会長・一杉真城奮闘記

創塾41年目です。
ヒトと人が行きかう交差点。
何気ないため息や息遣いが聞こえてくるような、塾であり続けたいと・・

イラク・アンバール県・県会議長アル・アーニー氏より感謝状

2008-08-29 20:56:02 | Weblog
昨日8月28日(木)イラク大使館をお訪ねしました。

午後4時から30分間の時間でした。来日中のイラク国アンバール県・県会議長アル・アーニー氏とその一行4人のアンバール県のファルージャ市の総合病院・母子病院プロジェクトの方々との会談でした。
会談の冒頭にアル・アーニー議長から橋田幸子さんへ、ご主人の橋田信介さんが亡くなったにも関わらず、イラク国民のために献身的な活動をする行為に対して、ご主人が亡くなったことへの謝罪と哀悼のメッセージが冒頭述べられました。

同時に、10月中旬に橋田さんをイラク・ファルージャ/バクダッドへの招待をする旨の申し出がありました。


また、彫刻家・堤直美氏制作による「ショクラン(感謝のこころ)の種」(仮題)と題したモニュメントのレプリカも改めて披露をさせていただきました。

この作品は、最初堤さんの制作になる「母子像」が、ファルージャ市の有力者から宗教上の理由によりクレームが入ったことを受け、ジュマイリ大使とも相談をしながら慎重に仕切りなおしをいたしました。前回イラクのナンバー2とも言える官房長官が来日されたときにも制作意図も含めて作者・堤直美氏夫妻を会食に招待をし、人柄と業績をご紹介しながらその作品を直接みていただいき私たちの心意気をお話さていただきました。

同時に第一副首相になられたイサーフィー外務大臣にも就任のお祝いを申し上げながら、経過をメールさせていただきました。

今回のアル・アーニー/アンバール県会議長は官房長官と同じ一族でイサーフィ前外務大臣と同じスンニ派の有力部族のファミリーだそうです。

ご存知のようにイラク・アンバール県の県庁所在地はラマデイーです。ファルージャはラマデイーからさらにバクダッドよりの人口が約30万人の大きな町です。
アル・アーニーさんの一族はラマデイー、ジュマイリさんの一族はファルージャの主要な有力部族のファミリーのようです。

かってイラク戦争の中で、反米の拠点ともなったファルージャは、市の真ん中を北東から、南西にチグリス河がゆったりと流れる沼津とよく似た地形を持つ街だそうです。

大使館の壁にかけれたイラクの地図を見ながらアル・アーニー県会議長が熱心に説明をしたくださいました。むかし在イラク日本公使の岩井文男氏から総合病院や旧総合病院の位置を地図を使ったご説明を受けたときには、グーグルマップの航空写真を使った地図がずいぶん詳しく、見せていただきながら、え~グーグルですかア?!とのけぞってしまったことを思い出します。

今回「ショクランの種」のモニュメントの問題については①写真を持って帰り議会への根回しをしていただく②橋田幸子氏がレプリカを10月に持参した上で、飾る場所を議会で決定していただく。③完成したレプリカを2年後の母子病院完成時に据え付ける。この3段階のプロセスを重ねる予定です。まず、橋田さんの訪問を待って、レプリカを見ながら議会において飾る場所と大きさを最終審議をしましょうということでした。

橋田メモリアル・モハマド君基金事務局長としてMr.Hitosugiも一緒に来てくれますか?というお尋ねがありましたが、事前にジュマイリ大使とも根回しをして、行く方の人選も含めて当方に任せてくださいとお話をしておきました。多分私が行くことはないとも、大使には申し上げておきました。

これから関係各位へ、相談しながら慎重な根回しに入ろうと思います。

因みにファルージャ母子病院に関しての、すでに発表されているアウトラインは以下の通りです。

イラク共和国に対する国連開発計画(UNDP)を通じた無償資金協力 「ファルージャ母子病院設置計画」に関する書簡の交換について 平成20年2月26日

我が国政府は、平和構築のための支援の一環として、イラクのアンバール県における「ファルージャ母子病院設置計画」(The project for Establishment of a Maternity and Children’s Hospital in Fallujah)」の実施のため、国連開発計画(UNDP)を通じ、18億9,700万円の紛争予防・平和構築無償資金協力を行うこととし、このための書簡の交換が、2月26日(火曜日)(現地時間、同日)、ヨルダンの首都アンマンにおいて、我が方加藤重信駐ヨルダン国大使と先方パオロ・レンボ国連開発計画イラク事務所代表(Mr. Paolo Lembo, Director of United Nations Development Programme, Iraq)との間で行われた。

