オウム公判終結:竹内精一氏/滝本太郎氏/神垣清水氏/渡辺脩氏/山室恵氏/加賀乙彦氏

2011-11-25 | オウム真理教事件

オウム公判終結:あの時…/1 「信者は加害者で被害者」
 地下鉄サリン事件から16年、「狂気の果て」に27人の命を奪った一連のオウム事件の全公判が21日、終結した。教団の「凶行」は坂本堤弁護士一家殺害事件を起こした22年前から外に向かい、拠点を構えた場所では周辺住民との間で常にトラブルが絶えなかった。「宗教の自由」というハードルを抱えた難しい捜査、反省を深める元信者への「極刑」の宣告。教団と関わらざるを得なかった人たちは何を思い、どう踏み出したのか。「あの時」を追った。
◇なぜ凶暴化、今も疑問に--旧上九一色村住民代表・竹内精一さん
 89年。オウム真理教は山梨県上九一色村富士ケ嶺地区(現富士河口湖町)に進出した。竹内精一さん(83)は翌年、地区でオウム真理教対策委員会を作って反対運動に取り組み、毎日見回りをした。ほとんどの幹部に会い、大勢の信者や家族と接した。逃げてきた信者をかくまって家に帰るよう説得し、旅費を貸して駅まで送った。わずか1日で教団に連れ戻されたこともある。「ショックだった。オウムはとてつもなくしつこい集団だった」
    ◇
 サリンを製造したとされる第7サティアンの解体(98年12月)を最後に村内の教団施設は全て取り壊され、表面上は富士山を望む静かな土地に戻った。第2、3、5サティアンがあった「第一上九」跡地(約7000平方メートル)は町営公園になった。
 ここで殺害された信者がいた。片隅に慰霊碑が建っている。だが、碑には何も書いていない。何が起きた場所か分からないのが不満だ。今年の春、松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚がいた第6サティアン跡地に10人くらいが来ていた。古い信者が新しい信者に「聖地」を見せているようだった。
 数年前、東京都世田谷区の教団施設を訪ねた。「事件の時、私たちはいなかった」と若い信者が話していた。いまだに教団が残っていることに戸惑う。オウムが何をやったのか、信者自身が知らないのはよくないと思う。
 裁判では長い割に真実があまり出てこなかった印象だ。どうして凶暴な集団になり、なぜあんなことをしたのか。そこが一番知りたかった。それが分からなければ今の信者はなかなか抜けていかないのではないか。
 松本死刑囚が語らないのは、意気地がないんだと思う。松本死刑囚と上九一色村長の面談に同席したことがある。さんざん私の悪口を言った後、私が名乗るとしどろもどろになった。彼は逮捕された時も現金を枕元に置いて隠れていた。「こんな情けない男と戦っていたのか」と失望した。教祖としての価値がなかったということだ。
 オウムには顔写真を撮られて脅され、電話を盗聴された。もしかすると、自分も殺されていたかもしれない。どんな理屈をつけてもオウムは国民にとって加害者だが、松本死刑囚や一部の幹部を除いて、信者は加害者であると同時に被害者でもあると感じる。会ってみると、ほとんどの信者はひどい人間とは思えなかった。将来の戒めのためにも、せめて幹部には裁判で全て語ってほしかった。【聞き手・長野宏美】=つづく
◇たけうち・せいいちさん
