世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

古い町並みの上をまたぐ巨大な橋が奇妙なコントラストを描く下津井

2009-08-30 19:04:07 | 日本の町並み
 人や物の流れが変わったために忘れ去られたことが、古い集落の形を残すことになり、茅葺民家の数が日本一の規模で保存されているのが大内宿でしたが、江戸時代には北前船の寄港地として、また四国の金比羅詣での港として、人と物の流れが集中して栄えた港町が下津井です。その後日田や物の流れが変化して下津井は完全に置いてきぼりを食った感じです。今回は、古い町並みの向こうに巨大な本四連絡橋が横切っていく倉敷市の下津井を紹介します。

 下津井は合併によって倉敷市の一部になっており、岡山県の最南端、もちろん倉敷市の最南端に位置します。江戸時代には天然の良港として、また池田長政が再興した下津井城の城下町として大いに栄えました。明治になって北前船は無くなり、四国への連絡港が国鉄の宇高連絡船の出現で宇野港に、さらには本四連絡橋が架けられて、流通拠点としての存在価値を失い、静かな漁村になっています。この下津井にもかつては鉄道が走っていました。現在はバス会社となっている下津井電鉄の電車がJRの茶屋町との間を結んでいました。この電車の開通は、国鉄の宇野線の開通の翌年ですが、宇野線の開通に合わせて四国の高松を結ぶ国鉄連絡船ができて、四国へのお客を取り戻すために設立されたのだそうです。下津井電鉄の電車は軌間762mmという軽便鉄道で、おもちゃのような電車がカーブの多い線路をチョコチョコと走っていました。一時期は落書き電車といって車内が落書きで埋まった電車が走っていたように思います。茶屋町ー児島間の廃止のあと、残っていた児島ー下津井間も1990年に廃止され、かつての線路の跡は自転車道路に変わっています。

 児島から下電バスで訪れた下津井には、かつての繁栄をしのばせる土蔵造りやなまこ壁の家、
 
それに廻船問屋の家を復元し格子が美しい「むかし下津井廻船問屋」などの家並みが点在しています。
 
「むかし下津井廻船問屋」は資料展示館になっていて、かつての繁栄をしのばせる品々などが展示されています。これらの町並みの近くには、「まだかな橋跡」の石碑があり、これはかつての色町の名残なのだそうです。港に寄港する船頭に、「まだ(遊郭にあがらん)かな」と声かけする婆が、まだかな橋のところに出没したためにそう呼ばれたとか。

 下津井の町並みで他の古い町並みには無い風景を作っているのが本四連絡橋の巨大な姿です。町並みの東側に、巨大な橋脚と、ワイヤで吊るされたトラスが覆いかぶさるようにして壁を作っています。橋脚の高さでは明石架橋の方が高いのですが、町並みをまたぐ道路面が低いためなのか、こちらの橋の方が威圧感を感じます。

町外れの高台に祇園神社があって、本四連絡橋の2本の橋脚に吊り下げられた端の姿が、程よい迫力で見ることができます。

 本四架橋の児島ー坂出ルートは3ルートの中で、唯一の鉄道併用橋です。鉄道橋ということは、この橋の上を貨物列車も通過するわけです。長大で重量も大きなものがつり橋を通過すると、重さのために橋の路面が沈み込み、その量は想像するより大きく、レールが橋の部分と陸地の部分とで折れ曲がったようになるとのこと。これがどの程度になるかは、コンピュータによる構造計算によって事前に予測され、必要な手当てがなされたようですが、完成後に実際の列車が無事に通るまで設計者は心配だっただろうと思います。かつて、電電公社がコンピュータを通信回線を使って共同利用するシステムの先鞭としてDEMOSを提供していましたが、このシステムの最大のユーザの一つが、建築業界の構造計算用だったということを聞いたことがあります。作ってみて、テストをしたら強度が足りなかった、では済みませんからね。