とあります。

すでに医師交流や、さまざまな交流の動きも活発化してきました。
全国の支持者の支援に十分答えることが出来た・・・とほっと胸を撫で下ろしています。
もう早いもので5年の歳月が流れました。
皆さまのご支援にこころから御礼申し上げます。

伊藤和也さん拉致事件について

2008-08-27 07:08:14 | Weblog
アフガニスタンの拉致事件

アフガニスタン東部ジェララバード近郊でNGO「ペシャワール会」の伊藤和也さんが拉致されたという報が、福岡在住の朝日新聞の記者の方から飛び込んできました。
一杉さんは静岡だからご存知ではないかと・・・
早速島田のレシャードさんにお電話をして伊藤さんについておききしました。
島田でレシャード病院を開業しながら「カレーズの会」を運営されています。
ご存知だと言うことで、知り合いの記者には連絡を差し上げました。

5年前、2003年の夏にセーブアフガン・チィルドレンの会を訪問したのですが、パキスタン側から入ったので、ジェララバードは通り道でした。
一行は、静岡高校の3年生3人。橋田幸子さん・杉山佳代さんそして私の大人3人、高校生3人の貴重な体験の旅でした。
一応私は代表格でしたので、外務省・文部科学省国際部には連日お電話で現地の状況を確認しながら、直接には,
ナビゲーターは橋田幸子さんでしたが、橋田さんのご紹介で、日パ協会に現地連絡を何回もとりました。二重にも三重にも安全を工夫しての旅でしたが、絶対の安全は、どこにも担保されていませんでした。自己責任。何度も使った言葉でした。

パキスタンからビザの発給を受け、ロシア製のカラシニコフ自動小銃を持ったパキスタン兵の警護を受けながらカイバル峠までひたすら走り、峠でパキスタンからアフガニスタンに入国しました。
カイバル峠からワンストップでカブールに飛び込みました。文字通りノンストップで走る走る。

アフガニスタンは復興バブルでカブールに向かう車列の群れは延々と続いていました。そのうちに7~8割が日本車で、半分はトヨタ車で、トラックはベンツが多かったような気がします。
カブールの町は、私が小学校4年生まで育った、大阪の下町とそっくりで、どぶ川と何やら金属のすえたような金属臭とでも言うような独特の感じに懐かしさがこみ上げてきました。本当に戦後直ぐの日本がそこにはありました。

しかし、その後聞こえてくるのは、部族ごとのアフガニスタンの人たちの醜い主導権争いに、利権を求めて徘徊する外国資本や、武装勢力の跳梁です。

白鳥晴弘さんという9.11で一人息子・敦さんをなくされた方がアフガニスタンに交流ハウスを建てたいという悲願で活動されているのですが、カブールの市内に交流ハウスを建設する土地の確保まではお手伝いできたのですが、残念ながら活動は止まったままです。

同じような戦後を経験している日本=アフガニスタンそしてイラク。
戦後復興の違いを私はいくつかの側面から考えます。

これは印象です。
しかし、一番重要なことはカブールでは王の宮殿が野ざらしになっています。屋根が鉄骨むき出してそびえる宮殿あとは、さながら広島の原爆ドーム状態です。
これではアフガニスタンの一人ひとりの誇りは喪われますし、民族のほこりも育ちません。
次に利権利権で狂奔する人々、特に役人の横行です。

ここが日本と違うところではないかと思いました。

では、今の日本はいかがなものか?
一人ひとりが誇りを持って仕事が出来ているか?
皇室もまた、私たちの敬愛の対象として、しっかりと存しているか否か? 

伊藤和也さんの無事を祈るばかりです。

ドコモショップ・・ちょっと・ちょっと

2008-08-26 21:19:54 | Weblog
携帯電話は結局何も手付かずで戻ってきそうです。

昨日、孫と一緒に沼津へ「崖の上のポニョ」を観に行きました。
バ~ちゃんとじ~チャンと6歳の孫と沼津の駅の北口にできたシネコンで、敬老割引・一人1000円。孫も1000円。合計3000円のお楽しみ。
コーラとポップコーンをつまみながら楽しい映画館鑑賞。

見ていると・・不意に携帯電話がプルプルプル・・・
マナーモードにしていたから◎。鳴りでもしたら孫にどやされます。
それでも可愛い孫にチラッとガンを飛ばされました。

