世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

小さな流れに沿った板塀のそばには俳句が書かれた木簡が掲げられていた防府です

2011-03-27 08:00:00 | 日本の町並み
 ジョサイア・コンドル設計の旧岩崎家の洋館のそばには、天神様が鎮座する町が湯島界隈でしたが、菅原道真を祭る天満宮は全国各地にあるようです。京都北野や大宰府が有名ですが、今回は三大天満宮の一つがある防府(ほうふ)を紹介します。ちなみに三大天満宮とは、先の京都北野、大宰府それに防府で湯島は入っていないようです。

 防府市は山口県の中で瀬戸内海に面しほぼ中央あたりに面した都市です。かつては、交通や商業の中心地として、県や国の出先機関も多かったようですが、新幹線の駅ができなかったり空港が宇部にできたりと、交通の要所としての性格を失って来ています。中心となる駅はJRの防府駅ですが1898年に開業の時には三田尻駅という名称でした。尻という名前を嫌ったのか1962年に現在の防府駅に改称されています。三田尻駅は国内最初の食堂車や最初の寝台車連結の列車の一方の始発駅という輝かしい歴史を持っていますが、岡山以西に優等列車の無くなってしまった山陽本線では、新幹線の駅ではない防府駅は単なるローカル駅になってしまっています。

  さて、天満宮ですが、調べてみると天満宮は日本国中にあるようで北は北海道、南は九州まで沖縄を除き(宜野湾市普天間に普天満宮がありますが祭神は菅原道真ではありません)ほぼ全県に一つは存在するようです。藤原氏によって失脚させられた、道真が雷神となって藤原氏に祟ったことを恐れ、その霊を鎮めるために建てられたのが起源ですが、これだけ全国津々浦々に広まっているとは知りませんでした。道真が優れた学者であったため、天満宮は学問の神様に姿を変え、学業成就は全国規模での祈願でしょうから何処にでもあるようになったのかもしれません。

 三大天満宮の一つの防府天満宮は防府駅の北1kmほどの天神山の南斜面にあり、道真が大宰府に流される途中に宿泊した防府が道真自身が気に入ったことにより日本で最初の天満宮となったのだそうです。防府天満宮は、今から45年ほど前の学生時代に訪れたのみで、さすがにほとんど記憶がありませんので、主観的な紹介は今回は省略です。

 二度目の防府訪問は8年ほど前ですが、余り時間が無く雨模様であったので種田山頭火の散歩道を散策しました。防府を有名にしたのは、天満宮よりむしろ山頭火かもしれません。五七五の形式に縛られない自由律俳句を代表する俳人を生んだのが防府です。自由律俳句の主のためか、私生活も自由気ままのようで、筆者はその生き方には余り賛同できませんが、彼が散歩をしたであろう町並みは好ましいところがあります。細い水路の向こうに白壁の土蔵が建っていたり、崩れかかった板塀が続いていたりで、なかなか絵になる風景です。その町並みのそこかしこに俳句が書かれた木簡が季節の花と一緒に掲げられているのも、さすがに山頭火を生んだ町だからでしょうか。

 防府には駅の無い山陽新幹線は、九州新幹線とつながって鹿児島まで直通運転が始まり、北の青森から鹿児島までが新幹線を乗り継いで移動できるようになりました。それでは、東京駅で新幹線車両の相互乗り入れをして、乗り換えなしに青森から鹿児島中央まで行けるようにできないだろうかという疑問が湧いてきます。実は新幹線を動かしている電力には2種類あって、電圧はすべて25kVなのですが、東海道以西では60Hz、JR東日本では長野新幹線の佐久平以西を除いて50Hzの交流が使われています。大部分の新幹線の車両は、構造を簡単にするために50Hzか60Hzのどちらかでしか走れません。唯一例外的な車両が、長野新幹線で使われているE2系と呼ばれるもので、この車両を使えば、電源の面からは青森から鹿児島中央まで走れるかもしれません。ただ、乗る人がどれほど居るかは分かりませんが。

ストックホルムのノーベル授賞式会場には巨大なパイプオルガンとモザイク画があります(スウェーデン)

2011-03-20 08:00:00 | 世界遺産
 コペンハーゲン、オスロと北欧の首都を紹介してきましたが、3回目の今回はスウェーデンの首都のストックホルムです。

 スウェーデンはロシアを除くヨーロッパの中で日本より国土が広い3カ国の一つで、その首都のストックホルムには湖水が多く北欧のヴェネチアと呼ばれています。ちなみに日本より広い残りの2カ国は、スペインとフランスで、東西が統一したドイツも日本より狭いのは驚きです。町の中は水だけではなく緑も多く、緯度の高い都市とは思えない豊かな自然を感じます。

