吉澤兄一のブログ

お江戸のど真ん中、平河町から、市井のトピックスを日記風につづりたいと思います。

会社の品格とゴーイング・コンサーン

2006年04月29日 | Weblog
 藤原正彦さんの「国家の品格」(新潮社)は、何もいまの為政者や官僚向けのメッセージ本でもなさそうだ。周辺国や同盟国を含め多くの他の国から尊敬され、お手本にされるような国になることことは、大変難しいことだと思いますが、そのような国になることが結局、自国の利益や世界の平和に貢献する道だと思います。国や国家というふだんの姿や外交や政治のかたちおよびイメージは、多くのほかの国や人たちのその国についての印象や好嫌および畏敬などをつくります。国を代表する元首や首相のリーダーシップや識見および姿勢や行動などが、その国のイメージをつくることを、為政者の皆さんには強く自覚してほしいと思います。
 バブルに浮かれた企業が、右肩上がり経済や市場にあって、いい加減な銀行の甘言融資を得、過剰な設備投資や自企業のドメインを忘れた不動産やその他の資産を購入し放漫経営をした当時の経営者たちでした。トップから社員に至るまで、接待交際費や会食費を自社の社員同士で”飲み食い”し、社員の福利厚生費や退職金積み立てを優先し、株主還元や社会的役割を忘れ、その結果として「バブル崩壊」という洗礼に当面した企業が、ポートフォリオや財務や経営の構造改革を課題にして21世紀に入りました。
 一人「IT革命だ、IT社会だ」ということで、時代の寵児扱いを受けたインターネットおよびIT関連ビジネスが、”汗する労働よりマウスひとつの仕事”の方を希望する若者を中心とする人々の”群がり”を受け、経済市場も政策面に携わる人も、ただこれを後押しするだけでした。ITベンチャーやインターネット関連ビジネスやこれらの周辺ビジネスの株式上場市場を創設し、ひたすらITバブルを推し進めた結果、ホリエモンに象徴されるIT企業やベンチャー企業のスキャンダルに至ったのでした。
 国家のそれもそうですが、企業や会社こそ”品格”を問われなければならないのに、コンプライアンス(法令遵守)だ、CSR(企業の社会的責任)だと、あたり前のことが出来ていないことの”裏返し”のメッセージが先行する世の中になりました。「商人はつねに身をきれいにして、・・・」という商人の三々九度に戻って自らを直すことを求められている企業ばかりが目立つのが残念です。
 企業再生や経営再建をしなければ”明日”が約束されない企業は、まず自社の経営陣や社員の綱紀やモラルを直し、それから人員削減や財務改革およびその他のリストラにかかってほしいと思います。会社の品格こそ、経営再建のインフラなのだと言ったなら抽象的だとのお叱りを受けるでしょうか。
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ふるさとは、田舎らしい田舎がいい。

2006年04月26日 | Weblog
 最近多くの人々に読まれ、読者に自信とスッキリ感を与えた「国家の品格」(新潮社)の著者・藤原正彦さんは、”数学者や国語を大切にする人”と言うより、道徳や人の生き方や社会のあり方についての「導師」のようだ。彼の母上も素敵な文章を書く作家でしたが、父上の新田次郎さんは、「八甲田山」(八甲田山死の彷徨)や「アラスカ物語」などの山岳小説や人物小説(武田信玄など)で親しまれている作家ですが、わたくしは、自分の故郷が小説化された「ある町の高い煙突」(文春文庫)で、強く彼のファンになった。
 当時、国策的に進められた国富、国づくりに乗った(後の)日立鉱山の煙害問題(農業、環境、生活公害)に対して、知的な若者のエネルギーをその解決運動に捧げた私の母校の先輩(関右馬允/日立市入四間町)を主人公(関根三郎)に、実際を取材し書かれた短い小説です。公害問題なのに、あまり反骨や深刻さを強くせず、山や田んぼや自然を愛する作家のやさしい目や感覚で、若者の恋愛小説風に書かれています。以来、「ふるさと」というと、この小説の想像以上に山深い入四間と山ひとつ隔てた私の故郷の”田舎すぎる田舎”の山や川や棚田の風景をイメージします。
 東京にいて、私が同郷の先輩(西東京市)江幡博さんが主催している佐川はじめさんの「野口雨情を歌い継ぐ会」(小平市)に、できるだけ毎回出席しようとしているのも、田舎イコール抒情(歌)イコール情緒だからだし、いま風の合理的ライフに相対する非合理性や非論理の中核にある「情緒」や二宮尊徳の「仁、義、礼、智、信」(五常講)や藤原正彦さんのいう武士道あたりにこそ、私たちのいまとこれからの”くらしやすい社会や平和な生き方”の根(本)があると思うからです。
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農耕型文化と「美学」が価値基準の日本