 山梨県上九一色村富士ケ嶺地区(現富士河口湖町)の農家。教団撤退を求めて同地区オウム真理教対策委員会副委員長を務めた。名前や顔を出して教団を追及し、松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚から「村民を反オウムに駆り立てた」と名指しされる。信者に脱会を呼びかけ、脱会を願う信者の家族らと手紙のやりとりを続けた。
毎日新聞 2011年11月22日 東京朝刊
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
オウム公判終結:あの時…/2 警察、裁判に歯がゆさ
◇日本脱カルト協会理事、弁護士・滝本太郎さん
 オウム真理教と対峙(たいじ)した20年余はあっという間だった。
 教団との関わりは坂本堤弁護士の「失踪」がきっかけ。司法修習生の時から、私が加わっていた医療訴訟弁護団などに出入りしていた坂本弁護士とは、よく酒を酌み交わした。情熱家で愛嬌(あいきょう)があって、好漢だった。
 89年10月、坂本弁護士から「オウム真理教のこと、一緒にやってもらえませんか」と相談を持ちかけられた。目的は信者救出だからやっかいだと思い、断った。しかし翌月、「一家が失踪した」と聞いて、悔やんでも悔やみきれなかった。オウムの仕業と確信し、仲間の弁護士らと警察に要請したが、神奈川県警はまともに動かなかった。
 95年1月に「オウム真理教家族の会(旧・被害者の会)」の永岡弘行会長が猛毒のVXをかけられた事件でも警視庁は当初、自殺未遂だと判断した。私にスミチオンという農薬の入った湯飲みのにおいまでかがせ、「これで自殺を図った」と言い張った。この時、警察がしっかり動いていたら、地下鉄サリン事件も起きていなかったはずだ。
 裁判も歯がゆい思いがした。麻原(松本智津夫死刑囚)の公判では1審弁護団が初公判で本人の起訴内容の認否を妨げた。2審弁護団は期限までに控訴趣意書を出さず裁判を終わらせてしまった。元幹部の裁判でも審理を急ぐあまり、マインドコントロールや薬物使用の実態が明確にされなかったのは残念だ。
 いま再び(後継教団の)「アレフ」や「ひかりの輪」に入信している若者たちがいる。入信者は「現在の教団は悪いことをしていない。いい人ばかり」というが、オウム事件は「いい人が、いいことをするつもりで人をあやめた事件」であることを忘れてはいけない。再び同じ悲劇は起こりうるのだ。
 死刑が確定した元幹部7人に、上告中に面会した。林泰男死刑囚は礼儀正しい好青年だった。早川紀代秀死刑囚も「宗教好きのただのおじさん」。そうした元幹部らが再び、拘置所内で孤独を強いられている。せめて拘置所の単独室内で花を栽培させるなど、現実感覚と命の大切さを実感させてほしい。
 元幹部を死刑にすることで喜ぶのは、麻原だけだ。麻原は弟子を含めた他人と社会を破壊したかったのだから。麻原を除く12人の死刑を執行しないよう訴え、信者をゼロにするための活動を続ける。それこそが「信者を含めた弱者の救済」に奔走した坂本弁護士への供養になると考えている。【聞き手・伊藤一郎】=つづく
◇たきもと・たろう
 94年5月、オウム真理教に絡む民事訴訟に出廷するため甲府市の甲府地裁に出向いた際、駐車場に止めていた車にサリンをまかれ中毒症状を起こした。95年6月に脱会信者の立ち直りを目的とした「カナリヤの会」を結成。現在も支援活動を続ける。毎年9月、坂本弁護士一家の遺体が発見された現場で供養を続け、命日の11月には鎌倉の墓に参る。日本脱カルト協会(JSCPR)理事。弁護士。54歳。
毎日新聞 2011年11月23日 東京朝刊
.............................