 スウェーデンも王国ゆえストックホルムには王宮があり、衛兵の交代式には多くの観光客が集まりますし、衛兵の数も多いように思います。王宮のある周辺はガムラスタンと呼ばれ、ノーベル記念館、議事堂それに数多くの教会が集中していて観光客の数の多い場所です。




  
 町の散歩で興味を引いた3つのポイントを紹介しましょう。一つはヴェステルロングガータン通りのお店の天井に残るガラス絵で、温かみのある優雅さがあります。次は、モーテン・トローツィグ・グレンで町中で最も狭い通りです。坂になっているので余計に圧迫感があり、事実両手を広げることはできない幅でした。最後は、鉄の広場にある大きな計量器で、陸揚げされた鉄材をこれで計ったのだそうです。

 ガムラスタンにあるノーベル記念館は、受賞者の紹介などが中心で、伝記物を読まされている感じでちょっと退屈です。ノーベル賞の受賞会場であるガムラスタンとは対岸にある市庁舎が見ごたえがあります。中は自由には見学できず、言語毎にガイドが着いてのツアーになります。オスロの平和賞の受賞会場の市庁舎ホールと同様に、天井の高いホールは、茶色を基調とし、高い位置に窓があってやや暗い感じで、白が基調で明るい感じのオスロと好対照です。オスロの巨大壁画に対して、こちらはヨーロッパ最大のパイプ数を誇るパイプオルガンが設置されています。ただし、こちらの市庁舎にもかなり大きな壁画があります。ノーベル賞の舞踏会会場となる黄金の間でメーラレン湖の女王の巨大なモザイクが壁を埋めています。
 

 巨大といえば、ガムラスタンとは氏の中心部を挟んで反対側にあるヴァーサ号博物館に納められているヴァーサ号です。長さが68m、高さが52m、排水量が1,210トンという木造軍艦の実物が展示されています。余りに巨大なためにマストの先端は建物の中に納まらず、屋根から突き出しています。この軍艦は日本ではまだ江戸時代の1628年に竣工したのですが、大砲を数多く積み過ぎて、処女航海時に横波を食らって遭えなく沈没、1956年に引き上げられ展示されたそうです。沈没して海底に眠っていたため、低温の海水が一種のタイムカプセルとして働き、ほぼ原型を留めたまま引き上げられています。ちなみに、箱根芦ノ湖の海賊船のヴァーサ号はこの船にちなんだ命名だそうです。

 

 
 ヴァーサ号博物館を通り過ぎてさらに行くと、これまた敷地が巨大な屋外博物館のスカンセンがあります。スウェーデンの伝統的な建物のいくつかを移築復元しているエリアや、伝統工芸を実演してくれるエリアなど、いくつかのカテゴリーにエリア分けされています。すべてを回っていると一日でも無理かもしれませんので、入場者の興味によってピックアップして回ることになるのでしょう。余り時間の無かった筆者は2時間そこそこの滞在でしたが、陽気なガラス職人さんや木造の素朴な教会など、スウェーデンの文化の片鱗を覗けたように思いました。

 ノーベル賞は、ご存知のように発明したダイナマイトで巨万の富を得たノーベルの遺言により設立されたノーベル財団が受賞者を決めて授与しているものです。自分の発明したダイナマイトが戦争で人殺しに使われたことの後ろめたさから、「人類のために最大の貢献をした人々」への分配を言い残したのかもしれません。平和賞部門があることが、その象徴であるかもしれません。IT分野でも軍用に開発されたものを平和利用する、という表現が使われ、あたかも最新技術は軍用からしか生まれないようなことを言う評論家も居ます。ある面現実であるかもしれませんが、IT技術によって豊かになることで、戦争抑止につながるというシナリオの方が我々の選択肢ではないでしょうか。

湯島天神の北側には、数少ないコンドル設計の遺構の一つ旧岩崎邸が軽やかな姿を見せています

2011-03-13 08:00:00 | 日本の町並み
 旧東海道で唯一の海路であった七里の渡しの遺構のある宿場町に、東京にもほとんど残っていないジョサイア・コンドル設計の洋館が残されているのが桑名でしたが、そのコンドルが設計し7棟が現存するのみの洋館の中で、数少ない遺構の一つが湯島にある旧岩崎邸です。今回は、台東区西端の旧岩崎邸の周辺から文京区の湯島周辺にかけての町並みを紹介します。

 

