世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

飫肥の町の散歩に疲れたら、おいしくて栄養満点の飫肥天が待っています

2018-05-27 08:00:00 | 日本の町並み
 紫式部が源氏物語の構想を得たという紫式部の間があるのが石山寺でした。俗説によると紫式部はイワシが好物だったとか。長編のドラマを混乱なく執筆できたのは、イワシに多く含まれるEPAやDHAのおかげでしょうか。栄養豊富な魚なので、そのまま食べたいところですが、どうも養殖の餌として使われることも多いようです。1kgのブリを養うのに3kgのイワシが必要で、なんとも非効率、それに栄養的にイワシのままの方が優れているように思います。

 
 このイワシなどをすり身にして豆腐や調味料を混ぜて揚げたのが飫肥天(ぷら)と呼ばれる小判型の揚げ物でさつま揚げの一種です。今回は、飫肥天の故郷の飫肥を紹介します。

 
 飫肥は、宮崎県南部の日南市の一部で、最寄り駅はJR日南線の飫肥駅で、宮崎駅から約70分ほどの距離です。日南線には特急も走っていて、海札山幸との名称ですが、各停と所要時間はあまり変わりません。速さより、観光用で、外観は既存のディーゼルカーとあまり変わりませんが、内部は木を多用した内装に変えています。特急ですから、途中駅は青島などで止まるだけですが、駅でもない鬼の洗濯板では停車します。



 
 
 飫肥の町並みは伊東氏飫肥藩の城下町で、飫肥城周辺に武家屋敷などが残り重伝建に指定されています。飫肥城跡へは、駅から酒匂川を渡って西へ1kmほど、本町商人通りから、大手門通りを北に曲がり300mほどで城門に着きます。

 
 
本町商人通りの一本裏の後ろ町通りは石垣に沿って用水路があり、そこには鯉が飼われています。津和野の風景と似た感じです。また、大手門通りの手前で北に延びる無田町通りには、医院の建物として使われていた洋館が建っていて、神戸のうろこの家と同じように壁がうろこ状の銅板で葺かれているようです。


 
 
 
 飫肥城の大手門の前を東に延びる通りが武家屋敷通りで、通りに沿って小村寿太郎の生家や伊東伝左衛門の旧宅が残っています。小村寿太郎は、日露戦争のあとの講和条約の全権大使を務めた外交官で、伊東伝左衛門は、飫肥藩主の血筋にあたる上級武士で、旧宅は典型的な飫肥の武家屋敷です。さらに、北には振徳堂跡が残り、この辺りと鯉の居る町あたりが、町並み散歩の中心でしょうか。振徳堂は幕末近くに藩主によって建てられた藩校で、小村寿太郎も門下生の一人でした。明治以降は、小学校、女学校、青年学校などに転用されたようです。

 噂であったEPAなどの効果を、確認した実験があるそうで、パームオイルを与えたマウスとイワシ油を与えたマウスの迷路からの脱出時間を測定したところ、明らかにイワシ油を与えたマウスが学習効果で短時間で脱出したそうです。記憶量の膨大さや検索の速さ、それに計算や判断の速さでは、AIを担うコンピュータにはかなわなくなっています。しかし、コンピュータは、未知の概念の発見や応用など、先行の記録の無い分野は人間の創造力にはかないません。コンピュータに負けないためには、イワシや加工品の飫肥天が効果を発揮するのでは。

美しい町並みが続くモナコですが、博打とマネーロンダリングという負の面も持っています(モナコ)

2018-05-20 08:00:00 | 世界の町並み
 多くの画家に好まれて、画家に由来のある美術館の多いのが南仏のカーニュ・シュル・メールでした。冬に南仏とパリとを訪れたことがありますが、パリっ子が避寒に南仏に行きたがるのがよく分かりました。避寒だけでなく、ギャンブルで憂さを晴らすこともあるのかもしれませんが、ギャンブルといえばモナコ、今回は周りをフランスに囲まれた小国のモナコです。

 
 モナコ公国は、コートダジュールの東端、もうすぐイタリア国境という場所にある世界で2番目に小さな国です。1番目はバチカンなので、実質的には最小の国家といえるかもしれません。面積は皇居とその外苑を加えた程度、それも山が多いので人が住むことができる場所はさらに狭くなります。人口は4万人足らずで、千代田区の6万人より少なく、さらにモナコ国籍を持つ人は16%にすぎません。こんなに小さな国なのに、ギャンブルとモナコ・グランプリで知らない人は居ない国の一つになっています。モナコグランプリは、街中を車が疾走するのですが、こんなに狭い所を高速で走り回るのは信じられない感じがします。

 
 
 かつては、グレース・ケリーがモナコの知名度を高めていたのかもしれません。グレース王妃が住んでいたのが、モナコ大公宮殿で、衛兵の交代式は観光の目玉です。ただ、衛兵といっても、儀礼的なもので、軍事はフランスにおんぶしているようです。

