会長・一杉真城奮闘記

創塾41年目です。
ヒトと人が行きかう交差点。
何気ないため息や息遣いが聞こえてくるような、塾であり続けたいと・・

夏期講習・朝学

2008-07-30 14:25:02 | Weblog
朝からの授業

中学3年生の国語の授業を、20年振りに担当し、楽しんでいます。

動詞がぜんぜん解りません。

居直ったように大きな声で、悪びれる様子もなく声を張り上げるKくん。
解らないことを恥ずかしげもなく、でかい態度で・・なんじゃこいつは?!と思いながら、オマエな~解らないことをえばるじゃないよ・・先ずは恥ずかしいと思いなさい。
と言いながら、どうすれば良かろうか~~と思いながら、まず助動詞の主要なものを、こう暗記しろ・・と強制をかけてみました。

え~これを覚えんですか?そうだよ。先ずはいったん暗記。私が君たちに暗記しろと言うのはこれだけ~~

そういいながら1週間。今朝突然彼が奇声を上げました。
黒板のこの動詞・・俺、解るかも・・・

彼の顔がけっこう愉快な顔になっていました。
部活が忙しいことを理由に休みがちな隣のK子が焦っています。

やっと動詞・形容動詞・形容詞の識別の足並みがそろってきました。
1クラス10人ぐらいでスタートした生徒が一気にその半分ぐらい増えました。

申し訳ないのですが、このクラスはもう増やさないようにお願いしました。
一人ひとりに目が届かないと、楽しく仕事が出来ないので、このクラスはこの生徒たちをじっくり育て上げたいと考えました。

先ほどの解るかも~のKクンはやはり恥ずかしさを知りなさいと言われたことが響いたようで、だまされたと思って覚えてみたようです。

解るかも~~?といいながらKくんは意気揚々と正解を出していきます

こちらも内心嬉しくなってきます。
古くからいる◎◎◎◎くんはたちまち先生・先生と言いはじめました。
彼は少し学習障害があるのですが、ナントカ克服しています。立派です。
無碍(むげ)にしては絶対にダメな生徒ですが、彼にイニシアテイブを渡すと他の生徒たちが激しく反発します。

このクラスは、それこそ沼津東を受ける生徒から、公立が危ない生徒が混在しているクラスです。同じ学力を集める、行きかたをなるべくとリたくないクラスです。

もちろん手間暇かかることは承知の上でクラス運営をしています。
3月からスタートして、5ヶ月。道半ばですが、ナントカクラスもまとまってきました。

途中でもし増えたとしても後1人。
1クラス16人で、卒業してもできれば一生付き合えるクラスを作って行ききたいと企んでいます。公立には、とても手が届きそうもない生徒が約3名。
年内で目安がついてしまうので、勝負はこの3・4ヶ月。一人か、二人の沼津東。
全員の公立入学可能ライン。それを目標にした上で、できれば全員英語を話できるようにと欲をかいています。

もう7月も終わります。
8・9・10・11・12月、目標を、少し前倒し・・・・折り返し地点を曲がりました。残り100日戦争の幕開けです。

花火見物・沼津の夏祭り

2008-07-27 10:57:51 | Weblog
昨日は沼津の夏祭りにでかけました。

塾の新井先生の家が千本にあり、先生たちも来るというので行く準備をしていましたら、山形に仕事に行っている息子・大輔が山形から帰ってきて合流するというので結局は千本の新井先生の家にはお邪魔できませんでした。

昼には、山形に出かけた息子に代わって、彼の家族と子どもを迎えに行き、一緒に愛犬アッシーも連れてきました。
理音(LION)は、名前の通りにお肉が大好きな子どもで、野菜を食べさせるとベーと出してしまいます。名前が性格を決定付けるのも不思議なことのような気がしますが、本当に名前の通りLIONライオンの子になってしまいました。
時々LIONライオンのように吼えます。文字通り獅子吼するのは不思議なことです。

食事を終わって、山形から帰った息子と合流して雑踏を歩きながら、川岸のSBS静岡放送・静岡新聞社のビルにお邪魔して花火を見せてもらいました。
直ぐ近くで見る花火はいつもながら、壮観でした。
5年ほど前にももう一人の孫・健吾を連れて伺ったのですが、そのときには孫が大泣きして花火見物どころではありませんでした。

LIONの子はオ~という顔をしているばかりで、どうやら花火は気に入ったようでした。こんなにも真近で見事に見ることができる、沼津の花火大会は大切に守っていきたいと思います。市街地の花火は年々減っていくとも聞いています。

