世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

海から攻めてくる外敵に備えたスオメンリンナには大砲の周りに花が咲き乱れていました(フィンランド)

2009-07-26 21:53:32 | 世界遺産
 チュニジア第三の都市スースは海からの外敵の攻撃に備えて作られた城塞都市でしたが、ノルマン人をはじめ何度も占領された都市でしたが、ロシアの海からの攻撃に備えるためにヘルシンキの南の島に作られた要塞がスオメンリンナです。こちらの方もロシアや英仏軍によって占領された歴史を持っていますが、現在は大砲の周りに花が咲き乱れる市民の憩いの場となっています。

 スオメンリンナは、フィンランドの首都のヘルシンキの港から南に船で15~20分ほどの諸島で、南北に2km程度の広がりを持っています。要塞は18世紀中ごろに、ロシア帝国の攻撃に備えて、当時フィンランドを支配していたスウェーデンにより建設が始まりました。しかし、19世紀初頭のフィンランド戦争で、ロシア軍によりあっけなく占領されフィンランド占領の足がかりとなり、フィンランドはスェーデンからロシアの支配下に移りました。その後も、英仏軍とロシア軍とが戦ったクリミア戦争の戦場にもなり要塞は大打撃を受けたそうです。首都の南の海に作られた防衛線という意味で、江戸幕府の作ったお台場と似たところがありますが、小規模で実戦には使われなかったお台場とはずいぶんと違います。ただ、現在は観光地になっているところは共通項でしょうか。

 スオメンリンナへの航路は市営と民間会社の2系とがあり、市営は島の北部の船着場に、民間会社のものは中央と南部の2箇所に寄る三角コースで運行されています。北から上陸して南から帰る、もしくはその逆のコースをたどれば、島内を往復することなく効率的に見て回れます。島内には、

要塞の歴史を解説した博物館や、

教会などが点在していて、丹念に見ていくと意外と時間がかかります。砲台などの要塞の施設は南の方に多く残っていて、

石組みのトンネルや大砲を乗せた砲台、それに大砲も置かれています。ただ、この大砲は本物かレプリカかどうかはわかりません。大砲は本物かどうかはわかりませんが、正真正銘の潜水艦の実物が陸揚げされて内部も見ることができます。第二次大戦で使われたヴェシッコ号です。

内部に入るとエンジンや魚雷、潜望鏡などに混じって、いかにも狭い乗組員のベッドなどが3次元的に配列されているのを見ることができます。

 ヨーロッパに行くと、花の群生を見ることがたびたびあります。日本の生け花は、1本の花で全宇宙を表現する、といった象徴的な自然融合文化がありますが、西欧は自然征服型の文化のせいなのか、花にしても物量で迫ってきます。見渡す限りヒマワリの花とか、チューリップの花という光景に遭遇します。スオメンリンナでも砲台の周りは、見渡す限りと言うほどではないにしても、菜の花で埋め尽くされていました。

ただ、この花ですが、カラシの花なのかもしれません。インドに行ったときに、一面の黄色い花に菜の花~!と感動したら、ガイドさんに、あれはカラシの花!と冷たくあしらわれました。同じアブラナ科アブラナ属ゆえに似ているんでしょう。
 一方、教会のそばには藤色の花が咲き乱れていましたが、ちょっと種類は解りませんでした。北欧は緯度が高いためか、日本では準高山植物とされている石楠花の花も、町中でよく見ることができました。この花も、道路いっぱいに植えられて大きな色面を形作っていました。

 原子力ではない通常の潜水艦の推進動力はなにかご存知でしょうか?浮上しているときは、他の船と同様にディーゼルエンジンでスクリューを回して動きますが、潜水してしまうとエンジンは回せません。ディーゼルエンジンには酸素が必要だからです。このため、潜水艦には蓄電池が積まれていた、浮上中にエンジンをフル回転して充電し、潜水時にはモーターでスクリューを回します。このため、あまり長くは潜っていられないわけです。この欠点を改良したものが、原子力潜水艦で、原子炉は酸素を必要としないため、いくらでも潜っておられ、氷の下を潜って北極海を横断することもできます。潜ったままだと自艦の位置がわからなくなりますが、このために航空機にも積まれているジャイロで加速度を検出してとコンピュータで移動量を演算するINS(Inertial Navigation System)を使うようです。その隠密性のために、ミサイル攻撃にも強く、先制攻撃を抑止する効果があると言われていますが、原子力潜水艦が活躍する場は作って欲しくないものです。

