EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

東雲女子大学・短期大学 クリスマスツリー 点灯式

2011年11月28日 | 伊予松山歴史散策
今日(11月28日)松山市桑原町にある東雲女子短期大学準教授から上記の点灯式が開催されると連絡を受け撮影に行ってきた。
「今年もこの時期がやって来た。・・一年の経過が凄く速い・・速すぎる。」

さて、点灯式には、大勢の市民が参加され大学から暖かい飲み物の振る舞いがあった。
今夜の松山は気温も高く過ごしやすい夜であった。

点灯式典は午後6時から聖歌隊による賛美歌斉唱で始まり、宗教主事の山本さんから招きの言葉があり、「今年の日本は大変な災害があり、被災された皆さんは厳しい師走を迎えられる、早期の復興をお祈りしましょう」そして主の道を備えるために・・のお話があり、再び賛美歌21(急ぎ来たれ主にある民)を斉唱の中、クリスマスツリーに点灯された。

参加した市民はツリーを楽しげに見学して三々五々帰っていった。
クリスマスツリーの点灯は、今日から4週間点灯される。


東雲女子大学・女子短期大学の中庭にある針葉樹にツリーを造ってある。
点灯式前の全景。


日没になり周囲が暗くなってきた。


午後六時に聖歌隊が登場し聖歌を斉唱し、山本宗教主事が挨拶。
いよいよ点灯式典が始まった。


聖歌斉唱の中、大学中庭にある10メートルの大樹に、約7,000球のイルミネーショのツリーに点灯、一斉に拍手が沸いた。



参加した皆さんは思い思いにツリーを見て楽しんでいた。特に子供達はツリーの光で照らされた広場を駆け回り、はしゃいでいた。




大学から振舞われた、ホットカルピスやココアを頂きベンチに座りツリーを見上げていた。
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初冠雪の石鎚山

2011年11月25日 | 伊予松山歴史散策
西日本最高峰の「石鎚山」に初冠雪。
今年の初冠雪は、11月21日であった。
天候が悪く昨日(11月24日)我が家から冠雪した石鎚山を見ることが出来た。
先日の雨が西日本最高峰の「石鎚山・1982m」では雪であった。

昨年は10月27日が初冠雪で、今年は24日遅れである。
松山地方の最低気温の6,3度まで下がり石鎚山は雲に覆われて見えなかった。伊予松山にも冬将軍がやって来た。

画像は、冠雪した西日本最高峰の「石鎚山・1982m」です。


初冠雪(11月21日)であったが天候が悪く石鎚山(1982m)を見る事が出来なかったが昨日(11月24日)冠雪した石鎚山を見る事が出来た。
我が家の玄関から素晴らしい石鎚山を見る事が出来る。石鎚山は松山から見る姿が一番綺麗。
霊峰・石鎚山姿を見ると思わず手を合わす。


撮影したカメラは、光学最高840mmまで撮影出来少しづつ倍率を上げて撮ってみた。






これが最高倍率(光学倍率:840mm)、これ以上はデジテル倍率になるため画像が劣化する。


これは、デジテル倍率で撮影。
画色が違うのはホワイトバランスを変えて撮影。
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伊予松山城 幻の外堀

2011年11月24日 | 伊予松山歴史散策
石手川に唯一現存している「鎌投げ」がある所から下流約150mに中の川の取水樋がある。「これは伊予松山城外堀に取り入れる取水口である。」

慶長15年(1610)頃から徳川・豊臣両氏の間がとやかく風説があったので、加藤嘉明はこの情勢を察し、東ノ郭補強として外堀構築を計画し、町人府中屋念斎に命じてその工事に当らせた。

工事は慶長18年(1613)頃から始まった。
場所は、今の東雲町の北側にある堀跡(現在東雲公園)はその一部で、念斎が構築したものだから世に「念斎堀」と呼ばれ別名「薬研堀」・「土器堀」とも呼ばれていた。

工事は、元和元年(1615)大坂夏の陣により豊臣氏が滅亡したのを機に工事は中止された。
この堀は昭和30年に埋め立てられ東雲公園と市立東雲保育園となっている。
この堀と土塁は松山城の古図に描かれており、それによると外堀は、東に延び今の愛媛県教育会館の前を通り、さらに東に延びて南に折れ、松山気象台の東に出て、それから県立松山東高校の西手に出て、さらに南の県立松山商業高校の東側に至るものであった。