しかし、あの雑踏はもう少し工夫が必要な気がします。

むかし、タングルウッドの音楽祭に出かけました。ボストンからR-90を真西に3時間ぐらい走るとニューレバノンという地域にでます。
そこから20分ぐらい走るとマサチューセッツ・コネチカット・ニューヨークの3州の接点のような地域タングルウッドの森があり、夏にボストン交響楽団の練習も兼ねたサマーコンサートが行われます。小沢征爾が、レオナード・バーンステインに見出された場所としても有名で、コネチカット寄りにはノーマン・ロックウェルの美術館などもある素敵なニューイングランドの郊外といった風情の地域です。
この町全体が老いも、若きも、赤ん坊連れも、誰もが、町ぐるみでこのタングルウッドの森を中心に音楽を、さまざまなスタイルで、楽しんでいる風景を思い出すと、沼津の町の花火も楽しみ方はもっとあるような気がします。

もっとも交通整理は以前ほど混乱しなくなりました。
息子が言うのには沼津もずいぶん花火の人が少なくなったそうです。
見方も人さまざまです。

一番下の娘は・・花火見物は浴衣でしょう!?
といって別行動でした。
もっとも帯が上手く結べたとかむすべなかったとか大騒ぎのようでした・・・が。

塾の大塚教室を建てた時には、3階から沼津の花火が遠くに見えたときもありました。

時代・時代で色々な花火を見ました。
箱根で、船の上から箱根神社の鳥居の近くの湖水の中に動き回って花のように開く花火を見たこともありました。熱海や隅田川の花火も・・・

アメリカの花火は、まったく休みがなく速射連発を40分近くやって終わり!!
というタイプでした。
ニューハンプシャーのウィ二ピサキ湖のほとりのガンストックという場所で、文字通り弾薬庫の爆発といった感じの機関銃をぶっぱなした!という感じの花火大会でした。その名もファイヤフラワー・ショーで、ファイヤーと大声で叫んだような感じでした。

花火雑感。平和な夏の一日でした。


ジョルジュ・ムスタキ 「私の孤独」

2008-07-26 04:34:23 | Weblog
ルルのマスターが亡くなりました。

6月15日(日)に大阪にもどり、父の墓参りに行きました。
前日の土曜日に大阪に行き、静岡大学の船城先生が丁度、、関西大学で集中講義をされておいでだったので新大阪駅で落ち合い、しばらくご一緒しました。
そのときに大阪に行くと必ず立ち寄るルルというシャンソン喫茶へご案内させていただきました。
土曜日だというのに店は閉められていました。
胸騒ぎがしたのでお電話をしたら、奥田マスターが5月の16日に亡くなっていました。船城先生には申し訳なかったのですが、そのあとしばらくはミナミのショットバーで、昔ルルでよく飲んだお酒を飲んでいました。頭の中が瞬間、空っぽになってしまいました。マリオネットというグループがマスターを励ますために「ルルの唄」を作ってくれて、その歌を聴いて、その翌日、マスターは、天に召されたとあとからお聞きしました。突然の病状の変化だったそうです。

「ルルの曲」を作ってくれたマリオネットというのはポルトガルギターを弾く二人のデイオのグループで、ファドというポルトガルの洗濯女の唄を歌う月岡秀子さんと一緒に昔、ルルで紹介をされたことがあったような記憶があります。

ルルが、ずいぶん肩入れをしてこのグループを大事にしていました。
沼津でもコンサートやってあげてよ!といってCDが送られてきました。
去年の暮れも日色ともえさんという劇団・民芸の女優さんと彼らのクリスマス・コンサートをルルで、していただいたそうです。
マサキちゃんも出ておいでよ!と誘われていたのですが、残念ながら行くことは出来ませんでした。

日色ともえさんが主役の「明石原人」というお芝居が、7月24日、25日と沼津にやってきました。私の学生時代の後輩の角谷栄次という俳優さんが、連絡をくれ芝居がはねた後、日色さんとルルにまつわるお話をしばらくさせていただきました。
マリオネットの人たちが追悼会を企画してもらえることになっているようで、12月のクリスマス時期の日色さん・マリオネットの皆さんとの詩と唄の偲ぶ会も実現しそうです。

がっくりきているママとまちこチャンを励ますのが、私の役回りのようです。

今から50年近く前に、ルルの息子の「カズキ」くんの家庭教師をしたのが縁でルルファミリーとは家族ぐるみのお付き合いをしていただいたきました。小野十三郎先生もなくなり石浜先生も今はなく、劇団・民芸の滝沢さんや宇野さんも今はもうこの世に、おいでになりません。

マスターは、いつも自分を押し殺したような穏やかな方でしたが、交通事故にあってからは弾けたように人格が変化したと聞いています。
やはり一人息子の「カズキ」くんをなくしたのが痛手ではなかったかと思います。
彼の名前は小野十三郎さんという詩人が名付け親で、日本に平和が来たという意味の命名だと聞いています。和来が去って、ルルの家族の嵐はいかばりか・・・?!
親父が出て行く、娘が帰ってくる・・硫酸銅の溶液の中・・、とかかれた絵皿が飾られていました。昔、レンガの壁でうなぎの寝床のような、床もレンガで作られた店の入り口近くにありました。小野十三郎さんの作品でした。
奥のカウンターに斜めに階段が設えてあり、2階・3階と上がっていって彼の家庭教師を一年間していたのですが、終わると美味しいカレーとコーヒーを、いつもご馳走になりました。私の高校生時代のことでした。

