世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

白壁とサルスベリの花との対比が美しい富田林の寺内町

2006-07-30 14:20:31 | 日本の町並み
 真夏に咲く草花は多いのですが、真夏に咲く花木は意外と少ないように思います。それらの中でサルスベリは、真夏を彩る代表格の一つではないでしょうか。サルスベリは江戸時代に中国南部から渡来したそうで、和名は古い樹皮のコルク部分が剥げ落ちて木肌がツルツルになり木登りのうまい猿でも滑ってしまう、とのことから命名されたようです。今回は、古い町並みの白壁の塀の上からサルスベリの花がのぞく富田林の寺内町あたりを紹介します。

 富田林市は、大阪府の南端近くに位置し、大阪からは近鉄の南大阪線を古市で乗り換え長野線に乗り換えて30分ほどの距離です。富田林の夏の花はサルスベリというより、夜空に開く大輪の花が有名です。高校野球でも有名になったPL教団の花火大会は、関西を代表する、といより日本を代表する規模のもので、富田林市民は、この日ばかりは残業はしないで早く帰宅するそうです。早く帰る理由は、もちろん花火を愛でる目的もありますが、付近一帯が大渋滞になり、なかなか家にたどり着けない、というのもその理由のようです。

 富田林の寺内町は、近鉄の富田林駅の南、富田林西口からだと東に各々400mほどの一帯で、江戸時代からの白壁や格子それに虫籠窓の商家やお寺の集中する地区です。この町並みは、戦国時代に一向宗のお寺を中心として形成されたもので、他には奈良県の今井町、大阪府の堺などにもその遺構が残されています。一種の自治権を持っていたようで、土塁の遺構なども見られるようです。

 白壁が続く通りは、電線の地中化がかなり進んでいて、時代劇のロケに使えそうです。向こうの四辻から刀を挿した侍が現れても違和感を感じないかもしれません。町の南端辺りには重要文化財にも指定されている商家の一つ杉山家があり、内部が公開されています。

大きな土間やそこに作られた釜戸など古い農家を思わせる造りがあるかと思えば、2階まで上る木製のしゃれた螺旋階段があったりもします。さらには中庭もシンプルですが気持ちのよいものです。

 古い町並みと電線とはどうも相性がよくないようです。そもそも、電線が現れたのは明治維新の頃からですから、江戸時代の以前の様子を残す町並みの風景の中にあってはすわりが悪いのかもしれません。古い町並みに限らず、できれば電柱や電線は無いほうが景色がすっきりします。特に、最近は各家庭での電気の使用量が増えたため、ほとんどの電柱上に柱上トランスを設置するようになって、うっとうしさが増えたようです。また、通信線ではカラスにかじられたり、昆虫に痛めつけられたり、はては猟銃の弾が当たったりで架空線は故障率も高いようです。これだけ、欠点の多い架空線路も地中化するには莫大な費用がかかるようで、なかなか思うようには進まないのですね。

水郷だけではありません、どこかほっとする北総の小江戸、佐原

2006-07-23 14:21:53 | 日本の町並み
 醤油の野田と同様に利根川の水運で開けた町が佐原です。町は利根川で南北に分断され北部は沖積層の水郷地帯が広がり、潮来と呼ばれる一帯は6月のあやめが咲く頃には数多くの観光客が押しかけ、どんこ船と呼ばれる小船で水郷めぐりを楽しみます。

 一方、南部の駅の南側には、小野川に沿って昔の町並みが保存されていて、川越と並んで北総の小江戸と呼ばれています。古い家並みを残す町には小京都と呼ばれる町と小江戸と呼ばれる町とがあるようです。昔の城下町(武家の町)が小江戸で、それ以外が小京都と呼ばれているのかと思うと、むしろ大部分の小京都が城下町なのでこの仮説は成り立たないようです。どうも東京(江戸)に近くて伝統的町並みを残す川越、栃木、大多喜などの町が小江戸と呼ばれたようで、その数も小京都に比べて圧倒的に少ないように思います。

 佐原は町並み散歩派にとっては必需品の一つとなる地図ゆかりの土地でもあるのです。日本で初めて全国規模の地図を実測に基づいて作成した伊能忠敬を生んだ町です。小野川に面して旧宅が保存され、近くに記念館も作られています。伊能忠敬の地図は原則的に海岸線を磁石と量程車と呼ばれる距離測定用の道具による三角測量で描いたものですが、まともな交通手段や道路の無かった頃ですから、その苦労や大変なことだっただろうと思います。原始的な道具による作図にもかかわらず、現在の地図と比較してその正確さは驚くばかりです。シーボルトが国外に持ち出そうとして問題になりましたが、それほど正確であったという証明のひとつでしょうか。

