吉澤兄一のブログ

お江戸のど真ん中、平河町から、市井のトピックスを日記風につづりたいと思います。

偏在の解消こそ政治の要諦

2009年09月28日 | Weblog
 不平等や不公平はよくない。格差とはニワトリとタマゴの関係だ。なかでも、資産や所得の格差が、教育や生活の不平等や不公平をもたらすとして原因菌扱いされる。政治家の世襲も結局、地盤看板カバンなる資産格差から批判された。職業選択が制約されたり、就学就業が限られたり、出世や収入の格差が、その人の能力や働きの結果というより、生まれや育ちや環境や関係によって決まるのは不公平だし、不平等だ。

 国内にみられる格差も地球規模でみられる格差も、実は見方を変えれば”何かの偏在”なのだ。一般に言われる格差は、資産や所得などの冨の偏在だし、資産や所得の低く貧しいのは貧困の偏在だし、キャリアや育ちという教育の偏在や住まい環境の偏在なども、格差という現象を生む。

 争い(紛争や戦争)が偏在したり、反対に平和や贅沢が偏在したりしている。文化や文明や進歩発展なども偏在している。経済競争や対立などといわれる輸出や輸入も偏在する。稀少金属や地球資源などの埋蔵も偏在しているし、何しろ耕したり暮らしたりする地域面積やその気候や気温すら偏在している。

 すべてにおいて、偏在はバランスを欠く。バランスしていないから、転倒したり壊れたりする。安定していない。このような均衡や安定を求めて、偏在を解消していくことが”政治”なのではないだろうか。偏在がもたらす対立を競争や争いにするのではなく、調整し合意しバランスさせる話し合いをすることが大事なのだ。

 世界規模の偏在の洗い出しと、どのような優先順位でその偏在の解消をしていくかなどは、サミットや国連でのシゴトなのかも知れない。ただいま、国内では国のムダや行政官僚のムダなどの洗い出しに躍起だが、バランスや安定を欠く色々な偏在をこそ洗い出してほしい。そしてこの偏在を是正する作業に着手してほしい。わかりやすく順番を説明してほしい。
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財源って何だ!

2009年09月21日 | Weblog
 財源不確かと言われた民主党のマニフェストが勝った。財源のハッキリしないバラマキと与党自民党に批判された民主党が勝った。できもしない脱・官僚依存や天下り撲滅と批判された民主党が支持された。財源は?と言って攻めた与党自民党が大敗して野党になった。

 政権交代が支持されたのでマニフェストのコンテンツが支持されたのではないと言われたりしている。お金がなくて何かができるわけがない、お金がなければ何もできないということをよく知っている国民の審判だ。財源問題で攻めた保守自民党が負けたのだ。財源って何だということを政府霞ヶ関の方々や政権にあった政治家の方々より国民の方がよく認識していたようだ。

 財源財源というが、財源とはいったい何なのだろうか。”使えるお金”なのか"使ってもいいお金”なのか、それとも”手持ちの現金”なのだろうか。借金してモノを買ったり、ローンや約束手形で後日の支払いで買ったりすることも知っている普通の人々でも、将来支払えないほどの買い物はしない。

 9月18日新政権になってはじめての閣議で、鳩山首相は09年度補正予算の見直しを指示した。マニフェストで約束した「こども手当て」など早期に実行する施策に必要な財源7兆円のある程度を捻出したいためだ。まだ執行されていないものも含めると2~3兆円はありそうだと言うから、景気浮揚のため緊急に組んだ補正予算も大分いい加減だったと言えよう。

 09年補正予算14.7 兆円でさえとどのつまりが起債、国が借金を増やしたのだ。大体この国の財政は、国の一般会計の予算80兆円と毎年の公債発行額80兆円(国と地方計)が同額なのだ。そして、この10倍の800兆円(国600地方200)がいままでの国債残高なのだ。毎年の税収(40兆円)の2倍の一般会計予算(80兆円)を組み、そこから約20兆円の国債費を払ったり、約15兆円ほどの地方財政支払いをしているのだから、したいこともできない枠組みなのだ。

 利権や族議員の温床の特別会計が一般会計の5倍強の450兆円あることには大きなオドロキだが、これらのお金を自由にする実施公益法人の見えない繰越基金やいわゆる埋蔵金および予備費などはいったいいかほどあるのか。これらに隠れムダなども含めたところに”財源”があるのかとも思う。財源財源といういままでの与党自民党政権が、よくもここまで国や国民の借金(800兆円は一人当たり600万円)を増やしてくれたものだとあきれる。財源をいうこの人たちが、長いこと財源を考えずに政治してきたのだ。