忘れ去られたために、かえって茅葺屋根の集落が保存されて観光地になってしまった大内宿

2009-08-23 09:59:27 | 日本の町並み
 数多くの茅葺の集落が、京都市内からほんの30kmほどの距離にあるのが美山集落でしたが、現存する茅葺の民家の数では日本一と言われているところが大内宿です。かつては宿場町として繁栄したのですが、人の流れが変わり、人々の意識からも忘れ去られて、まるで冷凍保存されたかのような形で残され、重要伝統的建物保存地区になった集落だといわれています。

 大内宿は、福島県の南部の山の中、下郷町にあります。西若松から南に伸びる会津鉄道で20kmほど行った湯野上温泉駅から、携帯が圏外になるような山道を5kmほど走ったところにあります。首都圏から行く場合は、会津鉄道につながる、東武鬼怒川線、野岩鉄道と3社の鉄道を縦断することになります。このため公共輸送機関でアクセスするには、かなり無理があり、マイカーやツアーバスで訪れる人々が多いようです。行き止まりに状態に近い大内宿への道路は、春秋の観光シーズンの休日には大渋滞になり、いつ着くか解らない状態です。

 大内宿は、江戸時代に日光今市から会津に通じる下野街道の宿場町として栄えた歴史を持ちます。下野街道は、会津西街道とも呼ばれ、江戸時代には江戸と会津以遠とを結び、参勤交代の通路としても重要な街道の一つだったようです。現在は、人や物の流れが郡山経由となり、人の往来もほとんど無い忘れ去られたような過疎の山村になってしまいました。取り残されたような状態が、結果的に数多くの茅葺の民家を冷凍保存のような状態で残すことになり、昭和56年に宿場町としては3番目の重要伝統的建物保存地区に指定されることで、観光地として見直されるようになりました。茅葺の民家も近代化のあおりを受けて、トタン葺にされたり、アルミサッシが入ったりと変化を見せ始めたそうですが、茅葺の集落が財産ということに気づいた方が、保存運動に乗り出され一部トタン葺に変わっていた屋根を茅葺に戻されたそうです。

 集落は、400m程度の電柱の無い砂利道に沿って、妻入りの茅葺民家が並んでいます。道の端には小さな水路があって、清冽な水が流れています。どぶ川は論外ですが、街道の風景のなかの小さな流れは重要なアクセントです。流れのそばには、決まったように四季の花々が植えられているのもいいですね。

ただ、たいした産業もなく、農産物もよくは取れない集落ゆえ、やむをえないことなのでしょうが、ほぼすべての茅葺民家が食べ物屋かお土産屋になってしまっているのは、ちょっと寂しい感じがします。砂利道の突き当たりの小高い丘の神社に上ると、集落の様子が良くわかります。

妻側を道路に接して、奥行きの深い建物の屋根が上に上にと重なって見えます。逆に、砂利道を南に集落を外れると、

水車があったり、

ススキの穂が太陽に輝いていたりで、集落とは違った風景が楽しめます。

 携帯電話では、サービスエリアの広さを表すのに、人口カバー率という表現が良く使われます。100%近い数字で、何処でも使えるように宣伝しているようですが、大変な誤解を生む宣伝なのです。この人口カバー率という数字は、通話が可能なエリアに住む人口が、日本の総人口の何%になるかという定義なのです。決してエリアの広さの割合ではないのです。大都市など、人口の多いところさえカバーしておけば、限りなく100%に近くにでき、人の住んでいない山奥で通話できなくっても、ほとんど数字には表れません。実際に、通話可能エリアの地図を見てみると、山の多い日本の地形では、大都市圏でない海岸から離れた内陸では真っ白なところが目立ちます。それでも、衛星を使った携帯電話ならば、地球上に居る限り、何処に居ても通じてしまいます。ただ、電源を切って居留守を決め込むのが難しくなるかもしれませんが。

海と山とに守られたコトルは、自然が美しくて要塞の町という印象がありません(モンテネグロ)