2006年04月24日 | Weblog
 藤原正彦著「国家の品格」(新潮社)がベストセラーになっているという。わたくしもその一人だが、彼の日本観には大いなる共感と納得を得、今後の日本や自分の生き方に大きな自信と希望を抱きました。
 もともと、日本は欧米の狩猟型文化とは異なる農耕型文化の国だ。生き方というか思考方法が違う。力や道具で、競ってハンティングし、獲物を食する民族の思考方法は、確率と論理と合理性が基準だ。農耕民族は、否が応でも土地や天候というどうしようもない要因で収穫や生活が影響を受けることを知っている。自然が与えてくれた条件を受容し、自然を神と崇めて生活する生き方や思考が根源にある。
 自由だ、平等だと言って、自由市場原理とそこでの競争を公平と言ってきた欧米のLOHAS(Life-styles of Health and Sustainability)など、「いまさら」の感なのです。自然との共生が基本的な思考ベースの日本人は、地球や自然の環境を大切に考え、美しい自然を尊び、美しく生きる生き方や情緒的な文化を価値基準にしてきた。ロハス的な生き方を最も文化とライフスタイルの基本にした民族だ。
 報徳仕法や推譲の理論や財政改革の父、二宮尊徳の五常講、仁、義、礼、智,信と自然の理(ことわり)を生き方の基本にした。美しい自然と美しい生き方を文化にまでしたのは、日本人の「美学」的な生き方であり、価値基準だといえよう。
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「あるがまま」をみることが出発点

2006年04月22日 | Weblog
 2006年4月20日、21から開催される谷内田孝さんの墨彩画個展「三十三間堂への道」の前夜祭で、三十三間堂の仏像達を拝観する機会をいただきました。個展開催のお祝いを言葉にしたり、毎晩仕事の合間に13年間に亘り描き上げられた労をねぎらう言葉などでは表現できない感激というか感情でした。本当にありがとうございました。
 この蓮華王院三十三間堂の菩薩や観音様を拝顔していると、釈尊師の教えのひとコマに触れた気がしてくるから不思議です。諸法実相や無常(南無)を認め受け入れ、日常の生活や研究にあたることが、自分の務めだということを再認しました。人々や世の中や自然の移り変わりや個々の存在を包容する心や目、および認識を高めて「コト」にあたるということは、わたくしが昨年出版した「超同期社会のマーケティング」(同文舘出版)の基調にもなっている”あるがままをみる”ことの実践であるという思いを強くしました。
 ”みる”は、見ること、観ること、看ることなどいろいろな姿勢を包含していますが、人々や人に”きくこと”(聞く、聴く)およびアンケートやインタビューをすることも含んでいます。しかしながら、何よりも大切なことは、研究や調査の対象を”あるがまま”の姿で観察し、探検し、理解することが、「知」の原点になるということです。昆虫や植物の採集標本のように(収集)対象の死骸を整理、分類したり、解剖したりすることからは、対象の普段の姿(真実)は得られないと言う認識です。対象や自然に対する謙虚な姿勢が求められているとも言えます。
 青葉を食べている虫や花の蜜を吸っている蝶やかれらの飛んだり跳ねたりしている姿そのものが「対象」の真の姿なのですから。屍骸的なデータや調査結果および販売データなどをタテヨコナナメに分析集計して、そして「現場」に足を運ぶこともせず、「わかった」つもりになってのマーケティングなら、マーケティングしない方がいいことを自らに課すべきなのです。
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格差社会ということに一言

2006年04月19日 | Weblog
 ことし3月21日の「よしざわのブログ」で、新富裕層は「BoBos族」?という日誌を書きました。いま、話題騒然の「格差社会」について、あまり踏み込まずにドキュメントして終わりました。
 いま、マスコミを賑わしている「格差」は、収入や所得の格差、生涯賃金や生涯所得の格差、貯蓄(額)の格差や資産の格差などです。実際、限りなく大きな問題になってもいいような知識格差については、あまり触れられていないようです。
 本当は問題ありと思っているにもかかわらず、年代間の賃金格差や働いている人と働いていない人の収入格差などは、あまり問題にされていないようです。いま、働いていない人が、実は多くの場合、働いている人と同じように”働きたい”と思っているのに就業できていないという社会状況こそ、問題にされなければいけないと思います。また、23-4歳で大学を卒業し、同じような教育や技術やスキルを
もっていても、10年ー20年の労働の結果としての賃金、所得、貯蓄や保有資産が、同じたとえば40歳で「大きく違う」のは、なぜだろうか、よいのだろうかという問いなのです。
 ひとより多くの知恵や多くの汗を出した人が、そうでない人より所得や収入が多くなることがイコール平等であり、公平であるという論理は、誰にでも受け入れられやすいような気がします。知恵を高めるために勉強したくても出来ない人や汗して働きたくても出来ない人が、たくさんいるという事実を見なかったのでしょうか、見ようとしなかったのでしょうか。自由市場原理下での競争こそが、経済と豊かで人間らしい生活の拡大を多くの人が享受できるドクトリンだと思い、他の考えを排除してきました。
 典型的な官僚主義ベースの規制と計画(予算主義)社会の日本は、最も社会主義的な国だと思っていましたが、ドイツの壁の崩壊を機に自信と驕りを高めた自由資本主義経済の国家は日本だと言わんばかりに、また「規制だ」「改革だ」と言って、法律づくりに大騒ぎしています。
 一億総中流を目指し「平等で暮らしやすい社会は、これだ」と言って国全体で汗を流していたのが、つい10-20年前のことだったのですから、近頃の変貌には驚くばかりです。「格差がある」とか「格差がない」とか言って議論しても仕方がない現実を直視する勇気をもってほしいと思うこの頃です。
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改革という保守