駅北のドコモショップからの電話です。

真夏の夜の季節はずれの怪談話です。うら~めし~や。
電磁波の確認はメーカーに出すことになるので後10日かかります。
副店長さんからの電話でした。

いや、それは困るので、携帯は至急お返しください。もう一週間近くなりますので・・店長さんにも・・と言いかけると、申し訳ありませんが、店長は今会議中で・・ここでぶちぎれました。別に店長を出せとは言うとらんのに語るに落ちとる
会議中?!嘘つけ。店長は休暇中で、副店長の私も明日、月曜日から休暇をいただいているので、代わりの副店長がお電話しますのでよろしいでしょうか?
昨日の副店長さんは正直に、そう言っていたぞ!?
こら信用できないぞ。平気で嘘を言う会社とは余り関わりたくない。
こちらは色々データーが入っている携帯をお渡ししているだけで落ち着かなくなっち居るのに・・・
これはトラックバックしてアドバイスをしていただいた、東大の上田さんのアドバイスを灯台として(おや~じギャク・・もとい、じ~じギャグ。あはは)
携帯をイヤホーンをつけて(補聴器のようでんがな)なるべく体から話して・・
距離の2乗に反比例だそうですから)

ついでにNTTドコモだかドモコからもなるべく離れて・・こちらは距離×2倍の実害は、反比例ぐらいでしょうから・・

なるべくストレスをかけていただかないように、爆発をじっと抑えて平常心で・・
でも平気で嘘をつく会社とはなるべく深いかかわりにならないようにしたいものだと押さえて押さえて・・
もし私の左胸・・左耳が発ガンしたら原因はNTTドコモ携帯だと化けて出てやるぞと思いつつ・・
こらあブログに書いてやろ。

私もずいぶん嫌な奴になってきました。こんな悪い陰険な仕返しを思いつくなんて。でもおかげさまでストレスを抱えて怒鳴らずに済みました。
昨日の上田さんのアドバイスブログ書き込み助かりました。ダンケです。

携帯電話に発がん性?

2008-08-24 20:06:25 | Weblog
携帯電話に発がん性があるから気をつけたほうが良いですよ!

8月中旬に慶應大学湘南キャンパスで開催されたPCカンファレンス2008に大岩元先生にお招きを受け、早稲田の筧先生、英語の片桐ユズル先生ともご一緒に参加させていただきました。
時間が合ったので同じキャンパスの武藤佳恭教授の研究室にお寄りしたときに偶然、昔、ビルゲイツのところにいたというS岡さんも紹介していただきました。
S岡さんの長い話をすると本題から外れるので・・・・武藤研究室でのおはなし。

武藤先生は笑いながら、携帯は怖いんだよ、電磁波の塊のような携帯があって・・・と一人ひとりの携帯電話を電磁波測定装置で測ってくださいました。

私の持っている携帯電話を計測して武藤先生、急に大きな声で「これダメだよ!ガンになっちゃうよ!」と言われてしまいました。
え~同じものを持っている人もいるのに~と思いながら、分かりました。沼津に戻ったらドコモショップに行ってきます。

そして8月20日にドコモショップに行きました。
すいませんが、こういう場所で電磁波測定をしてもらったら電磁波の針が振り切れてしまったので、一応大丈夫だと説明をして欲しいのですが。

ショップではわかりました。では直ぐ問い合わせをしますので、携帯はお預かりしてよろしいですか?
いやデーターも入っているので渡すのはどうも・・・
直ぐ確認します。
いやいや~~とは言うものの~とりあえず代わりの携帯電話を、お借りしてと言うか押し付けられて、きましたが、落ち着きません。
この木・金は夏休みの終盤、とてもショップに行っている時間はありません。


今日は、昼からロボカップジュニアの育成合宿の初日です。沼津で開催されたロボカップジャパン・オープン2008沼津で微かに沼津にともったロボットへの火を消さないように、おねがいしたロボカップ教室です。世界大会参加者も加わった教室で、富士通沼津さんのご好意で、沼津フォーラムの一室をお借りしてのいま、日本で一番レベルの高いロボット教室です。

スタートを見極めて、忙しい時間を縫ってドコモョップに立ち寄りました。

一週間から10日かかるというお返事でした。
冗談ではありません。携帯電話を10日もどこの誰かが触るかもしれない状態でお任せするわけにはいきません。そう言って対応をお願いして自宅に戻りました。
自宅に戻るとドコモショップからの電話です。
おまけに何度も電話をかけてくるのは何も様子の分からない窓口の女性です。
悪いけれど、責任者からお電話をください。とお願いしました。
何回かのやり取りの後で、副店長を名乗る方からのお電話でした。

月曜日にお電話をしますが、代わりのもので良いですか?
良いか悪いかはそちらのことで副店長さんと言うことなら店長さんは?
ハイ店長は、今お休みをいただいておりまして、私も明日からお休みなもので?