2009-08-16 11:25:50 | 世界遺産
 海から攻めてくる外敵に備えて、湾の入り口の島に要塞を築いたのがヘルシンキのスオメンリンナでしたが、フィヨルドの深い入り江と、背後の険しい山に守られた天然の要塞がモンテネグロのコトルです。外洋から複雑に入り組んだ湾は、湾の奥からは入り口が見えず、波も湾の奥までは届かず湖のような穏やかさです。コトルは、このコトル湾をアドリア海から最も深く入り込んだところに位置しています。

 コトルは、チトー無き後に分裂した旧ユーゴスラビア諸国の一つのモンテネグロの南西端に位置します。コトル湾は、ヨーロッパ最南部のフィヨルドといわれ、北部は東西に蝶が羽を広げたような形、南部はLの字を右に倒したような形をしています。二つの部分は、蝶の胴体とL字の北東の部分とが、幅400~800mほどの水道でつながっています。コトルは蝶の羽の東側の先が南の伸びた先端にあるために、アドリア海への出口はまったく見えません。

 筆者は、クロアチアのドゥブロクニクから、往復しましたが複雑に入り組んだ海岸線を走り、湾がくびれた部分はバスごとフェリーに乗り込んで渡るなど、距離の割には時間がかかったように思います。ただし、この移動がすばらしく、車窓からの景色を楽しんでいると、まったく飽きさせません。自然の風景の中に、絵葉書のような教会が点在しているのです。フェリ-で渡るときには、海岸の丘の上に、

入り組んだ海岸線を走るときには、沖に浮かぶ小さな島に

十字架を頂いた教会が景色に変化を与えています。これらの教会群や修道院は巡礼の対象地となっているそうです。

 コトルの町は一辺が300m程度の正三角形をしており、要塞都市らしく周りを城壁が囲んでいます。旧市街に入るためには、城壁に開けられた城門を潜る必要があります。

城壁の中には、いくつかの教会や広場があって、その間の道は迷路のように曲がりくねっています。

このためか、さほど広くない城壁の内部ですが、実際の広さより大きく感じます。正三角形の旧市街の二辺は城壁ですが、残りの一辺は後方の山が迫っていて壁は作られていなかったように思います。背後に迫るこの山は、木があまり無く石灰岩がむき出しのごつごつした山容で、この山を越えて攻めてくるのは難しそうです。

現在は、この山にドライブウェーが作られていて、コトルとその先に広がるフィユルドを俯瞰できますが、この道がヘアピンカーブの連続で、頂上までたどり着いたときには、ドライバに思わず拍手です。

 コトル湾の周辺は、古代から人が住んでいたようですが、近代になって、いろいろな勢力のぶつかり合う接点のようなところになったようです。15世紀以降にはオスマントルコとヴェネチアとが勢力を張りましたが、その勢力分布は、地域に残る教会の種類として、正教会系(トルコ)が多いかカソリック教会系(ヴェネチア)が多いかで判別できるとのことです。現在のトルコとは、ギリシャなどを挟んでずいぶんと離れているように思いますが、ヘヤピンカーブの道を登って訪ねたこじんまりした町にあるツェティニェにあるモンテネグロ博物館には、トルコの影響を色濃く残す展示物で溢れていました。

ちなみに、モンテネグロの行政上の首都は人口17万人のポリゴリツァなのですが、憲法上の首都は人口が2万人に満たないカルスト台地にある小さな町のツェティニェなのだそうです。

 旧ユーゴスラビアは、いまだに争いごとが収まらない地域の一つです。その原因のひとつは、民族紛争といわれていますが、その根っこは宗教にあるようです。科学が進んで、IT技術でどんなことでも実現できるかのような時代になっても、ITが解決するのは物質的な欲求のみで、精神的な拠りどころは宗教が担っています。宗教の主張が異なると、異なるどうしでいがみ合うようになるんですね。博愛や平和を唱える宗教が、どうして戦争を引き起こすのでしょうか。