水かけ不動の前という、格好の場所にあったルルも地上げにあって、場所こそ同じものの、とうとう店は2階に移されてしまいました。住居も別になっていました。そのときの混乱で、小野先生の硫酸銅の・・絵皿は割れてしまったそうです。

酔うとマサキとカズキをとり間違えて、カズキ!お前が早く帰ってこないと俺は死んじまうぞ、マサキと言っていたマスターもやっと一人息子カズキにあいにでかけることが出来たようです。合掌。

ルルのママや満智子ちゃんにはもう少しがんばってもらわなければなりません。
電話をしていると、うんがんばると・・返事は返ってくるのですが・・・


角谷くんとは昨日、今日と飲み歩きました。
沼津のなじみの店で、彼がジョルジュ・ムスタキの「私の孤独」をリクエストしました。
レコードのムスタキの唄に、あわせるようにカックン(角谷くん)がうたいます。なかなか彼も、彼の唄うシャンソンも味が出てきはじめています。
40年ちかく役者をひたすらやっている・・味がじんわりとではじめています。良い男になってきました。

ン~~~酔い オ・ト・コ。
彼の面構えには・・・・

暑中お見舞い申し上げます。

2008-07-23 16:31:32 | Weblog
暑い日が続きます。

今日は富士まで出かけました。
静岡ユニバーサルデザインネットワーク東部という新しいグループで
8月31日(日)だがしや楽校2008静岡in三島大社
10月26日(日)ユニバーサルデザイン子ども遊び王国in沼津
11月8日(土)まちの駅全国大会フォーラムin富士
に色々な形で取り組み、県で進めるユニバーサルデザインの理念を形にして行こうという試みです。

帰ってきてロボカップの関係者の方、何人かとお話をさせていただきました。
中型リーグは、ポルトガル優勝、オランダ2位、宿敵トライボルトのオスナ、ベンツの町シュツッツガルトは3位・4位、沼津大会優勝の「ひびきの・ムサシ」は優勝候補とは引き分けたものの結果5位だったそうです。残念!
慶應テイームは、予選敗退だったそうです。ご苦労様でした。

ジュニアの方からも某メンターとして報告がありましたが、子どもたちに勝利至上主義ではなく、ロボットと人間とがいかに融和して生きる未来社会を目指していかなければならないかが課題とありましたが、国際社会のあり方への一石ですね。

欧米は
チャップリンのモダンタイムスやシュワルツネッガーのターミネーター、あい=ロボットに代表される人間を疎外したり、突然狂いだして人間を破壊させる要因としてのロボットが取りあげられることが多くやや人とロボットが対立的に取り上げられることが多いような気がします。

日本は
それに比べ鉄腕アトムや鉄人28号のよい影響でしょうかロボットとお友達のような雰囲気で、余り暗くはないような気がします。
頭の上の赤いヘルメットに人間が入ったマジンガーZの大きな人形を息子には買ってやった記憶があります。

こうした国際大会の中でお互いのロボット文化の考え方の違いを確認することで、お互いの文化に対する敬意と理解を進めることが大切なのではないかと思います。
竹島、尖閣列島問題・・考えなければならないことは一杯あります。
来年はヨーロッパのオーストリアでの世界大会です。(オーストラリアではないと思いました)
ヨーロッパと言えば、ユーロ2007、ユーロ2008とヨーロッパ大会も開かれたようです。今回2位のオランダがユーロでは優勝しているようです。
日本も、中国・韓国・シンガーポール・台湾とアジアを視野に置く必要があるかもしれません。

もし中国が勝利至上主義で相手の機械をぶっ壊しても勝つというスタンスなら鉄腕アトムをもっと学んでもらうとかとか色々考えてもらうことはあるのかもしれません。

九州から参加した小学生が3年目のキャリアで世界大会の優勝者になったそうです。
明らかに大人の指導者の意欲と力量・・つまり環境の差ではないかと思いました。
九州工大のミスター中型ロボットのテイーム・リーダー武村さんの近所の子どもさんだそうです。

野球王国・サッカー王国そしてロボット・サッカー王国に静岡が冠せられ・・・なんて夢を思い描いてみたと思います。

ブログの不思議

2008-07-20 01:40:32 | Weblog
大津由紀雄先生からお便りを戴き驚いています。

最近、いろいろな方から思いがけずご連絡をいただき驚くことも増えました。
暗い部屋で家人が寝静まった頃や、朝早い誰も居ないオフィスで、クーラーを点けたりけしたりしながら、ちょっとヒトには見られたくない格好で居るときに不意にドアが開いたような、外の世界に繋がった感じで、今も、別に誰も見ているわけではなくても脱ぎ捨てたシャツを着なおしてこのブログをお書きしています。

