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C.S.ルイス『悪魔の手紙』解説 1/4(第1信〜第10信)

2016-09-29 16:04:25 | 雑文
C.S.ルイス『悪魔の手紙』解説1(第1信〜第10信)

C.S.ルイス著・森安 綾・蜂谷昭雄訳『悪魔の手紙』(新教出版社)
原書名:The Screwtape Letters

本書は悪魔の国の大臣クラスの叔父、スクルーテイプから、悪魔養成所を出たての新米悪魔である甥、ワームウッドに送られた31通の手紙である。叔父は甥に、いかにしてキリスト者を誑(たぶら)かして悪魔の国に連れ込むかを、時には優しく、時には厳しく指南している。それに対して甥は叔父の優しい手引きによって成長していくが、時には反抗的になったり、批判的な言葉を発するらしい。内容はかなり微に入り細に入り、人間という動物の性格や弱点を指摘する。手紙全体を読むと一人の悪魔に担当する「患者」があてがわれているらしい。ここでいう「患者」とはキリスト者、あるいはキリスト教入信希望者のようである。「患者」という言い方には多少違和感があるが、現在でいうと「クライエント」と言った方がピッタリくるかも知れない。
読みながら、あまりにも叙述がリアルなので、時々、これは悪魔側から見た「伝道」なのであるということを確認しないと頭の中でこんがらかってしまう。この手紙に現れる「敵」とはキリスト教信仰における神であり、神の御子の受肉ということも出てくる。悪魔の国には「地獄にいるわれらの父」と呼ばれる魔王がいる。
要するに、これは神の国と悪魔の国との戦争なのである。
その辺りのことを明白に述べているのが第8信、第9信である。先ずこの部分をしっかり頭の中に収めておかないと、読み間違う恐れがある。

第8信

ここでは新米の悪魔(甥)が担当しているクライエントの信仰が、入信初期の高揚した状態が冷えてきたことを喜んでいるのを老獪な悪魔(叔父)がたしなめる場面である。


お前は悪魔養成所で人間の波動法則ということについて習わなかったのかな。実は人間は半霊半獣の両棲動物なんだ。人間は、霊として永遠の世界で生きながら、同時に獣としては時間の中に住んでいるんだ。霊としての人間は永遠の対象に向かうが、その肉体、情念、想像などは時間に支配されているので絶えず変化している。時間の中に居るということは変化を意味するんだよ。人間は谷底に落ち込んだら、すぐに上に戻ろうとする力が働くものだ。自分の仕事ヘの興味とか、友情とか、性欲などは、この世で生存している限り、上昇したり、下降したりするものなのだ。感情と肉体が豊かに活気に浸れている期間と、無感動で無気力な期間とが繰り返すこと、それをわれわれは精神の波動運動と呼んでいるんだ。要するに、人間は落ち込んだり、張り切ったり、上下運動を繰り返すということが不変なんだ。お前が担当しているクライエントを注意深く観察しておればすぐにこの波動の法則に気づいた筈だと思うよ。敵(=神)がこんな胸くその悪い動物を造ろうと決心したことが、われらの父が神への不信感を懐いた理由の一つなんだ。お前のクライエントが今経験している無感動と無気力の状態を、お前はおめでたくも自分の手腕と考えているようだが、そうではないんだ。それは単に一つの自然現象なので、われわれはそれを活用しなければ何の役にも立たないことなんだ。
人間の精神の波動運動をいかに利用するか、その方法を教えておこう。
まず最初にしなければならないことは、敵がそれをどうしようとしているかを探り、その上でその反対に出なければならない。さて敵は一つの魂を確実に自分のものとしようとする時、快調なときよりも、落ち込んでいるときに、働きかけるのだ。
<註:ここでいう「敵」とはキリスト教の神である。これに続く部分が非常に重要である。神と悪魔との戦いの全貌が語られる。>