 財源は、どこにでも、どうにかすれば、いくらでもあるとも言える。必要だと思った施策をやり、必要でなさそうなことはしなでくれればそれでよいのだ。あまり景気(税収)やわたくしたちのフトコロにまで財源視しないでほしい。組み換えやヤリクリでやりあげてほしい。

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容易でない頼れる保守自民党の再生。

2009年09月20日 | Weblog
 緊張の与党民主政権が国務大臣の任命につづいて副大臣と政務官を発表し、鳩山政権の陣容を見せたその日、野党になった自民党につぎの総裁立候補者3人が揃った。谷垣禎一(64歳)さん、西村康稔(46歳)さんと河野太郎(45歳)さんの3人だ。

 抱負などを語った。昨日から今日にかけて、それぞれがテレビなどでご自分のお考えを述べていた。公開討論会(9/19記者クラブ)でのお3人の意見も聞いた。期待できる安心できる強い保守自民党を再生して欲しい、変わって欲しいという願いにはほど遠い3人の方々の趣旨や抱負であり討論であった。つぎの機会には二大政党の実を上げるべく、ただいまの与党民主党にリベンジし、文字通り新しい日本の政治や国の姿が展望できるようにして欲しいという願いが消えそうなお3人の発言なのだ。

 温厚で多くの党員の支持が得られそうな谷垣さんは、ただ”みんなでやろう”の掛け声だけが先行していた。どのように改革し、どのような仕組みや体制にし、当座をどのように行動することが自民党を強く再生し、国民の支持を高めることになると思っているのかの構想力が感じられなかった。いままでの自民党についての言葉の反省が多かった。

 ただストレート直球勝負と勇んでいる河野太郎さんは、ただいまの内部や上層部への不満や派閥の長(老)への批判が先行し、派閥解消や世代交代をどのような手順ややり方でやっていきたいと思っているのかが伺えなかった。確かに革新のためには、現在のカタチを壊さなければダメでしょうが、それをどのようなやり方で成すのか響いてこなかった。世代交代の次に何をどうして、国民に頼られるようにしていくのか宛先不明であった。オレがという思いが強すぎて、他の若手の方々がついてきたり、支持したりしてくれそうな人間力が感じられなかった。

 西村さんは、当選回数のもっとも少なく、あまり知られていない最大派閥町村派の皆さんや幅広い老壮青年層の支持で出馬されたようだが、バランスや調整で新しい自民党をと言っているようだが、そのような骨のない構想で革新ができますか。今回、小選挙区で苦杯し比例区で復活したような厚顔なご高齢者で、応援してくれている方々の価値基準にまで踏み込めますか。具体的なコンセプト力が弱い感じがした。

 これらの方々をして、これからの保守自民党を構想し、国民が希望する国の展望をし、党の再生と強化を成して欲しいわけだが、何かが足りない。与党民主党をつぎの機会に逆転できそうな感じなど、とても湧かない。こころもとない限りだ。

 来年の参議院議員の選挙には、とても間に合いそうにないので、つぎの総選挙をターゲットにして考えると保守自民党のイメージづくりなどと併行する勝てる党員や候補者をどのようにツモり、育成するのですか。今回30代が5人(民主71人)と少なく対抗民主党に66人も少ないのをどのように回復するのですか。

 30代40代合わせると、166人にもなる民主党に対して自民党はわずか28人。この差の138人をどのようにツモり、どのように育成し、次に勝てるようにするのですか。50代でさえ自民党(42人)は民主党(71人)の半分なのですよ。60代以上はほっておいても(少しぐらい減っても)いいでしょうが、ここいら辺の年代層が寄り集まってくるような自民党をどのようにしてつくるのですか。

 どなたかが、このような現在の自民党をどのように強化し、どのように再生し、どのような戦略で与党民主党にリベンジするのかの構想を、新しい自民党の姿とあわせてアナウンスしてくれることを期待する。小さな政府か中規模の政府か、核密約をどう考えるかなどを言い合っている場合ではないのだ。核心を逸らすなと言いたいが、核心がお分かりになっていない印象がつよい。
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奇数で一休み

