EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

秋山好古揮毫石碑紀行 42-2 続今治市大三島町の碑 

2016年01月31日 | 伊予松山歴史散策


招魂碑の取材の帰りに大山祇神社を参拝した。
画像は、今治市大三島町にある、大山祇神社入口で、四国一の大社である。
大山祇神社は、愛媛県今治市大三島町宮浦にある神社で式内社、伊予国一宮。
旧社格は国幣大社で、現在は神社本庁の別表神社である。
四国一の大社、大山祇神社は、全国にある大山祇神社の総本社で、また、主祭神の大山祇神は三島大明神とも称され、大山祇神社から勧請したと伝える三島神社は、四国を中心に新潟県や北海道まで広がる。静岡県の三嶋大社と共に三島神社の総本社とされる。神社正面入り口には、伊藤博文が公の場で揮毫した最後の書が大山祇神社の社号碑として建立されている。
紫陽殿・国宝館には、中世の武将たちが奉納した武具が数多く展示してあり、中でも源義経の甲冑が有名で国宝である。国宝8点重要文化財が数多く展示してあり見ごたえがある。
伊予守護、河野通有が鎌倉幕府の命により博多湾に出征の際、この神社に戦勝祈願をした時の大絵馬も展示されている。博多湾では、蒙古と勇敢に戦い「河野通有は、石築地の前に陣を張って決死の覚悟で戦ったことから、「河野の後築地」と称賛された。その伊予守護、河野氏の末裔が、初代内閣総理大臣、伊藤博文である。
それでは、画像で大山祇神社を参拝しよう。


初代内閣総理大臣、伊藤博文公が揮毫した「大日本総鎮守大山衹神社」神社正面、ニの鳥居の向かって左に建立されている。


大日本総鎮守大山衹神社碑の裏面と側面で、裏面には、従一位大勲位公爵伊藤博文謹題とあり側面に、明治42年3月22日と書かれている。この日に参拝に来られ記念の揮毫。
松山を去る時、これから東京に帰り、朝鮮に行くが帰ったら再び松山に来て祖先(河野氏)の法要お行うのでよろしくお願いいたしますと挨拶されたが帰らぬ人となった。

伊予の守護、河野氏の時代に河野通起がいた。通起の子孫は後に林氏に改称、天正13年(1585)豊臣秀吉の四国征伐の命を受けて小早川隆景は湯築城を攻め落とし、河野通直他家臣たちは伊予を追われた。通起の子孫、林は、長州熊毛郡に移り、伊藤家に養子として入った。その11代目の嗣子が明治の元勲、初代総理大臣伊藤博文である。博文公が朝鮮総督府統監の時代に伊予道後に来られ、来年再び松山に来て祖先の供養をしたいと言われ明治43年(1910)10月、ハルピン駅で暗殺され、その計画は果たせなかった。
その時、大山祇神社を参拝し揮毫したのがこの石碑であり、公の場で揮毫した絶筆である。


鳥居を潜り往くと、左に石碑がある。書道家、村上三島が揮毫した社号碑である。


更に往くと、大きなご神木がある。
樹齢2600年の楠で根周りは実に32mにも及ぶ昭和26年11月27日に愛媛県の天然記念物に指定された。パワースポットと云われる場所で、縁結び、安産祈願、大願成就。


更に進むと数段の石段があり神門が見えて来る。


大山衹神社の神門。


神門を潜ると回廊、拝殿と広い中庭がある。




回廊には、著名な人々が参拝に来た記念写真が掲示されている。


回廊には、著名な人々が参拝に来た記念写真が掲示されている、その内の一枚の写真で、大正14年5月6日、元内閣総理大臣、清浦圭吾子爵が、新田長次郎、秋山好古、愛媛県知事佐竹義文らとの参拝記念写真。・・写真は回廊に掲示しているため汚れている。


大山衹神社に大正14年5月6日、元内閣総理大臣、清浦圭吾子爵が、新田長次郎、秋山好古、愛媛県知事佐竹義文らとの参拝記念写真。写真は大山衹神社回廊に掲示している同じ写真で、秋山兄弟生誕地所蔵の写真。