先ずは大津先生、ご無沙汰をしています。メッセージをありがとうございます。
ご家族の皆さまにもよろしくお伝えください。

私は長男の孫1名、長女の孫1名男4名・女4名元気に暮らしています。
明日は近くのお寺=光厳寺のお布施餓鬼に長男夫婦に孫も、一緒に参ります。
先月十数年一緒に暮らした愛犬が昇天いたしました。
秋田の義母はあとは任せたと秋田に戻ってしまいました。ご本家様からは新盆に女房が居ないでどうするのと叱られたそうですが、嫁さんや婿さんに気を使うよりはと名古屋の妹さんと二人で、のんびり我が世の春を楽しんでいるようです。
と今、駐エジブト公使の上村司さんに本当にしばらくぶりのメールを書かせていただいたばかりです。
大津先生のブログも先ほど拝見させていただきました。お元気な様子、何よりです。

本当は書こうか、書くまいか迷っていた某市の財政における人件費の割合を示した資料について、その資料をどうしようかと思案投げ首でした。
私が一番知りたいことは、沼津市の総収入はいくらで、総支出はいくらかということです。人件費の総額と内訳はいくらなのかということでした。人件費としてカウントされている人数と給与の中身がわかればベストです。
そうすれば市財政の規模と高架の中身がジャッジできると考えたからです。

今、橋下大阪府知事も大阪府の人件費の削減を攻防戦で一進一退の日々の様相ですが、知れば知るほど伏魔殿なのでしょうね。

鉄道高架が市の財政を圧迫しているか否かは、企業体としてとらえるとすると先ず確認するのは人件費です。そして財政規模です。

アメリカの公認会計士のライセンスを取った人と、日本の公認会計士の資格を取った人と同じ年に同時に卒塾生の公認会計士誕生が実現しました。
その時にほやほやの二人と話をしました。、やはり情報開示も含めた日米の手法と考えが違っていました。
そのとき、いずれ大きな問題になるときが来るから必ず公会計の勉強をしておいてくれよと二人にお願いをしました。大きくうなずいてくれていました。
そろそろ彼らの力を借りようと思っています。

コーチングのプロの仕事は基本がしっかりしていることと、難しいことでもなるべく平易に語れることだと考えています。
難しくすればするほどごまかしや、ひょっとすると嘘が忍び込み、はびこる要因を作り出していくようなきがします。

5年前に『10歳の好奇心』ということで5人の大学教授の方に小学校4年生に授業をお願いいたしました。そのときにも痛感したことです。

本当に基本が大事だということを!

最後に、ブログの不思議を語るつもりが、やはり半可通の悲しさ、解るようにはお話を出来ませんでした。

不思議は今回は私自身が良くわからないということです。
たとえば7月6日~12日は1400pvが、7月13日~7月19日が0pvになっているのは見られた回数が1400なのか、0だとノーアクセスなのか?

50の手習いではじめたコンピューターは本当に不思議です。
ブログはもっと不思議です。不思議だから飽きないのかもしれません。




俺と僕と、私

2008-07-16 20:19:50 | Weblog
俺は駄目は問題
俺はダメは駄目、俺の空の本宮ひろしさんが怒りそう・・と書きましたら今朝のテレビではどうやらダメにならなかったようで、ほっとしましたが、貴様と俺とは同期の桜~もだめなのでしょうかね?とやっていました。
そういえばどこかのJA農協さんもオラッチ(ェッ?)を使っていましたっけ
つくづく言葉は文化だと思いました。

実は、私も、その昔『ぼくは』と言って、えらく叱られた事がありました。
村山知義さんという当時は日本一の演出家の二度目の奥様で、女優さんでしたが、何かに反論して僕はそう思いませんが・・と言った瞬間に、僕とは何ですか?私と仰い。とやられました。俺なんていおうものならどうなっていたかわからない剣幕でした。
40年前ぐらいの出来事ですが、やはり時代背景をキチンと捉える必要があるようです。

今回は『俺』の問題は、文化庁/文化審議会国語分科会で新常用漢字を制定するプロセスでのことのようです。どうやら2128文字で落ち着きそうだとありました。

漢字には、よく言われる教育漢字・当用漢字・常用漢字とよく耳にする漢字区分が浮かびます。
教育漢字、または学習漢字とは、小学校6年間のうち学習することが文部科学省によって定められている1006字の漢字の総称。とウィキペデイアにあります。

1年生(80文字)、2年生(160文字)、3・4年生(各200文字)、5年生(185文字)、6年生(181文字)合計で1006文字。

ここまでは非常にバランスが良い。と私も思います。

ところが、昔は当用漢字1850と丸暗記したのですが、1981年10月1日に常用漢字として色々含めると一挙に2000字近くになるのですが、一般に社会に出て必要なものとしていわば中学生が卒業時には知っているべきものとして一覧にしてしまっている字が今の常用漢字です。