清洲城址は鉄道に分断されていましたが、街道沿いに残る町並みには鬼をも殺す醸造所もありました

2009-07-19 09:33:48 | 日本の町並み
 佐賀市に隣接する神崎市には、紅葉の頃の九日間だけ公開され作庭に九年を擁したといわれる九年庵がありましたが、逆に短期間の一晩で作られたと言われている城が墨俣城です。この城は城と言うより砦のようなもので、一夜城の逸話も後世の創作とという説が有力です。この秀吉が、最初に普請奉行として大々的な改築を行ったのが、墨俣から県を越えた南に位置する清洲城です。城はコンクリートのものに取って代わっていますが、付近には土蔵造りや格子のある家並みも残っています。

 墨俣城は、岐阜県大垣市にあったとされ、尾張の信長が美濃の斎藤氏と戦うために、長良川西岸の交通の要所に出城を建てたものです。秀吉は、信長に城の必然性を説き7日で作ると言ってのけ、それを一夜のうちに作り上げたというのが伝説です。史実については、不明なところが多いのですが、ちょうど梅雨時で戦が休戦状態のときに、砦の材料となる木組みなどを別の場所で作っておいて、一夜で組み立てたという説や、目隠しとなる木立の陰で砦を作り、完成時に木立を伐採したという説などさまざまです。この時に信長が居城していた城が秀吉が普請奉行を勤めて大改修を行った清洲城です。

 さて、その清洲ですが、名古屋市の西北に隣接するベッドタウンです。海からはずいぶんと離れていますが、ほとんどの地域が海抜10mに満たないそうで、中部平野の平坦さに驚かされます。清洲城址は、庄内川の支流の五条川のほとりで、平成元年に天守閣が再建されています。

ただ、資料がほとんど残されていなかったので、外見などは推定の粋を出ないようで、建っている位置も、元の城内ではなく外部になるのだそうです。再建天守のすぐそばを東海道線と新幹線が通っていて、城址そのものも分断され、当時の遺構は本丸の土塁の一部が残るのみです。天守のそばには、信長塀のレプリカも作られています。

この信長塀というのは、日本三大土塀の一つと言われ、本物は名古屋の熱田神宮にあり、信長が桶狭間の戦いの戦勝御礼に奉納したものです。レプリカばかりですが、清洲城を構成していた材木などが、名古屋城の清洲櫓に転用されて健在です。家康によって、清洲から名古屋への転府が命令され、清洲城は解体され名古屋城建築の資材に転用され、廃城となってしまったようです。

 清洲は、お城の名古屋への移転で寂れてしまったようですが、名古屋から大垣に至る美濃街道の宿場町として、なんとか町の形態を維持したようです。この美濃街道沿い、駅から清洲城に至る川沿いに、土蔵造りに蔵のような窓のある家や、

一階と二階に格子のある家並みが残されています。

ほんの数軒の古い家並みですが、ほっとする光景です。ここの地酒に「鬼ころし」という銘柄がありますが、この銘柄は商標登録がなされていなく、辛口のお酒の名称としてあちこちの蔵元で使われているようです。鬼でも殺してしまうようなまずいお酒ということを逆手に取ったという説や、鬼をも殺してしまうようなアルコール度数の高い酒などの説があるようです。

 現在の清洲城はまったくの推定で再建(過去のものとは異なるのでは再建といえるかどうか疑問ですが)されていますが、信長が勢力をかたむけて作り上げた城は安土城です。この天守も本能寺の変の後に炎上し、残る二の丸も八幡城の構築をもって廃城となり、現在は石垣を残すのみです。こちらは、いまだもって天守閣の再建ということには至っていませんが、残された資料からは、ずいぶんと豪華で意表をついた天守だったようです。ただ、こちらの場合にも資料がいろいろとあり、発掘調査や資料から、いろいろな解析が行われて、再現図面が提起されているようです。その中の一つを元に、コンピュータグラフィックスで作画されたものが放映されていましたが、この画像はスタティックな天守の外観ではなく、大手門から天守に登っていく道筋の視点が動的に描かれていて、かつては一部の人しか見られなかったであろう安土城の様子が直感的に把握できました。コンピュータによる作画は、ゲームにも見られるように、実写よりもリアルです。画像エンジンやコンピュータの能力、それにソフトの発展と作者の涙ぐましい労力とによってなしえたものでしょうが、虚構の世界と実世界とを取り違えてしまうことだけは、避けて欲しいですね。