2006年04月16日 | Weblog
 「自民党をぶっ壊す」と言って小泉政権が誕生して以来、政治は「変革と改革」を旗印にやって来たらしい。行政改革、金融改革、財政改革をかかげたこの間に得たものは、郵政改革と高速道路公団の解体だ。
 庶民の実感は、郵政の何が、どう改革でき、何がどのように効率化し向上したのか、それが、私たちの何をどのようにしたのだろうか、するのだろうかということについての疑問だけです。高速道路もそうです。公団を株式会社にし、管理、維持、運営だけでなく開発や開設というインフラ投資も「民営化」したと言います。株式会社といいつつ、大半の株式を政府が持ち、昔のJRやJALおよび日本たばこにならい結果として、国交省や行政官僚の天下り先を増やす成果をもって、私たちのクルマ生活やふだんの生活および税負担や歳費の効率的な運営などが、「変わった」と言えるのだろうか。何がどのように改善されたのだろうか。見えて来ていないのは、私だけなのだろうか。
 小泉自民党が結果として「保守」なのはいたし方ないとして、その対極軸にあると私たちが思う野党としての小沢民主党、党首とその衣を変え、「改革」だと言っています。与党が改革という名で「保守」を守ろうとするのはわかりますが、決してそうはならないと信じていますが、野党の「改革」が同じようになってしまうのでは、庶民は何を「改革」というのかさえ解らなくなってしまいます。
 どうか「改革」と言う名の保守にならない「これから」を祈るこの頃です。
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スローフードは、ライフスタイル化するか。

2006年04月13日 | Weblog
 クルマ社会になり、高速道路や新幹線網が全国化し、飛行機もジェット機から音速化しというように、スピード社会になった。ふだんの計算や思考なども、コンピューターがどんどんすすみ、IT革命を経て実にスピードアップした。
 日常の生活もそうだ。仕事も生活も、まるで「速さ」だけが、時間価値を生んでいるかのようだ。アメリカのティム・ハモンズ(前FMI会長)ではないが、ついこの間まで、1時間(60分)かけて作っていた夕食(料理)の用意時間は、いま30分平均になっています。その前の前のお母さんは同じ年代のとき、2時間もかけて夕食の用意をしていたのだ。日本もアメリカも同じだ。
 いま30分で夕食の用意をしている40代の主婦のお子さんが40代のお母さんになる頃、彼女たちは15分で用意するようになるだろう。そのつぎの世代にはもう「夕食」を自宅で用意(料理)する人は、いなくなっているのかも知れない。
 21世紀の中ごろの夕食や食事生活はどのようになっているのだろうか。自宅で用意したり、食べたりしないライフスタイルとは、どのようなスタイルになるのだろうか。いまとは、全く違うスタイルであることは確かなようです。「速く、早く、そして簡便に、簡単に、手軽に」と向かっているときに、言われている「スローフード」なるスタイルが、なかなか想像できないのは、私だけだろうか。生活文化(スローライフ)や食育についての議論を、ただ「こうありたい」という祝詞だけにして欲しくないと思うわけです。
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超高層ビルは、知らない!