先ず始めにはっきりしておかなければならないことは、われわれにとって人間どもは、われわれの食い物だということなのだ。食い物という意味は、人間の意志をわれわれの意志の中に吸収し、人間を犠牲にすることによってわれわれ自身の存在の幅を広げることである。ところが、敵が人間に求める従順は全く違う。人間に対する敵の愛についての物語や、彼に仕えることこそ完全な自由であるというような話は皆、単なる宜伝ではなくて、われわれがぞっとするような本当のことで、われわれはこの事実に直面しなければならないのだ。
以上を総括すると、われわれが欲しいものは、最後には食い物となりうる家畜であるが、敵が欲しいものは、最後には子となりうる下僕なのだ。われわれは吸収したいが、敵は与えたいと願っている。われわれは空っぽであるから満たされたいと思っているが、敵は満ち足りているから溢れ出てくるのだ。要するに、われわれの戦争の目的は、地獄のわれらの父が他者を全部彼自身の中に引きいれてしまう世界を得ることであるが、敵が望むのは、敵と交わりの世界を保ちつつ、しかもその独自性を保つことなのだ。
この戦いにおいて、われわれが有利であるのは、ターゲットが落ち込んでいるときだというのは、ここである。敵は、人間の魂に自分の存在を知らせないのだ。知らせようと思えば、いつでも、どんな方法でも知らせることが出来るのに、それをしない。何故なのか。実はここに敵側の弱点があるのだ。敵は自分の存在を、絶対的に証明したり、反論の余地がないほど明らかにしたりすることは、敵の戦争目的から見て利用できないのだ。このことがわれわれにとっての二つの武器である。敵は人間の意志を踏みつけにしたら、元も子もなくなる。敵には暴力を用いることが出来ない。敵が出来ることは、ただ求愛するだけなのだ。

第9信

第9信は第8信に続き、人間における精神の波動性の問題が取り上げられる。
さて、第8信で、悪魔たちの「地獄の父」、キリスト者の「天の父」、叔父のスクルーテイプ、甥のワームウッド、ワームウッドが担当しているクライエント、との基本的関係が明らかにされ、悪魔と神との闘いというドラマが構造が明らかにされた。第9信は、患者が落ち込んでいるところから始まる。


人間を堕落させるチャンスは落ち込んでいるとき、つまり精神の波動の谷間である。全てのことが絶好調のときに、酒を勧めても友だちと陽気に騒いで良い気分になって明日の活力になるが、落ち込んでいるの時の酒は、飲んでも飲んでも気が晴れず、深酒になる。そのうち、アル中になったら、もう俺たちのものだ。 われわれが人間に「何か楽しいこと」を勧めるのも、落ち込んでいるときがチャンスである。
<註:ここで「快楽」と訳されている言葉は「pleasure 」で、その意味は「楽しいこと」である。これを「快楽」と訳すと、その後の説明が混乱する。日本語で「快楽」というと「欲望が満たされること」を意味し、欲望が先行して、マイナスのイメージになる。>