オウム裁判:岡崎死刑囚から「司法取引」持ちかけられた
 95年の地下鉄サリン事件発生時、東京地検次席検事として捜査を指揮した甲斐中辰夫弁護士(元最高裁判事)は、オウム公判終結について「真相解明と適正な刑罰を科す目的を達成でき、ほっとしているが、時間がかかりすぎた」と述べた。
 「今、取り調べのやり方が議論になっているが、この事件はまさに取り調べで解明した事件。物証がほとんどないですから」と振り返る。その一方、「もっと早く何とかならなかったのか」との思いが残るという。
 「一つ言えるのは坂本(堤弁護士一家殺害)事件。岡崎(一明死刑囚)が神奈川県警に早い段階でしゃべりかけた。坂本さんがいなくなってしばらくしてから。ただ、条件は『自分の刑を軽くしてほしい』と。でも(現行法制下では司法取引を)やっちゃいけないので応じなかった。その結果、岡崎はしゃべらなくなり、地下鉄サリンも起きた。僕らは後で知ったことですけど」
 当時のことを明かした上で、こう述べた。「取り調べの可視化(録音・録画)をするなら司法取引、刑事免責は絶対必要だと思う。あの時に司法取引ができたら……」
毎日新聞 2011年11月22日 2時30分
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
オウム公判終結:あの時…/3 捜査は「戦時態勢」で
 ◇元東京地検刑事部副部長・神垣清水さん
 オウム真理教事件は「犯罪を超えた犯罪」だった。サリンや毒ガス兵器など、自衛隊の協力がなければ特定できなかった前代未聞の凶器。自分たちの国家を樹立するという教団の目的。従来の犯罪の枠を明らかに超えていた。テロというより“戦争”だった。
 麻原(松本智津夫死刑囚)はある意味、天才だった。信者に家族や財産を捨てさせ、自分にすがるしかなくする。寝させない、食べさせない。薬物の投与。マインドコントロールによって、殺人を「ポア」という独特の教義で正当化し、戦争をするための土壌を作り上げた。
 戦争は一度では終わらない。地下鉄サリン事件後も、駅のトイレで青酸ガスを発生させたり、東京都知事宛てに小包爆弾を送りつけたり。これほど捜査機関を連続的、波及的に挑発した犯罪集団はかつてなかった。
 捜査機関もいわば「戦時態勢」。検察庁も37の地検が関わり、150人の検事を動員した。駆使した刑事訴訟法の罪名は約50に及ぶ。労働者派遣法、電波法、道路運送車両法。あらゆる法令を使い、信者を検挙した。平時なら「違法な身柄拘束」と言われかねない逮捕も、世論やマスコミからの異論はなかった。国民の安全を守ることが至上命令だった。
 日本は平和ぼけしていたのだと思う。カルト集団の凶悪事件を経験していなかったこともあるが、過激派による事件も少なくなり、警備・公安部門の気の緩みもあった。諜報活動の懈怠やリスク管理の甘さを逆手に取られたのが、オウム事件だった。
 地下鉄サリン事件から半年後の95年9月、新潟県の山中で坂本堤弁護士の遺体発掘の場に立ち会ったことを鮮明に思い出す。5年以上たっているのに、奇跡的に内臓などが残っていたため、身元確認と死因の特定につながった。現場は標高1000メートルの沢地。冬は凍結、夏もチルド(冷蔵)状態になるため、腐敗しなかったのが原因だったが、坂本さんの怨念を感じた。
 東京地検特捜部から刑事部に異例の応援を取り、担当検事は「検察サティアン」と呼ばれた空き部屋の簡易ベッドで寝泊まりした。「何があっても責任は自分が取る」と言ってくれた上司。麻原への絶対的な帰依心を持っていた新実智光死刑囚と、とことん向き合って自白調書を取った部下。苦労を共にした“戦友”たちとは今も年に1度、懇親会を開いている。
 検察史上に残る事件の教訓を、後輩たちが生かしてくれることを切に願う。【聞き手・伊藤一郎】=つづく