長崎街道の名残や、市内を流れるクリークなど県庁所在地とは思えない落ち着いた町の佐賀

2009-07-12 10:00:25 | 日本の町並み
 福岡県の朝倉市にある秋月は、明治新政府に対する士族の反乱の一つの秋月の乱の起こったところでしたが、西日本で起こった士族の反乱の口火を切ったのが、江藤新平の起こした佐賀の乱です。今回は、佐賀の乱の舞台となった佐賀市とその周辺を紹介します。

 佐賀県は、福岡と長崎に挟まれ、九州の中で最も存在感が薄い県といわれています。40年ほど前まではわらぶきの小学校が残り、道路の舗装率も一番低いとも言われていました。その県庁所在地の佐賀市は、県の南東部、有明海が最も深く入り込んだ北端に位置します。この有明海沿岸に佐賀空港もありますが、なにかと不評の空港で、不用論が盛んです。役人や政治家は空港を県の発展のシンボルと考えるらしく、需要数を無視、あるいは何倍にも水増しして、空港の必然性を作り上げてしまうようです。1社が東京と大阪に合計6往復では存在価値は薄そうです。高速道路の発達した現在では、便数の多い福岡空港から空港バスで佐賀に行ったほうがずっと便利で運賃も安そうです。

 佐賀市の南部の田園地帯は、有明海を干拓した低湿地で、市街地にも掘割が多く、柳川などと似たような町の顔をしています。柳川のように観光のポイントになるような施設に乏しいせいか、水郷を訪ねるために訪れる観光客はあまり多くはなさそうです。しかし、川舟が渋滞気味に川面を埋め尽くすところより、のんびりできるかもしれません。

 佐賀駅の南には鉄道と平行するように旧長崎街道の遺構が残っています。古い家並みはあまり残っていませんが、
 
レンガの壁の上に板張りの家や、土蔵造りの壁に銅版を貼った扉の付けられた家などが、街道の雰囲気を残しています。また街道の一部はのこぎり形の家並みになっていて、これは鍵型の道と同様、敵の来襲に備えるものだったようです。街道途中の日進小学校の校庭には築地反射炉跡があり、レンガ造りの模型の反射炉とアームストロング砲が置かれています。

長崎港の警備に当たる鍋島藩が、幕末の外国船来襲に備えて構築したものです。また、旧街道沿いだけでなく、旧市街一帯に恵比寿像が多く500体あるとも言われています。

江戸時代から商売繁盛を願って置かれていったのだそうです。

 佐賀県と言うと、長崎街道ができるよりもっと昔の吉野ヶ里遺跡が有名で、この遺跡は佐賀市の隣の神崎市にあります。この神崎市の北部、現在の長崎街道である長崎自動車道を北側に越えたところに九年庵という数寄屋造りの邸宅があります。

佐賀出身の実業家伊丹弥太郎の旧別邸ですが、大正時代に作られたこの別邸は作るのに九年を要したそうで、九年庵の名称は、このことに由来するのだそうです。構築開始が1900年で、完成が大正九年と九ばかりですが、この庵の公開も秋の紅葉の頃の9日間のみと九にこだわるようです。庵を取り囲む庭園や、隣接する仁比山神社の境内の紅葉は、

それは見事なものでした。

 反射炉の遺構は、佐賀だけでなく、伊豆の韮山や萩にも残されています。外国艦隊の攻撃の備えて、大砲を作るためのものですが、大砲作りの施設や技術が間に合わない所では、お寺の鐘を寝かせて置いて大砲に見せかけるということもあったそうです。遠くの船から見たら、巨大な大砲と勘違いしてくれたのかもしれません。現在では、衛星からの写真撮影で1mほどの分解能の写真が手に入るようになり、こんなごまかしも効かなくなったでしょうし、Webからでもかなり詳細な航空写真が見られるようになり、戦争以外の用途も広がっています。それにも関わらず、大量破壊兵器が準備されているといって攻撃を仕掛けるのは、情報が操作され曲げられているように思います。