これでは当方はたちの悪いクレーマー状態でした。
じゃあ、あなたがお休みなら、せめてメールでもいただけますか?
アドレスは・・・
疲れました。ストレスでガンになりそう(笑い)

昨日は、武藤せんせいのご好意で、家本賢太郎さんとお会いする機会をいただきました。大学病院の医療ミスと病気の発見の遅れで市の宣告を受けた方です。
一生を車椅子と言う窮地からも自らの手で健康を取り戻された体験をお話していただきました。

携帯電話もそうですし、医療の現場もそうですが、手当てと言う言葉がなくなってきているような気がします。
マニュアルだけで耳障りの良い仕事をビジネスと勘違いをしている・・・そんな社会を繰り越さないようにしたいと思っています。

発がん性があると、その危険を指摘された私の可愛い携帯電話はいつかえってくるのでしょうか?

大阪電通時代の小暮さん。

2008-08-19 03:53:40 | Weblog
電通の小暮社長と吉田ワンマン
電通「鬼十則」という面白い本があります。

昨日土肥温泉の湯の花亭のオーナーから・・出てきませんか?
とお誘いを受け昼間の用事が旨く片付けられて土肥温泉まで車を飛ばして行って来ました。ひとばんオーナーと語り明かしました。

今朝、7階の千石風呂から海を眺めたり、湯船まで畳の露天風呂に身を浸しながら土肥の港に出入りする船を見て、これで一杯やれば小原庄助さんだなあと思いながらシャンプーを使い、朝7時半に食事を済ませて車でだるま寺に行きました。

「翼にも杖にもならず 唄は唄 胸のすみには 音のなき音」母親の遺したため息のような歌を、伊豆の六方石と言う周りが普通の灰色の石ですが、磨くと表面が黒御影のように黒くなる石に刻んだのですが、その石を置く場所を桜の木の横に位置決めをして新しい石田ご住職さんにご挨拶をさせていただきました。

清水の東方寺のご住職だった方ですが、大変素敵なだるまの絵をお書きになり、縁がありこのお寺にご紹介させていただくことが出来たのですが、心なしか堤直美さんの制作されただるま像の片目が入ったような気がしました。

観光寺の色彩が強く、最初は今1も今2もしたのですが、やはり志の高さを感じました。慌てずにお世話をしたいと思って帰ってきました。

湯の花にもどると紹介するよと電通の方を紹介されました。元電通と言ったほうが良いのでしょうか?

その話の中で文芸春秋にでていた、今、相談役でおいでになるの小暮前社長の話になりました。
カンヌ映画祭のコマーシャルフィルム部門で初めてグランプリをお取りになり、小暮社長と並んで写真をお取りになったときにズボンと靴下をそろえられるときにひょいっと見ると温かいときに下着をしっかり着込んでおいでになる様子に・・この方は長生きするぞ・・・と思われたそうです。
私は当時電通の社員だった友人と会っているときに一杉くんは沼津だったねといって「オリンポスの果実」という本を小暮さんいただきました。
電通の社長さんが若モノに(当時は?)太宰の弟子で、沼津の共産党で、2.11ゼネストを共産党員のリーダーとして指導しようとして、運動に挫折して挙句に太宰のようにアドレナリン中毒だかヒロポンだかになって最後は太宰の墓の前で自殺した田中英光の本を渡しますかね?などという昔話をしていたら、その方も・・そんな時代なんですよ・・だったというべきか?と仰る。
私もあるとき会社に担当したくない会社・担当したくない会社を書けといわれて担当したくない会社・JAL。したい会社SHARPと書いたらJAL担当にされてしまいましたよ。しょっちゅうけんかをしてましたよ・・・とお話をお聞きしました。もっともその当時JALは一番人気だったのですがね。と仰る。
よくお話をお聞きしていると、私は小暮さんが大阪電通の社長の時代にお会いしたと思っていたのですが、その方とお話をしているとどうやら社長ではなかったようでした。誰かにいずれ社長とお聞きして居たのかもしれません。なぜか電通の社長さんと記憶していましたが、そういえばそんな記憶があった気もします。
もっともいつもアルバイトに行くと、電通の社員の胸にロータリーのバッジがつけられているのを見ていたのでロータリークラブのバッジを電通の社員章と勘違いしていたぐらい記憶が適当でした。その勘違いも今から12年前に分かったぐらいです。
その方との話に夢中になり、その後の予定は、大慌てになってしまいました。
共同通信や同盟通信・時事通信・・地方紙の話などなど面白い話にはきりがありませんでした。
冒頭の鬼十則の吉田ワンマンと言う方は、8月15日の終戦の日、電通の玄関をほうきで掃きながら「金儲けするぞ、これからは金儲け」と声を出しながら掃除をされていたそうです。一時代を画した吉田ワンマンですが、戦後日本のお話はとても面白く思いがけずに時間が過ぎていってしまいました。

イマジン IMAGING

2008-08-14 06:25:55 | Weblog
インターネットで検索をしていたら
こんなページが出ていました。Y崎くんの青春でした。

IMAGING
Imagine there's no heaven
It's easy if you try
No hell below us
Above us only sky
Imagine all the people
Living for today....