2009年09月18日 | Weblog
 民主党が与党になって、鳩山さんが総理大臣になって、野党でガタガタ言っていた方々が大臣になってフォーマルで居並んだ姿をみて、政権が交代し体制が変わったのだなという実感を新たにした。一休みし、政治や国のことなどから離れてみたい。

 実はわたしのシゴトは、マーケティングと言われているのだが、どうもそのシゴトが何かをヒトに説明できない。何でも屋というと広い感じだが、やっていることは狭い。

 何かを考えたり企画したりすることが多いのだが、そういう時自分はよく思考や何かを対にしたり、比較したり、対称にしたりするので、”偶数”が好きなのかなと思ったりするがトレースしてみると反対だ。奇数で考えたり、奇数で扱ったりしていることが多い。

 1-3-5-7という感じの増殖モデルが多い。取り扱い店を開拓したり、お客様を拡げたり、何かを育てたりするときのプランの多くが、1-3-5-7そして10-30-50-70としている。あまり考えていないのだ。

 無意識にやっているこういう思考は自分の特徴かなと思ったが、どうも違うようだ。西洋人は知らないが、多くの日本人に共通しているようだ。オールセブン(777)などはめでたさの典型大当たりだが、ときどき333などという大当たりもある。奇数が3つも並ぶのだから、それはそれはラッキーなのかもしれない。

 セブンX2も大変めでたい日で、年に一回の男女の恋愛成就のお祝いの日「七夕の節供」だ。この手でいくと、1月1日はお正月人日の節供、3月3日はひな祭り上巳の節供、5月5日は端午の節供、7月7日は七夕(これで何故タナバタと読むのかわからない)の節供、9月9日は菊の節供というより陽々の重陽の節供だ。奇数がダブルと、人生の節目や生活の節目になるのだ。

 若いころの自分は、下手なゴルフでよくダブってばかりいたが、もっとしっかりダブっておくべきだったと反省している。トップと交互では、ゴルフにならないのとおりなのだ。奇数思考か奇数遊びかわからなくなって恐縮だが、「1-3-5-7」をお経のように唱えるのもいいかも知れない。
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10月に多い”食べ物”の日

2009年09月13日 | Weblog
 10月12日を豆乳の日にさせていただいて丸2年(日本豆乳協会)だが、非発酵大豆食品の先輩格の豆腐の日が10月2日だったことを知らなかった。豆腐さん(日本豆腐協会)もゴロ合わせ(トーフ)で制定したようだし、豆乳もゴロ合わせ(トーニゅぅ)だが、お味噌(毎月ミソカ)やパン(毎月11日)のように欲張ってはいない。健康イメージの10月(今年の体育の日10/12)の12日にした。

 ことほど左様に記念日の多い10月は、とくに”食べ物”についてのそれが多い。食欲の秋だからか、収穫の秋だからか知らない。10月1日は、コーヒーの日と日本酒の日がダブルブッキングだ。10月4日はイワシの日らしい。ついでに10月10日がマグロの日だったことも知らなかった。

 豆乳の日(10月12日)の翌日の10月13日が”さつまいもの日”であることも最近知った。小江戸といわれる川越(格別おいしいさつま芋の産地)がお江戸から十三里(52km)の地にあることから定めたらしい。さつまいもは、栗(九里)より(四里)うまい(9+4=13)十三里だからということらしい。

 きのこの日(10月15日)と10月17日沖縄そばの日に挟まれた日の10月16日が世界食料デー(FAO)であることも興味心を高める。10月18日冷凍食品の日(マイナス18℃が凍10の基準)、10月20日ワインの日、10月26日きしめんの日などに加えて、毎月のにわとりの日(28日)や肉の日(29日)や10月10日の缶詰の日などもある。

 食べ物やお料理に欠かせないガス記念日も10月31日だ。たまたま多い”食べ物の日”にグルメや健康を考えるのもいいが、40%(エネルギーベース)を割りそうな日本の食料自給率と僅か0.3%しかない日本の世界に占める農地(耕作)面積のことなどを考えるものいい(食育)ような気もする。

 ウォーキングやアウト・ドアなどに加えて、5連休(シルバーウィーク)を前にした9月に10月のことを書いて恐縮だが、ことしは食育に”歩育”も加えてほしいと思う。高齢者も子供も、もっともっと歩いてほしいと思うからだ。

