EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

秋山兄弟生誕地合気道 道場設立10周年記念式典 終 カナダ道場合気道家の演技披露

2016年10月29日 | 伊予松山歴史散策

A・K・I(合気道研究会インターナショナル)カナダ道場合気道家の皆さん方の演技開始。


極ってますね。


此れはどうだ!!・・参った。


行くはよ!!


お主なかなかやるな!!


如何!!参ったか?


あっ、今の技凄いな、画像に納めてオキタイナ・・。


合気道はいいですね。
習得して良かった。・・今回も新技をカナダに持ち帰り普及に努めます。
また秋山兄弟合気道の道場に来ます。


今の技良い技だな・・手解きお願いします。


さあ何処からでも打ち込んで来て下さい。


私も早く黒帯になりたいです・・みんなの技を自分の技にしなければ・・頑張るよ!!


若いカナダ道場の女性合気道家、熱心に技を研究しておりました。・・早く袴を着けたいから。
袴を穿けられるのは黒帯からですから!!


凄い技、私も記録写真を撮っておきます。


A・K・I(合気道研究会インターナショナル)カナダ道場合気道家の皆さんの演技終了。・・一安心しました。・・秋山兄弟合気道の道場の畳は良いいなあ・・硬くも無し、柔らかくも無し、受け身に最適ですと好評です。


A・K・I(合気道研究会インターナショナル)合気道家の皆さん・・秋山兄弟合気道道場で記念写真。


秋山兄弟合気道道場設立10周年記念式典・記念模範演技・合同錬成も予定通り終了し、武道場で参加者全員が昼食会、張り詰めていた気持ちも解放され、武道家から普通の人となり和気藹々の雰囲気で食事をした。
遠路遥々カナダからご苦労様でした。
A・K・I(合気道研究会インターナショナル)合気道家の皆さん、秋山兄弟武道場が非常に気に入られ昼食後暫く練習して帰られた。
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秋山兄弟生誕地合気道 道場設立10周年記念式典 その2 植芝充央道場長の模範演技&技の実技指導

2016年10月26日 | 伊予松山歴史散策

公益社団法人合気会 植芝守央理事長からの公認認定証。
秋山兄弟武道場に掲示してある。


合気道開祖・植芝盛平、歴代道主の写真を秋山兄弟合気道場に掲示しその精神にのっとり錬成している。

秋山兄弟合気道少年の部の指導指針は、躾(しつけ)。躾は、一生の宝!人は躾で人間となる!今こそ武士道精神を!
日本の文化伝統である武士道精神から、心の鍛錬と礼儀作法を身につけます。
丈夫な身体を作ることはもちろん、先人からの智恵を学び、日本人としての誇りを持つ芯のある人間作りを目指します。
躾の3か条:「朝夕の挨拶」「”はい”という返事」「後片付け」です。当然一般の部もこの精神にのっとり錬成に励んでいる。

合気道 とは
相手の打・突・蹴や武器による攻撃を無手で制する武道の一種。大東流合気柔術をその源流とし,昭和初期東京に道場を開いた植芝盛平が合気柔術を合気武道と名づけ,のち合気道と改称した。
昭和23年(1948)合気会の結成とともに国内各地に道場や各大学にクラブが設置され盛んとなり,欧米各国にも広まった。・・とある。・・ブリタニカ国際大百科事典引用


合気会 合気道本部道場( 東京都新宿区若松町)植芝充央道場長による公開模範演技が開始・・先ずは礼から始まる。・・よろしくお願い致します。


準備運動をして。・・怪我の無いように、しっかりと筋肉を伸ばして柔軟にしましょう。


合気会 合気道本部道場、植芝充央道場長による公開模範演技開始。・・皆さん真剣な面持ち、普段は見る事の出来ない凄い技であるから。





合気会 合気道本部道場、植芝充央道場長による公開模範演技の技を実際に各自が実技をする。


植芝充央道場長が厳しい眼差しで指導を行う。


秋山兄弟合気道少年少女の部の門下生による演技。・・凄い先輩たちの前で演技するのは初めてで緊張の中演技をした。・・黒帯を目標に、合気道家を目指して日々錬成している。
秋山兄弟合気道少年の部の指導指針は、躾(しつけ)は一生の宝!人は躾で人間となる!今こそ武士道精神を!
日本の文化伝統である武士道精神から、心の鍛錬と礼儀作法を身につけます。
丈夫な身体を作ることはもちろん、先人からの智恵を学び、日本人としての誇りを持つ芯のある人間作りを目指します。
躾の3か条:「朝夕の挨拶」「”はい”という返事」「後片付け」です。
秋山兄弟合気道少年少女が少し騒いでいたら植芝充央道場長から厳しい注意を受けていた。


秋山兄弟合気道少年少女の部の門下生による演技を見守る関係者。・・大丈夫かな!!