小学校3.4年生で学習すべき200字を中学校に入ると一挙に、各学年300字以上を課してしまった無茶な注文がこの3年間に、1000文字以上なのです。

しかも与えられている漢字はすべて最初は読みを、次学年で書けるようにを義務付けています。
是は名案だと思います。先ず読んで書けるようになる・・・理想です。
しかし、量を、子どもたちの実際とかけ離れさせれば・・・名案ですが、過ぎたるはナントカで、無茶になってしまいます。カバゴンこと阿部進先生はこれが高校中退者を大量に生み出す原因だとも仰っていました。

面白いことに当用漢字は1946年11月16日に内閣から告示された漢字の全廃を目的に漢字を制限するための表だったとウィキペデイアにあります。1981年常用漢字として大きく舵を切ったのは田中内閣の角影内閣と揶揄された鈴木内閣のときでこのままでは日本がおかしくなると若い官僚たちが自ら考えていろいろな形で政策を作り始めていた時代を背景に登場してきていると思います。

彼らがよりどころにしたのは、1966年10月1日に期待される人間像として出された中教審の答申であることは間違いありません。まさに高度経済成長期の発想と意欲にあふれたものでした。東京オリンピックの年にスタートしたことは象徴的なことなのかもしれません。

最後に私から一言・・どうも『俺』問題は、とっても頭の良い官僚が当たり障りのない話題を上手く作り、ありそうなことで漢字が大切だと言うことを上手に吹聴させて、お年どころをつくり、188文字も増やしてしまったのか?とちょっと裏読みをしてしまいます。
188文字も増やされて、また落ちこぼれるというより落ちこぼされる子どもたちが気の毒だとは思わないのでしょうか?

たとえば伊藤忠商事はそのむかし、社内の文書をローマ字表記にしたことがあるのですよ。私は大手の商社のワンフロアーに日本人が半分以下であったことをみて教育の国際化を痛感しました。20年以上前のことです。
IT化で覚えるべき漢字は減っていると言いながら漢字を増やすプロセスはちょっと理解できません。このことも、またゆっくり考えてみたいと思います。

ヒトスギッ子くんへ

2008-07-14 05:50:45 | Weblog
夜中の3時にメールを書いてくれた卒塾生、ヒトスギっ子クン。

33年目の小関(英語)、30年目の新井(数学)両先生とも元気。元気。
(間違えました。

私も突然書きたくなって大塚教室に来てPCを開くと

初めて赤ちゃんを産んだ母親がわが子の笑顔を見たときには、麻薬を服用した際と似たような脳の領域が活発に働き、自然に高揚した状態になるとの実験結果を、米ベイラー医科大の研究チームが13日までに米小児科学会誌の電子版に発表した。母親の子への愛情を脳科学で分析すれば、育児放棄や虐待の背景にあるかもしれない病理の解明に役立つと期待される。時事通信

というニュースが目に飛び込んできました。

お母さんが子どもの笑顔を見て麻薬なら、孫の笑顔は?やはりアルコール・・いわば酩酊状態・・そうなんです。土・日は二人の孫に挟まれて私は酔っ払っていました。

去年4月3日に生まれた孫のお母さん。つまり長男のお嫁さんの102歳になるおばあさまがなくなられたということで、長男が自分で計画をした河口湖での集まりはキャンセルできないということで、孫を預かりました。
流石に夜中は少しむずかりましたが終日ご機嫌で、おかげでこちらも孫二人に挟まれて寝るという至福のときを得て酩酊状態という。なんだか話が大脱線。

それ以上に昔の悪がきがでっかい顔して訪ねてくれると、当方のアルコール度もまたアップ。

またもう一つ脱線話を・・
卒塾生との交流が生まれたときに必ず浮かぶ先生の顔があります。
西村克己先生という私の小5・小6のときの担任の先生です。
お父様が教育者だったそうで、親父に大反抗して国を出たとですよ、軍隊から戻ったらいつの間にか先生になっておったとです。九州には戻れんと大阪で君たちを教えとったですよ。
私は還暦、60歳の誕生日に、どうしても会いたくて日本の最南端鹿児島へ、嫁さんと一緒に先生をお訪ねしました。そのときの先生との昔話でした。

50数年ぶりの再会でしたが、先生は昔と変わらず、病院でしたから病人さんであったにもかかわらず、看護士さんを相手にそれこそ若い看護士さんのお尻でも触りかねない元気な不良爺さん(もち論不良患者さん=憎めない)のご様子でした。

我が愛妻は、先生なんだか余り嬉しそうに見えなかったようねといってくれましたが、私には良くわかりました。照れているときの先生の顔であることを・・

昔、小6のとき痔の手術をして腹ばいになって寝ておいでの先生をお見舞いしたとき、お尻をぽんと叩いて目から火が出るほど怒られたときの事を思い出しました。
色々な思い出を一杯いただいた心に残る先生でした。先生というより昔の軍人さん。私は出来の悪い三等兵扱いだった気がします。
この先生が私の原点だった気がいつもします。