われわれは人間どもに「楽しいこと」を勧めて、多くの成果を上げたことは事実である。しかし、人間どもに「楽しいこと」を勧める場合には、常に一つの危険が伴うことを夢忘れてはならない。 そもそもすべての「楽しいこと」は敵(=神)の発明であって、われわれ悪魔が発明したものではない。神がすべての楽しいことを造った。われわれ悪魔の世界でもいろいろ探究をつくしてみたが現在までのところ、一つも成功していない。だから、われわれにできることは、敵が造りだした楽しいことを、敵が禁じた時に、禁じた仕方で、禁じた程度まで、人間どもにやらせることである。だから、われわれは常々自然状態の楽しみから離れて、なるベく自然に背き、なるべくその造り主を思いださせず、できるだけ楽しみを苦しみへ誘導することだ。楽しみというものは、だんだん減っていくものだから、われわれとしては出来るだけ楽しさを引っ張り、もっと楽しく、もっと上手くというように欲望を増大させなければならない。そうすればそのうち奴はわれわれの手に落ちてくる。これがわれわれの父、魔王を本当に喜ばせることである。奴が落ち込んでいるときこそ、そのチャンスである。
さらによい谷間の利用方法がある。それは奴の谷間理解に乗ずることだ。その第1段階は奴に波動の法則を知らせないこと、つまり現在の「落ち込んでいる」状態が永久に続くものだと思わせなさい。第2の段階では奴の性格にもよるが、奴を信仰歴の長いキリスト者から遠ざけておくこと、それと同時に奴の関心を聖書の適当な章句に向け、自分自身の力で昔の燃えた感情を回復しようとさせればよい。そうすれば勝負はわれわれのものである。あるいは、奴に今の低調な精神状態こそが正常なのだと思わせる。そうすれば1~2週間のうちに、キリスト者になった最初の頃は多分少し極端すぎたのだと考えるようになる。その時に、誰かを使って「万事に節度」があると話させたら、上出来である。そのうちに、宗教は大切だが、あまり深入りしない方がよい、という思いが奴の心の中に出てくれば、しめたものだ。手加減した信心は不信心と同じくらい結構なものである。 要するに「本当のことと嘘」との明白な対立から奴の心をそらせるんだ。「それは一段階だった」、「皆はそれを通り抜けて来た」という言い方は便利だな。全ては「思春期の思い出」なんだ。
<註:どうです、読者諸君も思い出しませんか。悪魔の誘惑のうまさ、見事ですね。>



第1信

以上で、この神と悪魔との戦いの概要が明白になったので、第1信に戻る。老獪な悪魔は新米の悪魔にキリスト者を落とす初歩中の初歩の問題点を取り上げて語る。どうやら、新米の悪魔は、クライエントに対して唯物思想を吹き込もうと策略を練り、その種の書物を読ませたり、唯物論者と友だちになるように誘導したらしい。それが上手くいっていることを報告した所から始まる。


お前はいささか幼稚に過ぎはしないかい。まるで理屈でこそ奴を敵の魔手から奪取できると考えているようだね。そんな手が通じたのは2~3世紀前の人間だよ。その頃の人間なら、理屈さえ通ればそれを本当に信じたもんだ。現代人の頭の中には雑多な理屈や哲学が渦を巻いており、理屈で自分の考えを変えやしないよ。奴らはそれが真理であるか虚偽であるかなど問題にしないで、それが学術的な意見なのか実践的な教えなのか、歴史的か、現代的か、平凡か、奇抜かということで価値を判断するんだ。
いいかい、奴らはわれわれのように100%霊的存在ではないことを忘れないように。あんたは一度も人間になったことがないから、奴らが日常茶飯事のプレッシャーにどれ程弱いのか分からんだろうな。こん畜生、敵は人間にもなりやがったんだ。
<註:キリストの受肉のことを指している。>

要するに、人間どもは高邁な哲学よりも食べたり、飲んだり、寝たりする日常生活に支配されているのだ。
一つ面白い話をしてやろう。
昔、俺に一人のクライエントがいた。したたかな無神論者で、よく大英博物館で読書をしていた。ある日、奴が本を読んでいて、頭の中で、危ないことを考え始めているのに気付いたんだ。むろん、敵(=神)も側にいて気付いたと思うよ。あれよあれよと思う間に20年にわたる俺の仕事がぐらつき始めたんだ。もしその時、俺が慌てふためいて、理屈で防戦していたら、俺はしてやられていたと思うよ。だが俺はそんな馬鹿じゃない。すぐさま俺の一番得意の手を使って奴の弱いところを攻めたんだ。「昼飯の時間だね」と言ってやったんだ。敵も多分、「この問題は昼食よりも重大だ」というような反対意見をしたようだった。あんたも知っていように、われわれは敵が人間どもに話しかける言葉を「完全」に立ち聞きは出来ないんだ。でも、少なくともそれが敵の常套手段なんだ。それで俺は奴に「全くその通りだ。昼飯前に取り組むにはちょっと問題が大きすぎだろうな」とささやくと、奴はホッとして、俺が「昼飯をすませて戻ってきて、新鮮な気持で取り組む方がいいですよ」と言い足す頃には、奴はすでに戸口まで行きかけていたんだ。一度、街ヘ出ればもうしめたものだ。俺は奴に新聞売りの少年の声や、73番バスが通過するのを見せてやった。本を読みながら独り閉じこもって頭の中でどんな変な考えしていても、「実生活」の健康な一服を飲めば、「ああいうこと」は皆、決して本当であるはずがないと思い始めたのだ。そこで俺はすかさず、「実生活」こそが真理なんだという不変の確信を彼の心に植えつけることに成功したんだ。 奴は危いところを助かったことを知り、後年、観念論の間違いからわれわれを究極的に護ってくれるあの言葉にならぬ現実感覚について、好んで語っていたよ。奴は今は無事にわれわれの父なる館にいる。
<註:おそらくこの人物こそカール・マルクスのことを指しているのだと思われる。そして上部構造(形而上学)に属する哲学は、現実生活である下部構造によって規定されているという理屈を確立した。>