 
 グレース王妃が交通事故で亡くなったのは40年ほども前で、モナコ大聖堂に埋葬されています。筆者が訪れたのは亡くなってから15年ほども経っていましたが、ケリーの墓所にはたくさんの花が置かれ、人気が続いていることをしのばせました。

 
 博打と芸能人の国のように思われるモナコですが、ロマネスク様式のモナコ大聖堂教会などの教会を初め、博物館も数多くあります。これらのうち、海洋博物館は20世紀初頭にできた世界最古の博物館の一つとして有名です。海洋学者で有名なクストーも館長を務めたことがあるそうです。館の前には潜水艇が飾られていて、建物も教会風で日本の水族館とは一味も二味も違います。

 昔の映画で、沖合に停泊する軍艦にカジノから光信号でルーレットの目を送って、規則性を解析して、儲ける話がありました。当時は、現在のようにコンピュータがどこにでもあるという時代背景では無かった時代ですが、おそらくコンピュータで解析しても、博打で大儲けをする確率は低いでしょう。博打も宝くじも、コンピュータを使までもなく確率的には絶対に儲かりません。確実に儲かるのは胴元だけです。悪いことに、博打には必ずと言っていいほど、元手稼ぎのための犯罪が付いて回ります。それなのに、どこかの国の政府や、西の方の自治体では、カジノを開きたくってしょうがないようです。決起集会に招かれていた、某国の巨大博打資本から巨大献金が出ているのでしょうか。

紫式部の間がある石山寺は源氏物語ゆかりだけでなく多くのお堂も見どころ

2018-05-13 08:00:00 | 日本の町並み
 絶世の美女と言われる小野小町の生誕は秋田県の湯沢で、墓所は京都山科の随心院と言われていますが諸説があって、美人はわが郷土に関係ありと言わんばかりです。戸籍謄本や住民票の無い時代ですから、有名人であってもどこに住んでいたかは曖昧なところが多いようです。特に女性は、男性との関連でしかデータが残されていないことも多く謎めいています。平安時代の美女の代表が小野小町なら、妻女の代表は清少納言か紫式部と言ったところでしょうか。今回は、紫式部が源氏物語を発想したという伝説がある石山寺界隈を紹介します。

 
 
 石山寺は、JRの石山駅の南1.5kmくらい琵琶湖から流れ出る瀬田川の西岸にある伽藍山の麓に建っています。瀬田川沿いに走る道路に面して東大門があって仁王が門番をしています。山裾に建っている割には、門から本堂までは意外と懐が深く、参道に塔頭が並んでいます。石山寺の名前は、本堂が天然記念物の珪灰岩の上に建っていることからの命名だそうです。この珪灰岩越しに見える国宝の多宝塔は、よく写真で見る風景です。

 
 
 国宝の建物は他に本堂があり、本尊で重文指定の木造如意輪観音半跏像が安置されています。秘仏で33年に一回の開扉ですが、2016年に拝観することができました。本堂の周りには、毘沙門堂(県有形文化財)、蓮如堂、御影堂(共に重文)などが台地の上に所狭しと並んでします。他の堂は多宝塔を初め、裏山の傾斜地に建っていて、境内を一巡するのに意外と時間がかかるのは、高低差があって足が付いていかないからだったかもしれません。

 
 紫式部が源氏物語の明石と須磨の巻きを発想したというのは寛弘元年八月十五夜の日で、本堂には紫式部の間というのがあり、境内には紫式部の姿を映したブロンズ像が置かれています。また、紫式部の肖像だけで3幅、源氏物語絵巻など、源氏物語のお寺なんですね。源氏物語に限らず、枕草子や更級日記、和泉式部日記の作者も石山寺に参篭したようです。京都からさほど遠くなく、気分転換や隠れ家として好適なお寺だったのでしょうか。

 筆者は、不倫絵巻の源氏より、枕草子の方に好感を持ちます。日本人の美意識形成に影響を与えた、「あはれ」と「おかし」の二大文学ですが、現在の芸能界の不倫の横行は源氏が影響しているのではないかと思ってしまいます。一方の、枕の方は、自然界の持つ美しさの発見があってさわやかです。AIが進んでも、コンピュータは既存の美の基準は判断できても、新しい美の発見は難しいのではないかと思います。

パリに住む人はセーヌ河岸にある膨大な遺産の数々をいつでも見られて羨ましい限りです(フランス)

2018-05-06 08:00:00 | 世界遺産
 ポルトガルの第二の都市ノポルトには、師匠と弟子がそれぞれに設計した橋が架かっていました。師匠はエッフェル、エッフェルと言えばエッフェル塔を思い浮かべます。英会話でアイフルタワーと言われて???とっさにエッフェル塔を思い浮かべられませんでした。英語圏の人間は、何でも英語式に発音してしまいます、地名でも人名でも、本来呼ばれていた母国語の発音を無視します。我々が世界標準だと言わんばかりです。最近我が国ではグルジアをジョージアに変更しましたが、これも英語読み、現地の発音ではありません。エッフェル塔から脱線しましたが、今回はエッフェル塔も指定範囲となっている、パリのセーヌ河岸を紹介します。