大正14年5月6日、元内閣総理大臣、清浦圭吾子爵が、新田長次郎、秋山好古、愛媛県知事佐竹義文らとの参拝記念写真を切り取った。
左から、秋山好古北豫中学校校長・元内閣総理大臣、清浦圭吾子爵・新田長次郎ニッタ会社社長・佐竹義文第19代愛媛県知事。


博多湾で、蒙古と勇敢に戦い「河野通有は、石築地の前に陣を張って決死の覚悟で戦ったことから、「河野の後築地」と称賛された。その石塁(防塁)博多湾にて撮影。


博多湾にある史跡元寇防塁記念碑。


博多湾で、蒙古と勇敢に戦い「河野通有は、石築地の前に陣を張って決死の覚悟で戦ったことから、「河野の後築地」と称賛された。画像はその河野通有の石像で、愛媛県松山市北立花町2番地4にある井出神社境内にある。


河野通有の石像の台座に刻印されている説明文。
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秋山好古揮毫石碑紀行 42 今治市大三島町の碑

2016年01月30日 | 伊予松山歴史散策


今治市役所大三島支所産業建設課、越智課長様が秋山兄弟生誕地まで来て頂き石碑の情報を頂きました。越智課長様には昨年態々秋山生誕地にお越し頂きありがとうございました。


1.碑    文 :招魂碑
2.所 在 地  :今治市大三島町野々江甲6536番地  「野々江八幡神社」
3.建立年月日  :不明
4.揮 毫 者  :陸軍大将 秋山好古
5.建  立者  :不明
6.碑石大きさ  :高さ・1m91㎝ 横幅・89㎝ 厚み・ 8cm
7.参考 事項  :秋山好古が揮毫し石碑として建立されている碑は52基発見されているが、招魂碑はこれ1基のみである。戊辰戦争、日清戦争時に戦死された方々の霊を招いて祀る事に招魂碑を建立して慰霊をしていた。日露戦争後は、忠魂碑となり、招魂碑と言う言葉を使わなくなる。
靖国神社も初めは、東京招魂社と言っていた。明治5年東京招魂社が建てられ、明治12年、靖国神社に改称、地方の招魂社は、昭和14年、護国神社に改称された。
今治市大三島町野々江の招魂碑の建立された年月日は不明であるが、石碑裏面に野々江地区から日清・日露戦争に出征し戦死された7名の方々の名前が刻印されているから明治後期か大正初期ではないか?。


招魂碑裏面で、野々江地区から日清・日露戦争に出征し戦死された7名の方々の名前が刻印されている。野々江は、当時越智郡岡山村野々江と称していた。


今治市大三島町野々江甲6536番地に鎮座する「野々江八幡神社」で正面には立派な大島石で造った社号碑が建立されている。
野々江八幡神社は、大山祇神社の南約1kmにあり、旧越智郡岡山村の村社である。
大三島町は、昭和30年3月31日、越智郡鏡村と宮浦村が合併し町制施行し、大三島町となる。その後昭和31年9月23日、岡山村が合併。
平成17年1月16日、大三島町は、今治市、菊間町、大西町、波方町、玉川町、朝倉村、吉海町、宮窪町、伯方町、上浦町、関前村と合併して今治市となり、大三島町の自治体としては消滅した。


社殿には石段を上り行くが、注連石の右側に「招魂碑」は建立されている。


野々江八幡神社の拝殿と本殿。


平成20年1月15日、今治市役所大三島支所・産業建設課、越智課長さんのご案内で野々江八幡神社の招魂碑の取材に行きました。その後、越智課長さんのご案内で越智喜平さん宅をご案内頂き秋山好古揮毫の扁額等々を拝見させて頂きました。


越智氏は、大三島町(旧岡山村)から公用で度々松山に伺い、秋山好古に揮毫をお願いした時、好古はあなたの気質が気に入ったと言われ揮毫してくれたと先代から聞いておりますと言われた。・・この時好古は余程ご機嫌が良かったのだろう!!