第2信

新米の悪魔が担当しているクライエントがキリスト者になってしまったのである。老獪な悪魔はそれを聞いて、怒り狂っている。当然本人も、絶望的な気分になっている。そんな状況において老獪な悪魔は若き悪魔にまだ希望は残っているという。今までにも、こういう大人の改宗者が「短期間、敵の陣営に入っていたが帰順した」例は何百人もいる、という。


心配するな。まだ間に合う。奴の精神的、肉体的な習癖は、まだわれわれの手の内にあるのだ。目下のところ、われわれの強力な味方の一つは教会それ自体だ。誤解するなよ。われわれ、つまり悪魔の世界でいう教会とは、「時間と空間の全域にわたって広がり、永遠の中に根をおろし、軍旗をひるがえす軍勢のように恐ろしい」教会であるが、実は人間には、この教会は見えていないんだ。 奴が見ている教会とは、新しい敷地に出来損ないのゴシックまがいの建物にすぎないのだ。奴が教会の中に入って行くと、油ぎった顔をした土地の雑貨商が急いで近寄って来て、よく分からない式文が書いてあるピカピカした小さな本と、大変小さな活字で、下手くそな宗教詩のようなものが書かれた小さな本とを渡してくれるのだろう。
<註:多分祈祷書と聖書であろう。>

自分の席について、あたりを見回すと、よりによって今まで付き合いたくないと思っている近所の連中がいる。だが、顔見知りがいることで少しは落ち着くだろう。もちろん、隣りの席にどんな種類の人たちが座っていようと、気にしないように。あんたはその中の一人が敵側の偉大な戦士だということを知っているかもしれないが、それも気にしないでいい。幸いなことに、奴は馬鹿なのだ。誰かが調子はずれの声で歌うとか、キューキュー鳴る靴をはいているとか、二重顎をしてた男がいるとか、奇妙な着物を着ているとか、だから宗教は滑稽なので、気楽に仲間入りできるのだ。キリスト者に成り立ての信徒にはその奇妙さが一種の魅力となる。奴が入信する前に心に描いていたキリスト者像と現実に見ているキリスト者のギャップに気が付かない。そこでお前のなすべきことは奴をそのギャップの状態に留まるように誘導しなさい。
そのうち、奴は教会で親切を装っている人たちについて、例えば、途方もない帽子をかぶっている女性がブリツジの熱狂者であるとか、キューキュー鳴る靴をはいている男性が守銭奴でけち臭い経営者であるとかいうことに気付いてくる。そうなれば、お前の仕事はそれだけ楽になる。その段階で、お前がしなければならない仕事は、ただ奴の心に次ぎの疑問を近づけないことである。ここが重要なポイントである。その疑問とは、「俺はこんな人間だが、ともかくキリスト者になった。だとすると隣席に座っている連中が、それぞれとんでもない悪習慣を持っているからといってキリスト者ではないとは言えないのではないか」。こういう考えをもたせないように誘導する必要がある。
奴はキリスト者になってまだ日が浅いので本当の意味での謙虚さを知らない。そこで、奴が自分の罪深さを懺悔するときでも、ひざまずいて祈っている時でも、みんなオウムの口真似にすぎない。心の底ではやはり、改宗してやったのだから、俺は義人になったのだ、と思っている。いやしくも、こんないいかげんな連中と一緒に礼拝に参加しているのだから、俺は大した謙遜と譲歩を示しているのだと考えるようになる。できるだけ長く、こういう精神状態に奴をとどめておきなさい。

