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子規・漱石・生誕150年記念 加藤 恒忠(拓川)・「至芸の邂逅」特別展

2017年07月07日 | 伊予松山歴史散策

子規・漱石・生誕150年記念「加藤 恒忠(拓川)・至芸の邂逅」が展覧された

松山市立子規記念博物館正面。

玄関に入ると子規の大きな写真が掲げられている。

子規記念博物館1階ロービー。

子規記念博物館1階ロービーに、漱石・子規・極堂がお出迎え。

子規記念博物館3階の特別展示室入口にお祝いの花束が置かれていました。

今回開催された特別展、加藤恒忠(拓川)ゆかりの資料展示「至芸の邂逅」は、子規の文学活動を支えた加藤恒忠(拓川)が大勢の人物と交流した絵葉書や書簡が展示してありその偉人の足跡と子規が現代文芸作家によって紡がれた俳句や短歌を、次世代に伝えることを目的とした企画展でした。

開催日:平成29年6月29日(木)~7月2日(日)
開催時間:9:00~18:00 ※最終日13:00まで、観覧無料でした。

加藤恒忠(号・拓川=たくせん)のお孫さんで、正岡子規研究所主宰、正岡 明さん。

子規・漱石・極堂生誕150年記念行事の一つとして、平成29年6月29日(木)~7月2日(日)まで、松山市立子規記念博物館3階特別展示室で開催されました。

観覧に来られた方々に詳しく説明される正岡 明さん。

展示物の一部。

 珍しい写真があり、正岡 明さんの許可を得て特別に撮らせて頂きました。

 前列座っている方、左から、秋山好古・正岡八重・加藤拓川、後列右から3人目が、正岡 律さんです。

 さて、加藤恒忠(拓川)について簡略に紹介します。以下拓川と表記します。

 拓川は(安政6年1月22日生)、秋山好古(安政6年1月7日生)と同い年で、伊予松山藩校明教館以来の友である。拓川は17歳で上京し司法省法学校(現東大法学部)に入学、原敬、陸羯南(くがかつなん)、と学友であった。薩摩出身の校長の学校運営方針に反対したため、(3人とも出身藩が朝敵だったことがあったかも知れませんが)退学処分となる。

 その後、原敬が首相に就任した時、外交官に任命され欧州で活躍する。

 また、久松 定謨(旧伊予松山藩久松家当主)がフランス留学に伴い拓川が附添役として渡仏、その後秋山好古が定謨の輔導役として拓川に代わって渡仏する。

 拓川は、故郷松山の産業発展の人材育成のために、松山高等商業学校(現・松山大学)創設に尽力し、第5代松山市長に就任、市政発展に寄与し、伊予松山城を国から払い下げを受け存続に大きな働きをした偉大な人物であった。

 

松山高等商業学校は、大正12年4月25日開校するが、拓川は、開校目前に病魔に襲われ、同年3月26日、逝去する。64歳であった。

 正岡子規は、甥になる。

 注:原   敬:盛岡藩      ・安政3年 2月 9日生・第19代内閣総理大臣

      陸  羯南:弘前藩      ・安政4年10月14日生・日本新聞創設者

     加藤恒忠:伊予松山藩・安政6年  1月22日生・外交官・政治家

伊予松山藩は、鳥羽伏見の戦い以後朝敵の布告を受け、士族はもとより、町家、農民に至るまで松山藩は今後どうなるのか心配の声が広がった。

当時の子供たちは大変苦労をし、今後は、自分の生きる道は一生懸命努力し知識を身に着け自身の力で切り開いて進んで行かなければならなかった。独立自尊である。

画像は、大正4年、東京芝栄町の伊予松山旧藩主、久松家邸宅で開かれた「久松家先祖祭」に集まった松山を支えて来た人々。

写真は、秋山兄弟生誕地所蔵。

 

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