Imagine there's no countries
It isn't hard to do
Nothing to kill or die for
And no religion too
Imagine all the people
Living life in peace....

You may say I'm a dreamar
But I'm not the only one
I hope someday you'll join us
And the world will be as one

Imagine no possessions
I wonder if you can
No need for greed or hunger
A brotherhood of man
Imagine all the people
Sharing all the world....

You may say I'm a dreamar
But I'm not the only one
I hope someday you'll join us
And the world will live as one

IMAGING 天国なんて存在しないと
想像しようとすれば簡単だよ
僕達の下に地獄なんて無いんだ
ふり仰げば空があるだけさ
想像してごらんすべての人々が
現在を生きているんだと…

IMAGING 国境なんて存在しないと
そう思うのは難しいことじゃない
殺す理由も、死ぬ理由もない
宗教なんてものも存在しない
想像してごらん すべての人々が
平和のうちに暮らしていると…

僕のことを単なる夢想家だと思うかもしれない
でも、僕ひとりだけじゃないんだ
いつの日にか 君も仲間に加わってくれよ
そうすれば 世界はひとつになるだろう

IMAGING 所有なんて存在しないと
君にもそういう考えができるかしら
貧困になったり飢えたりする必要はない
兄弟同志なのだから
想像してごらん すべての人々が
この世界を分かち合っているのだと…

僕のことを単なる夢想家だと思うかもしれない
でも 僕ひとりだけじゃないんだ
いつの日にか 君も仲間に加わってくれよ
そうすれば、この世界はひとつになって動くだろう

イマジン IMAGINGを想像してごらん
と訳しています。
ニューヨークのセントラル・パークの真ん中で15歳の日本の少年が、この公園の木々に囲まれて、ジョンレノンと交信をしていたそうです。
私は
Imagine all the people
Sharing all the world....
の文字を眺めながら動物園の熊状態でした。


このHPの制作者に敬意を表して一部抜粋をさせていただきました。
失礼があればお許しください。
以下 抜粋です。

IMAGING
当時は「共産主義」の歌として、ニクソン大統領には大いに敵視された詩である。
『1971年10月発売』
(全米3位・英国では75年までシングル発売されてません)
<ジョンの死後、1981年に全英チャートに再登場し、「イマジン」は初めて1位になる>


長く尾を引いたベトナム戦争での兵士達には…この歌はとっても都合が悪く
……戦意喪失の内容だったのだ!
(ジョンも、この時期かなり反戦を意識していたときである。)


この歌がもう一度脚光を浴びたのが……『1980年12月8日』
……ジョン・レノンが凶弾に倒れたとき。

そしてもう一度……『2001年9月11日』
……アメリカ同時多発テロ……です。

悲しすぎますよね……この歌の歴史は……どんどん一人歩きをして行きます。

 「イマジン」はジョンの代表曲であると同時に、もはや「ジョン・レノンの歌」を越えた平和運動の歌となりつつあります。

 2003年3月18日 AM10:00

あらためてこの曲を聴く時が…来てしまった!

『イマジン』のメッセージは届かなかったのだろうか?
タイムリミットはあと48時間

『イマジン』が流れる中…悲惨な映像は…
もう見たくない。





2003年3月20日……始まっちゃいましたね。(がっかり)










ヒトスギッ子くんとダコタハウス

2008-08-13 00:03:50 | Weblog
お盆で帰省が始まりました。

数日前にY崎くんという卒塾生から電話がかかって来ました。
無事就職が決まったので、挨拶ともう一人ゴルフ場に就職しているのを誘いますのでお訪ねしてよいですか?ということでした。

さては彼が前にブログに書いてくれたヒトスギっ子かなと思い聞いてみましたが、否定も肯定もしませんでした。
彼は私にとってはとても忘れられない出来事と記憶を残してくれた生徒でした。

もう十年近くなるのですが、当時は城北高校の1年生だったのですが、学校での先生との折り合いが悪く内申点が取れなく、結果として沼津東高には行けなくて城北高校に行ったのですが、ビートルズの大ファンで、なかでもジョン・レノンは神さまでした。

アメリカのニューハンプシャー州でのサマースクールに参加してくれたのですが、どうしてもニューヨークのセントラルパークに行きたいという希望でした。そのなかにあるストロベリーフィールドに生きたいという希望でした。
またイマジンの歌もそうですが、彼にとってはジョン・レノンの終焉の地ダコタハウスを訪ねて、ストロベリーフィールズの木に抱かれて天国のジョン・レノンと交信することが彼の夢であったそうです。