秋山好古が揮毫した、軸物収納の箱書き。


岩倉氏の扁額も見せて頂きました。
肩書に、従三位男爵 岩倉具?と謹書してあった。
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秋山好古揮毫石碑紀行 41 今治市宮窪町中村の碑

2016年01月28日 | 伊予松山歴史散策


平成13年3月24日、15時28分に発生した芸予地震、震度6弱、今治市宮窪町は震度5弱であった。その時の影響で忠魂碑がすこし傾いた。
画像は、再建立をする前の忠魂碑。
撮影は、平成18年9月27日、今治市宮窪町余所国の忠魂碑取材時には未だこの忠魂碑は発見されていなかった。

1.碑  文 :  忠魂碑
2.所 在 地: 今治市宮窪町宮窪甲4、654番地 中村祝詞場  
3.揮 毫 者: 陸軍大将 秋山好古
4.建 立 者: 記載無し
5.建立年月日: 昭和 3年 11月 
6.碑石大きさ: 高さ・3m00㎝  幅・ 1m5㎝  
参考資料:尾形八幡大神の祝詞場である。
    お祭りに神輿の鉢合わせや神社の祭礼緒行事に使う広場。


芸予地震で石碑が傾き平成21年9月、石碑の台座を修復し再建立した忠魂碑。
撮影は、平成21年11月23日。


平成21年9月14日、秋山兄弟生誕地の研修会に今治市立村上博物館に行った時に今治市宮窪町宮窪甲4654番地、中村祝詞場にある秋山好古が揮毫した忠魂碑を見聞に行ってみると忠魂碑は倒してあり、工事をしていた。


工事をしていた責任者から説明を受ける秋山兄弟生誕地の研究員。
石碑建立の作業を見るのは初めてでいい現場に立ち会えたものだ!!


忠魂碑の下部を水平に削り、中心に穴を開け、それに鉄筋を入れ込み再建立する。
秋山兄弟生誕地の石碑「両将遺邸の碑・揮毫は、南次郎陸軍大将」は、芸予地震の時倒壊し、忠魂碑の再建立をしている石材会社が工事をしていた。説明をする技師も親しみを抱きながらの話をしていた。


忠魂碑の台座で、石碑の下部が均一にセット出来る様に仕上げる。


再建立された石碑と台座。


平成21年11月23日、日本100名城巡りで山口県萩市城(第75番)に行った帰りに立ち寄ってみると再建立は完成していた。


忠魂碑の裏面には、昭和三年十一月建之と書かれていた。昭和天皇の即位の記念に建立したのであろう。


平成21年9月14日、秋山兄弟生誕地の研修会を今治市立村上博物館にて実施その時の記念写真、於・村上博物館。
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秋山好古揮毫石碑紀行 40 今治市宮窪町余所国の碑

2016年01月26日 | 伊予松山歴史散策


平成17年7月今治市石材振興会会長さんが秋山兄弟生誕地にお越しになり、秋山好古が揮毫した石碑が今治市宮窪町余所国甲248番地 両社明神社にあるから取材に行かれて下さいと情報を頂き取材しました。
            

1.碑  文 : 忠魂碑
2.所 在 地: 今治市宮窪町余所国甲248番地 両社(りょうしゃ)明(みよう)神社
3.揮 毫 者: 陸軍大将 秋山好古
4.建 立 者: 村上 幸造
5.建立年月日: 大正15年 吉祥日 
6.碑石大きさ: 高さ・2m97㎝ 横幅・2m14㎝ 厚み・24cm
参考資料:古来、河野、村上両家の崇敬が篤い神社である。


今治市宮窪町余所国甲248番地 両社明神社で、この地は村上水軍の本拠地の地で、古来から、河野、村上両家の崇敬が篤い神社である。
村上水軍は、能島村上水軍・因島村上水軍・来島村上水軍とあり、因島村上水軍は小早川氏に属し、来島村上水軍は河野氏に属しており、能島村上水軍は単独で行動していた村上水軍の本家である。秋山家も村上水軍の一族を祖とするとある。
慶長5年(1600)9月15日、伊予の関ヶ原と言われる戦いがあった。
伊予奪回に興居島に上陸し、古三津を中心にした戦いがあった。その中に秋山良久(秋山内膳正良久)が居た。
久米の如来院の戦いでの秋山良久(秋山内膳正良久)が戦死するが、もしかすると秋山家と何らかの関係がある家系ではないか?秋山家初代、秋山信久は、今治城主藤堂高吉に仕えていたがその後、伊予松山城主松平定行の時にその家臣として召し抱えられ、代々徒目付の家格を持って相次いで来た。第6代平五郎久敬の5男、淳五郎眞之は、明治32年頃(当時は海軍大尉)胃腸を病み入院、その時小笠原長生(後の海軍中将子爵、佐賀県出身、海兵14期、眞之は海兵17期)によると眞之が退屈なので面白い本があれば貸してくれと頼まれたので家(江戸幕府老中の家柄)にあった「野島流海賊古法」と言う写本を貸した。
眞之は入院中、古代水軍研究の機会を得てそれが秋山流軍学の基礎となり日本海海戦の略に、伊予村上水軍の戦法も参考にして作戦を練り上げた。丁字戦法もその一つである。」・・秋山良久と秋山兄弟の家系関係を調べてみたい。