 伊能忠敬の旧宅の付近は、小野川を挟んで古い民家や商家が保存されていて、川沿いに植えられた柳も加わり絵になる風景をかもし出しています。写真で切り抜いたフレームの中には、どこかで見たような懐かしいふるさとの町が存在していました。この風景に魅せられたのか、散歩に出かけた当日もTV番組の取材とCMの撮影に遭遇しました。

 現在はGPSが発達して携帯電話にまで組み込まれるようになりました。地球上にいる限り現在位置がどこであるか、瞬時に把握できるようになり、車のナビゲーションにも応用され、地図を持っていかなくても目的地にたどり着ける便利な世の中になりました。しかしながら、GPSは単に地球上の緯度、経度を割り出すだけで、その地点がどこであるかは地図が無ければ確認できません。ナビゲーション・システムにも精巧な地図のデータベースが搭載されています。測量の仕方こそ変わっても、地図の重要性は変わらないようです。

都心の大久保に小泉八雲の終焉の地がありました

2006-07-16 14:23:07 | 日本の町並み
 ギリシャの神殿を模した柱のそばの花壇には色とりどりの花が咲き乱れています。そばには外人の彫像があって、ちょっと他の公園とは雰囲気が違います。こんな公園が都心の大久保の近くにあり、公園の名前は小泉八雲記念公園で、彫像の主はもちろんラフカディオハーン(小泉八雲)その人なのです。

なぜこんなところに、と思われるかもしれませんが、東京大学で教鞭をとっていたときに公園の東の大久保小学校近くに住み、そして終焉を迎えた土地ということからです。今回は、小泉八雲ゆかりの土地のいくつかを紹介します。

 大久保の小泉八雲記念公園にギリシャ神殿風の柱が立っているのはラフカディオハーンが、アイルランド人の父とギリシャ人の母の間にギリシャで生まれたからのようです。終焉の地は、ハーンが住んでいた明治の頃はかなりの田舎だったそうですが、現在は新宿から大久保にかけての住宅街に飲み込まれてしまった感じがします。旧宅のあとは、小学校の校庭で何も残っていませんが、解説文と写真の載っている横長の碑が生垣の前に立てられていて、かつての存在を示しています。

 小泉八雲の名前は、来日し松江で結婚した小泉せつさんの姓と出雲の国にちなんだ名前を組み合わせたものです。ハーンは東京や松江以外にも、熊本や神戸にも住んでいたようですが、名前が示すように小泉八雲=松江という感じが強いように思います。ただ、松江にいたのはほんの1年ちょっとのようで、熊本に引っ越してしまったようです。しかし、松江がハーンに与えた影響は大きかったようで、日本を見る目の基本が松江で培われたのではないでしょうか。松江城の北側の塩見縄手にはヘルン旧宅(松江ではハーンをヘルンと発音するようです)が残され、周りの景色に溶け込んでいます。

ハーンの住んでいた頃はもっと田舎だったかもしれませんが、車の行き来が多いのが気になるくらいで、武家屋敷や松江城の遠景を眺めながらの散歩はハーンの愛した日本の原風景を垣間見るように思います。

 ヘルン旧宅には、椅子に比べてずいぶんと背の高い机が残されています。これは、彼が片眼でかつ強度の近視であったためで、目と机の距離を近づけるため工夫だったようです。

ハーンの悪口を言う人の中には、近眼の彼に日本が見えたはずがない、と批判されることもあります。しかし、現代の日本人が見えなくなってしまった、日本の姿をしっかりと見ていた、陽に思います。逆説的に言うと、目が悪いゆえにかえって心の目で日本を捉えることができたのではないでしょうか。

 ハーンの代表作の怪談の中に「耳なし芳一」の話があります。琵琶の名手で盲目の芳一が平家の亡霊に取り付かれるという話で、亡霊よけに体中に経文を書いてもらうことになりますが、耳にだけ書き忘れられたために、亡霊たちに耳を引きちぎられてしまう、というものです。話のすじそのものはさして複雑ではありませんが、盲目の芳一が亡霊に連れてゆかれる部分では、周りの音や雰囲気の描写が盲人でないと描けないほどのきめの細かさを持つものと評価されています。
 芳一の耳はネットワークやPCのセキュリティホールのようなものであったかもしれません。ほんの小さな弱点が、大きな災いの元になってしまうのですから。

町中にお醤油のよい香りがただよう千葉県の野田

2006-07-09 14:24:48 | 日本の町並み
 酒どころの紹介が続きましたが、お酒といえば肴、その肴には生きの良いお刺身が日本酒には合うようです。刺身につきものはお醤油ですが、関西の薄口醤油に対して、関東では濃い口醤油が中心でその産地は銚子や野田が有名です。その中で千葉県の野田は利根川と江戸川の水運に恵まれて江戸時代から醤油生産の中心地として発展しました。醤油は、もともと和歌山県の湯浅などで生産されたものが船で江戸に運ばれていましたが、大消費地の江戸をバックに関西からの技術移転により野田などで生産されるようになったようです。