一緒に行ってみてびっくりしました。
1時間や2時間ではありませんでした。4時間も5時間も彼はセントラルパークの公園のなかで動かなくなってしまいました。
慌てました。なんせ場所がセントラルパークのど真ん中でした。
まわりは決して安全な人たちばかりではありません。下手をすれば狼の群れの中に美味しい子羊が紛れ込んだようなものです。
私は彼を気遣いながらうろうろと動物園の熊状態です。
気がついた公園の主のようなオヤジがニヤニヤしながらウィンクを寄越したりしました。そんな様子では危険はありませんが、安心が保証されている訳ではありませんでした。

彼の様子を伺いながら本当に面白い子どもだと言う事と、これだけ一つのことに夢中になれるY崎君をとても好ましく思いました。

それから2年後にかれは城北では初めて都立大と中央大学の両方に現役合格を果たしました。そして私の予想を裏切って彼は司法試験を目指すといって中央大学法学部に進学をしました。
今でも都立大学に進学したほうが正解だったろうと言う私に、いま静岡県の県内就職では中央のほうが知られているし、幸福値は中央が高いですよと彼はいいます。
今もう~ン塾で飲むビールは旨い・・・と彼は嘯いています。

芸は身を助ける彼は今専門知識を生かして矢崎で楽しく仕事をしています。
彼のとなりデスクの課長格のかたも塾の卒業生だそうです。名前には確かな記憶がある方です。どこから話題が開けたかはしりませんが、S木さんとどんな話から塾の話題になったかもしれませんが、私や小関・新井とのあれこれが話題になっているのかは知りませんが、そのうちには訪ねてきてくれるようです。

駅南教室も移転してよかったですね。前の駅南教室では外国人のお姉ちゃんに必ず声をかけられたので、ち~と安全になりましたね・・と言ってもらえました。
彼らも塾のことを良く知ってくれています。ありがたいことです。
でも一言。私は外国人の・・・に声をかけられことはなかったような気がします。トホホ・・

8月9日、午前11時02分

2008-08-09 21:21:13 | Weblog
今日は長崎の原爆記念日

今から45年前の8月9日に私は長崎にいました。
高校生でしたが、原水爆禁止大会に参加をしようとしていました。暑い夏でした。
今日は、そんなことも中学生に伝えながら、ゆっくり国語の授業をしていました。
授業は、朝9時でしたので、朝7時過ぎに教室の前で水を撒いていました。そうしたら朝の勉強会に参加していた小学生に見つかってしまいました。

一杉先生が変な格好をしているよ!、声が聞こえてきました。
変な格好でした・・・確かに。アメリカの空軍の払い下げだと言うショートパンツに上半身は裸でした。気をつけな、水をかけられるよ!
のどかな夏の一日でした。
しかし、丁度63年前にテニアン島を出た、B-29「グレート・アーテイスト」号は、福岡県小倉市上空において原爆を投下できず、やや遅れて第2目標である長崎に原子爆弾を投下したそうです。
長崎は坂が多く、人口24万人の比較的小さな町でしたので、小倉のような平坦な人口密集地域でであれば、被害はもっと大きくなったと予想されるそうです。

同じ空軍の服を着ていても、水を撒くように原爆を落されたと思うと、水を撒きながら小学生に水をかけるのも・・・う~ん複雑です。

エノラ・ゲイ/グレート・アーテイスト・・原爆投下機につけられた名前は、どこか人を食ったような名前に思われます。

長崎の原爆問題を扱った、田中千禾夫(ちかお)のマリアの首という劇作があります。原爆で無残にも廃墟と化した浦上天主堂、傷だらけのマリア像と、悲惨な生活を余儀なくされた被爆者たちをみて書かれた作品だそうですが、言葉をものすごく丁寧に扱っている秀作です。
そのむかし、彼の「おふくろ」という築地座で、初演された作品を同じ築地座にいた薄田研二先生の演出で舞台に乗せたものを薄田さんの書生のように身の回りもお世話しながら勉強をさせていただいたことがありました。薄田さんも言葉と言葉の背景にある人間性というか人間の味をとても大切にされる方でした。

数年前にワシントンDCにあるスミソニア博物館でエノラゲイとリトル・ボーイと呼ばれる原爆が展示されたことがありました。日本人である私には警備はとても厳重でした。原爆によって戦争が早く終わった。原爆は平和の行動であったと主張のもとで行われている展示に「この原爆が殺したのは日本人ではなく、人類そのものだ!」とアンケートには書いてきましたが、届いたかどうかは分かりません。

授業は授業として短い間に子どもたちにはそんな話をしながら、11時02分には黙祷を一緒にしながら「黒い雨」の授業を終えようと思っていました。

しかし、落合先生が工作教室をドジって黙祷は吹っ飛んでしました。
彼が工作教室の用意したものを勘違いして別のものを持ってきたので、たった二人の子どもたちに工作教室ならぬ、理科実験教室についてのバックアップ授業をする羽目になってしまいました。

彼は人の良い・・その意味ではとても良い人ですが・・・おかしななところで大コケする面白いパーソナリテイーです。大慌てで何も見えなくなってしまい・・車をぶつけてしまいました。え~?!私の車に?!

