青山霊園にある、秋山好古の墓参(東京に行くと必ず墓参する)をしてから、富岡八幡宮を参拝した。
富岡八幡宮は寛永4年(1627年)、当時永代島と呼ばれていた現在地に御神託により創建された。周辺の砂州一帯を埋め立て、社地と氏子の居住地を開き、総じて60,508坪の社有地を得た。世に「深川の八幡様」と親しまれ、今も昔も変わらぬ信仰を集める「江戸最大の八幡様」。
江戸時代には、源氏の氏神である八幡大神を殊の外尊崇した徳川将軍家の手厚い保護を受け、明治維新に際しては朝廷が当宮を准勅祭社に御治定になり、勅使を遣わされ幣帛を賜り、新しい御代の弥栄を祈念された。
また、庶民の信仰は江戸の昔から大きな歴史の変転を経て現代に至まで変わることなく篤く受け継がれ、今も善男善女の参拝は絶えず、特に毎月1日、15日、28日の月次祭は縁日として大変な賑わいを見せている。また神社には日本最大の神輿があり、あまりにも大きいため交通事情から平成3年に初渡御がたが実用的でなく現在は展示品としている。
江戸勧進相撲発祥の地として有名、またこの神社は、江戸勧進相撲発祥の地としても有名であり、江戸時代の相撲興業は京・大阪からはじまるが、 トラブルが多くしばしば禁令が出ていた。
その後禁令が緩み、貞享ある元年(1684)幕府より春と秋の2場所の勧進相撲が許され、その地こそが神社の境内だった。以降約100年間にわたって本場所が境内にて行われ、その間に定期興行制や番付制が確立され、そののち本場所は、本所回向院に移っていき、その基礎はこの神社において築かれ、現在の大相撲へと繋がっていくことになる。
横綱力士碑
明治33年、第12代横綱陣幕久五郎を発起人に歴代横綱を顕彰する碑が建立された。
この碑には初代明石志賀之助から67代武蔵丸関までの四股名が刻まれていてその大きさは高さ3.5メートル、幅3メートル、重量は20トンに及び、横綱を顕彰するにふさわしい堂々たる石碑であった。
新横綱誕生時には相撲協会立会いのもと刻名式がおこなわれ、新横綱の土俵入りが奉納され、また両側には伊藤博文、山県有朋、大隈重信といった賛同者の名が刻まれており、広く各界から協賛を得て建立されたことを物語っている。
・・と神社案内にある。
最近の横綱名には、日本人横綱の名前が無く一抹に寂しさを感じた。・・頑張れ日本男子!!日本人力士一層の奮起を
伊能忠敬の銅像
神社大鳥居をくぐると、江戸時代後期の測量家・伊能忠敬の銅像が建立してあった。
好古の墓参してから地下鉄乃木坂駅から東西線門前仲町で下車1番出口から直ぐ、10年振りの参拝である
大鳥居をくぐると左側に「伊能忠敬の銅像」がある 江戸時代よく歩いて測量をしたものだ、地図地形は現在と殆ど変わらない精度の高い地図である
某運送会社が寄贈した巨大神輿、大鳥居をくぐることが出来なかったとか??
現在は展示品として飾ってある
10年振り本殿を参拝
そして横綱力士碑を参詣
横綱力士碑の裏面に歴代の横綱力士名が刻印してある
私が以前行った時は「武蔵丸光洋」の名前はなかった
隣には、刻印されてない石碑が既に準備建立されていた・・ここに日本人横綱の名前は何時刻印されるのか??
