世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

新宿区の中井から落合にかけて明正寺川の河岸段丘沿いに三棟のアトリエ跡など文化人の旧居が建ち並んでいます

2022-02-27 08:00:00 | 日本の町並み
 大分県佐伯市の歴史と文学の道という石畳の道沿いには武家屋敷が数多く残っていました。佐伯は江戸時代には毛利の城下町ですが、佐伯の名前となった佐伯氏は平安時代から続く地方豪族でした。佐伯姓はよく聞く姓のように思いますが鈴木や高橋などと比べて数はさほど多くなく300位以下なのだそうです。また、佐伯さんが多いのは人口の多い東京都というのはわかりますが、2位には愛媛県が入っています。佐伯市のある大分県は26位と意外な数値です。3位は兵庫県、4位は大阪府ですがその大阪府出身で佐伯と聞くと思い起こすのがフランスで30歳の若さで客死した画家の佐伯祐三です。今回は、その佐伯祐三のアトリエ跡がある落合から中井の明正寺川が作ったと思われる河岸段丘に沿って紹介します。

 
 
 今回紹介するエリアは、西武新宿線が高田馬場駅を出て山手線と交差し下落合、中井と停車していきますが、この線路の北側、目白通りとの間になります。新宿区立佐伯祐三アトリエ記念館は、下落合駅の北500mほどに位置し、大正末期から昭和にかけて佐伯祐三が4年間使ったアトリエ付き住宅の建物を保存し公開したものです。アトリエの建物は下見板張りの木造洋館で木立の中にひっそりと建っています。高い天井と北向きのガラス窓がアトリエらしさを感じさせます。

 
 
 佐伯祐三記念館の東500mほどには新宿区立中村彝(つね)アトリエ記念館があります。この辺りは文化人が住むのに好適地だったのでしょうか。こちらの建物も大正初期の木造洋館ですが、シンボルツリーのような気がある芝生を前に建つアトリエは佐伯祐三のアトリエと好対照な感じがします。高い天井と北向きのガラス窓はアトリエ共通の様式のようですが、芝生を望む明るい南側の開口部ものびやかです。中村彝も30才代で佐伯と同様に結核によって亡くなっており、当時は結核は多くの芸術家をしに追いやった不治の病だったのかもしれません。

 
 
 
 三人目の文化人は林芙美子で、旧宅が西武や都営地下鉄の中井駅の西に在ります。二つのアトリエ跡が河岸段丘の上にありましたが、こちらは段丘の麓で、旧宅の横の道は四の坂という上り坂になっています。林芙美子記念館は四の坂のとりつきを左手に入った所で、道路よりやや高くなった台地上の場所に建っています。二つのアトリエの主人公は、この地にさほど長くは住むことができませんでしたが、林芙美子邸は主人公が10年間住み続け終の棲家となったようです。林芙美子はこの家を建てるにあたり、京町屋などを見学に行ったようで、なかなか味わい深い和風建築になっています。ところが、建物は二棟からなり、生活棟とアトリエ棟となっており、こちらにもやや趣は異なりますがアトリエが残されていたのです。アトリエ棟があるのは芙美子の旦那様が画家であったためだそうです。

 
 
 かつて、この一帯は大正から昭和初期にかけて西武の堤康次郎が開発した住宅地の目白文化村があった場所ですが、関東大震災や戦災、それに幹線道路の開通などで面影はなくなってしまったそうです。渋沢栄一の田園調布の向こうを張って、わざわざ文化という名前を付けての開発だったのかもしれません。ただ、明正寺川と神田川の流域には京都、金沢に並ぶ染色の三大産地としてにぎわい、現在も中井、落合を中心として染め物関連の芸術家が集まる拠点となっています。毎年、中井駅近くの明正寺川あたりを中心に染めの小道というイベントが開かれ、染め物の街の文化を発信し、まさしく文化村の様相を呈しています。

 江戸小紋は柿渋を塗った美濃和紙に模様を切り抜き、布に当てて糊伏せをして染料を流して染め上げます。昔のガリ版印刷と同様に孔版印刷の一種で、文字ではなく芸術的な絵模様を浮き上がらせる手法です。ITを支えるLSIの製造工程でもこの孔版印刷と似た処理が使われています。LSIはシリコンの上に回路のパターンを描きますが、シリコンの表面に塗ったレジストと呼ばれる被膜が孔版印刷の型紙となります。紫外線などで回路パターンを焼き付け現像によって被膜の一部を溶かし、溶液で被膜が溶けて穴の開いた部分のシリコンを溶かして回路にします。江戸小紋とLSIとはずいぶんとかけ離れていますが、伝統技術の継承を支えるAI技術にはLSIが使われているんですね。