第3信

ここでは家庭問題が取り上げられている。クライエントの家庭は老いた母親と息子だけの、いわば全ての枝葉を取り除いた単純そのものの家庭である。どうやら母親と息子との折り合いがうまくいっていないらしい。老獪な悪魔はその点を攻撃せよと言う。


奴と母親との折合が悪いというお前の報告、なかなかいいじゃないか。お前は、この有利な状況をただ押し進めればいい。そこで注意すべき点は、敵の動きで、敵は中心から外に向かって働きかけるのだ。つまり、奴の心の内面を変化させ、それが徐々に行動に移り、奴と母親との関係が改善されるように働きかけるのだ。だから、お前は敵が手を付ける前に、先回りして奴を攻めなければならない。母親を担当しているわれわれの同僚グルーポーズと連絡を密にして、お前たちの間で、あの家庭に、母親と息子が互いにいやがらせをしあい、口争いが毎日の習慣になるように仕向けるといい。そのためには次に挙げる方法が役に立つだろう。
先ず第1に、奴の心を常に内的生活に向けさせておくこと。奴は今、回心とは何か自分の「内面」のことと考えているであろう。その考えをできるだけ長引かせなさい。そうしたら奴は、俺は高級なことで悩んでいるんだと思い、人間としての当たり前のことから遠ざかる。そうしておけば、誰でも気付くような奴の欠点が、奴自身には見えなくなるものなんだ。
次ぎに、奴が母親のために祈る場合でも、その祈りが常に霊的であるようにしておけ。いつも母親の魂の状態を心配し、リューマチのことなんかには気にせんようにさせておけ。そこから都合のよいことが二つ出て来る。先ず第一に、奴は母親の罪について心配する。お前がちょっと指導さえすれば、奴はたやすく、自分にとって不便だったり、癪にさわったりする母親の行為を何でも彼女の罪と考えるようになるだろう。こうすることによって奴の祈りがリアルな母親ではなく「架空の誰かのための祈り」になるのだ。やがて両者の間の亀裂がますます大きくなり、架空の母親のための祈りや感情がそこにいるホンモノの母親に向かうようになる。俺はそうやって俺のクライエントを手懐けていったので、ちょっと俺が指図をすれば、妻や息子たちの「魂」のための熱烈な祈る奴が、何の良心の痛みもなしに、本当の妻や息子に暴力を振るうようになったこともある。要するに熱心な祈りが、家庭内暴力へと変身したんだ。
第三に、二人の人間が長年いっしょに慕らしていると、たいていお互いの声の調子や顔の表情に、相手には到底我慢のできないほど癪にさわるものが出て来るものなんだ。そこを狙い撃ちだ。よちよち歩きの頃から嫌いだった母親の、眉毛のあの特別な挙げ方を、奴の意識にはっきり焼きつけ、それが嫌で嫌でたまらんと思わせろ。「僕がそれをどれ程嫌がっているかを知っているくせに、母親はいやがらせのためにそうするのだ」と邪推させなさい。そして、もちろん奴の方にも同じように母親の気にさわる声の調子や顔つきがあるということを、感づかせないように。奴は自分の声音を聞くことも、自分の顔を見ることもできないのだから、これは至極簡単である。
最後に、家庭内のいざこざなんて犬も食わないものだが、奴には、自分の発言いっさいは額面通りだと思わせ、相手には言葉通りに素直に受け止めよと要求しておきながら、同時に一方では母親の発言いっさいを、その声音、内容、およびこちらからそうではなかろうかと邪推した通りだと思わせる。母親の方にも同じように思わせる。そうしておけば、喧嘩するたびに、お互いに自分には全く落ち度はないと確信するようになる。俺はただ「夕飯は何時になるのか」、と聞いただけだのに、彼女は癇癪を起こすんだ、と奴は思う。一度こういう習慣がしっかりとつけば、人間ははっきりいやがらせの目的でものを言っておきながら、相手が怒れば怒ったで不平をならベるという愉快な状態が見られるのだ。