この工事で、松山気象台東から県立松山商業高校校庭東側に至るまで長さ663mの土塁を構築しようとしたもので、後世にこの土手を砂土手と呼び現在もその一部が残り見ることが出来る。

現在の中の川はこの外堀に水を引入れる施設であり、その名残である。
現在は、竹原地区の農業灌漑用水として使われ土地改良区が管理運営している。




念斎堀「別名「薬研堀」・「土器堀」とも呼ばれていた。
堀は昭和30年まで現存し北側の堤防には、戦後引き上げて帰った方々の住宅が建設された。現在は、東雲公園と市立東雲保育園となっている。


愛媛県立松山東高等学校のグランドで西側に土塁の痕跡が残っている。
松山東高等学校の前進は、松山中学校で、秋山眞之・正岡子規が学んだ学校である。夏目漱石も教鞭を執った。


県立松山東高等学校のグランドで西側に土塁の痕跡。
外野フエンスは全て土塁の跡地である。


愛媛県立松山商業高等学校のグランドで東側に土塁の痕跡が残っている。
外野フエンスは、全て土塁の跡地である。


県立松山商業高等学校のグランドで東側に土塁の痕跡がある。
95mの記載文字がある所が土塁の痕跡。・・右翼にある土塁跡に書かれている。
昭和20年から30年代は愛媛県下から野球をするために(甲子園に行くために)集まって来た。最近は選手層が薄れ戦力低下。甲子園の道が遠くなっている。


夏の甲子園で全国制覇した時の記念碑が校庭に建立されている。


石手川北側から、中の川に水を引入れる門扉で、3年前に電動で開閉出来るよう改築された。


門扉を電動開閉する操作盤と手前の広場は、江戸期に構築され最近まであった調整池跡。


石手川から取り出した水は石手川北側堤防を潜り中の川に流れ込む。
手前の水色の導管は、面河ダムからの工業用水を松山市にある工業地帯に導水する導水管。


石手川北側堤防(国道317号・県道334号)を暗渠で潜り市内を流れる中の川に出る。国道11号線を潜ると川幅が少し広くなり、河川沿いには正岡子規の母堂・令妹住居跡、子規の旧邸跡・高浜虚子の生家跡、句集「ホトトギス」創刊の地等々がある。
藩政時代は、物流を運ぶ運河の役割もしたそうだ。





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石手川散策 4 「石手川・鎌投げ」

2011年11月22日 | 伊予松山歴史散策
石手川散策その4

今回の石手川散策は、唯一現存している「鎌投げ」である。
所在地は、松山市湯渡町12番8号の東側。

加藤嘉明が慶長5年(1600)に普請奉行足立重信に湯山川の改修を命じた。
足立重信は、伊予松前城(現在の松前町)を城山(現松山城)に移すにあたり、城山近くを流れ伊予灘に注いでいた湯山川(現石手川)の流れを南西に変え重信川に合流させ、慶長12(1607)年に竣工した。

 改修は城山近くを流れ、直接伊予灘に注いでいた石手川を、岩堰と呼ばれる岩壁230mを掘り割り、新水路を南西に開通させ、重信川の出合に合流させた。堤防延長は約16kmにわたり、特に松山城を守る右岸堤防は強大にした。掘り割られた岩壁が、現在の河道として残っている。

 また、上流から一気に流れ下る水勢を弱めるため、両岸から千鳥に岩石を組み突出させ、流れを受け止める鎌投げ(水制工)という工法を用いた。
足立重信は、自分の屋敷内に川水を引き入れ、急に大水を加えてはこの方法で試して実用化したものと伝えられている。

延宝元年(松平定長・第3第伊予松山城主)は度々氾濫を起こす石手川を西条の大川文蔵を抜擢し改修した。文蔵は川幅が広すぎる、川底が浅いので氾濫が起こる。それを解消する為に、川幅を狭め、川底を深くして川の流れを高め、重信が考案した「鎌投げ」を廃し。
完成したのが現在の石手川である。・・この鎌なげ現在一ヶ所現存している。

いま、現存している「鎌投げ」の清掃を奉仕活動でしている「岸さん」にお話を聞く事が出来た。戦後も3ヶ所残っていたそうだ。

江戸時代に考案した特殊土木施行技術を是非とも県か市が文化財として保存管理してもらいたい。

鎌投げから下流150mに中の川の取水樋がある。加藤嘉明は伊予松山城の外堀計画を立案し建設に取り掛かったが会津40万石として転封し中止になった。その名残が県立松山東高校運動場西にある土塁が外堀の土塁になるものであった。中の川は外堀に水を引く施設であったが、現在は竹原地区の農業灌漑用水路として土地改良区が水量管理をしている。
中の川は、別枠で紹介します。


