本郷は馬の背を歩くような街、
登山でいえば峰々の縦走、真っ直ぐ先はまあ平らだけど
右も左も急坂だらけ。
転がり落ちないように用心しながら。
上野から本郷へ向かいます、ここは湯島。
湯島の切通し坂の途中だけど湯島天神はまだ急な石段の上
ガードレールの勾配がね、あっちは石段こっちは坂道です。
この道をこのまま行くと本郷、もっと行くと”真砂坂”を下って後楽園、
さらに行くと伝通院へ上る富坂、ジェットコースターみたいなアップダウンが続きます。
その真砂町に住んでいたのが「真砂町の先生」、泉鏡花の「婦系図」に出てくる恩師 酒井先生です。
早瀬主税は「真砂町の先生」には内緒で柳橋の芸者お蔦と飯田町に世帯を持っていた、
「真砂町の先生」に「俺を捨てるか、おんなを捨てるか」と迫られる主税。
『別れろ、切れろは、芸者の時に云うものよ、いっそ私には 死ねと云って下さい・・・』
お蔦は主税の将来を思って泣く泣く別れようと、、、。
♪ 湯島通れば想い出す お蔦主税の心意気
知るや白梅玉垣に 残る二人の影法師
東京へ来てすぐはその富坂に住んでいました。
いま歩いているこの道を通って上野へ、その後は昭和通りか中央通りで新橋まで
ほぼ毎日自転車で走り回っていました。
長くなりました、先を急ぎましょう。
本郷三丁目角 かねやす
享保15年(1730)に大火があり、湯島や本郷一帯が燃えたため、
再興に力を注いだ町奉行の大岡越前守は、
ここを境に南側を耐火のために土蔵造りや塗屋にすることを命じた。
一方で北側は従来どおりの板や茅ぶきの造りの町家が並んだため、
「本郷も かねやすまでは江戸の内」といわれた。
本郷通りに入って王子方向へ、左に菊坂。
菊坂の周辺には古い家並みが残り、樋口一葉の旧居跡などがある。
樋口一葉は父の死後母妹と共に明治23年旧菊坂町の貸家に移る。
ここでの一葉は母たき、妹くにと他人の衣服洗濯や針仕事で生計を立てた。
すぐ右側に東大赤門。
加賀藩13代藩主前田斉泰は、11代将軍徳川家斉の娘溶姫(やすひめ)を正室に迎えるに当たり、
慣例にしたがい、朱塗りの門を創建した。正門です。
ちなみにここ加賀前田家の本郷上屋敷は約10万4千坪(東京ドーム7.3個分)、
このあとしばらく東大の前、横、後ろを歩きます。
しば~らく歩いて、東大正門。
赤門は東大の正門と間違えられやすいけど正門はこちらです。
テクテク歩いてやっと東大エリアが終った農学部前、本郷弥生の信号を右折、
言問通りの坂道は弥生坂。
その坂をダラダラ下がった先、右側に弥生式土器発掘ゆかりの地。
ほんのちょっとバックして右折、今度は暗闇坂。
右側は東大、加賀家の広大な屋敷。左側にも武家屋敷が並び
鬱蒼とした樹木で昼でも暗く暗闇坂と。
ちょっと先に弥生美術館と並んで竹久夢二美術館。
「館が建つ東京・本郷は、夢二が滞在した〈菊富士ホテル〉がかつてあり、
また最愛の女性、笠井彦乃と逢瀬を重ねた場所で、
今なお昔の風情を留めて静けさと木々の緑に包まれています。
都内で夢二作品を鑑賞できる唯一の美術館において、
古き良き時代を思わせる〈夢二式美人画〉から、
モダンな表現を試みたデザイン作品まで、幅広く大正ロマンの世界をお楽しみいただけます。」
竹久夢二美術館 HPから
暗闇坂をテクテク下りて不忍池近くまで帰ってきました。
右手の坂は無縁坂、左の赤レンガは旧岩崎邸庭園。
三菱財閥岩崎家の茅町本邸だった建物とその庭園を公園として整備したもの。
無縁坂は坂の横にあった無縁寺(現・講安寺)が名前の由来と伝えられる。
さらまわし、、、じゃなく、さだまさしさんの歌で有名になった「無縁坂」。
♪ 母がまだ若い頃 僕の手をひいて
この坂を登る度 いつもため息をついた
ため息つけば それで済む
後ろだけは見ちゃだめと笑ってた。
この本郷通りから後楽園の方に下りた所に数年いました、
懐かしい場所がいっぱい。
そっちの方にも名所旧跡がたくさんあり、また歩いてみたい。
今回の散歩も長かったですね、
お付き合いいただきましてありがとうございました。
