閣で「改革の司令塔」として活確。2008年・山本七平賞受賞。近著に、『消費税でどうなる?日本経済の真相【2014年度版】』(KADOKAWA/中経出版)がある。

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