画像は、平成18年3月4日撮影の「鎌投げ」で岸さんが何時も除草作業を奉仕活動でされていて草一つ無いいい状態であった。




上から見た鎌投げで、今日(平成23年11月22日)岸さんにお願いして大きさを計測した。
結果は、横幅4m66cm 長さ7m70cm 高さ約4mであった。但し横幅は、地上に出ている部分で基礎部はもう少し広いと思う。


この画像は、本日11月22日撮影した画像で、岸さんも最近体調を崩され除草作業が出来てないが、体調が復調次第綺麗にされるそうです。
がこれは行政が行うのが当たり前だと感じる。このような遺跡は文化財的な要素が高いのだから保存すべきだ。








石垣は、草木の根っこが石を浮かせ崩壊の原因となるので、岸さんが除草作業をする時は私もお手伝いに行こう。その時は川面からも撮ってみたい。
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四国は88ヶ所札所巡礼 松山市内霊場の旅 6

2011年11月20日 | 伊予松山歴史散策
第50番 繁多寺「東山 瑠璃光院 繁多寺」真言宗豊山派

第46番札所から一緒になった大阪府枚方市のご夫妻と一緒に巡拝した。
記念の写真シャッターを押してあげたりしながら・・美人の奥さんですね・・とご主人に告げると、・・有難うございます・・今夜は晩酌のお酒が美味しいですと・・

さてこの寺は、松山城や松山市街、瀬戸内海も一望できる高台にありのどかな風情の境内周辺は、美しい自然の宝庫として景観樹林保護地区に指定されている。
縁起によると、天平勝宝年間に孝謙天皇(在位749〜58)の勅願により、行基菩薩がおよそ90cmの薬師如来像を彫造して安置し、建立したと伝えられ、「光明寺」と号された。弘仁年間(810〜24)、弘法大師がこの地を巡錫し、寺に逗留された際に「東山・繁多寺」と改め、霊場とされた。

その後、寺は衰微するが伊予の国司・源頼義や僧・堯蓮らの援助で再興、弘安2年(1279)には後宇多天皇(在位1274〜87)の勅命をうけ、この寺で聞月上人が蒙古軍の撃退を祈祷している。
また、時宗の開祖・一遍上人(1239〜89)が青年期に、太宰府から伊予に帰郷した際、有縁の寺に参籠して修行した。上人は晩年の正応元年(1288)、亡父・如仏が所蔵していた『浄土三部経』をこの寺に奉納されている。
また、境内に歓喜天を奉納されている。

歓喜天(かんぎてん、もしくは 歓喜自在天といわれる)は、仏教の守護神である天部の一つ。
聖天(しょうてん)・大聖自在歓喜天(だいしょうじざいかんぎてん)ともいいます。
大日如来の教令輪身で、韋駄天の兄とされる。
何かを断つ祈願に功験があり、聖天さまは大根が好物とされています。そこで二またの大根、またはその絵馬を奉納し、大根を絶ちますからと願うと、聖天さまが同情していち早く願いを叶えてくださると言われている。
愛媛県内の88ヶ所札所で、歓喜天奉納寺社は、第50番札所繁多寺と60番札所横峰寺だけである。

また境内直ぐ傍に昭和42年に建設された面河ダムから導水した道前道後用水の調整池がある。この水は松山市の水道水としての利用が出来ない。・・面河ダム建設時に松山市は負担金を出してない為に。
平成6年7月26日から断水が始まった松山大渇水の時特例として松山市は飲料水として利用させて貰った。8月22日から道後温泉も渇水のため営業時間を短縮され11月25日に解除されるまで123日間断水を余儀なくされた。


50番霊場・繁多寺の山門前。


境内も広く、石段を登ると正面に本堂、左に歓喜天、右に大師堂、手前に鐘楼がある。


繁多寺本堂、本尊は薬師如来。


正面が本堂、左に歓喜天。






大師堂でこの日は香川県から来た若い女性三人が巡礼の旅をしていた。
記念の写真を撮りたいのでお願いします・・と頼まれシャッターを押した。


鐘楼の天井に沢山の絵馬が奉納されている。


庫裏と納経所。


面河ダムから、湧く如く流れ込む用水。


面河ダム用水を調整する池。
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