吉澤兄一のブログ

お江戸のど真ん中、平河町から、市井のトピックスを日記風につづりたいと思います。

ねじれ社会

2007年11月11日 | Weblog
 参議院で野党が過半数になったことで、いまの国会は”ねじれ”国会と言うらしい。衆・参ともに与党が過半数なら、ねじれとは言わない。議案の採決も否決も、衆・参で同じように出来ることが、ねじれでなく”まとも”というなら、二院制などいらない。一院制にして国会議員を半分すれば、少しは歳費の削減になるのではないかと思う。

 ”ねじれ”は、現代社会を表象している。「党は支持しないが、あの人はいい」「あの人の考えはいいが、あの人の所属する政党はイヤ」「言うことは立派だが、ふだんの行いは?」など、ねじれ事例は山ほどある。

 世界的な食料不足や飢餓が国際的な深刻な悩みであることを知りながら、食料農産物を燃料(バイオ・エタノール)化する。祖先や歴史が、開拓し、耕作してきた田畑を山林にしたり原野化する。「お金があれば、何でも買える」という論理を盲信し、農作物づくりを止め、お金になるということで燃料目的のサトウキビを耕作する。サトウキビ耕作が”お金になる”時期は、ほんの僅かでまた耕地しなければならなくなるというのに、これを国策化したりする。

 日本の今年の”米”も同じ事例だ。農民が少し頑張り汗し、豊作になると価格(相場)下落は激しい。耕作した人たちの労賃どころか、施肥や収穫に使った耕運機の油代も出ない。ブラジルや南米、アフリカや東南アジアの農業が、食料農作物づくりを止め燃料農作物作りに向っているが、近い将来バイオ・エタノール農産物の価格が暴落することを国策が警告しない。油売りの工業金融資本家企業だけが、豊かになる姿が見えていないのだ。

 ”ねじれ”が、本来的に社会や人々を強くしたり、幸せにするならば、ねじれ大歓迎だが、ねじれ根性になったり、ねじれた政策や経済社会づくりになるなら、”ねじれ”を正さなければならない。ねじることやねじれが、物(物性)を強くすることを信じたいこのごろだ。
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