2週間、慎重に進めてきた授業が・・・・。
黙祷は来年に継続となってしまいました。今年長崎で亡くなった方3058人への黙祷は・・・
どうか安らかに御霊の天にあられんことを・・・・

8月8日深夜

2008-08-09 02:00:38 | Weblog
時計は8月9日01:21をさしています。

北京オリンピックが始まりました。
聖火台に聖火が点火され、2008北京大会が開幕されました。
私の手もとにはオリンピックNaviと書かれた小冊子が届けられました。37会場で開催される競技の予定がびっしり書き込まれ、オリンピックの放送予定と見所がひと目で分かります。24日の閉会式まで楽しい時間が続きます。
しかし、中国で8月8日。日ソ不可侵条約が破棄され、8月9日、ソ連が満州に攻め込みました。そして午前11:02に二発目の原子爆弾が長崎に落されました。
63年前の出来事でした。

5302人。
今年原爆で死亡が確認された原爆死没者名簿2冊に記された数字だそうです。 
心からご冥福をお祈りしたいと思います。不戦の誓いをこめて。

8人・9人・100人・・50人・700人・・・嘘だア~。
1年間に原爆で亡くなった方の数を予想したときの生徒が上げた人数です。
一番多くて700人。どよめきが起こりました、嘘だア~そんな多くないよ!?
5302人・・その数字にどよめきがおきました。
死没者は25万8310人になったと書かれているね。
沼津の人口より多いじゃん!やっと彼らの頭の中で、原爆が実像として浮かんできたようです。

さあもう一度「黒い雨」を読んでみようか!
昨日は、太宰治のお師匠さんとしても知られる井伏鱒二の黒い雨を題材とした授業でした。事実を正確に伝え、真実と正確に向かい合い、真理を探究する心を育てる・・今年,子どもたちと約束をした授業の1コマでした。

話は変わりますが、慶應大学藤沢キャンパス 2008 PCカンファレンス。
「創発する学び」と題されたコンベンションに情報技術と日本語をコンダクトされた大岩元先生のご配慮で参加させていただきました。

「小町」や「良寛」などの日本語フォントをデザインされた味岡伸太郎さん。
http://www.ajioka3.com
「意味論」の論客で、ベーシック・イングリッシュの出版、アレクサンダー・テクニークで有名な片桐ユズルさん。http://www.kyoto.seika.ac.jp/yuzyru/
教育システムとしての日本語教育において岩崎メソッドを確立された岩崎美紀子さん。http://www.i1pd.jp
情報教育において慶應の大岩・早稲田の筧、と並び称されている早稲田大学も筧捷彦さん。http://kk.kake.info.waseda.ac.jp/index-j.htm1

日本語をいかに、プログラム言語として確立しなければならないか?
大岩さんのライフワークとも言える、このテーマに沿ってカンファレンスは、興味深く進められました。シンポジウムもそれなりに面白かったのですが、実は・・・

「構成主義による情報教育」に参加された東京学芸大学附属竹早中学校長山崎謙介さん、http://www.supersciencekids.com/project messege/ymamazaki.htm
作家・早稲田大学子どもメデイア研究所客員研究員と言う肩書きで参加されていますが、富山県で小学校の先生時代、日本で一番進んだコンピューター教育をされていた戸塚滝登さん。www.soi.wide.ad.jp/class/20020010/slides/07/15.html
を加えた8月6日の藤沢キャンパスゲストルームにおける談論風発こそ何物にも変えがたい私のカンファレンスでした。

ロボカップで知り合った東大の上田隆一さん。静岡大学の特任准教授として学部長の伊東先生で研究をスタートされた松澤芳昭さんも加わって互いに譲ることの無い,活発で楽しい議論が夜中まで続きました。
8月5日・6日・7日とそしてもう昨日になってしまった8日。3泊4日缶詰になって、しばらくぶりに脳みその垢を掃除できたような気がしました。

私が、生まれたのが日中開戦の年で、15歳の中学生の時が日本が戦争に負けたときです。と仰る片桐ユズルさんは、徹底的な市民平等、権威主義反対の方です。
たとえば敬語。
君と、貴方でキチンと会話をすることが肝要。YOU&Iで十分ではありませんか?と仰る。

日本人が数学が出来るのは敬語でいつも無意識に自分と相手との距離を測る習慣が出来ているからだと四方先生は仰っています。日本人だからこそ図れる距離感と独特の数学力は敬語が育てていると四方義啓先生は仰るのですが?