7月17日 本郷をぶら歩き
登山でいえば峰々の縦走、真っ直ぐ先はまあ平らだけど
右も左も急坂だらけ。
転がり落ちないように用心しながら。
上野から本郷へ向かいます、ここは湯島。
湯島の切通し坂の途中だけど湯島天神はまだ急な石段の上
ガードレールの勾配がね、あっちは石段こっちは坂道です。
この道をこのまま行くと本郷、もっと行くと”真砂坂”を下って後楽園、
さらに行くと伝通院へ上る富坂、ジェットコースターみたいなアップダウンが続きます。
その真砂町に住んでいたのが「真砂町の先生」、泉鏡花の「婦系図」に出てくる恩師 酒井先生です。
早瀬主税は「真砂町の先生」には内緒で柳橋の芸者お蔦と飯田町に世帯を持っていた、
「真砂町の先生」に「俺を捨てるか、おんなを捨てるか」と迫られる主税。
『別れろ、切れろは、芸者の時に云うものよ、いっそ私には 死ねと云って下さい・・・』
お蔦は主税の将来を思って泣く泣く別れようと、、、。
♪ 湯島通れば想い出す お蔦主税の心意気
知るや白梅玉垣に 残る二人の影法師
東京へ来てすぐはその富坂に住んでいました。
いま歩いているこの道を通って上野へ、その後は昭和通りか中央通りで新橋まで
ほぼ毎日自転車で走り回っていました。
長くなりました、先を急ぎましょう。
本郷三丁目角 かねやす
享保15年(1730)に大火があり、湯島や本郷一帯が燃えたため、
再興に力を注いだ町奉行の大岡越前守は、
ここを境に南側を耐火のために土蔵造りや塗屋にすることを命じた。
一方で北側は従来どおりの板や茅ぶきの造りの町家が並んだため、
「本郷も かねやすまでは江戸の内」といわれた。
本郷通りに入って王子方向へ、左に菊坂。
菊坂の周辺には古い家並みが残り、樋口一葉の旧居跡などがある。
樋口一葉は父の死後母妹と共に明治23年旧菊坂町の貸家に移る。
ここでの一葉は母たき、妹くにと他人の衣服洗濯や針仕事で生計を立てた。
すぐ右側に東大赤門。
加賀藩13代藩主前田斉泰は、11代将軍徳川家斉の娘溶姫(やすひめ)を正室に迎えるに当たり、
慣例にしたがい、朱塗りの門を創建した。正門です。
ちなみにここ加賀前田家の本郷上屋敷は約10万4千坪(東京ドーム7.3個分)、
このあとしばらく東大の前、横、後ろを歩きます。
しば~らく歩いて、東大正門。
赤門は東大の正門と間違えられやすいけど正門はこちらです。
テクテク歩いてやっと東大エリアが終った農学部前、本郷弥生の信号を右折、
言問通りの坂道は弥生坂。
その坂をダラダラ下がった先、右側に弥生式土器発掘ゆかりの地。
ほんのちょっとバックして右折、今度は暗闇坂。
右側は東大、加賀家の広大な屋敷。左側にも武家屋敷が並び
鬱蒼とした樹木で昼でも暗く暗闇坂と。
ちょっと先に弥生美術館と並んで竹久夢二美術館。
「館が建つ東京・本郷は、夢二が滞在した〈菊富士ホテル〉がかつてあり、
また最愛の女性、笠井彦乃と逢瀬を重ねた場所で、
今なお昔の風情を留めて静けさと木々の緑に包まれています。
都内で夢二作品を鑑賞できる唯一の美術館において、
古き良き時代を思わせる〈夢二式美人画〉から、
モダンな表現を試みたデザイン作品まで、幅広く大正ロマンの世界をお楽しみいただけます。」
竹久夢二美術館 HPから
暗闇坂をテクテク下りて不忍池近くまで帰ってきました。
右手の坂は無縁坂、左の赤レンガは旧岩崎邸庭園。
三菱財閥岩崎家の茅町本邸だった建物とその庭園を公園として整備したもの。
無縁坂は坂の横にあった無縁寺(現・講安寺)が名前の由来と伝えられる。
さらまわし、、、じゃなく、さだまさしさんの歌で有名になった「無縁坂」。
♪ 母がまだ若い頃 僕の手をひいて
この坂を登る度 いつもため息をついた
ため息つけば それで済む
後ろだけは見ちゃだめと笑ってた。
この本郷通りから後楽園の方に下りた所に数年いました、
懐かしい場所がいっぱい。
そっちの方にも名所旧跡がたくさんあり、また歩いてみたい。
今回の散歩も長かったですね、
お付き合いいただきましてありがとうございました。
7月17日 本郷をぶら歩き