江戸最大の八幡宮の大きい看板、この鳥居をくぐり
隣にあり深川不動堂さんをお参りしてホテルに帰った
真言宗智山派成田山新勝寺の東京別院で、通称は深川不動尊、深川不動堂
我が家は真言宗豊山派である
深川不動堂に立派な建物があった
新本堂の建物で、旧本堂の西側にある外壁に梵字(不動明王御真言)を散りばめてある建物開創310年を期に平成23年(2011)に完成したそうだ、こんな寺院の建物ははじめて見た
富岡八幡宮は寛永4年(1627年)、当時永代島と呼ばれていた現在地に御神託により創建された。周辺の砂州一帯を埋め立て、社地と氏子の居住地を開き、総じて60,508坪の社有地を得た。世に「深川の八幡様」と親しまれ、今も昔も変わらぬ信仰を集める「江戸最大の八幡様」。
江戸時代には、源氏の氏神である八幡大神を殊の外尊崇した徳川将軍家の手厚い保護を受け、明治維新に際しては朝廷が当宮を准勅祭社に御治定になり、勅使を遣わされ幣帛を賜り、新しい御代の弥栄を祈念された。
また、庶民の信仰は江戸の昔から大きな歴史の変転を経て現代に至まで変わることなく篤く受け継がれ、今も善男善女の参拝は絶えず、特に毎月1日、15日、28日の月次祭は縁日として大変な賑わいを見せている。また神社には日本最大の神輿があり、あまりにも大きいため交通事情から平成3年に初渡御がたが実用的でなく現在は展示品としている。
江戸勧進相撲発祥の地として有名、またこの神社は、江戸勧進相撲発祥の地としても有名であり、江戸時代の相撲興業は京・大阪からはじまるが、 トラブルが多くしばしば禁令が出ていた。
その後禁令が緩み、貞享ある元年(1684)幕府より春と秋の2場所の勧進相撲が許され、その地こそが神社の境内だった。以降約100年間にわたって本場所が境内にて行われ、その間に定期興行制や番付制が確立され、そののち本場所は、本所回向院に移っていき、その基礎はこの神社において築かれ、現在の大相撲へと繋がっていくことになる。
横綱力士碑
明治33年、第12代横綱陣幕久五郎を発起人に歴代横綱を顕彰する碑が建立された。
この碑には初代明石志賀之助から67代武蔵丸関までの四股名が刻まれていてその大きさは高さ3.5メートル、幅3メートル、重量は20トンに及び、横綱を顕彰するにふさわしい堂々たる石碑であった。
新横綱誕生時には相撲協会立会いのもと刻名式がおこなわれ、新横綱の土俵入りが奉納され、また両側には伊藤博文、山県有朋、大隈重信といった賛同者の名が刻まれており、広く各界から協賛を得て建立されたことを物語っている。
・・と神社案内にある。
最近の横綱名には、日本人横綱の名前が無く一抹に寂しさを感じた。・・頑張れ日本男子!!日本人力士一層の奮起を
伊能忠敬の銅像
神社大鳥居をくぐると、江戸時代後期の測量家・伊能忠敬の銅像が建立してあった。
好古の墓参してから地下鉄乃木坂駅から東西線門前仲町で下車1番出口から直ぐ、10年振りの参拝である
大鳥居をくぐると左側に「伊能忠敬の銅像」がある 江戸時代よく歩いて測量をしたものだ、地図地形は現在と殆ど変わらない精度の高い地図である
某運送会社が寄贈した巨大神輿、大鳥居をくぐることが出来なかったとか??
現在は展示品として飾ってある
10年振り本殿を参拝
そして横綱力士碑を参詣
横綱力士碑の裏面に歴代の横綱力士名が刻印してある
私が以前行った時は「武蔵丸光洋」の名前はなかった
隣には、刻印されてない石碑が既に準備建立されていた・・ここに日本人横綱の名前は何時刻印されるのか??
江戸最大の八幡宮の大きい看板、この鳥居をくぐり
隣にあり深川不動堂さんをお参りしてホテルに帰った
真言宗智山派成田山新勝寺の東京別院で、通称は深川不動尊、深川不動堂
我が家は真言宗豊山派である
深川不動堂に立派な建物があった
新本堂の建物で、旧本堂の西側にある外壁に梵字(不動明王御真言)を散りばめてある建物開創310年を期に平成23年(2011)に完成したそうだ、こんな寺院の建物ははじめて見た