開園間もない頃の台湾の小人国は素朴な中にも人形の数と精巧さに驚かされました(台湾)

2022-02-20 08:00:00 | 世界の町並み
 西安の東、兵馬俑のまでの道筋にはついでに立ち寄っても興味ある施設が数多くありました。兵馬俑を作った始皇帝陵にあるという地下宮殿を再現した施設まで現れましたが、イミテーションを作るのが得意なお国柄だけに力の入ったものでした。ミニチュアのイミテーションといえば、わが国では東武ワールドスクエアが有名ですが、台湾には小人国という名称で、名所をミニチュア化した公園があります。現在はミニチュアの種類も増えて遊園地としての性格も持たせているようですが、開園間もないころの姿を紹介します。



 
 台湾の小人国は1984年7月7日に開園しましたが、筆者が訪問したのは開園から2年後の4月でした。まだまだ整備中といった感じでしたが、その割に多くの人が訪れていたようです。場所は台北の南西0kmほど、当時は台北から新竹駅まで列車に乗って駅からバスで行ったように記憶しますが、現在のアクセスはもっと便利になっているのではないでしょうか。広さは南北が100mほど東西が300mくらいのようでした。

 
 
 
 
 ミニチュアは実物の1/25で作られ、筆者が訪問した開園して2年ごろは中国と台湾の有名建築のみでした。台湾の建築は中正記念館が記憶にあるくらいで、大部分が中国のものでした。記憶に残るミニチュアはほとんどが現在世界遺産に登録されている建物などばかりでした。ただ、当時は世界遺産会議はありましたが、これらの中国の世界遺産は未指定だったのではと思います。万里の長城、故宮、土楼そして龍門石窟などです。変わったところでは、世界遺産ではありませんが北京の四合院らしき建物もあったように思います。

 
 
 建物の他は、鉄道、港湾それに空港のミニチュアがあって、今ではほとんど見られなくなったジャンボジェットの模型が並んでいました。中華航空の機体デザインも当時の懐かしいものでした。また、現在は台北から高雄まで高速鉄道が走っていますが、模型の鉄道は当然ながら、在来線の特急の自強号でした。東武ワールドスクエアでも良くできた人間のミニチュアに驚かされますが、小人国の人間の模型にはその数で驚かされます。見ている人より人形の数のほうがはるかに多いという感じでした。

 わが国のミニチュアランドといえば、東武ワールドスクエアが有名ですが、これより先にTBSで放映された「兼高かおる世界の旅」の番組にちなんで淡路島に淡路ワールドパークONOKOROがありました。また一昨年には東京有明に屋内では世界最大規模のスモールワールズトーキョーができています。世界各国の有名施設が、現地に行かなくても見られるというメリット以外に、通常では見ることが難しい俯瞰や裏側などもみられる楽しみがあります。似たようなものに、コンピュータによるVRがありますが、こちらで見られるのは原寸大の映像、どちらが楽しいかは個人の好みでしょうか。

佐伯の武家屋敷町は白漆喰の土塀が続き石畳の道が立派ですがどことなく閑散とした感じがします

2022-02-13 08:00:00 | 日本の町並み
 金ヶ崎、佐倉と武家屋敷町が残る街並みを紹介してきましたが、今回もその続きで九州の東に位置する城下町の佐伯を紹介します。

 佐伯市は大分県の南東、佐賀関半島のさらに南、宮崎県との県境に接する人口7万人弱のこじんまりとした毛利氏の城下町です。佐伯城は江戸時代初期に築かれた山城ですが、明治期に廃城となり、石垣や三の丸楼門などを残すのみになっています。武家やsh来待の名残は、佐伯駅の南西の城跡の南東の麓に東北ー南西に延びる歴史と文学の道と名づけられた石畳の道に沿っています。、

 
 歴史と文学の道の手前、白坪川を渡る橋の上に刀を振りかざした鬼のような像が立っています。なんとも異様な姿なのですが、これは佐伯に古くから伝わる無形文化財の佐伯神楽の像だそうですが、ちょっとぎょっとします。

 
 
 歴史と文学の道の始点には養源寺で江戸時代に毛利家の菩提寺として創建されたようです。本堂は昭和初期の債券ですが、庫裏は江戸後期のものだそうです。石畳の道をしばらく行くと長屋門が現れ、隣には国木田独歩が下宿していた家が記念館となっています。

 
 
 道なりに進むと白漆喰の土塀が続く山中家屋敷跡の山際史跡広場があり、門の前には朱塗りの丸い郵便ポストが据えられています。広場を通り過ぎると道端に安井という井戸があり、これは藩医の今泉元甫が飲み水に困っている領民のために掘った井戸で昭和初期まで現役だったそうです。
 