◇かみがき・せいすい
 地下鉄サリン事件(95年3月)発生時の東京地検刑事部副部長。オウム真理教事件の検察捜査の中心人物として、常時60人の検事を指揮し、「身柄班」「裏付け班」「ブツ読み班」の差配に当たった。計7年に及ぶ特捜部時代には、ロッキード事件やリクルート事件にも携わった。最高検総務部長、千葉、横浜両地検検事正を経て、現在、公正取引委員会委員を務める。岡山大法学部卒。広島県呉市出身、66歳。
毎日新聞 2011年11月24日 東京朝刊
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
オウム公判終結:あの時…/4 「拙速」裁判、真相隠す
 ◇松本智津夫死刑囚の1審弁護団長・渡辺脩さん
 オウム真理教事件とは何だったか。一言で言うと「真相は闇の中」。検察も裁判所も、事件がなぜ起きたのかを調べようとしなかった。弁護団は、一宗教団体から起きた事件なのだから、宗教団体の活動が、どこから犯罪にとゆがんでいったのかを調べる必要があると主張した。だが、警察も検察も、殺人集団なのだから人を殺した点さえ立証すればいいという姿勢だった。
 検察から、教祖の松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚と実行行為を結びつける証拠は出なかった。メディアは、弁護人が無駄なことをやっていると言ったが、無罪推定の原則に例外を認めてはいけない。証拠がなければ無罪だ。弟子が事件を起こしたことには争いがなく、教祖としての社会的責任はあると思うが、刑事責任は別の話だ。
 審理の過程で松本死刑囚とコミュニケーションが取れなくなった。原因ははっきりしている。月3~4回の審理スピードが速すぎ、じっくりした打ち合わせができない。前の公判の尋問調書ができるのが次の法廷の前日で、打ち合わせ時間もない。毎日のように接見していたが、世間話の交じらない接見など、人間らしい接見にならない。彼も言いたいことがあっても言う暇もない。切迫したスケジュールの中で弁護団との信頼関係が壊されていった。
 教団幹部の被告が証人に立ち、弁護人が尋問する時に、松本死刑囚は怒った。弟子がかわいいからだが、なぜ弟子に尋問をする必要があるかという打ち合わせも十分できなかった。それまでの関係は非常に良く、彼は弁護人の接見が楽しみだったと思う。だが、その後、自分で別の世界に入り込んでしまった。誰も信頼できなくなったからだろう。
 裁判は(1審に)7年10カ月かかったが、それでも急ぎすぎた。「早く判決を出せ」というマスコミの騒ぎで、弁護活動は大幅に制限された。つくづく「これで法治国家か」と思った。17の訴因で起訴しながら、短期間で結審しろと要求してくるのは「争うな」という意味だ。処罰を前提にしている。
 もし、裁判員裁判で松本死刑囚の公判が行われていたらと仮定する。公判前整理手続きで弁護人が整理に応じなければ、公判が開けない。そうなると、裁判所が取りうる唯一の措置は、国選弁護人を解任して、言うことを聞く弁護人を選ぶことだろうが、実質的なリンチだ。裁判は生き物であり、初めから型枠にはめるのは無理なのに、7年10カ月の裁判でもそれが行われてしまった。【聞き手・石川淳一】=つづく
 ◇わたなべ・おさむ
 61年弁護士登録。95年10月、松本智津夫死刑囚の1審弁護人に選任され、12人の国選弁護団の団長を務めた。弁護団の多くが「子供が学校でいじめられる」などと実名公表を控える中、頻繁に記者会見を開いた。04年2月の死刑判決に対し即日控訴し、会見で「検察の主張を上塗りしただけの判決」と批判した。日弁連刑事法制委員会・裁判員問題検討部会副部会長。78歳。
毎日新聞 2011年11月25日 東京朝刊
.................................
