ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

断想:顕現後第6主日(2019.2.17)

2019-02-15 14:59:33 | 説教
断想:顕現後第6主日(2019.2.17)

平野での説教 ルカ6:17~26

<テキスト>
イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、
18 イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。
19 群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。
20 さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。
21 今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。
22 人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。
23 その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
24 しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。
25 今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。
26 すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」

<以上>

1.マタイの「山上の説教(垂訓)」とルカの「平野での説教(垂訓)」
20節以下のイエスの言葉は、マタイのいわゆる「山上の垂訓(説教)」(マタイ5:1~)と非常によく似ている。恐らく、同じ資料から取られたと思われる。ところが、この説教をしておられる場面は全然異なる。マタイでは、イエスは弟子たちと共にわざわざ「山に登られ」ている。ところがルカではわざわざ「(弟子たち)と一緒に山から下りて」(6:17)こられて「平らなところ立って」おらいる。ついでに付け加えると、マタイでは「座って」説教をされているのに対して、ルカでは立って「弟子たちを見上げ」(20節)て話しをされている。「平野」と言い慣らされているが、本音を言うと「平地(「平らなところ」)が相応しい。
ここから、私たちは色々と考えたり、想像したりすることができる。そして、その想像していることによって、ここでの説教の理解の仕方が非常に違ってくる。
先ず、注意深く読むと、ルカにおけるイエスの説教は誰に対してなされているのだろうか。はっきりしている。「イエスは目を上げ弟子たちを見ていわれた」(20節)。この説教は弟子たちに向かって語られている。ところがマタイの方では、群衆全体に向かって語られている。これは非常に重要である。

2.山の上での出来事
となると、この平野での説教とその直前の山の上での出来事とが深く関わっていることは明白である。
その前日、イエスは山に登り一人で徹夜の祈りをしておられる。そして朝になって大勢の弟子たちの中から12人の弟子たちだけを「選んで」、「使徒」と名付けておられる。この場合、「使徒」とは「主イエスの権威を分担する者」という意味である。恐らく、そこで何らかの「儀式」が行われたに違いない。
福音書で「使徒」という言葉が用いられるのはまれである。マタイで1回、マルコで2回、ルカは11回持ちいられている。マタイ、マルコは無造作に使っているがルカは慎重である。その上、「12人」を「使徒」と任命したことを記録している(6:13、マルコ3:14)。12人の使徒たちは、昨日までの「弟子」ではなくなった。その行動はイエスの「代理人」としての「権威と責任」がある。私たちでいうと「主教職」であり、こりが将来使徒職へと継承されたのである。
従って、歴史的には「使徒職」は教会成立後のことであるが、その原型はイエスによるというのが初期の教会の権威付けのためであろう。イエス生存中に、12弟子たちが「使徒」と呼ばれることはなかったであろう。

3.「山から下りて、平らな所にお立ちになった」
文脈から見て、この表現にはかなりの含みがある。先ず第1に、「使徒」としての12弟子の使命の本質を示している。使徒職は人々の上に立つ仕事ではない。人々と同じ地平、むしろ人々より下に立つ者である。また、人々の病気をいやし、悩みを分担する者である。もっと、はっきり言うと「人々から触られる者」である。
イエスは、12使徒たちに身を持って使徒たる者の使命を示した上で、次のことを語られた。従って、これらの言葉はあくまでも「使徒たる者」に対する言葉である。決して主教は人々の上に立つものではなく、同じ地平、あるいは低いところにたち、人々を見上げる、これが主教職の原型であるし、またそうでなければならない。

4.平地での説教(20節以下)
ここは既に知られているように。マタイの山上の説教に似ている。強いて違いを拾い上げると、マタイでは「心の貧しい者」をルカは「心の」を省ら略し、ただ「貧しい者は幸いだ」という。イエスに群がる人々は単に「心の」貧しい者たちだけではなく、生活そのものが貧しい人々であったに違いない。だからこそ、ここでイエスはあえて貧しい者が幸いだという。しかも、これは一般大衆に向かって言っているのではなく、弟子たちに向かって語っているのである。
彼らは貧しかったからこそ、イエスとの出会い、イエスの交わりに加わったのであろう。これが弟子たちの現状であった。彼らは「人々に憎まれ、また人の子のため追い出され、ののしられ、汚名を着せられている」。彼らの苦労はこの世においては、決して報われない。しかしイエスは彼らを「幸い」と呼ぶ。彼らにとってイエスから「幸いな者」と呼ばれることだけが、「幸せ」である。もし、彼らがイエス以外の者から「誉められたり」、「尊敬されたり」したら、むしろ警戒しなければならない。これが、「使徒職」の原点であり、主教職の出発点である。使徒職からこの点が失われるとき、使徒職としての「力」が失われ、一つの職業になってしまう。

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