第4信

第3信を受け取った若い悪魔は、母親のための祈りについて、老獪な悪魔の指導に不満をいってきたらしい。それで老獪な悪魔は烈火のごとくに怒る。


お前が先便で実に素人くさい申し出を読んで、ちょっと厳しいけど、祈りについてはっきりと言っておかなければならないと思う。母親のための祈りについての俺の忠告を「ちょっとおかしい」と反論してきたよね。
こんな言葉は甥が叔父に向かって言うベき言葉ではないし、まして下級悪魔のお前が一省の次官である俺に向かって言うベきことでもない。これはまた責任を転嫁しようとする不愉快な気持ちの表われだと思う。お前は自分の失策を自分で償うことを学ばねばならないと思うよ。
ここで、一番いいことは、できれば奴に真面目に祈ろうとする気持をさせてはいけないことである。そうするには、あんたが担当している奴のように最近敵方に再改宗した大人であれば、幼年時代のオウムの口真似式祈祷を思い出させるか、あるいはそれを自分で覚えていると思わせればうまくゆくのだ。その反動として、何か全く自発的、内面的で、形式張らず、規則に縛られないものを目指していると信じこませることができるであろう。
<註:以下悪魔がキリスト者の祈りについてどう考えているのかが論じられるが、省略する。>


第5信

ちょうど、そのころ第2次世界大戦が始まる。1939年9月のドイツ軍によるポーランド侵攻と続くソ連軍による侵攻、そして英仏からドイツへの宣戦布告がなされ全ヨーロッパを巻き込む戦争となった。


お前の仕事について細かい報告を期待していたのに、先便のようなまとまりのない狂想曲を聞こうとはちょっとがっかりしたよ。お前はヨーロッパの人間どもがまた戦争を始めたことを、手放しで喜んでいるようだが、いったいお前は何を喜んでいるんだい。酒を飲み過ぎて酔っ払っているんじゃないかい。奴が夜も眠れないで苦しんでいる姿を見て、何を考えているんだい。人間が悩み苦しんでいる姿を初めて見たので、お前自身が少々混乱しているじゃないかね。しっかりしなさい。今、お前がしくじりをして奴を取り逃がしたら、今の喜びもすっ飛んでしまうんだよ。しかし、うまくやれば奴はお前のものになる。次の手紙で奴の戦争に対する反応を必ず詳しく知らせてくれ。それによって、われわれは奴を極端な愛国者にするか、それとも、熱烈な平和主義者にする方が、われわれにとって有利かを判断できる。それによって、あらゆる可能性が考えられる。しかし一方で戦争なんてものにあまり多くを期待しないように忠告しておく。(以下、省略)