関連: 〔裁判員制度のウソ、ムリ、拙速〕 大久保太郎(元東京高裁部統括判事)
(前段略)
 ところが私が法律家以外の人々と会って話が裁判員制度に及んだとき、例外なく耳にするのが、「どうして今こんな制度が唐突にできたのか」という強い疑問の声である。この疑問はつぎのような裁判員制度誕生の経緯からしてまことに無理もない。
 外国における国民の裁判参加制度として、英米法系の諸国では陪審制(刑事事件の場合、陪審員が有罪、無罪の判断をし、有罪の場合、量刑は裁判官がおこなう)が、独仏等の欧州大陸法系の諸国では参審制(参審員は裁判官とともに事実認定と量刑を行う)が、それぞれ問題を伴いながら伝統もあって今日行われている。
 わが国には、全体から見ればごく小数であるが、矢口洪一元最高裁長官や司法制度改革審議会のメンバーでもあった中坊公平氏など法曹(OBを含む)の中に極めて熱心な、刑事裁判への国民参加制度導入論者がいて、このような論者が同調者らとともに、先般の司法制度改革審議会(平成11年7月設置)を好機として強力にかかる参加制度の導入を図った。この意図が、以下に記す好条件を得て、参加主体である肝腎の国民一般には詳しい説明もされず、国民がどういう理由でそうなるのかほとんどわからないうちに法案となった。そして国会でも、影響するところの大きい法案でありながら、問題点が国民によくわかるような実質のある審議もされずに、平成16年夏の参議院議員選挙前の怱忙の間に法律となったのだ。
 好条件というのには二つある。一つはオウム事件、殊に麻原死刑囚に対する第1審裁判に代表される、一部の刑事事件審理の異常な長期化が、「こんなことでは困る。改革が必要だ」との空気を社会に瀰漫させていたことである。
 もう一つは、法務省および最高裁判所が裁判制度の専門家として、裁判員制度の導入意見に対し本来「それは違憲の疑いがあり、実際上も無理だ」として反対すべきであったのに、どういうことか反対しなかったことである。
 なお、重要なことであるが、国会で審議らしい審議もされなかったのは、もし法案の抱えている憲法問題や裁判実務上の問題が細かく議論され始めれば、疑問や反対がつぎつぎに出て来て、法律化などとてもできないことが明るみに出るからであったと思われる。私は、当時テレビの座談会で与党の有力議員が、国民に善きものを与えるかのごとく、国会の会期も残り乏しいのに「この国会で法案が成立しなければ、もう裁判員制度は成立しませんよ」と発言していたのを思い出す。このような次第だから、裁判員法は、文字通り拙速立法といわざるを得ないものである。
 ちなみに、裁判員制度の実質は刑事裁判のやり方(手続き)だが、まことに驚くべきことに、司法制度改革審議会の委員の中にOBも含め刑事裁判官はいなかったのである。
 国民一般が今もって「何でこんな法律が出来たのか」と疑問に思うのは当然なのだ。(以下略)
.................................
地下鉄サリン事件から16年/「麻原は詐病やめよ」土谷正実被告死刑確定
麻原が「子供を苛めるな。ここにいる I証人は 類い稀な成就者です」と弁護側反対尋問を妨害 オウム事件 
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
オウム公判終結:あの時…/5 本質、本性と向き合い
 ◇林受刑者の公判を担当した元判事・山室恵さん
 地下鉄サリン事件の林郁夫受刑者の公判を担当して間もない97年12月、証言台の下に頭を突っ込むようにして泣き崩れる林受刑者を目の当たりにした。「本当に反省しているのだな」と100%近い確信を持った。一方、「高校時代に真の円を描きたい、人生を完璧に理解したいと思っていた」との趣旨の話をしたこともあった。私と林受刑者は同世代。「変わった人間だな」と強い違和感も覚えた。
 論告求刑が近づき、「検察の求刑は無期懲役」とのうわさを聞いた。同様の新聞報道もあった。通常なら死刑の事件。検察官は、仮に無期求刑でも「事案解明に貢献した」との理由付けでよいが、裁判官の量刑理由としては不十分だ。悩みは深まった。