 
 
 エッフェル塔は、現在ではパリを象徴する建物の一つになっていますが、建てられた時には酷評を浴びたようです。フランス革命から100年を記念して開催されたパリ万博の目玉として1889年に建てられ、300mの高さは1930年までは世界一の高さの建造物でした。筆者が初めてパリを訪れたの1989年で、エッフェル塔には100ansの文字が浮かんでいました。高い建物ははモンパルナスタワーくらいしか無いパリでは、エッフェル塔に上ると遠くまでよく見えます。対岸にあり、1937年の万博の時に作られたシャイヨー宮も足元です。
 よく東京タワーはエッフェル塔より鉄材の量が少なく済んで、高さも高いって威張っていますが、かなりコンプレックスのような気がします。まずデザインは完全に真似、おまけに足元にビルを跨いでるので不格好、鉄材についても70年も前に建てられ鋼材強度や構造計算が進んでいなかったであろう環境と比較するのがナンセンス、展望台だって東京タワーの第二展望台でも、エッフェル塔の展望台より低いんです。おまけに、エッフェル塔の展望台では、ガラスの無いフロアーがあって、景色がクリアに見られます。日本人って、特にデザインの面で新規性に欠けるものが多くって、外国のパクリが横行してるように思います。

 
 セーヌ河岸には世界遺産に指定された建物などがあまりにも多く、とてもすべてを回り切れません。指定外のものも含めて筆者が訪れたところを紹介します。
 まずは、エトワール凱旋門、19世紀初頭にナポレオンが作り、他にも凱旋門はありますが凱旋門と言えばこの建物を指すようになっています。パリの町は、中国や我が国のような碁盤の目ではなく、凱旋門を中心とした放射状に延びており、凱旋門の上からはシャンゼリゼを初めとしてパリの中心にいるって感じがします。

 
 
 
 2番手はノートルダム寺院でしょうか。13世紀に建てられたゴシックを代表する建物で、最近訪問すると入堂するのに行列だったのは驚きです。ただ、最初に訪問したのは30年ほど前ですが、壁がやけに煤けていたのが綺麗になりました、洗浄したのでしょうか。ゴシック建築の特徴であるとび梁は現物ではうまく取れなかったので、東武ワールドスクエアの写真を載せました。柱状の怪物もその模型のものです。

 
 ノートルダムノバラ窓は有名ですが、同じして島のサント・シャペルのステンドグラスは驚異的です。ノートルダムと同じ頃に、こちらもゴシックの建物で、聖遺物を収納する目的で建てられたそうです。

 
 シテ島のそばにあるのがルーブル美術館で、元は宮殿ですが、こんな町中にあるのに広くって、展示面積は6万㎡、東博の3倍以上です。日本に来ると長蛇の列になるミロのビーナスもモナリザもゆっくりと鑑賞できましたが、最近は観光客の増加で混雑してるそうです。ルーブルと同様に宮殿であった建物が役所や現代アートの展示場に使われているのがパレ・ロワイヤルです。映画のシャレードの最後のクライマックスの銃撃戦で使われたのは、この建物の列柱回廊です。

 
 ルーブルが印象派以前の展示品とすれば、印象派とポスト印象派の作品を展示する美術館が駅を転用したオルセー美術館で、入館すると大きな空間に驚きます。
 印象派と言えば、印象派の言葉を生んだ作品のモネの「印象日の出」が展示されるがマルモッタン美術館で、ちょっと不便な場所にあるためか日本人にはあまりなじみがありません。

 
 
 日本人になじみが無いと言えば、ノートルダム寺院からすぐと足の便が良いのに日本人を見かけないのがクリュニー中世美術館です。15世紀に建てられたクリュニーの修道士の邸宅を美術館に転用したもので、5~15世紀の中世の美術品を展示しています。5年ほど前に国立新美術館で開催された「貴婦人と一角獣」は所蔵作品の目玉の一つですが、この展覧会を見た人も中世美術館の存在を認識している人は少ないかもしれません。展示品だけでなく、建物も見事です。
 ほかにも、モネの水連の絵が鑑賞者を中心にぐるりと周りを取り囲むオランジュリー美術館やピカソ、ロダン、ドラクロそれにモローなど特定の作者の名前を冠した美術館も多く、人もさほど多くなく各自のペースで鑑賞ができます。

 40年ほど前、まだまだ大型コンピュータを自前で持つことが難しかったころ、当時の電電公社が大型コンピュータを共同利用するサービスをやっていました。このうち、科学技術計算サービスを提供するものをDEMOSと呼びましたが、その最大ユーザが建築会社で、構造計算に使われたそうです。構造計算とは、それくらい大変で需要も多かったのですね。ところが厳密に計算をした結果、材料のばらつきがあるためか、最後に安全率として数倍にするんです。エッフェルの頃に、コンピュータがあって構造計算を素早くできていれば、エッフェル塔はもっとスリムになった居たかもしれません。いやいや、安全率のために同じだったかも。