2006年04月08日 | Weblog
 先日(4月3日)、友人古宇田さんのセッティングで、霞ヶ関ビル35階(東京會舘)の東京湾側に窓するクリスタルルームで、メディアッティの石古茂先生と、夕食をともにした。何年か前に使わせていただいた以外、年に1,2度のランチでしか来たことのない35階だ。すばらしい夜景が、ことのほか食事と会話を楽しくさせてくれました。窓は広角で、右は東京タワーから左は葛西あたりの観覧車まで瞻望できました。
 大変なことに気づきました。本来なら、すばらしい東京ベイの夜景をずっと先の汐留の超高層ビル群が、これを隠してしまっていたのです。このことで汐留の超高層ビルの人たち(経営者や利用者)は、霞ヶ関ビルや東京會舘に、彼らの光景価値を奪ったり、減失させたことの謝罪か事前了解に来られたのだろうか。当事者の霞ヶ関ビルも含め、ほとんどの人々はすぐ裏手や近場に対する建築基準法や環境や風景などについての思いはめぐらします。何キロも離れた地域やお隣の国にまでは思いがめぐらないものです。人はそのように気づかないところで迷惑や他人の価値を減失させたりしているのです。
 グローカルで考えなければならないことは、何も経営やマーケティングなど、自分についてのそれではないのです。自分が思い至る以上に遠くの他人について考えることが「グローカル」コンセプトの大切なところなのです。
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柏崎通信の梶谷さんへ

2006年04月06日 | Weblog
梶谷さん、こうなるともう「閑話」ではないですね。あなたの「ThinkPad」の修理トラベルは、ちょっとしたことではなく、そんな遅い怠けた企業の対応は、企業とあなたの問題を越え、すでに社会的な問題なのです。ずっと長いことですが、このようなトラブル対応を、企業がいまだに「アフターサービス」の体制やシステムなどといっているところに諸悪の根源があります。なにがアフター「サービス」ですかなのです。当然、企業は自社の商品を買い、使ってくれているお客さまにたいし、その一台一個一人一人に対し、その商品がそのユーザーが、使い続けてくれているかぎり、最後までその商品が約束し期待されている性能や機能を、稼動させる責任があります。その商品が破棄処分されて、世の中に迷惑をかけない姿で地球に戻されるまでです。保証期間やわかりずらい約款などでこれを回避したり、無料修理サービス期間などを、クドクド言う会社の将来はないのです。
我が家は、たまたま私と息子がDynaBook ですが、家内は息子が「パフォマンスが」と言って前のダイナブックにかえたお古のメビウスを使っています。上の息子は、デルーバイオと変遷、いまは??です。ブランドロイヤリティなどと言っている企業のマーケティングが、時代遅れのようです。
漱石の角が立つという意地や我、実は事実や真理のことのようです。本当のことや真実を言われると多くの人々やせけんは、「それはそうですが」と言い訳し、「情」を前面に出して調和や共同生活や社会を言います。多数や民主主義のなかに埋没しがちな真実や正義が、「情に棹させば流される」と言ったのでしょうね。まぁ、長くなりますから終わりますが、異端と思われようが何と受け止められようがいいじゃありませんか、自分なりに思い考えたことを周りの人に理解してもらえるよう自分の「思考過程」を開示していくことが大切だとおもいます。謙虚に誠実に、わからなさそうな人にも丁寧に自分の思考過程を開示(お話)し続けることがいい「柏崎通信」にするコツだと、私は思います。
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三匹の小舞台

2006年04月05日 | Weblog
 年に二回ぐらいですが、欠かさず観させて(聞かせて)いただく「三匹の小舞台」。春風亭柳之助さん、三遊亭遊馬さんと神田ひまわりさんの三人の寄席ですが、今回は昨日、国立演芸場です。
 確かに「こぶた」のようなそんな三人でしたのに「こぶた」抜けしたのは、三遊亭遊馬さんだ。丸くふくよかな遊馬さんがスマートに変身して高座にあがったのです。先にでた春風亭柳之助さんの「こぶた」が際立つことったらありません。
 なにをやるにも「体重」は邪魔をします。とくに「正座すること」を仕事にしている落語家さんは太腿が膝の折を邪魔し、少し座っただけでそれはもう”痛い”なんていう以上らしいです。遊馬さん、この間15キロも痩身ダイエットできてよかったですね。まぁ、それにしても遊馬さんの「お話」は、いつも”笑え”ますね。最高です。
 「こぶた」のままの春風亭柳之助さんが「真打」ご昇進だそうです。”おめでたい”話なのですが、三匹のこぶた(小舞台)があやうくなるのではと心配しましたが、大丈夫らしいです。真打になっても柳之助さん、遊馬さんと神田ひまわりさんの「三匹の小舞台」はつづくということです。柳之助さん真打のお披露目講演でしばらくお忙しいでしょうがよろしく頼みます。
 落語や講談は、「面白い」や「笑い」だけでないウィットや癒し以上に、人の生きざまや道徳などを教えてくれ、教育問題や社会問題を考えたり、そのような問題に面しているひとにお勧めできると思います。次回、8/16は、お盆の墓参り帰省でお邪魔できませんので、言い訳がましく、「ひまわりさん」がんばってください。
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