ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

断想:顕現後第7主日(2019.2.24)

2019-02-23 17:47:42 | 説教
断想:顕現後第7主日(2019.2.24)

イエスはレビを選んだ ルカ6:27~38

<テキスト>
27 その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われた。
28 彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。
29 そして、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた。
30 ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」
31 イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。
32 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」
33 人々はイエスに言った。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。」
34 そこで、イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。
35 しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。」
36 そして、イエスはたとえを話された。「だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう。
37 また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。
38 新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。

<以上>

1.イエスの弟子選択の基準
12人の弟子の中でも、元税務所員レビが弟子入りしたことを述べているのはのはマルコ(2:14~15)とルカだけである。彼がどういう人物だったのかあまり知られていない。当時の人々の価値観か見ると徴税人は罪人と同類の人々と思われていわば賤しい人々と考えられていたようである。ただ、彼のユニークさは彼がイエスの弟子になる前、人びとから嫌われる取税人であったということである。彼がそのとき税金を集めるという職業についてどう考えていたのか、その彼がイエスから呼びかけられて、直ちに従ったということにも、何の説明もない。それよりも、イエスの弟子になったとき、何の躊躇もなく、むしろそのことを誇りに思ったらしく、それまでの仲間や友人たちを招いて「祝会」を開いたことであろう。
このことはレビが一般の俗人がたちが考えていたように、そのことを「恥ずかしいこと」とは思っていなかったたことを示していたのであろう。その考えは、イエスにも共通する思いでもあったと思われる。

2.きょうの議論はここから始まる。
ファリサイ派の人々やその派の律法学者たち、当時善人と思われていた人々が、その様子を見ていてイエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」。その疑問に対するイエスの言葉が重要である。イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である」(31)。
この言葉はイエスの生き方を示す言葉として、非常に重要な言葉の一つであると考えられる。少し極端な言い方をすると、イエスはこういう生き方をなさったから十字架に張り付けにされたのだ、とさえ言うことができると思う。もし、こういう生き方をしなければあれほどまで、ユダヤ人の指導者たちから憎まれることもなかったであろう。言い換えると、こういう生き方は社会にとって危険な生き方である。
 
3.状況
いきなり話が頂点に達してしまいましたが、もう少しゆっくりとイエスの言葉について考えてみましょう。ゆっくり考えると、この言葉は何も言っていないと言ってもいいほど「単純で」「当たり前」のことである。医者を必要としているのは病人である、ということである。当たり前のことである。「主イエス生き方は」などと大きな声を出さないでも、医者を必要とするのは病人である、ということは当然のことである。ただ、ここでイエスがこれを語っている場面が問題である。
イエスと弟子たちがレビという名の徴税人の家に招かれた。このレビという男は、イエスの弟子となりマタイと呼ばれた男のようである。つまり、この招待というのは、レビが徴税人をやめて、イエスの弟子になるパーティであったようである。従って、そこにはレビの今までの友人として多くの徴税人が集まり、同時にレビにとっての新しい「仲間」であるイエスとその弟子たちとが集っていたのである。
問題はこの徴税人という職業である。そもそも税金というものはうれしいものではない。現代のように民主的な社会において、税金というものは基本的には私たちの生活に還元されてくるもの、私たちの生活をより豊かにするものであるということが分かっていても、やはり税金というものは私たち庶民にとってはいやなものである。まして、主イエスの時代においては税金を取るのは、外国の支配者であり、それは文字どおり「搾取」であった。それはただ取られっぱなしである。働いても働いてもその利益はローマに持っていかれ、国には少しも残らないのであるから、むしろ税金をごまかし、手元に残す方が国益に合致する、という状況である。国を挙げて脱税する、という状況である。こういう状況の中で、税金を集めるという人間は、もうそれだけで憎まれる値打ちが充分にある。でも、誰かがしなければならない。というより、ローマの方からすれば「誰かにさせなければならない。」そこで、徴税人には特別な待遇が約束された。徴税人になれば「大金持ち」になる。体一つで大金持ちになりたい人間が徴税人になり、その徴税人は国民から軽蔑され、憎まれ、「罪人」と呼ばれる構造が成り立っていた。
だからイエスが徴税人を弟子とし、また多くの徴税人たちと一緒に食事をするということは普段徴税人たちを軽蔑している人たちにとっては我慢のできないことであった。徴税人を友とすることは、国民を敵にすることであった。
 