 旧岩崎邸は、三菱創始者の岩崎弥太郎が購入した土地に長男で財閥3代の久弥により1896年に建てられ茅町本邸として使われました。戦後はGHQに接収された後、国有財産となり、司法研修所の用地としても使われましたが、現在は都の管理の公園となっています。コンドル設計の洋館の他に、撞球室と和館の大広間が重要文化財となっています。国有財産となった時に、その用地が売却や転用されて狭くなったそうですが、洋館の前には芝生の庭園が、和館の前には日本庭園が広がっていて、かつてはどれほど広かったのだろうと思います。

  
 コンドル設計の洋館の北側になる入り口の前庭にはやしの木が植えられていて、東南アジアのコロニアル建築を見ているような感じを受けます。南側の芝生の庭のほうにはさしたる樹木は無く、庭に面して1階2階ともに列柱の連なるベランダが開放的です。内部は、都の管理となるときに補修が行われて、特に凹凸の模様がある壁紙は見ごたえのある見事さです。ヨーロッパの革製の壁紙を和紙で模したそうで、修理のときに一度途絶えた技術を復元して製作されたそうです。

 旧岩崎邸は台東区の西端で、岩崎邸だけが文京区に割り込んだような形で南北ともに文京区になり、春日通を挟んだ南側の文京区には湯島天満宮があります。湯島天満宮は5世紀に創建されたという歴史を持っていて、14世紀に菅原道真を合祀して天満宮と呼ばれるようになったそうです。どちらの天満宮も、学問の神様として受験生のお参りと合格祈願の絵馬であふれていますが、首都圏の天満宮ゆえその数も別格のようです。道真が左遷された大宰府にある天満宮の境内には、道真を慕って京都から飛来したという飛び梅がありますが、天満宮といえば梅がつきもののようで、湯島も梅の名所となっているようです。

 湯島天満宮の裏から春日通を本郷三丁目駅に向けて歩くと、右手に麟祥院(りんしょういん)があります。臨済宗のなんども無いようなお寺ですが、三代将軍家光の乳母であった春日野局の菩提寺として有名で、さすがに都心としては広い境内を擁しているようです。かつて井上了以が、その境内を借りて東洋大学の前身の私塾「哲学館」を開いた所でもあり、東洋大学発祥の地の石碑もあります。中野の住民としては、区内にある哲学堂を作った井上了以ということから親近感を覚えます。

 春日通をさらに西に進むと、今度は通りの左手に存在感のある教会が見えてきます。本郷中央会堂と呼ばれる日本基督教団の教会で、関東大震災で倒壊した旧木造教会を昭和4年に鉄筋コンクリート造りで再建したものです。周りにある高層ビルが少々無粋ですが、鐘楼を持つゴシック様式の姿は、周辺のビルにも負けない堂々たる存在感がありました。

 梅原猛氏によれば、神に崇められる人物というのは、権力者から抹殺された人物であり、菅原道真はその典型だそうです。時の権力者たちは、たたりを恐れ、鎮魂のために寺や神社を建て、怨霊の封じ込めを画策した結果ということです。亡霊や怨霊というと、なかなかその存在が信じがたいのですが、存在を完全に否定するための証明も難しいようにも思います。現在の科学技術で、その存在を認識できないだけかもしれないからです。携帯電話が大盛況の現代ですが、電磁波の発見からまだ100年ちょっとしかたっていません。マクスウェルが予言をした電磁波ですが、目に見えないものの存在を証明するのは大変なことであっただろうと思います。電気は目には見えず、電気によって引き起こされる現象から、その存在を認識します。このようなことから、電気分野の科学者のなかに、目には見えない霊の存在を証明しようとしている方々がおられるそうです。

景観より利便性を優先して世界遺産の登録抹消を選んだドレスデンです(ドイツ)

2011-03-06 08:00:00 | 世界遺産
 モーツアルトの生誕の土地であり、映画サウンド・オブ・ミュージックの舞台でもある町がオーストリアのザルツブルグでしたが、そのモーツアルトが逗留して音楽会を開いた縁で19世紀にモーツアルト協会が結成されモーツアルトの泉がある都市がドレスデンです。この2つの都市は姉妹都市ともなっています。今回はドレスデン・エルベ渓谷として世界遺産に登録され、ザルツブルグと同様に、音楽の都としての顔も持つドイツのドレスデンを紹介します。