A・K・I(合気道研究会インターナショナル)神奈川県横浜市戸塚区に道場を持つ本部武田道場代表師範、武田義信8段の模範演技。


秋山兄弟合気道、鈴木茂7段師範の模範演技。










合気会 合気道本部道場(東京都新宿区若松町)。
A・K・I(合気道研究会インターナショナル・本部神奈川県)。
カナダ合気道場・愛媛大学合気道部・秋山兄弟合気道、合同合気道家集合記念。


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秋山兄弟生誕地合気道 道場設立10周年記念式典 その1

2016年10月24日 | 伊予松山歴史散策

秋山兄弟生誕地で、左の寺院風の建物が武道場。


10月23日(日)9時30分から松山市歩行町二丁目にある秋山兄弟生誕地武道場で、秋山兄弟合気道、道場設立10周年記念式典が、公益財団法人 合気会 合気道本部道場( 東京都新宿区若松町17-18)、植芝充央、本部道場長ご臨席の下最大に開催されました。
また、神奈川県鎌倉市にある鶴岡八幡宮研修道場の皆さん、カナダで道場を開設している道場長(カナダ人)の方々、愛媛県合気道連盟、愛媛大学合気道部員の合気道家の87名が参加しました。
記念式典後に、合気道本部道場、植芝充央本部道場長の指導の演技がおこなわれました。

この武道場は、明治20年8月秋山眞之(後の海軍中将)が海軍兵学校在学中、夏期休暇を利用して鹿児島に行き、旧薩摩藩の教育「郷中教育」を見聞して帰り友人勝田主計・山路一膳・小川尚義・烏谷章などに諮り古町大林寺に書生40人を集めて青少年教育の必要性を説き、出渕町に松山同郷会を創立、剣術・柔道・相撲を心身鍛錬の手段とした事が始まりであります。

旧藩主久松定謨の援助を受け松山市二番町、(現、愛媛県銀行協会所在地)へ柔道場を備えた。2階建ての会館を建設、初代会長に鈴木重遠(旧久松家家老)が就任した。
会員は松山市在住の青少年で、市内の中学生が主流を占めた。
 大正12年、秋山好古が会長になり、その逝去後、烏谷中将が就任した。
 昭和13年、会館を松山市歩行町の秋山兄弟旧邸跡隣地に移転、青少年の育成の場とした。
戦後松山市歩行町秋山兄弟生誕地跡に県から委譲を受けた寺院作りの堂々たる道場を持ち財団法人常盤同郷会(当時の理事長久松定武)として復興再出発した。

 現在の建物は、昭和20年4月、愛媛県が青少年修練場として松山市御幸町の護国神社の側に建てたのを、昭和24年に生誕地へ移築されたもので、当時は愛媛県の児童福祉や県の福祉関係の行事に使用されていた。
愛媛県立保育専門学校第1期生はこの建物で勉学に励み卒業した。
昭和28年財団法人常盤同郷会が発足時に県から払い下げを受けそれ以来武道場として使用されて現在に至っている。

合気道は、平成18年10月、秋山眞之の孫「大石尚子氏」神奈川県合気道連盟顧問で参議院議員の指導のもと開設した。その後10年が経過、年毎に門下生が増えている。


秋山兄弟合気道、道場設立10周年記念式典準備が整った舞台。


演壇には、秋山眞之の胸像の前に開設5周年記念の写真と、合気会 合気道本部道場( 東京都新宿区若松町)の皆さん、鶴岡八幡宮研修道場の皆さん、カナダで道場を開設している皆さんへの歓迎の言葉が表示されました。


秋山兄弟合気道、道場設立10周年記念式典でお礼の言葉を述べる公益社団法人常盤同郷会、平松 昇理事長。(秋山兄弟合気道道場長)