4.病人とは誰か
さて、ここでのイエスの言葉の意味は明解である。医者とは自分のことであり、病人とは「徴税人や罪人」と呼ばれている人びとである。この言葉を聞いて、人びとはどう思った、あるいはどう感じたのだろうか。ある人は、徴税人や罪人と呼ばれている人びとのことを、イエスが「病人」と位置づけたことで「ほっ」としたかも知れない。彼らを病人と呼ぶことによって、自分たちを健康な人と考える。それこそ彼らにとって、徴税人は「社会の疫病」である。「バイ菌」である。イエスのこの言葉の意味は、そういう意味だろうか。
この言葉を聞いた、レビやその仲間たちはどう考えただろうか。
 
5.現代の医療の大問題
レビやその仲間たちの問題を考える前に、イエスのこの言葉自体が持つ大きな問題を考えておきたい。それは現代の医療の問題である。簡単に触れておく。それは、一口で言うと、本当に医者を必要としている人に「本当の医者」が存在しているのか、ということである。これには二つの問題がある。一つは、現代では医者を必要としているのは病人だけではなく、丈夫な人も医者を必要としている。そのことが、医者への需要を増やし、本当に必要なときに医者がいない、という事態を生み出している。もう一つの問題は、医療が非常に発達し、高度化し、そのために大都市に医療の設備が集中し、僻地や地方都市、さらには貧しい地域での医療が弱体化しているということである。このことは、一口で言うと、「丈夫な人には医者は大勢いるが、病人には医者が少ない。」ということである。
手塚治虫という漫画家がいました。「鉄腕アトム」で有名です。この人は漫画家になる前、医学を勉強し、医者の資格を持っておりました。この人のあまり知られていない作品に「ブラック ジャック」という作品がある。これは医者としての手塚治虫が現代の医療の問題と正面から取り組んだ作品で、12冊160編に及ぶ大作である。この作品の主人公ブラック・ジャックは無資格の医者であるがその手術は天才的で、世界でトップクラスということになっている。この作品の一つの挑戦は現代の健康保険制度にあるようで、ブラックジャックは何千万円という大金を積まないと手術をしてくれないという設定になっている。そのブラックジャックがときには一杯のラーメンで難しい手術をしたりなどもする。
この作品を読んでいて思うことは、この天才的な医者が「本当に自分を必要としている患者とは誰なのか」ということを探求することがテーマになっているように思う。患者が医者を求める、しかも名医を求める、これはあまりにも当たり前すぎて「漫画のテーマ」にはならない。つまり文学にならない。ブラックジャックが文学として成り立っているのは、この作品は主人公である医者が患者を求めることに主題が置かれているからである、と思う。主人公が求めている患者は、本当に心の底で「本物の医者」を求めている患者である。ここで本物の医者という場合、単に医師の免許書を持っているということを意味しないし、患者を物としてしか見れない医者ではあり得ない。本物の医者と本物の患者が出会うときにドラマが生まれるのである。
 
6.イエスの言葉
イエスの言葉に戻ろう。勿論ここでは医者と患者の問題を論じているわけではない。医者と患者に象徴される人間の出会いを論じているのである。自分にとって絶対に必要な人との出会いについて論じているのである。知ってもいいし、知らなくてもいいような、いわばどうでもいいような人との出会いではない。病人にとって医者は、本物の医者はどうでもいいような相手ではない。出会わなくては自分が死んでしまう相手である。イエスのこの言葉を後代に残したのは、イエスとの出会いにおいて、この様な出会いを経験した人たちである。彼らは主イエスとの出会いにおいて、「癒し」を経験した。主イエスと出会うまで自分を病人と思ったこともないかも知れない。しかし、主イエスとの出会いにおいて、「癒し」を経験することによって、それまでの自分を病人であったと自覚した、というような言い方もできるかも知れない。

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