ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

断想:聖霊降臨後第19主日(T21)の福音書

2016-09-23 16:31:42 | 説教
断想:聖霊降臨後第19主日(T21)の福音書
ラザロの警告  ルカ16:19~31

1. 文脈と語句
このテキスト(16:19-31)では「あの世」と「この世」との関係が語られている。この
物語を「譬え」と言うより、教訓を含む伝説と言うべきものであろう。こういう形で「アブラハムの宴席」が出てくるのは福音書でも珍しい。同じアブラハムが登場するにしてもルカ13:28では神の国に入る人のリストとして出てくるぐらいである。なぜ、ルカはこのような伝説をここで述べているのだろう。もちろん、ここで述べられている教訓は非常にルカ的である。
ルカ福音書を読んでいると時々、これはルカの言葉なのかイエスの言葉なのかはっきりしなくなる時がある。それはヨハネ福音書の場合でも同じであるが、それが福音書という文書の性格であるとも言える。本日のラザロの物語もその典型である。

2. 金持ちとラザロの物語
ある金持ちがいた。彼は贅沢な服を着て、毎日贅沢に遊び暮らしていた。ところが、この金持ちの家の前にはいつも貧乏人が座っており、物を乞ういた。聖書では、金持ちの名前は記録していないが、この貧乏人の名前は記録されている。彼の名前は「ラザロ」。ラザロは全身できものでおおわれ、金持ちの家の残飯を貰って飢えをしのいでいた。その上、犬が来て、ラザロのでき物を舐めていた。ある日、かわいそうなラザロは死に、金持ちも同じように死んだ。
舞台はガラリと変わり、「あの世」となる。「あの世」では、立場は逆転し、貧乏人ラザロは民族の祖アブラハムの宴席で、しかもアブラハムの席の近くに座っている。ところが、金持ちは「陰府」で炎に包まれてもだえ苦しんでいる。そこで、金持ちはアブラハムに「ラザロをよこして、指先を水で浸し、わたしの舌を冷やさせてください」と頼む。アブラハムは、両者の間には「大きな淵」があって越えることができないと答える。

3. 誰に語られているのか。
この物語は明らかに当時の宗教的民話であり、特に新約聖書的な特徴は見られない。一体この物語は誰に向かって、何を語ろうとしているのだろうか。
この箇所の直前に、「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った」(16:14)とある。「あざ笑う」という態度は、ただ心の中で馬鹿にするというだけではなく、軽蔑の気持ちを態度に表して、自分自身の賢さや正しさを「みせびらかす」(16:15)行為である。多くに人はそれを見て、「あざ笑われている人」を軽蔑し、「あざ笑う人」を尊敬する。人々はその「あざ笑い」に騙される。しかし、神はそのような目に見える行為によって騙されはしない。むしろそんな連中を「忌み嫌われる」(16:15)。
明らかに金持ちとラザロの物語は、イエスをあざ笑った連中に対して語られている。彼らに対してイエスは難しい理論を展開しないで、民間で語り継がれているいわゆる民話であるラザロの物語を語る。先ず、このように単純な、子ども向けの話をファリサイ派の連中に語るということ自体が、一つのメッセージを示している。「あなたたちにはこの程度の話しでいいだろう」と。
「金に執着する」とはこの世の価値だけに執着していることを意味する。つまり、永遠的なものに何らかの価値を見ようとしない連中である。確かにあなたたちはこの世では贅沢三昧の生活をしているかも知れない。しかし、それがどうだというのだ。あの世では逆転が起こるのだ。その時、どんなに嘆き、わめいても手遅れである。最終的な勝負は生きている間の生き方の問題で決まる。
問題はそれは死後のことであり、死後あるいは世の終わりに実現するであろう「神の国」において価値の逆転があろうが、その根拠は何か。貧乏人がそれを信じ、貧しさに耐えていてもいいが、そんなことは虚しい幻に過ぎないではないか。「金に執着するファリサイ派の人々」のあざ笑いは止まらない。ここまでがこの物語の前半である。これには後半がある。