夜もすっかり明けました。曇っていますが、陽も射してきました。
何より空気が爽やかで、風が心地よいです。

本当は、今頃は、中国の蘇州に行っている予定でした。
一週間ほど前にアメリカのホージー・ハーショフさんからの電話で北京オリンピックに誘われました。
蘇州で行われるロボカップ世界大会ですが、ブレーメンとアトランタへは慶應大学の吉田和夫先生とご一緒しました。一杯の思い出と一緒のロボカップ世界大会でした。
高橋先生には申し訳ないのですが、今回は参加を見送らせていただいて、もし何か問題が生じたらバックアップをさせていただこうと思っています。
ホージーさんは上海でドッキングをしてヨットレースを見て数日北京でどうかという打診でした。
長野・シドニーとご一緒したのですが、北京は当然一緒だろうという口調でした。
彼からみると中国と日本は同じように見えているのかもしれません。

7月は沼津にいようと思っています。ヒトスギっ子くん夏祭りのあたりに帰ってきませんか?都会目線で沼津を見るな!?と言ってあげたい気もするとですよ!
8月は、色々です。

追記 7月14日中国の武村さんからロボットが無事搬入終わってテストが開始できたという連絡が入りました。良かったよかった。
アトランタでは現地の対応が悪く大変だったそうです。

今日は7月13日 日曜日

2008-07-13 16:23:45 | Weblog
7月7日(月)の七夕はゆっくり短冊を書いていたかったのですが・・・

なんだか慌しい七夕の週間になりました。いろいろな事がありました。
忙しいときには必ず余計なことをして自分を余計に忙しいことに追い込んでしまいます。
来年こそはゆっくり時間をもちたいと思います。
二人目の孫が来年は2歳半になります。来年こそは笹を庭に飾りたい思いました。

2004年7月7日はイラクから来たモハマド・ハイサム・サレハ少年が一応手術は成功し、お父さんのハイサム・サレハさんと一緒に飛行場に向かいました。
再来日と、いつかは完全に目を見えるようになることを期待して。

そして4年の時間が経過しました。お父さんのハイサムさんと何回か沼津に来てくれましたが、診察をしていただいた聖隷病院の栗原崇医師は、杏林大学病院に戻られ、手術を担当していただいた樋田哲男教授は今年亡くなりました。
ご葬儀にも伺い、奥様にもお礼を申し上げ、栗原先生にもお目にかかりました。
杏林大学の皆様がお出しになった学会誌の樋田哲男教授追悼号には静岡新聞社のご協力を得て在りし日の樋田先生のお姿を掲載していただきました。
その中には我が高校時代の悪友・荻野誠周くんが樋田先生と一緒に写っていました。オレ・オマエの仲なのですが、残念ながら未だ再会には至っていません。

話は変わりますが、常用漢字からは俺という漢字が外されているそうです。
俺はよい言葉ではないので外す・・とありましたが、悪い言葉ですが入れるの方が良いと私は思います。この問題はいずれゆっくり書きます。
俺の空!本宮ひろしさんが怒りそうですが・・・(閑話休題)

モハマドくんが行方不明です。

前回来日されたサミラ博士から、三人の医師の世話へのお礼とこれからのことを話すメールが届きましたが、その中にムンタハ医師にお願いしたハイサムさんへのメッセージを病院の関係者で、モハマドくんの隣に住んでいる方に伺っていただいた話として彼らが住んでいる場所にいないのではないかというメッセージが届きました。今までにも何度か行方不明になって心配したことがありましたが、モハマドくんのお母さんの家が結構有名な家族らしく良くお母さんの家にいることがあり、今回もそのケースではないかと、心配はしていませんが上手く連絡が取れればよいと思っています。

現在メールアドレスや携帯電話の番号を、サミラさんに送ってつないでもらうように連絡を取ってもらっています。前回JICAの研修生でファルージャからの研修生が来たときにはヨルダンのドクターにかかりたいということで、お金を委託したのですが、そのときは上手く届いたようでした。
ファルージャ総合病院で早く手術が出来るようになればよいのですが。

最後に、イラクの人の名前の表記について。

先日も友人からイラクの方の名前は自分・父・祖父・最後はファミリーの順で表記すると丁寧に教えていただくメールをいただきました。
ファルージャの総合病院長さんは、アイマン・スメインさんですから、アイマン先生が正しいのですが、私がお尋ねしたときにはスメインと呼んでくれと本人が仰いました。難しいものですね。

鉄道高架とJRのこと

2008-07-11 11:19:08 | Weblog
旧国鉄 債務のこと・・とインターネットで検索すると

Ⅴ 民営化(PDF)
7. 7 中曽根元首相、旧国鉄長期債務の処理策、まず財投金利減免を 7. 8 MM3 ...
8.27 旧国鉄債務に税金投入、政官無責任体質のツケ重く。 国民負担1人18万円。 ...
9.20 旧国鉄の長期債務処理、年金分はJR負担。 ...