そんな話の中で、四方先生と片桐先生。同世代から二つに引き裂かれる時代感覚も大切にしなければ・・・一度両先生をお引き合わせしたい、お会いいただきい・・ 
今もそんな余韻が残る中で書いています。

63年前の丁度、今から、10時間後に私たち日本人は空前絶後の大ピンチに見舞われました。そしてポッダム宣言受諾。敗戦と未曽有の困難の中を歩き、戦後復興を遂げてきました。そうした歴史をキチンと伝えることも大切な仕事だと考えています。

8月9日 09:30 一人増え15人になった中学3年生のクラスの授業・・・楽しみです。                                                 

終戦記念日が近づいてきます。

2008-08-04 22:19:26 | Weblog
日本の戦後

今、国語の授業で、井伏鱒二の「黒い雨」を題材に中学3年生の子どもたちの授業を行っています。

この8月の暑い日は、子どもたちにとってもとても大切な時期になります。

8月6日広島への原爆投下。
8月8日日ソ不可侵条約の破棄
8月9日長崎への原爆投下
8月10日ポッダム宣言受諾
8月15日敗戦

この一週間近くは、またとない学習の機会だと考えているからです。
是非、中学三年生たちには新聞に関心を持ってもらおうと計画しています。

私自身は高校3年生の夏には長崎の原水爆禁止世界大会に参加した経験があります。当時はいかなる国の核実験をも反対するのか否かで、世界大会が二つに分かれようとしていました。
あらゆるところで、大人が信用できないと言う空気であったような気がしています。

自分の戸籍には、昭和20年4月××日、満州国新京市生まれと記されている事に気がついた時期でした。
昭和22年10月××日 日本国籍に編製と書かれていました。
私は2年間何人じゃったんだろう??日本のお国は信用できん。
こう嘯いていたおかげで高校のときについたあだ名が満州浪人・・受験で敏感になっていた高校生たちが、一足先にこいつは浪人させてしまえと思ったのか、どうなのか?浪人??と反応すると「大陸馬賊」などと言う奴もいたりした。
満州とか馬賊とか、余りありがたくはない名前ではありました。
だからこそ、8月8日、日ソ不可侵条約の破棄が気になって仕方が無いのです。

父のロシア嫌いは徹底していましたが、父に反抗して私は、ツルゲーネフ・チェホフ・ドストエフスキー・ゴーリキーそしてトルストイを読み漁り、挙句にロシアに行ったのは、長男がまだカミさんのお腹に居たときでした。
そのときにルルのマスターも一行の中に居て、私の破天荒なロシア歩き・・モスクワ・旧レニングラード・キエフそしてハバロフスクへの道中、ご一緒することになりました。

そういえば収容所群島のソルジェニーツィンさんが3日ロシアで死亡という新聞記事がありました。享年89歳。赤塚不二夫さんの死亡記事に隠れて意外に知られていないようだが、私もえ~彼はまだ生きていたの??という印象でした。

私が43年前にロシアに行ったときにはソ連(当時)、彼の名前を出すことは禁句で、彼の話をするわけにはいかないので、レニングラードの作家同盟の書記長だかと安部公房の「砂の女」がなぜ、ロシアの若者の心をとらえるのでしょうか?ときいたところ、翌日からのシンポジウムに参加不可にされてしまった苦い記憶がありました。もっとも私自身はドストエフスキーほどには好きにはなれなかったので、斜め読み程度だったので、そのことを議論する気は毛頭ありませんでした。

昔の記憶なので、ぼんやりしてはいますが、とてもあのロシア文学の広々とした大地ではなく、モスクワの空はどんよりと暗く、ボルガ川は海のように広い川ではありましたが、写真でみるライン川のような美しさはなく、唯一トルストイの眠るヤースナヤポラーニャ(明るい陽だまり)の森の静謐さだけが印象に残り、車でモスクワから全力疾走で5~6時間、これがモスクワ郊外?!。日本なら大阪か、京都が東京郊外だわいとその大きさにびっくらしたことが記憶にありました。

それまではウクライナの芸術大学に行くことを画策していましたが、実際に行ってみると見ると聞くとは大違いが正直なところでした。

45年前の夏。大いに迷って、悶々と現実との狭間で揺れ動いていたような気がします。

数年前に広島にも行きました。
沖縄の慰霊塔の前には戦没者の名前が一人ひとり書かれているそうです。
9.11のグランドゼロもそうされていると白鳥勝弘さんからおききしました。
ワシントンDCの戦没者のウオールもそうでした。
なぜ広島には原爆で亡くなった方のボードウオールが無いのか、「安らかにお眠りください、過ちは繰り返しませんから」と言う言葉と共に一番気になっているところです。
暑い夏がまたやってきます。