 西洋料理の味付けではもっぱら香辛料が活躍します。大航海時代にアジアから大量に運ばれたものも香辛料でした。ところが、その香辛料の産地のアジアでは発酵調味料が発達しました。魚や貝それに豆類のたんぱく質を発酵させて、アミノ酸などをのうまみ成分を利用するものです。タイやベトナムでのニョクマムは魚を原料としたもの、醤油や味噌は大豆と米を原料としたものです。韓国のキムチも魚介類を入れて発酵させるので、一種の発酵調味をした漬物といえるかもしれません。

 東武線の野田駅で下車して町の中を散歩すると、あちこちに大小の醤油工場が並んでいるのを目にします。大工場では、太いパイプが石油コンビナートを感じさせ、ちょっと味気ないところもありますが、同じように液体を扱う工場ゆえ外観が似てくるのかもしれません。これらの工場の中にキッコーマンの製造工場の煉瓦蔵が公開されていて、昔ながらの醤油作りの様子がガラス越しに見学できます。煉瓦蔵の筋向いには、江戸から昭和初期まで続いた醤油醸造の商家の遺構として上花輪歴史館が公開されています。昔使った道具やかつての醤油のラベルなどの展示に加えて、建物もお庭もずいぶんと広く予想外に楽しい時間を費やしてしまいました。

 香辛料による調味の西洋と発酵調味の東洋とで食文化の差を感じますが、日本ほど世界各国の料理が簡単に食べられる国も珍しいとも言われています。それぞれの国の文化は、歴史に支えられて時間をかけて培われてきましたが、交通や高速の通信回線などの発達で情報の流通の速度が速くなった現在では、お互いの国同士での文化が影響しあう速度も格段に速くなったと思います。独自の文化をどこまで保つべきか、文化の融合をどこまで許すか、という問題は、わが国にとっても今後ますます難しい課題となるのかもしれません。

バラ園の他に、温泉やゴルフ場まであるお寺、霊山寺とその界隈

2006-07-02 14:25:58 | 日本の町並み
 見事なバラの花をあちこちで見かけます、バラの名所も多いように思います。今回はこれらの名所の中から霊山寺とその周辺を紹介します。 

 バラの花は園芸分野だけでなく文学や美術の分野でも取り上げられることも多く、人類との付き合いの長さを感じる花の一つのように思います。香水の原料としても一般的ですが、1gの香油を採取するのにバラの花が数千個も必要なのだそうです。ちなみにバラの香油の70%ほどが琴欧州のふるさとのブルガリアで生産されていることは意外と知られていないかもしれません。

 霊山寺は近鉄奈良線の富雄から富雄川に沿って南に2kmほど行った小高い丘の上にあります。バラ園はお寺に上る麓に広がっていて、5月にはバラ会式といって仏様にバラをお供えする儀式もあるようです。

国宝の本堂や谷を挟んだところに建つ重文の三重塔などお寺らしい建物のがあるかと思えば、バラ園のほか黄金殿、温泉それにゴルフ場までを持つマルチ寺院です。

 三重塔は檜皮葺で軒の出入りもほどほどあって、比較的バランスのよい塔のように感じます。また、内部の極彩色の壁画の保存もよいのですが、修復後の塔への彩色と壁画の極彩色とが、黄金堂の派手さと呼応して異質さを感じてしまいます。

ただ、古色に慣れている寺院建築ですが、建った当時は純色に近い彩色がなされていたのですが。

 富雄駅を挟んで霊山寺とは対象位置の北側には、長弓寺があり、駅でバスを乗り継いで、富雄川沿いに北へ南へ行ったり来たりの散歩になります。バス停からバス道を少し歩くと寺の門がぽつんと建っていますが、近くにお寺の雰囲気はほとんど感じられません。

小川沿いにしばらく歩くとやがて長弓寺の境内に出ますが、この道は竹やぶがあったり築地塀があったりでなかなかいい感じだった様に思います。こちらの本堂も檜皮葺の屋根が美しい国宝ですが、訪れる人も少なくって、そっと目立たないように建っているって感じがします。

 バラにはとげがつき物で、とげの無い品種もありますが、「美しいバラにはとげがある」のいわれのようにバラの茎には形や大きさ、それに色についてもさまざまなとげが生えていて取り扱いに注意が要ります。生物にとって不要なものは無い、という言に従えば、バラのとげにも生えている目的があるはずです。おそらく、バラにとって有害な動物などを寄せ付けないという役割なのでしょうか。IT分野におけるセキュリティ機能も、過剰で面倒で余分な機能に思われる時もあります。もちろん、安全を考えると必要な機能でしょうが、人間が考えた機能は、果たして自然が備えたシステムほどよく考えられているのでしょうか。