両社明神社の正面で、鳥居を潜ると右側に好古が揮毫した忠魂碑が、左に立派な「両社明神社」の社号碑が建立されている。


秋山兄弟生誕地の研究員は毎年県外研修を実施し知識の研鑚に努めているがこの年は、村上水軍博物館で研修を行い、両社明神社を訪れ忠魂碑を見聞した。


忠魂碑の裏面で、大正15年吉祥日、村上幸造と書かれていた。
村上村上幸造氏も村上水軍の末裔の方。
秋山好古が北豫中学校校長に就任して2年面である。


古来、河野、村上両家の崇敬が篤い神社でその社殿である。


社殿の左横に画像の石碑が建立されていた。


拝殿には、大元帥(昭和天皇)の御影入りの駆逐艦「追風」で、昭和9年大演習が有った時の記念の献納写真があった。


取材の帰りに村上水軍博物館を見学して帰った。


慶長5年(1600)9月15日、関ヶ原の戦いがあったが、伊予でも戦いがあった。
村上水軍、村上武吉・元吉親子が、元伊予守護であった河野氏の領地奪回に攻めて来た。
その時の様子の文書が発見されその事を愛媛新聞が掲載した記事。・・東京新聞にも掲載された。
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秋山好古揮毫石碑紀行 39 上浮穴郡久万高原町上野尻の碑

2016年01月24日 | 伊予松山歴史散策


1. 碑  文 :  忠魂碑
2. 所 在 地: 上浮穴郡久万高原町上野尻乙246番地1 笛ヶ滝公園内    
3. 揮 毫 者: 陸軍大将 秋山好古
4. 建 立 者: 三八戦友会員「合祀及び対象者:旧久万村地区・9柱(日清2・日露7柱)」
5. 建立年月日: 昭和4年11月 
6. 石碑大きさ: 高さ1m60㎝  横幅 80㎝ 
7. 石細工師:渡邊 秀一




立派な台座の上に日清戦争の役で戦死された2名の方と・日露戦争の役で戦死された7名の英霊をお祀りされている忠魂碑である。
秋山好古が揮毫し石碑として発見されているのが全国に52基発見されていて、その内1基が昨年9月長野県安曇野市に発見された。5月に所在に行く予定である。だから厳密には51基であるが、その内忠魂碑が13基ある。その殆どが日露戦争の時の忠魂碑である。
この忠魂碑は日清・日露で戦死された方々を合祀された忠魂碑である。


石碑台座に砲弾の破片が埋め込まれている。なにか由緒があるのだろうか??
石碑建立にあたり好古に揮毫依頼の経緯不明である。


三八戦友会員「合祀及び対象者:旧久万村地区・9柱(日清2・日露7柱)」の忠魂碑、多分日露戦役に久万村地区から出征され生還された方々が建立されたのでは??


忠魂碑正面。


忠魂碑の台座正面に「三八戦友會」と鉄製で造られた銘板が飾られている。
三八戦友會とは、明治37年2月8日~同38年9月5日に掛けて戦役があった日露戦争、この時の明治38年の三八をとって「三八戦友會」と命名したのでしょうか??


忠魂碑の石碑の後ろに見える広場は、現在久万高原町が管理運営している、多目的グランドですが、昭和55年愛媛県で開催された、全国高等学校総合体育大会の時に建設されたグランドで確か、ラクビーの試合の為に建設されたと聞き及んでいる記念のグランド。
昭和55年に開催されたので愛称「55総体・ゴーゴー総体」と呼んだ。
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