 という文字が躍ります。
この内容はともかく、国民一人ひとりに十万単位の負担を押し付けてゴメンナサイをしたのですから、これからは本当に、真剣に国民の、市民のために働きます。
と誓って一生懸命にトップが仕事をするのが常識ではありませんか?

しかし、現実は違います。独立行政法人 鉄道建設・運輸施設整備支援機構(国鉄清算事業関係)
長期債務37.1兆円のうち・・・という一項があります。
これで沼津駅北の大きなスペースの一部が定借で貸しビルになっていきました。この差配をしたのが私の友人の紹介で来た、あるゼネコンと関係の深い有能社員です。
今度彼が沼津に来るので付き合ってあげてよ・・友人から紹介され沼津のお魚を色々紹介しました。しかし、
かれはあるとき、このビルを売り飛ばして本庄に転勤してしまいました。
そうか丸投げとは、このことか?気がついたのは、後の祭りでした。
私がかんかんに怒ったので、彼とは、今は音信不通です。

この体質を変えることが出来るのは18万の負担を甘受した私たち一人ひとりの自覚ではないかとおもうのですが・・・

私は逃げるように沼津を去っていったあの友人の姿を忘れることが出来ません。

数日前にも深夜、沼津駅で誰かが駅員と揉めていました。一人の酔っ払いが「おまえな~相手は客なんだから謝ってまず、すいませんというんだよばかやろう!」
と怒鳴っていきました。あまり感心した図ではありませんが、新聞では駅員に対する乱暴な客についての記載が増えています。
その背景にはやはりどこかで本来の公共交通機関と利用者の間での信頼関係がゆがんでいる結果がにじみでているような気がします。

鉄道高架の問題も主体事業者である県、その事業のパートナーであるJR.それに協力している市・行政の関係がもう少し、きちんとしたものに整備され解りやすく提示されてしかるべきかと思います。
安全という美名に隠れて本来より高い建設費を市民が支払わされるJRを相手にというのは困ります。JRがそんな会社でないと信じたいと思います。ぜひJRさんには市民の目線に立った公共交通機関のプロの誇りをお願いしたと思います。プロの仕事は技術と権力を鼻にかけるのではなくシンプルで美しくそして誰もが、納得できるものだと思います。

身近なところではたとえばJR沼津駅のことを問題にしてもほとんど沼津駅のことでも当の沼津駅では決裁権がありません。
では決裁権がるところはどこかと駅できいても教えられたところはぬらくらして要領をえません。

意を決してある場所に電話をしました。最初に言われたのはこの番号はどこ?できかれたのですか?でした。
いまどき本庁の審議官クラスでもそんなことは言いません。
用件は伝え、対応はそれなりでしたが、呆れてしまいました。

品川駅を行かれた方はご存知かと思います。京急からJR品川駅に出ると入場券代を取られます。
JR品川駅から京急に出るとことは対応は違います。もっとも入ることは出来ません。一度待ち合わせにどうしてもというときがあり経験したことです。

JR東日本で藤沢から来た友人がJR東海だからということで三島駅でスイカが使えないと怒っていました。東日本の社長が知り合いだぞ。とごねていました。
そんなもの言いをしなくてはいけない駅は貧しいですね。

沼津駅も北口から南口が自由通路になっていません。
プロの技術と知恵があれば間単に解決できます。沼津の女性は優しいですね。
暗い夜道が嫌で入場料を支払っていても大騒ぎをなさることはありません。
トイレのことも色々ありますが、今日はここまで。
高架の問題は実はJRの問題・・と私には思えます。

奇跡 ミラクルを体感した一日。

2008-07-10 01:08:36 | Weblog
今日は朝から、少し嫌なことがあったのですが、悪いことはよいことの前兆。よいことがあっても浮かれるな・・が信条ですので、今日は良い一日になるさとでかけました。

良いこと。
東京の港区の国際医療福祉大学三田病院院長北島政樹先生をお訪ねしました。
駐イラク岩井幸男公使とご一緒させていただいてファルージャ総合病院スメイン院長を研修させていただいたお礼の表敬訪問でした。
国際経験豊富な北島先生と岩井公使のお話は話題が豊富ですっかりよいお時間をいただきました。
ロボカップで顧問をしていただいた、山口健県立がんセンター総長とも旧知だそうで、先輩後輩はありがたいものだと改めて感じました。