第6信

新米の悪魔からの報告を受け取って、老獪な悪魔はいろいろと指示を与える。


奴の年齢と職業によれば軍務に召集される可能性が、確実とは言わないが、かなり大きいということで俺は喜んでいる。奴は今、最大限度の不安を感じ、自分自身の将来のことを「あれ、これ」考えて、心配しているいるだろう。人間の心を敵に向かわせないためには不安と心配ほどいいものはないのだ。敵は人間が自分の行為に関心を持つことを願ってはいるが、われわれの仕事は人間に自分たちがどうなるだろうかを考えさせておくことである。
<中略>
戦争に関して、キリスト教雑誌やあるいは反キリスト教雑誌などで好んで論じられている、いわゆる「憎悪心」にあまり期待してはいけないよ。もちろん、奴が苦しんでいる時に奴を励ます意味で、ドイツの指導者に向けられた怨念によって復讐するようにさせることもできる。それはその限りでは結構だが、それは普通、仮想の身代りに向けられた一種メロドラマ風な、あるいは神話的な憎悪心にすぎないのだ。実生活で彼は決してこのような人々に出会ったことがないし、その人たちについては新聞で得た知識に基づいて作りだしたモデル人形のようなものである。こんな架空の憎悪はしばしば期待外れの結果に終わる。そしてすべての人間どもの中で英国人はこの点で最も隣れむべき腰抜けである。奴らは敵のドイツ兵たちをどんなに責めさいなんでも飽き足りないと大声で言っておきながら、負傷したドイツ人飛行士が裏口にひょっこり現われようものなら、早速お茶と煙草をふるまうといったような哀れな奴らである。(以下、省略)


第7信

ここでは「悪魔は存在するのか」という、私たちにとっての本質的な問題が、悪魔の側から、「クライエントに悪魔の存在を知らせるべきか、否か」という問題として取り上げられている。
先ずベテランの悪魔はこの問題には深刻なディレンマが秘められているという。


人間どもがわれわれの存在を信じなければ、われわれの攻撃手段の一つである魔法が効かなくなるし、逆に彼らがわれわれの存在を信じるなら、奴らを唯物主義者や懐疑主義者にすることができない。少なくとも現段階ではまだ無理である。われわれはやがて人間どもの科学を大いに情緒化し、神話化する方法を覚え、実質的にはわれわれヘの信仰が忍びこみ、人間どもの心が敵ヘの信仰に対しては閉ざされることを大いに期侍している。そこでおそらく「生命力」とか、「性の崇拝」とか、「精神分析」などが有効かも知れない。ということで、この問題については「最高司令部」から現段階では隠しておくようにとの結論が出されているのだ。
現代人の想像では、悪魔はきわだって喜劇向きの登場人物であるということはお前にとって重宝である。もし奴の心に、お前の存在について少しでも疑念が湧いたら、赤い肉じゅばんを着た者の絵を奴にほのめかし、それが信じられない以上、奴らをまごつかせる昔の教科書的方法だが、お前が信じられるはずがないと思いこませなさい。
<註:ここで示唆されている「赤い肉い襦袢を着た者の絵」は、原文では「a picture of someshing red tights」で「赤色のタイツを身にまとった何者か」でおそらくサンタクロースを意味していると思われる。>

前の手紙で取り上げた、奴を極端な愛国者にすべきか、あるいは極端な平和主義者にすべきがという問題を忘れたわけではないよ。敵(=神)ヘの極端な献身は別として、すベての極端は大いに勧めたらいい。生ぬるさで満足している時代もあるが、その場合は、奴らを気持ちよくさせて、眠らしてしまえばいい。またバランス感覚が鈍り、党派争いに走りがちな時代もある。現代がそうである。そういう時代においては人間どもをたきつけるのがわれわれの任務となる。他の連中が無視するような利害関係で結び合わされた小さな集団では、内部では呆れたような仲間ぼめでむせかえり、外部に向かってはへんてこりんな「大義」が支えとなって、ますます憎悪心が強くなる。このような小集団は元々は「神のため」という信念で始まっても同じ結果になる。それが極端に発展すると、「われわれは教会がマイノリティであることを望む。何故なら、神を知っている者が少数でいいのだ」などと言いだし、秘密結社やセクトを形成し、熱狂的集団となったり、自己防衛のための独善性を身につけたりするようになる。教会そのものは厳重な壁によって守られ、われわれはそこに入り込んでセクトを作ることに成功はしていない。しかし、教会内部にコリントのパウロ党や、アポロ党に始まり、現在の英国教会の高教会派、低教会派に至るまで、さまざまな派閥を形成することは出来た。
もし、あんたの担当しているあの男が、良心的参戦拒否者になったら、ほとんど自動的に、体制批判的な小さな団体に属することになるだろう。奴のような新米のキリスト者にとって、なかなか良いことだ。
<註:もちろんここでの「良いこと」は悪魔にとっての良いことである。>