 
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身体検査

2009年09月10日 | Weblog
 45年も前、会社勤めをするようになり、毎年健康診断をしてもらうようになった。働く人間、健康管理が大事だと”健診”が定期化した。まだ、CTやMRIなどもなくレントゲン・チェック程度だったが、結構マジメにつづいた。

 小学校や中学のときは身体検査と言って、身長や体重や視力などの測定だった。オトナになってから健康診断になったのだが、最近よく”オトナ”の世界で身体検査というようなことが聞かれるようになった。政治家の世界でだ。内閣に入る国務大臣について言われる”専用語”のようでもある。身長や体重の測定のことではない。

 いろいろチェックされる大臣たちや高級官僚などの”身の回り”の調査のことだ。身上書プラス適格性だけでもなく、むしろマイナスや指弾されたりする要素がないことらしい。犯罪や前科のあるなしならわかるのだが、むしろ献金や政治資金やお金などについての”キレイさ”のようであるのだが、最近はもっとプライバシーで政治(家)などに関係のないことが、マスコミ・ネタになる。

 民主党の新人、田中美絵子さんの”むかし”のシゴトなどがミーハーされる。あまりよろしくない(?)映画に出て、ヌードになっているとか、わたしにはどうでもいいように思うことが週刊誌などを賑わす。ヌード映画に出て何が悪い、政治家や国会議員に立候補するのに”むかしのシゴトや職業”や行いに制約があるのか。そんなことを”身体”検査することが、政党や内閣のリスクマネジメントなのかと呆れる。

 自衛隊やある種の公務員などの試験に身体検査が求められることもあろう。船舶や航空機を操作する資格に身体検査が必要なこともわかる。難しい国家公務員上級職の試験をつづけるなら、そのようなヒト向けの身体検査仕様でも作ったら、まだマシのような気がする。一度、自民党や民主党の閣僚推薦の身体検査書の項目を公開してほしい。興味が湧く。
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保守自民党の再生強化を願うためのサジェスチョン!

2009年09月07日 | Weblog
 戦後ずっと政権体制側にあって、この日本をここまで発展させてきた自民党が、壊滅的な総選挙敗退をした。初めて経験した小選挙区制の特徴が、そのまま姿した結果だ。このような2大政党のチェンジがあり得ると政治が選んだ制度が、そのように作動したのだが、大きく惨敗した自民党のリベンジ復活は大変だ。ただ、制度がそうした以上の敗因が大きいからだ。

 政治の”要諦”は何かと問われれば、わたしは一も二もなく”偏在の解消”というか社会の公正をつくることだと思う。公平、平等らしく見える自由や競争がそのままだと、勝ち負けをつくりあらゆる側面での格差というか”偏在”を生むことを知っている。何の政治もしなければ、偏在が争いや戦争をもたらすということも理解できる。

 だから、政治に携わるものが留意しなければならないことは、あらゆる社会現象の偏在なのだ。富の偏在がもたらす格差、平和や争いの偏在、貧困の偏在、文化の偏在や環境の偏在など、”偏在”をなくしたり解消したりすることこそ政治だと、わたしは思っている。だから、政治家は”偏在”に敏感でなければならない。

 今回の総選挙の結果の自民党は、まず自らの当選者議員の世代というか年代の偏りをつよく自省しなければならない。今回の自民党・衆議院議員119人に占める60歳以上の方は49人、41%である(ちなみに、民主党の60歳以上は71人だが、全議員308人の23%)。民主党の倍の高齢化率だ。最も議員働き盛りの40~50代は、自民55%(119人中65人)、民主54%(308人中166人)と変わらないが、28歳も含む30代が大きく違う。

 民主党が71人(308人に対し23%)なのに対し、自民党の30代は僅かに5人、119人に対しても僅かに4%と少ない。この民主との差66人と働き盛りの中年議員の格差101人(166ー65)の議員候補をつぎの総選挙までにツモれるかが自民党再生の最大の課題だ。都合160~170人を確保できるために、この2倍3倍の”支持されそうな”候補者をどうツモり、どう育てるか。保守自民党は、首班指名をどうしようかなどとしているヒマはないのだ。

 すでに高齢者の仲間に入った65歳以上の26人の方には、ときどきのアドバイスでもいただければいいではないか。オモテの舞台に出ることはご遠慮いただくことが”要諦”でもある。自民党の世代的”若返り”を期待する。ますます増える高齢者にやさしい社会を、若い方々の知恵と汗でつくってほしいのです。
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日本とは異なる古代エジプトの八百万の神。