4. 「モーセと預言者に耳を傾けないのなら」
お金持ちは5人の兄弟がおり、彼らはまだ生きており死後の世界の秘密を知らない。彼らはこの金持ちが生きていたのと全く同じように目の前に居る貧乏人のことを心にも止めず、贅沢三昧な生活を楽しんでいる。そこで、この金持ちはアブラハムにラザロを死後の世界から現世に戻し、5人の兄弟たちに死後の生活のことを知らせ、現在の生き方を改めさせて欲しいと願う。ところがアブラハムはそんなことをしても無駄であると答える。なぜなら、このことについてはすでにモーセと預言者たち、つまり聖書が語っていることであり、聖書の言葉に耳を傾けるならば分かっているはずである。「もし、モーセと預言者に耳を傾けないなら、たとえ死者の中から生き返るものがあっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」。
以上が後半の物語である。語ろうとしているメッセージは明白である。「あの世」つまり死後の世界と「この世」とをつなぐ関係、もっと具体的にいえば、人間は死んだ後どうなるのかというメッセージの根拠が問題である。この物語では、多くの人々が単純に考えるように、死んだ人が「あの世」に行って、「あの世」を経験して、もう一度「この世に」戻ってきてくれたら、「あの世」のことを信じることが出来るという発想である。このような考え、ないしは願望は古代だけではなく、現代人にもある。日本の伝承では青森県の恐山のイタコが有名であるが、全国各地に「口寄せ」とか「霊媒」の伝承はある。現在では多少姿を変えて占い師とというような姿で時々テレビ番組にも登場している。ラザロの物語ではそのことについて、アブラハムの言葉として「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」と宣言されている。むしろ、死後の世界のこと、というより現在の価値観が将来の世界においては逆転するということについては「モーセと預言者」の言葉に耳を傾けよ、と語る。つまり、それは聖書をしっかり読むならば明白である。
このイエスの話はファリサイ派の人々にとっては大変な皮肉であり、挑戦でもある。彼らこそ、実は聖書の専門家として自他共に認められていたのである。ところが聖書の専門家であるはずの彼らが「あの世」での価値の転換を否定し、この世での価値観がそのままあの世でも通じるかのように説教し、金持ちたちを喜ばせている。彼らはそのために聖書を利用している。ここが重要なポイントである。彼らも聖書の専門家として聖書を解釈し、聖書の教えを説く。しかし、貧乏人にいくらいい説教をしても金にならないが、金持ちが喜ぶ説教をすれば金になる。しかしイエスの視点は異なる。イエスは貧乏人の立場に立って聖書を読み、聖書を語る。

5. 金持ちとは誰か
ここで語られている「金持ち」とは単に裕福な人という意味ではない。先週の旧約聖書(アモス8:4-7)では、ここで語られている「金持ち」といわれる人間たちが如何にしてその富を築いてきたかということが語られている。不正な手段によって、弱い立場にいる人々を踏みつけ、誤魔化して富を築いてきた連中である。また、本日の旧約聖書(アモス6:1-7)では、「金持ち」といわれる人間たちの実体が暴露されている。6節の「ヨセフの破滅」とは、イスラエルの危機ということである。国家の危機、民族の危機、世界の危機に心を痛めること無く、自己の利益のみを追求することが批判されている。これが預言者アモスの言葉である。何か昔のこととは思えない。平和を求め、戦争を嘆く現実の中で、戦争によって儲けている人間たちがいる。彼らは口で平和を語りつつ、戦争を企み、自分たちの利益を求めている。このことを語り出すと現在のことと直接に結びつき、社会のあらゆる局面での出来事を批判しなければならなくなるので、後は省略する。
聖書をていねいに読むならば、この世の価値観がそのまま神の価値観と一致するものとは到底思えない。「あの世」という神話的な世界を作り上げ、価値の転換を願うまでもなく、もう既にこの世において、神の目から見るならば価値の転換は明白に見える。実は、そのことを語っているのが聖書である。もう一度言おう。聖書をていねいに読むならば、現在、この世界において、金に執着している人たちの目には見えないが、贅沢三昧に生活している人々の惨めな姿が見えるではないか。イエスと共に貧しい者として生きる者の目には、今既にアブラハムの祝宴に与っている幸せが見えるではないか。このラザロの物語を遠い将来の出来事として読んではならない。まさに「今、ここで」の出来事である。

最新の画像もっと見る