記念式典で祝辞を述べられる、中村時広愛媛県知事。
祝辞の中で、知事さんは、学生時代に司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」を読み、郷里松山から秋山兄弟(好古・眞之)の凄い人がいた事に気づいた。松山市長になった時に正岡子規と秋山兄弟の事を基盤として取り組んだのが、坂の上の街づくりでした。その原点が秋山兄弟生誕地で、本日秋山兄弟合気道道場開設10周年、関係者の日頃のご努力に敬意を表します。
これからも青少年の教育の一つとして益々のご発展を祈念いたしますと挨拶された。
最後になりましたが、来年、平成29年9月30日~10月10日迄、第72回国民体育大会愛媛国体が開催されます。競技種目ではございませんが「合気道」が公開演技として愛媛県武道館で披露されます。みなさん全国の皆さん方に立派な演技を披露して下さいと挨拶を締めくくられた。


公益財団法人 合気会 合気道本部道場(東京都新宿区若松町17-18)植芝充央・本部道場長さんから祝辞が述べられた。お若い本部道場長さんでした。


5年前の回想
生前、5年前の平成23年10月23日に道場設立5周記念式典で祝辞を述べられる、大石尚子神奈川合気道連盟特別顧問・参議院議員。
10周年記念式典にお姿が見えないのは寂しい限りである。
残念に平成24年1月4日急死された。
秋山兄弟合気道の設立は、大石尚子(秋山眞之のお孫さん)さんの指導で設立された道場です。
元気でおられたらさぞかしお慶びになったと思います。ご冥福をお祈り申し上げます。


記念式典後、参加者全員での記念写真を武道場で撮影。


いよいよ公開演技指導、合気道は礼に始まり、礼で終わる厳しい教えがある。
演技の前に正面に一礼する参加者。(日本の武道は、県道・柔道・空手もあるが、特に合気道は礼節が厳しい。)


合気会 合気道本部道場(東京都新宿区若松町)植芝充央・本部道場長さん直々の技術指導の開始。詳細は、ブログ第2部で行います。

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第10回 松山能面の会 新作能面展示会開催

2016年10月22日 | 伊予松山歴史散策

NHK松山放送局アートギャラリーでの新作能面展の案内板。

恒例となった新作能面展が平成28年10月18日(火)~10月23日(日)まで、NHK松山放送局アートギャラリーで行われている。
能面については、私は何も知識が無いが、中学校の同期生が趣味として面を打つ会「松山能面の会」に知人の勧めで10年前から入会し、作品の披露を毎年秋季に、NHK松山放送局ロビーで展示発表会を行っており今年も同期生5人で観賞に行って来た。
松山能面の会は、18名の構成であくまでも趣味として楽しんでいるとの事、今年会員が打った新作能面は43作品で、毎年関心する事だが、素晴らしい出来栄え、素人とは思えない力作であった。
能面は、能楽や一部の神楽で用いられる仮面で、鬼神・老人・男・女・霊の5種類に大別され、能面は木(桧が多い)を彫り、彩色して製作するが、この工程を「面を打つ」というそうです。

画像は、先日(10月18日)鑑賞してきた能面展です。


第10回松山能面の会、新作能面展出展目録表紙。


松山能面の会今年の新作出品目録その1。


松山能面の会今年の新作出品目録その2。


松山能面の会今年の新作品紹介。


私の同期生「浅井 修氏」が今年新たに面を打った新作2面。


私の同期生「浅井 修氏」が今年新たに面を打った新作「小夜(さよ)姫(ひめ)」。


「小夜(さよ)姫(ひめ)」の説明。


同期生「浅井修氏」が今年新たに面を打った新作「小牛尉(こうし じよう)」。


「小牛尉(こうし じよう)」の説明。


今年の新作能面の説明を受けながら鑑賞する人たち。







NHK松山放送局アートギャラリー入口にて。


面を打つ工程説明書の下に材料と面が出来るまでの実物が展示してあった。


第10回新作能面展の案内状。


松山能面の会会長・上甲 次郎氏の面「孫次郎」。


松山能面の会会長・上甲 次郎氏の面「孫次郎」の説明。

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NHK大河ドラマ「真田丸」に関する城を辿る・城郭の中最も完成された形を残す大坂城(復興天守第1号)その3 小豆島

2016年10月21日 | 伊予松山歴史散策

大坂城残石記念公園の石碑、花崗岩の産地であるから石碑も凄く大きく立派である。

平成21年5月11日、大阪城から赤穂城を巡り赤穂市で一泊、岡山県備前市日生港から瀬戸内海観光汽船にフェリーに乗船、60分で香川県小豆島大部港に到着。この日は霧が発生し予定時刻よりも遅れが出ますのでご承知おき下さいと案内があった。予定よりも少し遅れて小豆島大部港に到着した。大部港に到着し暫くして霧は晴れ晴天になった。