ドレスデン・エルベ渓谷としての世界遺産登録は2009年の会議で抹消され、再登録の可能性はありますが現在は世界遺産ではありません。抹消された理由は、交通渋滞の緩和のために計画された架橋が景観を害し、再三の建設中止の勧告にもよらず建設が強行されているためです。世界遺産リストからの抹消は2例目で、文化遺産としては初の抹消という不名誉な例となっています。同じドイツのケルンで、周辺の高層建築計画のために危機遺産に登録されたケルン大聖堂が、市の建築規制によって危機遺産から脱却したのとは対照的です。従って、今回は「世界遺産」のカテゴリーでの記事ですが、厳密には「世界の町並み」のカテゴリーに入れるべきかもしれません。

 ドレスデンは、ドイツの東端、少し東南に行くとチェコ国境という位置にあり、かつては東ドイツに属していました。第二次大戦で連合国側から集中爆撃を受けて、市街地の大部分は瓦礫の山になり、現在の建物群の大部分は戦後に復興されたものです。これらの建物群の中で、センパー・オーパーは、19世紀に建てられ、約30年後に火災に遭いましたが10年ほどで再建された州立の歌劇場です。しかしながら、この建物も連合軍の爆撃で瓦礫の山となり、再建されたのは戦後40年もたった1985年のことでした。ワグナーのタンホイザーやシュトラウスのサロメなど数多くのオペラの初演が行われた由緒正しき歌劇場なのです。この歌劇場専属のドレスデン・シュターツカペレは、東ドイツの政権下の時代にも西側の著名な指揮者が指揮台に立ち、数多くの録音がなされてレコードなどで西側にも知られたオーケストラで、東ドイツ時代を含め2度の来日をしています。

 
 ドレスデンの市街は中央部を流れるエルベ川で旧市街と新市街とに分断されており、このために交通渋滞緩和の橋が必要になったのでしょうが、このエルベ川が町の表情を多様化しているようにも思います。新市街といっても、町の歴史は旧市街よりも古いようで、15世紀の大火の後に、旧市街地区より早くに立ち上がったためその後に新市街と呼ばれるようになったようです。歴史的な建物群はセンパー・オーパーも含めて左岸の旧市街に集中していますが、町並みを歩いていると、これらの建物が復元されたものとは思えない重厚さを持っています。

 
カソリック旧宮廷教会の塔に上るとセンパー・オーパーをはじめオレンジ色の屋根が続く町並みを上から眺めると、瓦礫の山であった町並みは想像もつきません。

 
 このオレンジ色の町並みの中に白く丸いドームが目立つのが聖母教会です。この教会も第二次大戦で完全に焼損してしまい、市民は後の再建のために崩れ落ちた石を拾い集めて、番号を打って保存したのだそうです。再建は遅々として進まなかったのですが、ドイツ再統一後に加速し、破壊が起こった60年もたった2005年にようやくもとの姿に戻ったのです。立面図が十字架のような形の教会が多い中で、聖母教会はドームの作る空間を取り囲む方形をしています。ベルリンのジャンダルメン・マルクトにある2つの教会も同じような形をしているのは、このあたりの共通性でしょうか。
 さきのカソリック旧宮廷教会から聖母教会に向かう途中には「君主たちの行列」と呼ばれる陶板画が100mに渡って外壁にはめ込まれています。この陶板はドレスデンから近いマイセンで焼かれたもののようです。

 マイセンといえば、センパー・オーパーの隣にはツヴィンガー宮殿があり、その宮殿の一部が陶器博物館となっています。陶器博物館には、マイセン陶器を中心に、輸出された伊万里焼なども展示されています。
 
ツヴィンガー宮殿は、歴史的な建物の中でも重厚な建物の代表格で、中庭を囲む建物群はかなりの迫力があります。宮殿は陶器博物館に加えて、絵画館、武器館それに数学物理館という博物館として利用されています。絵画館には数多くのイタリアやオランダ絵画コレクションがあり、いくら時間があっても足らない感じがします。

 瓦礫の山から町を復興するのは、石造りの町並みゆえに元の材料を使っての再建が可能なのでしょうが、大変な労力であろうと思います。エジプトのアブシンベルでは、バラバラにする前に石に体系的な番号を付けて管理できたでしょうが、破壊されたものではジグソーパズルを解くような根気が必要であったでしょう。ポーランドのワルシャワでは、過去の写真や図、それに人々の記憶によって建物のひびまで再現したとのことで、怨念まで感じてしまいます。現在ではコンピュータによるCADやCGにより再現される町並みの設計図面や風景までも描くことができてずっと効率的に再生が可能なのでしょう。木と紙の日本の町並みでは元の材料による再現は原理的に不可能です。人間が作るものは、やがて滅びるものとするか、あくまで元の材料・形を死守するか、文化の違いを感じる差異かもしれません。