次に悪いこと
良いことは続かなくて赤羽橋から行きやすい恵比寿にいくつもりが、生憎日比谷線で人身事故発生で、次のお約束をしていた元の東急エージェンシー営業部長をされていた日下部哲さんとのアポはキャンセルになってしまいました。
日下部さんは、その昔、クリントン大統領が少年の頃JFKケネデイー大統領と握手しているセピア色の思い出というコニカの宣伝を担当した伝説のデイレクターで、橋田メモリアルの初期に色々お願いした方で、CDショクランの歌も作っていただきました。
慶應大学生の息子さんの大学院進学の相談もあったのに~となるべく次回のアポを早めるという話でお許しをいただきました。

良いこと。
すっかり時間が出来たので、聖路加看護大学の田代順子教授に無理をお願いしてアポを早めていただいて、日比谷線が普通なので、築地に行くことを諦めて築地市場から歩くことを決めて約600メートルをそぞろ歩きを決め込みました。
生憎市場が休みなのでこれはというお店もないので、マグロを食べることを諦めました。途中築地本願寺を横にみながら仏具やさんなどをノゾいて、お坊さん方のお履きになるぞうりやお数珠が意外に安いんだあ~などと感心しながら見聞を広げてきました。法話集が塾教材のようにたくさん並んでいてお坊さんの世界のHOW TOグッズだ。と面白くみて歩きました・。
しかし、未だ時間があったので入った喫茶店で注文したナントカカフェラテはアイスクリームかと思ったのが生クリームでいただけませんでした。
しかし、ちょっとしたアンラッキーを帳消しにする看護学の泰斗・田代先生のお話でした。
イラク大使ジュマイリ博士からのご依頼で、クルド地域の看護大学の援助も含めた交流を!という希望に沿った対象大学を選んで欲しいというご要望に対するリサーチでしたが大変良くわかりました。
アフガニスタンの看護大学のシラバスも作られた、豊富なご経験は今、外国においでのイラク大使のご帰国を待って話は動き始めそうです。
アフガニスタン・カブールのお話など、イスラム国家との看護学のミッションの違いについてと医療・看護の国際化の方向性は正しいですよと着眼点はお褒めいただきました。なんといってもこのイラク問題のきっかけともなるアフガニスタンの教育再建事業の継続にご縁を感じました」。
そしてよいことの後には老眼鏡を忘れてしまうというおまけがつきました。
お送りしましょうか?とおっしゃっていただきましたが、申し訳ありません百均で105円で求めたものなので、お送りいただくのは気が引けますので、近いうちに必ずお伺いすることになると思いますので片隅に置いておかせてくださいと申し上げましたら、そうねとおっしゃっていただきました。お恥ずかしい。

その後、大岩元慶應大学名誉教授と大船でおめにかかり共通の友人の訃報を惜しみながら食事をご一緒しました。

ここで奇跡!ともいうべきミラクルに遭遇しました。
鎌倉は遠いし、どうしようなどとお話をさせていただきながら、崎陽軒のフランス料理・・はな~中華はどう? え~シュウマイ弁当かと思いながら、着いたところが原宿の聖母の園の前でした。
先生、ここは私の伯母が創った場所ですよ。しばらくご無沙汰をしていたことに気づき食事の前に聖母の園の中に入りました。二人の不審者状態でした。

まったく罰が当たってもよいぐらい不信心モノでしたので、せめて手を合わせないと伯母上に怒られる!園内をうろつき回りましたが、うっかりすると手を合わせる場所を間違えそうな広い園内。
ここで間違えて違うところに手を合わせてはシャレになりません。
思い切って、案内を請いますと出て来られたかたが、一杉満枝の甥っ子でと訪問の目的をつげますと第一修道院の大垣淑子院長、シスター・マリア・アステンタが直ぐに出てきていただきました。実は崎陽軒にまいりましたらとお話をしましたらあそこをシスター一杉のご指示で畑をうなって一緒に作らせていただきましたのよとありがたいおはなしやら、シスターのお導きですね。といっていただいたらり。
すっかり暗くなった園内を伯母や祖母の眠る場所にご案内いただく途中で第二修道院の院長様、養老院の責任者のシスターにお目にかかり、またまた伯母の思い出のおはなしをいただきました。

しばし・・ですが伯母上への祈りの時間を持つことが出来ました。

言霊(ことだま)ですよ。目をまるくしてごいっしょしていただいた大岩先生がポツリと仰いました。

そのあと、崎陽軒で楽しいお話をしながら大岩先生と今後のお話をさせていただきました。先生からは40周年なのだからたとえばPC教育の日本の第一人者戸塚さんぐらい沼津に招けばと発破をかけていただき思いがけない幸福につつまれました。

長い一日でした。

実は最後に、深夜0:15ぐらいには終えるつもりでこのブログを書き始めたのですが、3分の2ぐらい書き終えたところで操作ミスでふっとんでしましました。泣くに泣けず・・・とほほほほ・・・の思いで書き上げました。目が閉じそうです。校正なし。おやすみなさい。
誤字脱字、平にご容赦。