先ず、土庄町小海にある大坂城残石公園を見学、大坂城で石垣として使われるはずであった残石(残念石)が展示してあり、石工さんが切り出しに使った道具類が展示してあった。
そして石を運んだ筏も実際に浮かべて展示してあった。
平成11年に開園した「大坂城残石公園」大坂城築城に関わった細川忠興の末裔である細川護熙氏を迎え開園式をしたとある。その時の記録写真が展示してあった。

残石公園を見学し、その後、岩谷にある大坂城石垣石切丁場跡を見学し、草壁港からフェリーに乗船し高松に渡り帰路に着いた。小豆島草壁港から高松港まで60分の船旅であった。
大坂城の巨石は、11石現存するが、その内小豆島から切り出された巨石は、5石ある。
担当した大名は、岡山城主、池田忠雄と、熊本城主、加藤忠弘の2大名である。
小豆島に今も残る「大坂城の残石」残念石。

当時の基準では、城のよしあしは、建築(作事)よりも石垣(普請)にあったそうだ。


大坂城残石記念公園は香川県小豆郡土庄町小海にある土庄町立の公園で、史跡「大坂城石垣石切り飛びこし丁場跡及び小海残石群」を中心に大坂城残石資料館、道の駅(道の駅大坂城残石記念公園)及び、みなとオアシス(みなとオアシス大坂城残石記念公園)の施設等がある。


切り出された大きな石は画像の様に筏に載せて大坂城に運ばれた。


切り出された大きな石は筏に載せて大坂城に運ばれた。その用具の説明板。


展示場には、実際に筏に載せ浮かばせていた。


大坂城残石記念公園には、大坂城に運ばれて役目を果たすためにその時を待っていたはずの石たちで、残石として展示してあった。・・残念石である。


大坂城に行く予定であったが行けなかった残石・・残念石。
残石約40個が並べられている。
小豆島に今も残る「大坂城の残石・残念石」。
画像の様に小豆島に上陸した時はまだ霧が残っていた。


香川県指定文化財「大坂城石垣石切とび越丁場跡・および小海残石群」説明板。


大坂城残石資料館に石切に使われた諸道具が展示してある。


大坂城残石記念公園を見学の後、今回のお目当てである石切丁場に車で移動した。
小豆島は島全体が花崗岩で、それも良質の石が産出され現在も切り出されている。
画像は、切り出されている山肌。


土庄町小海から県道26号線で福田港経由、国道436号に乗り岩谷の石切場に移動した。画像は、その説明板。


この場所で石を割っているとき8人の石工が事故で犠牲になったと言い伝えが残る石です。と説明案内板に標示されている。


国指定史跡「大坂城石垣石切丁場跡」八人石丁場の記念碑。


岩谷地区には石切丁場は大きく分けて、天狗岩、南谷、豆腐石、八人石、亀崎の5つの丁場があるとされている。
私は八人石石切場を見学、他の石切場は時間の関係で行けなかった。


大きな石の横に五輪の供養塔が建立されているのは、事故が起こり8人の石工さんが犠牲になった供養塔。


岩谷の、八人石丁場、徳川2代将軍秀忠、3代将軍家光時代の大坂城改築時に黒田藩(福岡)が石切したもので、残石も1612個があり、岩谷地区は、小豆島最大の丁場であったと言われている。
小豆島は幕府直轄領であったので何処にも了解得ず石の調達が出来た。


「大坂城石垣石切丁場跡」・「八人石苑路」の説明板が設置してあった。
関ヶ原の戦い後、大坂冬の陣・夏の陣以降、徳川秀忠・家光は3期に渡り、大坂城の拡張・修築を行い、西国の諸大名に分担させ、64の大名に動員を課して、約100万個の築城石、延4,300万人に荷役を課した。動員を課せられた諸大名は膨大な費用の出費であった。
大坂城拡張は、城郭建築よりも、石垣の構築工事が大変な事業でこれに携わった石工さんの苦労が伺える。
改めて大坂城は日本最大の城、「天下無双の城」で、日本三名城の一つと言われる由縁の城である。


日本100名城巡り指定第60番赤穂城は、平成21年5月11日伺った。
その帰りに小豆島に行った。

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