 
 その先にあるのは佐伯城の米蔵跡にある汲心亭で、茶室のそばの椿の花が趣を添えていました。さらに進むと、白漆喰の土塀や医王門が続きますが、建物はまばらで田舎っぽい風景です。

 
 
 歴史と文化の道は、やがて左に直角に曲がりますが、その角の所に両側に石垣を従えた佐伯城の楼門が残されています。そして左手に曲がったの先には佐伯小学校がありますが、なんと白漆喰の土塀に扁額付きの医王門のある小学校でした。

 佐伯の武家屋敷通りでは白漆喰で固めた土塀が目立ちましたが、この漆喰は消石灰を原料としたものです。消石灰は強アルカリですが、壁などに塗って乾いてしまえば中性化します。漆喰壁には沢山の利点があり、強アルカリのため抗菌作用があり、またにおいの元が酸性であることから招集作用もあります。また、湿度調節の機能もあって、夏の多湿の時には湿気を吸い取り、冬の乾燥時には加湿をしてくれます。コンピュータで制御するエアコンで力づくでの湿度制御に代えて、漆喰の持つ自然の湿度調整機能はこれからのエコな生活にピッタリではないでしょうか。

旧集成館の反射炉跡からは錦江湾の向こうに桜島の噴煙が望めますが、この錦江湾はアメリカやイギリスまでつながっているんですね(日本)

2022-02-06 08:00:00 | 世界遺産
 ローマのコロッセオに比べるとやや規模は小さくても」原型をよくとどめているのがチュニジアにある円形闘技場のエルジェムでした。17世紀にオスマントルコから大砲で攻撃を受けなければもっと完全な形で残っていたであろうと言われています。一方、幕末の日本では、外国船の襲来に備えて各地で大砲を作るための溶鉱炉がが作られました。これらを含む産業遺産は明治日本の産業革命遺産として世界遺産に登録されていますが、産業遺産群の中から反射炉跡がある鹿児島の旧集成館の周辺を紹介します。

 明治日本の産業革命遺産は8県11市と広い範囲に分散していますが、特に有名なものが長崎県にある軍艦島でしょうか。反射炉や反射炉跡が登録されているのは、旧集成館の他に萩、韮山がありますが、世界遺産に登録されていない反射炉跡は佐賀市や那珂湊市にもあるようです。

 
 

 
 旧集成館は、鹿児島市の北、錦江湾の向こうには桜島が噴煙を上げ、錦江湾との間には日豊本線が通過する海沿いにあります。旧集成館などは島津家の別邸である仙厳園に隣接して、反射炉後は仙厳園の庭園内にあります。仙厳園への入り口入って目の前に反射炉跡の石組みがあります。反射炉跡を左に見て奥に進むとやがて藩主が別邸として使った御殿が現れます。御殿からは庭園越し桜島が望める絶景が見られます。御殿を出てさらに奥に進むと水力発電のためのダムの跡といわれる石組みが残されています。発電した電力は照明に使われてとのことですが、発電し施設の遺構は無く、日本初の発電施設としては認められていないそうです。

 
 
 
 錦江湾を背にして仙厳園の左手にあるのが旧集成館機械工場跡の尚古集成館になります。わが国最古の石造様式機械工場の建物の中には島津家の歴史・文化を紹介する展示がされています。さらに左手の奥には薩摩切子工場があり、吹きガラスからカット、研磨までの工程を見学することができます。おして向かい合わせには、旧薩摩家の金山鉱業事業所であった登録有形文化財の建物を利用したスターバックスの店舗があります。
 
 
 スタバの前の道路を南に少し行くと、道路の向こうに2階建ての木造洋館が見えてきます。この建物は異人館と湯ばれ重文指定されている旧鹿児島紡績所技師館です。島津藩が日本で最初に作った様式紡績工場のイギリス人のお雇い外人用の宿舎として使われたものです。館内には、当時をmのが足る資料類が展示されています。1階前面の吹き抜けのウッドデッキ状の解放廊下や、2階の連続窓の開放的な感じが心地良い建物は、南国の鹿児島に建てられたからでしょうか。

 島津と聞くとノーベル賞を受賞した田中耕一詩を生んだ島津製作所を思い浮かべますが、島津製作所を興した方は京都木屋町の出身で島津藩とは関係がなさそうです。しかし、旧集成館の展示などを見ていると、島津製作所の作る革新的な理化学機器と通じるところがあって面白い偶然です。わが国初の医療用X線装置や全自動PCR検査装置などプロ用の機器だけでなく、学生時代には物理実験の実習で島津製作所の測定機に随分とお世話になりました。