 しかし、林受刑者の「慟哭(どうこく)」や、その姿に触れて、「必ずしも死刑を望まない」という遺族の声もあった。無期を選択する大きな要素になった。
 言い渡し約2週間前に判決の草稿が書き上がった。そらんじることができるほど読み返した。一人で考え抜き、裁判長は孤独だとも感じた。
 判決後しばらくして裁判所職員から「山室さん、だまされてるんじゃないの」と言われた。法廷で自分より近くで林受刑者を見ていた職員だ。その言葉はじわじわ効いた。約2年前には林受刑者が刑務所でヨガをしていると人づてに聞いた。真偽は不明だが、オウムのヨガと重なり、複雑な気持ちになった。
 地下鉄サリン事件の実行役は、林受刑者以外の4人は全員が死刑で確定した。今でも「あれでよかったのか」と考えることがある。でも、もう一度、あの時に戻っても結論は同じだろう。慟哭に少しでもうそを感じたり、遺族の声がなければ、変わっていたかもしれないが。
 林受刑者の判決から約5カ月後、坂本堤弁護士一家殺害事件の実行役、岡崎一明死刑囚に死刑を宣告した。裁判長になって初の死刑判決だったが、冷静に、淡々と言い渡した。林受刑者とはまったく事情が違っていた。
 裁判終結に特段の感慨はないが、事実解明に相当程度の貢献をしたのではないか。だが、松本智津夫死刑囚が何を考えていたのか、エリートたちがなぜだまされたのかは不明のままだ。事件を通じて個人的に得た教訓は、サマセット・モームの短編小説「雨」(※)が描くような人間の本質や本性を見据え、きれいごとを言う人間や美しい言葉に惑わされてはならないということだ。【聞き手・和田武士】=つづく
 ◇やまむろ・めぐみ
 74年判事補、97年東京地裁部総括判事。リクルート事件の江副浩正元会長の公判なども担当した。傷害致死罪に問われた少年2人に対する判決の際、さだまさしさんの歌に触れ「歌詞だけでも読めば、君たちの反省の言葉がなぜ心を打たないか分かるだろう」と諭したことも。04年に弁護士登録。63歳。(※「雨」は聖職者と売春婦を対比させ、善悪や理性と本能の葛藤を描いた作品)
毎日新聞 2011年11月26日 東京朝刊
.........................
16年目の終結 オウム裁判/河野義行さん/滝本太郎弁護士/元裁判長 山室恵氏/中川智正被告 
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
オウム公判終結:あの時…/6止 教祖自白なく真相闇に
 ◇精神科医として松本死刑囚に接見、加賀乙彦さん
 真相が何も分からないまま、松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚には「死刑」という結果だけが出た。もっと時間をかけて彼から言質を引き出し、なぜ教養や技術のある精鋭たちが彼の手の内に入って、残酷な殺人事件に引き込まれたのか明らかにする必要があった。それが裁判所の使命なのだが、放棄してしまった。私はこの裁判が終結したとは思っていない。法律的には死刑が確定したが、松本死刑囚の裁判は中途半端に終わってしまい、裁判をしなかったのと同じだ。
 06年、弁護団の依頼で松本死刑囚に東京拘置所で接見した。許された時間は30分だけ。短時間では何も分からないと思うかもしれないが、私には自信があった。医師として、過去に何人もの死刑囚を拘置所で見ているが、松本死刑囚は完全に拘禁反応に陥っていた。何の反応も示さず、一言も発しない。一目で(意識が混濁した)混迷状態だと分かった。裁判を続けることはできないので、停止して治療に専念させるべきだと主張したが、裁判所は「正常」と判断した。
 拘禁反応は環境を変え時間をかけて治療すれば治る病気だ。かつて東京拘置所で彼と同じ症例を4例見たが、投薬などで治すことができた。治療すれば、首謀者である彼の発言を得られた可能性があっただけに残念だ。
 結局、松本死刑囚から何一つ事件についてきちんとした証言が得られないまま裁判は終結した。このまま死刑が執行されれば、真相は永久に闇に葬られてしまう。オウム事件の裁判ほど悲惨な裁判はないと思う。世界的にもまれな大事件を明らかにできないままでは、全世界に司法の弱点を示すことになる。