もちろん、奴が愛国主義者になろうと、あるいは平和主義者になろうと、あんたの任務は変わらない。先ず、その主義を自分の宗教の一部として取り扱うように指導し、次に、その党派精神の影響から、それを自分の宗教の最も重要な一部と考えるように仕向けなさい。そうすれば、徐々に、宗教と主義との関係が逆転し、宗教の方が「主義」の一部となる。そして最後に、キリスト教が尊ばれるのは、その戦争協力、あるいは平和主義に極めて都合のよい根拠を提供するからであるという段階まで奴をつれこみなさい。そうすれば、もう奴はわれわれのものだ。

第10信

前の手紙で、宗教と主義との板挟み、あるいは協調関係について論じた老獪な悪魔は、次ぎにクライエントの価値観の二重性の間で生きることについて論じる。


お前が担当している男にとってうってつけの新しい知人ができたらしいね。奴の事務所を訪れたその中年の夫婦は、金持で、ハイカラで、浅薄なインテリで、世の中のことには何でも才気走って懐疑的な人たちだと思う。奴らは道徳的理由からではなくて、同胞の大多数に関係のあるものには何でもけちをつけるという深くしみこんだ習慣から、また中途半端な文学青年的共産主義から、なんとなく平和主義者なんだと思う。これはすばらしいことだ。そしてあんたは奴の社会的、性的、知的虚栄心をうまく利用したらしい。なかなかやるじゃないか。奴らは親しくなりそうかい。人間どもには、話をしている相手と同じ仲間だということを知らせる一種微妙な顔つきや声音や笑いのサインがあるものだ。それをお前はチョット刺激をしてやればいい。奴らは親しくなるだろう。そのうち奴らを結び付けている「信仰」が必ずしも同じでないことに気付くだろうが、奴はそれに気が付かないように振る舞う。そのうち、奴は彼らの前では、語るベき時に沈黙し、沈黙すべき時に笑う。いわば、それは偽善である。その偽善は初めのうちは態度だけであるが、間もなく言葉に出しはじめ、本当の奴のものとなる。これが二重生活である。場所、場所で違う姿を演出する。これには面白い効果がある。どういうことかというと、奴に奴の生活の両面が矛盾していることを認めさせて、そこに積極的な喜びをいだかせるのだ。それには奴の虚栄心を利用すればよい。日曜日に近所のつまらない連中に、恭しくひざまずく姿を見せ、心の中で、この連中は自分が土曜の晩に過ごした垢ぬけのした、人を小馬鹿にする世界を理解できないだろうということを思い出して喜ぶ。また逆に、これら立派な友人たちとコーヒーを飲みながらの猥談、冒涜談が楽しいのは、自分の心に奴らに分からない「より深い」「霊的な」世界があることを、俺は知っているからなのだ、と奴に教えていやる。どういうことか、分かるかい。要するに、一方では世俗的友人たちと接触し、他方では近所の連中と付き合う。そして奴自身は、その両方の人たちを見まわす、完全な、均衡のとれた、複雑な人間なのだ、と心密かに優越心を楽しむ。このように奴は少なくとも二組の人たちを永久に裏切りながら、はずかしいとも思わず、たえず心の奥で自己満足している。
そうこうしながら、お前は奴にこの新しい生活を維持するために身分不相応な金を使わせ、仕事と母親とをおろそかにさせるようしっかり気をつけてくれたまえ。 彼女の嫉妬、驚き、そして奴の一層つのる言い訳、無作法は家庭内の緊張をますますひどくさせるのに極めて貴重であろう。

次は http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/1085ce07dfffe6d5e2b1e1869683021e

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