2009年09月06日 | Weblog
 地球の環境問題に直面しているわたくし達に八百万の神信仰は大変チカラ強さを与えてくれそうだ。大和の国は、わたしたち日本民族がずっと昔から信仰している八百万の神。太陽や自然をはじめに自然界のあらゆるモノを”神”として崇め、信仰してきた。

 家の中にあっては火や火の元のかまどや鍬や針など、野外の山や川などに加え岩や古木などおよび田や畑なども”神”として信仰された。太陽も含め自然界のあらゆるモノが信仰の対象になっていた。農耕民族のわれわれこそ、最も自然や地球を大切にしてきた民族なのだと誇りにも思ってきた。

 このところの地球環境問題への対応や現実の温暖化ガス削減や低炭素社会づくりへの取り組みにややオクレを感ずるのは、自然や地球および自然万物をつよく信仰の対象にしたり、”自然なライフスタイル”をこよなく愛する農耕民族の自分たちとのギャップなのかもしれない。

 世の中には”知らないこと”が多いと勉強させられた今日は、2009年9月6日、日曜日。特別予定もなかったので、思いつきで上野は東京都美術館に向った。公開中のトリノ・エジプト(博物館)展をみるためだ。古代エジプトというとツタンカーメンぐらいしか浮かばない自分だったが、家内の誘いに乗った。

 大半のほとんどの展示物が、いわゆる”お墓”の埋葬品や墓碑。多くのステラ墓護符碑や石棺の蓋の王や王妃像の中でいくつかの動物、ハヤブサ、トキ、ジャッカルなどの小像のなかに、古代エジプトの八百万の神信仰を勉強した。古代エジプトの王や人々が、太陽や自然およびその化身としてのこれらの動物を神として信仰していたことを知った。王や自然の化身が”動物”であったところに自分たちとの違いがあったことが、かえって自然観が共有できた気がした。

 特別の目的や用事がなくても、とにかく”出かけてみること”は 結構いいことだと思った。西洋も東洋も八百万の神は”自然”信仰、地球環境の持続性は共有できると確信した。
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ほんの少しの「便利」との決別のすすめ。

2009年09月02日 | Weblog
 アラカン(還暦)をとうに過ぎた私。年金をいただく年齢まで生きて、周りを見て、自分の過ごしてきた人生を振り返り、その経過は反省させられることばかり。専らモノを求め、専ら便利を求め、そう生きることが人並みだと、ただ時代や社会の流れに従って過ごしてきた。

 そして、2009年8月30日。政権交代という四文字以上の転換記念日だ。国の政治や政治のあり方が変わるであろうことにダブって、私やわが家族にも転換が訪れた。35年以上我が家や私の生活の中心にあったクルマを手放したのだ。ひょっとすると、政権交代以上に大きな我が家や私の”チェンジ”だ。生き方や生き様の変化というか価値基準の転換だからだ。

 15年ぐらい前のわたしの”チェンジ”は、タバコとの決別だったが、その変化をはるかに超えた大事件的”転換”が、クルマを持たない生活へのシフトだ。全くクルマを利用しないのではない。タクシーやレンタカーなどの利用は増えるかもしれない。駐車場やクルマの維持にかかる費用(節約)だけが理由ではない。排気ガスやガソリンによる地球温暖化影響を考えてのことなど大義が理由でもない。

 自分のライフスタイルというか、生き方や価値基準のちょっとした転換なのだ。少し、いままでひたすら享受してきた"便利”を削り、不便に暮らすこともいいのではないかと思ったのだ。ただ自然に、不便を不便のまま暮らしてみるのもいいかも知れないと思ったのだ。

 本(「ゲノムが語る生命」集英社新書、ほか)やWebサイト(brh、JT生命誌研究館)におけるわたしの先生、中村桂子さんの生命誌観に少しでも触れてみようとした決断かもしれない。生き物や生きるということの本質を”時間”と教えてくれた先生。その影響か、少しづつ便利を食べる生き方から時間を食べる生き方にチェンジしてみようしたのだ。

 大きくは、地球や太陽や宇宙も生き物でしょうし、人間や動物に限らず、山や川、そこに育つ植物や小さな虫や菌類も日々"何か”を食べて生きている。食物連鎖もあるがとどのつまるところは、それを越えて生きる命は 時間を経過することにあるようだ。自然に、いからず、それなりに、時間をつむぐように暮らそうとした8月30日でした。
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