 なぜ松本死刑囚に多くの若者が引きつけられ、殺人行為までしてしまったのか。信者の手記など、文献をいくら読んでも私には分からない。教祖の自白がなければ、なぜ残酷なことをしたのか解明もされず、遺族も納得できないはずだ。
 「大勢を殺した人間は早く死刑にすべきだ」という国民的な空気にのって、裁判所もひたすら大急ぎで死刑に走ったように感じる。だが、真相が闇の中では「同じような事件を起こさせない」という一番大切な未来への対策が不可能になってしまう。再びオウム真理教のような集団が生まれ、次のサリン事件が起こる可能性も否定できない。形式的には裁判は終わったが、彼らを死に追いやるだけで、肝心な松本死刑囚が発言しないでいる今、あの事件は解決したと思えない。【聞き手・長野宏美】=おわり
 ◇かが・おとひこ
 精神科医として東京拘置所に勤務し、大勢の死刑囚の診察に携わる。上智大教授などを務め、79年から創作活動に専念。医師の経験を基にした作品も多く、死刑囚が刑を執行されるまでを描いた小説「宣告」や、死刑囚との往復書簡集「ある死刑囚との対話」など著書多数。06年に弁護団の依頼で松本智津夫死刑囚に接見し「正常な意識で裁判を遂行できない」と、公判停止と治療を訴えた。82歳。
毎日新聞 2011年11月27日 東京朝刊
=======================
オウム裁判:13被告、死刑確定へ 執行可否、次の焦点
 <追跡>
 オウム真理教の一連の事件を巡る公判は21日、元幹部の遠藤誠一被告(51)に対する最高裁判決で終結し、教団元代表の松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚(56)ら計13人の死刑判決が確定する。刑事訴訟法の規定に従い法務省は今後、死刑の執行を検討していくとみられるが、松本死刑囚側は精神障害があると主張する。果たして執行に至るのか。その可否が、時期とともに注目される。
 06年に死刑が確定した松本死刑囚は現在、東京拘置所の単独室に身を置く。関係者の話を総合すると、最近はほとんど言葉を発せず時折小声でなにかをつぶやく程度。日中はほぼ正座かあぐら姿で身動きしない。拘置所職員が食事を手伝うこともあったが、今は自分で食べている。家族が拘禁反応の治療が不十分として起こした訴訟の確定記録などによると、01年3月から失禁し、トイレを使ったのは07年に1度あるだけだという。逮捕時の長髪は短く切られ、ひげも落とした。
 風呂や運動を促せば反応がみられるが、家族らの面会には応じていない。関係当局の間では「いろんな見方はあるが、言葉の意味は理解できており、精神障害ではない」として、死刑執行を停止するケースには当たらないとの見解が一般的だ。
 刑訴法は判決確定日から6カ月以内に法相が死刑執行を命じなければならないと定めるが、共犯の被告の裁判や本人の再審請求の期間は6カ月に算入しないとしている。全被告の判決が確定することで「共犯者」というハードルは越えた。ただ、松本死刑囚は2回目となる再審請求審(昨年9月請求、今年5月に東京地裁が棄却)が東京高裁で続いている。他の死刑囚も再審請求の動きが目立つ。
 一方、政府は「6カ月規定」について「違反しても直ちに問題とはならない『訓示規定』にとどまる」との見解だ。00~09年に執行された死刑囚の判決確定から執行までの平均期間は5年11カ月。
 執行命令は時の法相の姿勢次第という現実もある。執行を命じなかった法相も少なくない。民主党政権下での執行は1回、2人にとどまる。平岡秀夫法相は今月11日の閣議後会見で「個々の事案は、死刑が厳しい重大な罰であることを踏まえ慎重に判断する」と述べるにとどめた。
毎日新聞 2011年11月22日 東京朝刊
..............................................


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。