「サヘル(=沿岸)の真珠」と言われるスースは海のそばの美しい城壁都市です(チュニジア)

2009-07-05 09:56:51 | 世界遺産
 ケベックは北アメリカにありながらヨーロッパの香りのするシックな都市でしたが、そのケベックの姉妹都市の一つに、チュニジア第3の都市であるスースがあります。このところ、城塞都市の紹介が続きますが、スースは海に面した美しい城砦都市の一つです。

 スースのあるチュニジアは、北アフリカの国ですが、町の中を歩いてもあまりアフリカを感じません。ただ、都市部を除いては町の中を歩く女性の数が少なく、イスラム圏の国を意識します。さらに、緯度は日本とほぼ同じで、海に面しているにもかかわらず、夏に訪れると40度を越える暑さで、やはりここはアフリカの一部かな、と思ったりします。世界遺産に登録されているのは600m四方程度の城壁に囲まれた旧市街(メディナ)ですが、郊外にはポール・エル・カンタウイなどのリゾートもあり、パリから2~3時間のフライトで来られるためヨーロッパからの観光客の多いところです。ケベックは、町が河岸段丘の上と下に分かれて広がっていましたが、スースでは城壁の中に起伏があって、

城壁も平ではないようです。

 鉄道の駅に近い城壁の入り口から入ると、グランドモスクとリバトがあります。チュ二ジアの都市には何処にもグランドモスクと呼ばれるモスクがあり、さすがにイスラムの国という感じがします。現役のモスクであることが多く、異教徒は内部には入られませんが、アーチの連続する回廊や、外から垣間見る内部は魅力的な空間です。

スースのモスクには元々ミナレットが無く、望楼のような低い塔が後で付け加えられたようです。望楼風のミナレットからわかるように要塞の役割をしたようで、宗教施設と要塞とは、本来の目的は正反対なのでしょうが、兼用されることが多いようです。

 一方の、隣接するリバトにはかなり高い塔があり、こちらは要塞として作られたものです。

ミナレットには、当然エレベータはなく自分の足で螺旋階段を登らなければなりませんが、隣のグランドモスクや

リバトを上から眺められ、

メディナの様子や、反対側の海の方も眺められて、登るだけの価値はあります。

 メディナの中は、他のメディナと同様に迷路続きで、磁石と太陽の方向で大体の方向を確認しますが、すぐに自分の居場所がわからなくなります。この町中に、上流階級の民家を開放したダール・エシド博物館があります。家具や調度など、なかなか豪華ですし、

壁を彩るタイルも、もちろん模様はアラベスクですが、見ごたえがあります。ここには、塔まであって、登るとリバトとは違った視点の景色が楽しめます。

 駅に近い入り口とは対極の南西端のカスバの跡を利用して建てられて考古学博物館があります。ここの見所は、チュニスのバルドー博物館に次ぐ規模を持つモザイク画で、数多くのモザイクが所狭しと置かれています。

そっけない置き方は、陳列場所と言うより、収蔵庫のような感じもします。ルーブルなどで、有名な絵画が、2段や3段になって陳列されているのに似ているでしょうか。

 モザイクは、石や陶片などを組み合わせて、床や壁を飾る絵を構成する技法で、4000年以上昔の遺跡からもモザイク画が見つかっているそうです。組み合わせるということでは、ステンドグラスと似たところがあります。ステンドグラスでは、鉛のリムで色ガラスを組み合わせるため、色面に必ず黒い輪郭線ができ、これが画面に独特の雰囲気を出しているところが、必ずしも輪郭線のいらないモザイク画とは異なります。テレビなどで、放送できない映像の部分にはモザイク処理が施されますが、この言い回しは、技法の制約から絵を細分化した色面の組み合わせで構成するモザイク画の特徴を言いえて妙のようです。ただ、公権力が不都合な部分をモザイクにするのは、御免こうむりたいものです。