狙ったわけではないのですが、訪れた美山は雪をかぶった茅葺の農家が凛とした風景を作っていました

2009-08-09 10:26:42 | 日本の町並み
 怖い地名とは裏腹に、のびやかな農村風景が広がっていたのが長野県白馬村の青鬼集落ですが、この青鬼集落では維持が大変なためにトタン葺きとなって無くなってしまった茅葺の農家が数多く残されている集落の一つが京都の美山です。今回は京都市の北北西30kmほどの山里の美山地区を紹介します。

 美山町は、2006年に京都府の中央部にある4町が合併してできた南丹市の北部にあります。ただ、市といっても廻りは山ばかりで、山陰本線の園部あたりが開けているくらいでしょうか。美山を公共輸送機関を使って訪問するのは、かなり大変です。早朝の6時台のバスか列車に乗らないと、その後は現地到着が午後になってしまい、その日のうちに戻ってこれなくなります。かといって、時間がかかるのかというと、2時間程度なので、さほどではありません。要は、公共の足である市営のバスがほとんど走っていないのです。京都からのアクセスは2種類あり、JRバスで周山街道を北に行き、市営バスなどを乗り継ぐルートと、山陰線で園部まで行って、駅前からの市営バスに乗り継ぐルートです。距離的には山陰線ルートですと三角形の二辺を廻る感じで若干不利ですが、レールの上を走る列車が、市街地を抜けていくバスよりスピードが出るようで、遠回りの割には、所要時間はあまり変わりません。

 京都の市街から30kmほどの距離なのですが、むしろ日本海側の福井県の小浜に近く、雪も多いようです。茅葺の里に積もった雪景色を撮影のために、多くのカメラマンが訪れるそうですが、このところの暖冬でめっきり雪が減り、2月に開催される雪祭りも雪が無くって中止にと言うこともあるそうです。ところが、何が幸いをしたのか、筆者が訪問したときには、前の夜から降りだした雪で、あたり一面の銀世界でした。

不意を突かれて間に合わなかったのか、カメラマンの姿どころか、人影そのものもほとんど見かけず、静まりかえった風景は、ちょっと神々しくもありました。

真っ白の巨大な屋根の連なりも迫力がありますが、周りの山々の杉木立に降り積もった雪も日本画の水墨画を見るような風景です。

このあたりは、周山街道でつながる京都の北山杉の植林の流れなのでしょうか、広葉樹林とは違い、植樹されて規則的に並んだ幹とその上の三角形の樹形が幾何学的な美しさです。

 集落の中には、農家を移築した資料館があり、

民具などが展示されています。

この資料館は一度火災に遭って再建されたそうですが、五右衛門風呂とはちょっと構造の違うお風呂や、

茅葺屋根の裏側の様子なども見ることができて、面白い施設です。他の季節に訪れると印象も違ったのかもしれませんが、訪れる人も多くなく、観光のための施設もあまりなく、昔ながらの村落がそこにあるという状況が、好ましい印象でした。刻印された地名だけが違って何処ででも買える土産が並ぶ観光地が多い日本では、少数派なのかもしれません。

 周山街道は、京都と若狭(小浜)を結び、日本海で取れた鯖を運んだ道の一つです。もちろん人力で運んだわけなので、丸一日ほどかかったのでしょうが、京都に着く頃には、一塩をした鯖がちょうど食べごろにになっていたそうです。京料理として伝統の料理がもてはやされますが、地元で取れるものは京野菜くらいで、大部分の食材は山越え海越えで運ばれたもののように思います。当然鮮度は落ちるわけで、この鮮度の落ちた食材に、いろいろと手を加え、季節感も盛り込んで美味しく食べるのが京料理なのかもしれません。ところで、今日の食材は、運送や保存の技術が進み、途方も無い遠くのものでも、新鮮な状態で手に入ります。温度や湿度や日照時間をコンピュータ管理された、ビニールハウスからは、季節に関係なく果物や野菜が出荷されてきます。制約のある食材に手を加えて料理に仕立てるのが文明でしょうか、それとも季節を問わずに食材を提供できるようにすることが文明なのでしょうか。

名前は怖いのですが、ひっそりとたたずむ青鬼集落には、みんなが思う故郷のような風景が残されています

2009-08-02 09:16:45 | 日本の町並み
 清洲の地酒には「鬼ころし」というこわそうな名前が付いていましたが、数ある重要伝統的建造物保存地区の中に青鬼(あおに)集落という名称の集落があります。信州の山奥にひっそりとたたずむ村は、棚田の向こうにアルプスが見え、カメラやスケッチブックを持った人も多く訪れるようですが、筆者が訪れたのは早朝だったため村人すら歩いていない静かでひっそりとした風景を見ることができました。

 青鬼集落は、長野県北部の白馬村の東に位置します。大糸線の信濃森上から東に2kmほど山道をはいったところで、もちろん公共の輸送機関はありませんから白馬の駅からタクシーということになります。ちなみに、白馬村の白馬は、現在はハクバと発音されることが多いようですが名前の由来からはシロウマが正しいのです。春先に残雪が描く雪形の中に馬の形のものがあり、ちょうどそれが現れるのと田んぼの代掻きをする時期がだということで、この雪形を代掻き馬(しろかきうま)と呼び習わされ、これが転じてシロウマになったようです。漢字で表現した後に読みまで変わってしまったわけです。

 さて青鬼集落ですが、長野県の北部には鬼の付く地名が多く、鬼無里などは有名です。鬼といっても、どうもいい鬼のようですが、地名の由来の詳細はちょっと不明です。集落には十数軒の農家があり、どちらの家も大きな屋根のある明治の頃に作られたもののようですが、維持が大変なためでしょうかトタンで覆われていて茅葺は1軒も残っていません。

かつて、福島県の大内宿で、消失しそうになった茅葺を復活させたように、なんとか元に戻せないものでしょうか。ただ、そうなると観光客がドーッと押しかけて、現在の静かな環境が失われてしまい、このままそっとしておいたほうがいいのかもしれません。この青鬼集落は、日本の棚田百選にもなっていて、裏の棚田に登ると正面にアルプスが望めることでも人気があります。しかし、筆者が訪れたのは朝の6時頃で、アルプスは朝霧の向こうでした。

 さほど広くない村の中なので、ぐるりと散歩をしても1時間とかかりません。水力を利用して精米をする、ししおどしを大きくしたようなガッタリと呼ばれる道具が復元されていたり、

登山家の今井道子さん筆になる「おらが村つくり大賞」の碑があったりします。

集落とちょっと離れた少し小高いところには、石仏群もありました。信州を散歩するとよく見かける道祖神なども混じっています。

また、別の場所ではこれも信州ではおなじみの庚申塔もありました。

 この青鬼集落を訪れたのは、7月の早朝でしたが、その前にも訪れようとしました。時間は同じ早朝の6時前で、時期は3月中旬です。ところが、この頃の白馬は未だ雪の中、駅からタクシーに乗ろうと思って尋ねてみたら、雪かきが終わるまでは通行できない!とのとのことで断念しました。雪の積もった集落の風景も見たかったのですが、残念でした。

 ところで、鬼の形相は地域によって多少の違いはありますが、角と牙それに鋭い爪を持っていてトラの皮のふんどしを穿いているのが共通項のようです。この形相のいわれは諸説ありますが、鬼の進入方向として忌み嫌われた鬼門(北東方向)によっているという説があります。北東方向は、丑寅の方角ですが、この牛の角、虎の牙、爪それにふんどしを組み合わせて鬼のイメージが出来上がったというものです。鬼門は風水とも異なる、日本独自の陰陽道によるものですが、なぜこの方角が悪いのかは経験則によるものでしょうか。過去の、歴史上の出来事をコンピュータに入力して、データマイニングしたら、どちらの方角が良くて、どちらが悪いと出るでしょうか。最近のデータを入力すると、北西方向が鬼門になるのかもしれません。